コラム(2015年、2016年、2017年、2018年)



 住まいは夏向きに  

平成30年11月 

「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住居は耐へ難きことなり。」
こう書いたのは兼好法師(吉田兼好)です。我が国の代表的古典文学(随筆)の一つ『徒然草』の第五十五段の冒頭に出てきます。徒然草は鎌倉時代末期の成立とされていますので、今から約700年前に書かれたものです。現代の言葉にしますと、「家づくりは夏を中心に考えるのがよい。冬は住もうと思えばどんな場所にでも住める。暑い頃、住み心地の悪い住居は耐え難いものだ。」
この文章を初めて読んだのがいつだったか、はっきりとは覚えていません。ずいぶん昔、高校生の頃だったと思います。当時とても不思議に感じました。早い話、逆ではないかと。兼好が住んでいた京都は盆地なので、当時から夏は暑かったことはわかるのですが、冬の寒さもかなり厳しかったはずです。

人と住まいの関係では、冬の寒さから身をまもることの方が大事であり、その手段・方法の開発こそが文明の進歩ではないかと思っていました。日本の半分は寒冷地で、雪もかなり降ります。昔は、人生は寒さとの戦いだったでしょう。何百年も前までさかのぼらなくても、昭和30、40年代頃の家は寒かった。この愛媛でもそうでした。われわれが子どもの頃は、家にはホームごたつと小さい石油ストーブくらいしかありませんでした。風呂から出たら湯冷めをするので、あまりに寒いときは布団の中で宿題をしました。祖父母の家に行くと、もっと寒かった。家の中でも息が白くなっていました。
近年の日本の家づくりは、兼好法師が書いたこととは全く逆です。寒い冬をいかに暖かく快適に過ごすかが大切で、冬でも薄着で暮らせるような家が理想となっています。さらに、カゼをひかず健康でいるためという名分も加えられて、近年は「冬をむねとすべし」が家の主流となっています。自分自身、冬の暖かい家は幸せの象徴のように長年思っていました。

当院は、今年の7月の豪雨災害で3日間エアコンが使えませんでした。室内は蒸し風呂のように暑くなりました。網戸のある窓を開けても、気温、湿度は変わりませんでした。水も出なくなっていましたので、シャワーで汗を流すこともできませんでした。とても不快な期間でした。「これではやっていけない」と思いました。
兼好の時代には、クーラーなどというものは想像すらできなかったでしょう。夏、暑い京都。家の建築を夏に合わせよ、暑さ対策をせよと述べたのは当然だったのかもしれません。

この水害の時に思い出しました。子どもの頃の家は、裏の戸や窓を少し開けると、すーと涼しい風が入ってきました。うちわと扇風機、打ち水などでだいたい夏の生活ができていました。爺さん婆さんの家はもっと涼しかった。窓や戸は開けっ放しで、裏の田んぼのまだ青い稲の上を流れてくる涼やかな風がありました。古びた家に見えましたが、とても長持ちしていました。

現代の建物は気密性と断熱性をどんどんアップし、住宅は温かい空間になりました。しかし、湿気の害を招くことになり、冬暖かくは「夏も暑く」になってしまいました。カビやダニの大量発生は、子どもの喘息などアレルギー疾患の増加をもたらしているように思います。各部屋にクーラーの設備が必要で、その費用や毎月の電気代は莫大な金額になっています。また、結露により短期間で建物が傷んできます。
殺人的暑さ」と呼ばれる近年の日本の夏の猛暑。がんがん力任せにエアコンを回すことだけで対応するのではなく、家の建て方やまわりの環境整備も考慮していくべきと思います。家造りは『夏をむねとすべし』は、今重要な課題だと考えます。



 2つの時代

平成30年6月 

私たちが子どもの頃、『巨人・大鵬・卵焼き』という言葉(流行語)がありました。大衆とくに子どもに人気のあるものの代名詞として用いられました。元号でいうと昭和30年台の終わりから40年代半ば頃です。その頃の日本は高度経済成長期にありました。子どもはいつの時代でも、強い人、おいしい物が好きです。
当時、巨人軍(読売ジャイアンツ)は日本シリーズ9連覇(V9)を成し遂げ、史上最強のチームでした。野手・バッターでは長島、王、柴田、高田、黒江、土井、森など、投手では堀内、金田、城之内などなど、今でも名前がすらすら出てきます。
横綱大鵬。この人は本当に強かった。子どもの頃、年寄りがいる友達の家に行くと、必ずテレビの相撲中継がついていました。子どもらも時々相撲を見ていました。この横綱はいつも勝ってた気がします。体(からだ)のきれいなお相撲さんでした。私が知る限りでは、大鵬こそ「横綱の中の横綱」だったと思います。多くは言いませんが、白鵬なんかとはモノが違います。品格、相撲の取り口においても明らかに差があります。八幡浜出身のスポーツジャーナリストの二宮清純さんは、相撲道にこれだけ忠実だった人を私は他に知らない、と語っています。
巨人軍、大鵬には王者としての風格がありました。これはアンチ巨人、柏戸ファンだった方も認めると思います。
最後に卵焼き。確かに好きでした。これだけでご飯が食べれました。その頃、おつかいに行って卵を買うと、1個15円くらいだった記憶があります。当時の物価としてはわりと高かった。銭湯がたぶん30円くらいでした。こういう話はどんどん長くなるので、このあたりでやめます。

その「巨人・大鵬・卵焼き」を、現代に置きかえるとどうなるか、私なりに考えてみました。それに相当する言葉は『武豊、羽生善治、にぎり寿司』になるのではないかと(勝手に)思いました。ただ、子どもは競馬、将棋はあまり見ません。「巨人・大鵬・卵焼き」時代の子どもが、おじさんになってから好きになったものと言ったほうが正確かもしれません。
まずは競馬の武豊(たけゆたか)騎手。長きに渡って競馬界を盛り上げてきた人です。去年の年末の有馬記念、キタサンブラックでの勝利が記憶に新しいと思います。 スタートから一度も先頭を譲ることなく、ゴールを駆け抜けました。「横綱相撲」と言う表現がふさわしいキタサンブラックの完勝でした。キタサンブラックはG1レース7勝という好成績で、競走馬としての「役割」を終えました。感動的でした。翌日の新聞各紙には「キタサン 有終V」というような見出しが出ました。実質的なオーナーの歌手の北島三郎さんが感極まった表情でインタビューに答えていました。武騎手は、名馬オグリキャップ、ディープインパクトをも引退レースの有馬記念で勝利に導いています。
昨年12月、将棋界のスーパースター羽生善治氏が「永世七冠」を達成しました。今年2月には国民栄誉賞を受賞しました。このことは本ホームページの『歳時記』でも触れました。羽生さんは現在47歳ですが、30年近くにわたりトップ棋士として活躍し続けてきました。おごることなく将棋道を追求した結果だと思います。その姿には敬服します。
最期ににぎり寿司。昔からずっと好きでした。憧れていました。今では、寿司屋に入ってお金のことをそう気にせず食べられるようになりました。でも、近頃の「くるくる寿司」、スーパーのにぎり寿司はけっこうおいしいです。

上記は2つの時代の明るい側面です。しかし、「巨人・大鵬・卵焼き」の時代の後、1970年代(昭和40年代半ば)に入ると、各地で起こった公害が社会問題化しました。金とドルの交換を停止した「ニクソンショック」、石油危機「オイルショック」、狂乱物価など様々な問題に見舞われました。さらにその後も、日本は「狂乱のバブル期」、「失われた20年」と時代は流れていきました。
「武豊、羽生善治、にぎり寿司」の今の時代は、素人集団のような能力のない前の政権が倒れ、経済も復活してきたように見えます。ただ、さまざまなスキャンダル報道で現政権は揺れています。それでも、世界を見渡すと、今の日本はまだうまく行っている方でしょう。しかし、あの時代と同じように、このあといろいろな苦難が待ち構えているような気がします。その原因となる最も大きい問題は少子高齢化人口減少労働力不足だと思います。すでに地方の疲弊は極まっています。人生にも社会にも波があります。いい時は長く続かないです。常にその心構えが必要と思う今日この頃です。



母親の看病

平成30年6月 

医学、医療の進歩はめざましいものがあります。小児科の分野でもそうです。私がこの道に入った頃と比べても、随分差があります。その当時は、CTスキャンが開発され、基幹病院での設置が徐々に広がっている頃でした。断層エコーも今ほどは使われていませんでした。小児白血病など重い病気の生存率が上がって行く頃でした。
それよりさらに数十年さかのぼると、今利用されている診断技術、治療薬のほとんどがまだ開発されていませんでした。今の時代から見れば、いわゆる「よく効く薬」「確実に治る治療法」はあまりなかったのではないかと思います。当時の人は病気を自力で治した、あるいは、まわりの人の献身的な看病で病気が治った。そういう例が多かったのではないかと推察します。

今も昔も、病気の子が元気になるには、お母さんの看病と笑顔が一番です。病気本体の治療は医療が担うとしても、病児の食欲、機嫌、全身状態の改善には母親の看病が欠かせないものだと思います。子どもに薬をきちんと飲ませることも看病のひとつです。
保育所や託児所に入り、集団生活を始めてしばらくの間は、小さい子どもは体調を崩すことが多く、母親は不安になりがちです。一方で、仕事に就いておられるお母さん方は、職場や社会で責任を負っているいるので、そう簡単には休めません。子どものことが心配な一方で、仕事のことも気にかかります。働き方改革の一環として、子どもが病気になったとき、その母親が仕事を休みやすい職場環境にぜひしてほしいものです。
母親の過剰な不安は子どもにも悪影響を与えます。ゆったりした気持ちで、元気になるよう看病して上げて下さい。母親の笑顔があれば、子どもも安心でき、心身の回復につながります。いつの時代でも、母親の看病というものはありがたいものです。なくしてはならないものだと思います。



休日当番医 あれこれ

平成30年4月 

公立学校共済 11人、地方公務員共済(県、市町村) 10人、警察共済 2人、国家公務員共済 1人、社会保険(全国健康保険協会) 65人、国民健康保険 10人、組合(各企業の健康保険組合) 5人、保険証忘れ 1人。2月の小児休日当番医に当院を受診した患者さん、105名の保険証の種類です。その日に来た患児の保護者の方のご職業とも言えるかと思います。

今年の冬を象徴するものは「」でした。皆さんもそうでしょうが、我々もうんざりしていました。しかし一度だけ、朝の積もった雪を見て「今日は少ないかな」と少し喜んだ日がありました。今年最後の積雪となった2月12日(振替休日)の朝のことです。雪が積もったのは4度目でした。その日は、喜多・八幡浜・西予地区小児休日当番医が当たっていました。雪が降る日は、皆さん、受診を控えます。今年積雪があった前の3回とも、医院はガラガラでした。それはそれで困ることがあるのですが、冬季の小児科の休日当番は地獄です。冗談ではなく、命を縮めます。
朝、診療開始前に職員に「今日は患者さんはあまり来ないと思うけど、車が3台くらいは止めれるように雪かきをしておこう」と話しました。彼女らは、その前の週の雪かきで疲れていました。2月6日、7日はこの冬一番の積雪でした。職員の中には、腰を痛めたり、腕に痛みを訴える人がいました。「今日は来れんやろね」と話しながら、医院の入り口に近い部分だけ、雪を除きました。

ところが、結果から言いますが、その日は105名もの患者さんが来られました。しかも、インフルエンザだらけというか、その検査だらけ。待合室も駐車場もいっぱい。遠い所から来られている人もおられるので、なるべく早く診るようスタッフが一丸となって頑張りましたが、大混雑でした。診療が終わった後は放心状態でした。

県や市の職員の方々が小児科医の負担を減らそうと、いろいろと考えてくれているようですが、上の数字を見れば、何をか言わんやです。4,5人に一人が地方公務員と呼ばれる方々です。警察、消防関係はいつも少ないです。休日や夜も働く人たちで、苦労がわかっているのだと思います。




歯科医院に学ぶ

平成30年3月 

私が言うのは少し変かもしれませんが、今や、いろいろなお医者さんにお世話になっています。ありがたいことと思っています。ほんの5年くらい前までは、自分の病気で病院に行くことなどほとんどありませんでした。しかし、その元気な頃でも、歯科医院にはちょくちょく行っていました。勤務先の愛媛大学附属病院がある重信町に住んでいた25年余り、大洲に来てからの約14年。歯科医院に行った回数の方が間違いなく多いと思います。

近頃の歯科医院はとてもきれいです。いつ行っても胡蝶蘭などの花を飾ってある所、診察台の前にビデオを置いて世界の美しい風景を映している所、診察室内に懐かしい良いメロディーが流れている所などなど。診察台や待合室の椅子もりっぱです。そして、清潔感があります。高そうな医療機器も備えています。昔の歯医者さんとはずいぶん違っています。何より、歯科医の説明が丁寧です。画像や図で歯の病変部分を示しながら、病気の程度や治療法について説明してくれます。
われわれが子どもの頃は、歯の治療は痛かった。歯を削る時のキーンというあの音が大嫌いでした。ここ10から20年くらいの間に、歯科医院の中も歯科治療そのものも変わってきたように思います。どんどん進化していきました。
歯科医師は比較的若いときに開業します。このため、開業したあとも、新しい知識、技術を身につけていかなければなりません。講習会などに参加し、よく勉強をしていることと思います。診断や治療に使う新しい機器も積極的に購入しています。
歯科医院にはいい意味で競争原理が働いているようにみえます。「歯医者さんはコンビニの数より多い」と言われます。おそらく、これはほとんど診療をしていない高齢の歯科医を含めてのことで、バリバリ仕事をしている実際の歯科医院の数とは異なっているはずです。ただ確かに多いです。数が多いだけに、知識、技術、経験だけでなく親切さや丁寧さなどが大事になってくるのでしょう。
この1-2年の間も歯科医院で治療をしてもらいました。的確で丁寧な説明を受けました。いつも「見習わんといかん」と思いながら帰るしだいです。



次世代へのツケ

平成29年11月 

今回の話の中にはいろいろな数字が出てきますが、話の内容は簡単です。「上の世代のツケを払わないといけない今の若者、子どもたちの方が大変なのでは」です。
平成27年(2015年)の国勢調査では、65歳以上の高齢者人口の総人口に占める割合(高齢化率)は26.7%でした。その時点ですでに、国民の4人に1人が65歳以上でした。その後も高齢化は進んでいますので、現在高齢化率は28%になっているようです。8年後の2025年には65歳以上の高齢者人口は3500万人を越えています。もっと「怖い」のは75歳以上2000万人以上になり、人口の5人に1人75歳以上になっています。一方で、出生数は今では年間100万人を切っています。一体、どんな社会になるのか。想像したくないです。

この9月、10月は新聞や雑誌(世に多いバカな週刊誌ではないです)で社会保障関係の統計記事をよく目にしました。まずは、厚生労働省は、2015年度に保険診療にかかった医療費の総額いわゆる国民医療費が42兆3644億円だったと発表しました。1人当たりでは33万3300円になります。どちらの数字も9年連続で過去最高を更新しました。年齢別では、65歳以上が25兆1276億円と全体の6割近くを占めています。
次に介護給付費。2015年度の介護給付費は9兆円を初めて突破しました。利用者の自己負担(原則1割)を除く、公費と介護保険料でまかなわれた介護サービス費を、65歳以上の全ての高齢者で平均すると、1人当たり25万3000円だそうです。介護を必要としない元気なお年寄りも大勢おられるので、利用している人の費用は年間相当の額になっていると想像できます。
公的年金。2017年度は55兆円が公的年金として、国からお年寄りなどに支払われる見通しです。55兆円のうち約7割は働く世代の人が治める保険料で、約2割は国の税金から、残り約1割は年金のために積み立てているお金が充てられています。公的年金には、老齢年金以外にも障害年金、遺族年金があります。保険料を治めていないと、原則受け取れない決まりになってはいますが・・。
社会保障の国民負担率について。日本の国民負担率は42.2%で、ヨーロッパ諸国と比べるとかなり低いです。日本の高齢化率が高いことは先に述べた通りですが、世界に目を向けてみると、主要先進国でも高齢化率は20%を切っているところが多いです。ちなみに、フランスは、高齢化率が19.1%とそう高くないのに、国民負担率は68.2%と高い。一般に、高福祉の国は高負担の国であります。米国はあのお国柄(自己責任、自助努力)なので、国民負担率は32.7%と低いです。しかし、高齢化率は14.8%で日本の半分の数値です。日本は高齢者の割合が高く、医療や介護などの社会保障にかかるお金がどんどん増えている割に、負担は低いという見方ができます。

現在、社会保障の給付総額118兆円のうち、保険料では約6割しかまかなえていません。残りの4割は国と地方自治体による公費ですが、税収は十分ではないです。これが財政赤字を拡大させています。人口減少と少子高齢化は、国や自治体の財政や経済社会に大きな打撃を与えていきます。
平成28年度の一般会計予算は96.7兆円ですが、歳出をみてみると、国債費と地方交付税交付金と社会保障関係費で、歳出全体の7割超を占めています。一方、歳入のうち税収は58兆円であり、一般会計予算の歳入のうち、税収でまかなわれているのは6割弱です。残り4割弱は将来世代の負担となる借金に依存しています。一方で、子ども、労働人口はどんどん減っています。

先月、衆議院選挙がありました。いつの選挙でも、介護や医療などの充実を公約に掲げる政党があります。しかし、言葉は悪いですが、猫が糞を隠すように、増え続ける社会保障費に必要な負担の話はしません。財源論なしに、実現不可能は話ばかり出してくる。「増税反対」、反対反対何でも反対、国会議員の数を減らして給料を下げるとか、庶民の胸がすっとするような話ばかりして、票を稼ごうとする政党が多い。今の状況で税負担の増大は避けられないと思わないのなら、国会議員ではなく、詐欺師かペテン師、あるいはかなり無責任な政治家だと思います。
「負担は嫌だけど、福祉や年金は手厚くしてほしい」というような理屈が通らないことは、大方の国民は理解しています。打ち出の小づちはないです。痛みの話を避けて通ってきて、そのツケが借金というかたちで、次の世代に回っています。マスコミは例外を強調して報道しますが、今のお年寄りはけっこういい目をしていると思います。仕事柄、20代30代の若いご夫婦、子どもさんと会って話す機会が多いので、余計に、この人らの将来が気になるしだいです。



お婆ちゃん、お爺ちゃんの協力、援助

平成29年2月 

職業柄、子どもをもつ若いお母さんと話をする機会が多いです。お父さん方とも話をすることがあります。話す時間は長くはありませんが、その人らの苦労がひしひしと伝わってくることがあります。「今の若い者は・・」なんて言葉がありますが、今は、お年寄りの方が楽な生活をしているかもしれません。子育て世代の若いご夫婦、とくにお母様方は、家計の面、子育て等で苦労をしています。
近頃は、子どもを保育所等に預けて働いている女性が多いです。当院を受診する子のお母さん方で、専業主婦の人の割合は2割以下だと思います。理由として、まずは、社会が女性の労働力を必要としている現状があります。この南予のような少子高齢化が進み、労働力が不足している所ではとくにそうです。もう一つは、子育て世代の経済的理由、すなわち生活・家計が苦しいという事実があります。20代、30代の世代の人たちにとって、現在の地方においては、いわゆる「いい職、いい職場」があまりないです。常勤として採用してくれる会社・企業は少なく、昔のような終身雇用制ではなくなっています。ぼーとしていても年々給料が上がり、位も徐々に上がっていく。極端な例ですが、朝出かけて行ってお茶を飲んでいたら仕事したことになるというような職業はないです(少しはあるようです)。われわれの世代の人間なら、子どもの頃、父親が国鉄、電電公社、郵便局、農協、役場に勤めている家の子が、クラスに必ず何人かはいました。従業員が何百人もいる工場に勤めているおうちの子もいました。しかし、これらの職種は民営化・合理化、さらには平成に入ってからの不況等で、職員・社員の数が減り、新規採用の人数も少なくなってしまいました。倒産も多く、会社自体が減ってしまいました。経済的に苦しい理由には、夫婦両方が倹約をしないということもあるかもしれません。昔の人のように、身の丈に合った生活ができない人らがいます。

母親が子どもを預けて働き始めると、家族の生活は一変します。最も大きな影響は子どもに及びます。子どもが保育所に入ると、はじめの1年くらいは、病気によくかかります。寒い時期はとくに病気が多く、ずっと病気にかかっているような状況になります。近頃は、0歳、1歳頃から保育所に入る子が多いので、園内ではやっている病気が児にすぐうつってしまいます。わが子が小さいうちから女性が仕事に出るのは、ご本人の意思とは限りません。先にも述べた通り、地方だと労働力・人材不足で、女性に早く働いてもらわないと、職場が立ち行かない所がたくさんあります。
子どもを保育所に入れると、身近に協力者がいないと、母親も子どももやっていけません。とりわけお婆ちゃんの協力が必要になります。お婆ちゃんもお仕事をしていて、忙しい人もおられるのですが、極力助けてあげてほしいと思います。あくまで一般的な話で、例外はいくらでもあることは承知していますが、ズバリ申し上げて、今のお年寄りはお金を持っています。そして、お金を使いません。お金に困っているのは子育てをしている若い夫婦の方です。子育てに口は出しても、援助、協力をしないのはよくないです。そういう話をよく耳にします。年をとるまで苦労して稼いで貯めたお金でしょうが、孫のため、働きながら育児をしている娘、嫁(母親)のため、息子(父親)のため、ときには援助をしてあげてほしいものです。
お婆ちゃんらの、やれ、「私も忙しい」「腰が痛いし、しんどい」「病気の子を看よるとこっちが病気になる」この手の話もよく聞きます。しかし、日々の診療をしていると、祖父母がもう少し孫を看てあげればいいのにと、思うことがしばしばあります。病気の孫、その子の母親と一緒にやってきて、婆ちゃんが目を三角にして「治らんのじゃけど」とこっちを睨んでも、孫の病気は良くならないです。病気の子を保育所に行かせ続けているから治らないのであって、「あなたが家で看てやらんからよ」と言いたくなる時があります。事実として、できないことであれば、それは仕方のないことですが。

今や、日本の子どもは、「小さいうちから、こんなにたびたび病気になっても大丈夫なんだろうか
」と小児科医が思うくらいよく病気になっています。母親に協力者がいなくて孤立すると、虐待につながりはしないかと心配します。行政もいくらかは対策をとっているのかもしれませんが、何だかなあ、という感じです。
若いお母さんらの困った状況を見たり聞いたりするにつれ、こういうことを、時おり考える次第です。最後に、いろいろ申しましたが、この南予には、良いお爺ちゃん、お婆ちゃんがまだ大勢残っている方だと、私は思っています。



 吐く

平成28年12月 

子どもはよく吐きます。「嘔吐」という言葉のイメージは、感染性胃腸炎(皆さんが言うところの“おうとげり”)にかかった子どもが繰り返し吐く姿だと思いますが、その病気以外でも、とにかくよく吐きます。とくに小さい子はそうです。
多いのは、咳をしたときです。夜中に咳込んで何度も吐くことがあります。翌朝、病院に行って「吐いた、吐いた」とあまりに強調するものだから、吐き気もないのにお爺さん先生に点滴をされる子がいます。子どもは鼻がつまっても吐きます。便秘でお腹が張っているときや、ゲップをしても口から物が出ます。大泣きしている最中にも出ます。 熱が上がりかけたときにも、嘔吐がみられます。車酔いでも吐きます。嫌な匂いでもよく吐きます。「トイレで吐いた」と言うから子どもに話を聞いてみると、「学校のトイレが臭くて気持ち悪くなった」とか「(自分の)ウンコが臭くてもどした」なんてこともあります。思春期の子になると、頭痛でも吐きます。

嘔吐は小児科を受診する主訴の中でわりと多いものです。 「子どもが吐いた」と病院を受診する一番の理由は、保護者の恐怖だと思います。子どもが吐く姿は、見た目に異常で、はたで見ていると怖いです。口は、本来は食べ物が入る所で、それが反対に、一度に大量にいろんな物があの臭いとともに出てくると、誰でもうろたえます。たとえは悪いのですが、尻から物がどんどん入っていったら、これも怖いでしょう。とにかく、ふだんと変わったことが起こると人間は恐怖を感じます。また、嘔吐は突然起こります。たいていは1回では終わらずに、何回か繰り返します。場所に関係なく起こるので、服やふとん、部屋を汚してしまいます。そのショックも大きいです。

咳込んで吐く場合のことですが、これは胃の内容物や気道の分泌物が咳とともに出ているのであって、吐き気を伴う嘔吐とは違います。吐き気止めなんか使っても、意味がないです。子どもは、痰を口の中で丸めて、洗面所に行って、チュッと上手に出すなんてことはできません。「咳で吐く」のは、嘔吐というより「口からものが出た」と言った方が正確な表現でしょう。咳込んで吐くと、胃の中の食べ物も一緒に出てしまいますが、痰が出るので呼吸が楽になります。咳込んで吐いたら、たいてい、寝てくれます。咳をしている、しかも痰が多いということが病気なのであって、吐いていることが病気ではないです。むしろ、かぜがこじれて重い気管支炎、肺炎になっていることを恐れないといけません。吐く病気にかかっているわけではないです。

お腹をこわして吐く場合ですが、体に入ったらいけない菌やウイルスが入って、外に放り出しているわけです。そういう意味では、嘔吐も下痢も有意義なことです。当然、程度の問題があります。自分も小さい時から何度となく嘔吐をする病気にかかりました。そのときはとても苦しくしんどかったです。しかし、いつも、何か知らん間に治っていたような気がします。いわゆる「放っておいても自然に治った」というものです。昔のことですから、我々の親の世代は「吐いた。それ病院へ。」とは動かなかったです。それを勧めるのではないのですが、それで済んできました。ある父親から医院に電話がかかってきて、「子どもが吐いた」と言うので話を聞いてみると、吐いたのは1回で今は元気にしていると言う。「1回だけでしたら経過をみられたらどうでしょうか」とお答えすると、その父親が「お前のところは1回だけじゃ診んちゅんか」。近頃、こういう物言いをする親が本当に多いです。南予はまだ少ない方です。

嘔吐は重症感染症の髄膜炎や腸重積などの病気の症状でもあります。インターネットをみると、だいたいこういうのを書いています。怖い病気を考えたらキリがないです。実際、日常の子どもの「吐く」に対して、保護者の過剰な反応が目につきます。この症状に重きを置きすぎるきらいがあります。ただし、嘔吐をしている全身状態の悪い子どもさんは、早く病院にかかった方がよいことは言うまでもありません。



 日本のサービス

 平成28年6月 

ニューヨークに行った時、現地の女性ガイドさんに大変お世話になりました。神奈川県出身のしっかりした30歳代の女性でした。ニューヨークに住んで8年になると話していました。到着日と出発日のドライバーを連れての空港、ホテルへの送迎、滞在2日目と4日目の市内観光では詳しく丁寧に案内をしてくれました。トータルで4日間、われわれ夫婦をよくサポートをしてくれました。彼女はニューヨークのことをよく勉強していました。学生時代スポーツをしていたそうで体格がよく、何より英語が上手なので、若いのに頼り甲斐のある人でした。日本に帰る前日に、「お礼に夕食でも」とお誘いしたところ、とても喜んでくれました。誘ったと言っても結局は、彼女が超有名レストランを予約してくれて、ホテルまで迎えに来て、レストランまでタクシーで連れて行ってくれました。食事をしながらいろいろな話をし、楽しい時間を過ごしました。
会話の中で、私が「来てみたらニューヨークは遠いです。日本から離れたこの街で仕事をするのは大変ではないですか」と聞くと、彼女は「そんなことはないですよ。あの、お客様の言う事は何でも聞く、聞いて当たり前という日本でのサービスはしんどいですから。その点、アメリカの方が楽ですよ。」と話しました。そのあと、しばらく、その話題で盛り上がりました。

日本人や日本企業のサービス精神、気配り、礼儀正しさ、もてなしは、広く世界で評価されています。しかし、それは一体どこまですべきなのか、どこまでしないといけないのか、一方で、サービスを受ける立場の人の要求はどこまで行くのか、止めどなくエスカレートするのではないか。不安になります。自分が客の側のときはいいけれど、自分が職業人として客を迎える側、あるいは客の要求を聞く側になった場合は、随分苦労するのではないか。事実、すでに苦労している人は多い。会社の方はいつもペコペコ、客の方はこっちが何でもハイと従うのが当然と思っている。
私達がニューヨークで宿泊したホテルは、セントラルパークのすぐ南で、隣にかの有名なカーネギーホールがあるSクラスのホテルでした。そういう高級ホテルでしたが、洗面所に歯ブラシや歯磨き粉、櫛などは用意されていませんでした。旅行するならそれくらい持ってきて当たり前、ということなのでしょう。当然かも知れません。洗面所、浴槽に置かれた石鹸は、子どもの時に見た洗濯石鹸のような質素なものでした。それで十分です。浴槽の底に滑り止めの ギザギザはありませんでした。浴槽の横に手すりもありませんでした。転けないように、自分で気をつけろ、ということでしょう。

日本の空港の出発ロビーでは、航空会社の女性職員がいつも“遅刻者”を探しまわっています。マイクで搭乗口にやってこない客を何度も呼び、何人かの職員が大きな声で遅れている乗客の名前に様を付けて、探しまわっています。見つけたら、搭乗口まで一緒に走って連れて行きます。いつ見ても嫌な景色ですが、そこらまわり至る所で見かけます。こういう輩は放っておいて、時間が来たらゲートを閉めて、淡々と飛び立ったらいいと思う。そうしないから出発が遅れるのです。外国の空港の出発ロビーでは、遅れている客の名前を連呼することなどまずありません。掲示板にfinal(ファイナル)と出たら、それが最後の知らせです。遅れたら、自己責任です。たとえ、やむをえぬ事情があったとしてもそうです。外国の駅では、ベルもブザーも何も鳴らさず、列車は時間が来たら静かに出発します。ダイヤはよく遅れますが、それは職員の能力と管理の問題です。決して、客を待っているわけではありません。

ニューヨーク滞在中、彼女には世話になりましたが、こちらも無茶を言う訳でなく、自分らですべきことは拙い英語を駆使しながら何とかやっていきました。ガイドさんにべったりくっついた旅行ではありませんでした。帰国する際、ジョン・F・ケネディー空港で、彼女が搭乗手続きを手伝ってくれ、セキュリティチェックの前まで来てくれました。「ぜひ、また、おいでください」彼女が短くハキハキした声で話しました。わりと厳しいセキュリティーチェックを通り抜けて、振り返ったら向こうで笑顔で手を振っていました。
この話の続きは、いつかまた。

 
自由の女神   ロックフェラーセンターの展望台「トップ 
オブ ザ ロック」から眺めたセントラルパーク




「松山の方の病院へ」 

 平成28年1月 

「松山の方の病院を紹介してほしい」年に何回か聞く言葉です。子どもさんの病気が重いため、小児科の入院施設のある病院への転院(転医)を勧めた際、あるいは、稀な病気であるため、その分野の専門医に診てもらうよう説明した時などに、保護者からの返答として聞く言葉です。その意図するところは、松山に行ったら良い医療が受けられる、ということのようです。大事な子どもさんのことですから、いろいろ考えるのは当然だと思います。
ただ、私が気になっているのは、これらの方が「人口の少ない地域の医療のレベルは低い。中核病院でも地方の病院は、都市部の大病院より劣っている。」と考えている節があることです。もちろん、マンパワー、設備面で差があることは事実ですが、そのことが直接的に、治療の成否の鍵になることはごくまれです。極めて重症のケースだけです。病気を治しているのは病院ではなく、担当の医師をはじめ医療スタッフです。医師の場合、勤務医の多くは2-3年ごとに、医局の人事で異動しています。南予にいるわれわれの仲間の小児科の勤務医は全員、以前は「松山の方の病院」にいた先生方です。そして、またいつか「松山の方の病院」に行って働く人らです。ちなみに、大学の医局が勤務医の人事を行うことに、あれこれ言う人がいますが、この制度がないと田舎に行く医者は激減してしまいます。南予のような所では、地域医療が成り立たなくなります。事実、新しい研修制度になってから、そうなってきました。
私が当地に来て間もないころ、会合で会ったベテランの先生がこう語ったことを覚えています。「○○○の人らが地元の病院を悪く言うは、一種の風土病のようなものです。」あれから何年も経ちましたが、確かにそうだ、と思うことがあります。実力のある小児科医のいる南予の病院に紹介状を書いたところ、一緒に付いて来ていたお婆ちゃんが「あそこの病院には行かない。私が気に入った病院でないと行かない。」と言い張ったことがありました。半年くらい前に、○○○から家に帰るため、タクシーに乗った時のことです。その運転手が、乗ってからずーっとそこの市の病院の悪口をしゃべり続けました。話の内容は、ヤの付く人らのイチャモンに近く、あまりにひどいので、聞いていると気分が悪くなりました。話を変えようと別の話を持ち出しても、そこに話を戻してしまう。「これじゃ、医者も辞めるし、医局も医者を引き揚げるわ。」と思いました。付け加えておきますが、もちろん、感じのいい運転手さんもたくさんいます。

私は東予の出身で、中予(東温市重信町)でこれまでの人生の半分くらいを過ごし、ここ10年あまり大洲に住んでいます。近頃、お世辞抜きで、南予は良い所と思うようになりました。今回のタイトルの言葉は、この地域の人のある種のコンプレックスの現れなのかもしれません。「県庁行き」という言葉を使う人がいます。よそ行き、一張羅のことみたいです。昔は松山、御城下の格が高かったのでしょう。でも、今は大した差はないですよ。八幡浜のみかんは最高です。梨は大洲のものがおいしいです。うちは、毎年、ぶどうの巨峰を内子の農家から買っています。ふぐは下関が有名ですが、長浜のふぐがそこへ行っているんだと、料亭の大将から聞きました。かつをといえば高知と思われがちですが、愛南町の水揚げ量が多いし、そこのかつをのたたきは新鮮でうまい。
田舎だと医療のレベルが低いと、卑下して誤解している方がいるかもしれません。そんなことはないですよ。松山、いや東予からでもこちらに来て、子どもさんの病気を診てもらったらいいと思う良い先生がいます。



貧困と肥満

平成27年7月 

今の世の中、貧しい→やせ、裕福→肥満という関係には必ずしもなっていないようです。アメリカの自動車工場などで働く労働者が、仕事が終わってタイムカードを押してあわただしく帰宅していく光景をテレビや映画で見ますが、男性も女性も多くが肥満です。一方、高層ビルの眺めの良い広い部屋にいる会社の重役はたいていスリムです。この国の場合、肥満は出世の妨げになります。肥満者は自分をコントロールできない人間とみなされるからです。自分自身を制御できない者、不健康な人間が、会社を健全に経営していけるだろうか、という考え方です。耳の痛い話です。高額の年収をとる管理職の多くは、仕事が終わってからジムに通って体を鍛えています。昼休みに運動をする人もいます。食事にも大変気を使っています。カロリーだけでなく、栄養のバランスも考えています。アメリカほど顕著でなくとも、ヨーロッパや日本などの先進国では、これに似た傾向がみられています。

中南米の国々には太った人が多い。国別にみると、国民一人当たりの国内総生産(GDP)が低い、貧しい国に肥満者が多いという調査結果が出ています。地域の太りやすい食習慣も原因の一つですが、それらの国の貧しい人たちは、炭水化物と油物など安い食べ物で空腹を満たしています。タンパク質の豊富な食事ではお金がかかってしまいます。また、貧困家庭ほど甘い炭酸飲料をよく飲むというデータもあります。貧しいが故に、食事の質のことまで気が回らない。貧しい家庭のお母さん方 は、栄養のことを考えて食事を作る余裕はないのだろうと思います。子どもらも食べ物を選べる状況ではないでしょう。手っ取り早く空腹感だけ満たそうとすると、どうしても甘いものを飲んだり、炭水化物主体の食事になってしまいます。

貧困のため十分な食事が摂れない人々が今なお世界中にいますが、昔に比べると随分減って来ました。むしろ、糖尿病などの生活習慣病の増加の方が問題になっています。子どもの栄養についても、小児肥満の方が話題として取り上げられる機会が多くなりました。
わが国でも、小児思春期の肥満に家庭の貧困が関係しているケースが一部にみられます。肥満に関しては、本人や保護者に栄養指導をすれば改善するというような簡単なものではなく、難しい問題をはらんでいることがあります。



紹介状 

 平成27年5月 

一つの病院から他の病院に患者さんを紹介する際、受け入れる側の病院にとっては、間違いなく紹介状があった方が便利だと思います。来院した患者さんから直接お話しを聞いても、主観が入りすぎていたり、検査結果、治療経過などの情報が不確かだったりして、実状がつかめないことがあります。一方、紹介する側としては、患者さんをお願いするのですから、礼儀としても書くべきでしょうし、その症例についての要点、お願いすることの趣旨を伝えておいた方が、患者さんにとっても送る側の医師にとってもメリットがあります。ただ、その方法、手段が、何か旧式で非能率的です。それと今の時代、医療の分野で、何でもかんでも、紹介状をはじめとする書類が要り過ぎるのではないかと感じています。また、大病院、基幹病院に行く軽症患者を減らす手段として、「紹介状が必要です」が用いられています。大枠では理解するのですが、紹介状を書く側の人間としては、もう少し簡便にできないのかなと思うことがあります。
私は長い間、大学病院にいたので、紹介状を受け取る側の人間でした。診断をつけたり治療をはじめたあとで、診療結果報告書や紹介状の返事を出すのが仕事でした。これらの書類は、あまり急ぐ必要はないので、時間がある時に書きました。それでも、きちっとした書類を書くというのはいつもたいへんでした。

正直なところ、紹介状を書かずに済むならそうしたいと思うことがあります。経過の短い、軽症の症例の紹介状でも、文章を書くとなると、それなりの時間がかかります。それが、経過の長い症例、あちらこちらの病院を転々として自分のところに来た症例、様々な合併症があったり、複数の病気が重なっている患者さんの紹介状となると、書くのに苦労し時間がかかります。夜、眠たくしんどいのを我慢しながら、診察室でひとりカルテや資料を見ながら、紹介状を書くのは辛いときがあります。
診療が終わってから書けばいい紹介状は、まだ気分的には楽です。小児科の場合、日常診療の大半は急性疾患です。患者さんを診てすぐに、紹介状を書かなければいけないケースが多いです。なかなか止まらないけいれんやひどい喘息発作などの時には、複雑な緊急の処置を必要とします。こんな時に悠長に手紙を書いている暇なんかないやろ、と心の中で叫んでいます。
また、子どもの病気は、初めは大したことがなくても、親が薬を飲ませてなかったりすると、病気がこじれて、どんどん悪くなることがあります。紹介状には、こういった背景を書くことは本来とても大切なのですが、文章が長くなると書き終えるのに時間がかかり、ひいては患児が紹介先の病院に行くのが遅くなります。急ぐ時は、症状や検査データだけしか紹介状には書けないことがあります。
乳児のRSウイルス感染症などでは、初診で来院した時点ですでに重症になっていることがあります。急を要する場合、その時点で、外来診療をとめて、親に入院治療が必要なことを説明します。その直後から受け入れてくれる病院を探し、そこの医師に状況を話します。すぐ「入院OK」が出る場合と、「しばらくしてこちらから連絡します」となる場合があります。そして、再度、親を呼んで、経緯を説明をします。同意が得られたら、そこから急ぎ紹介状を書き始めます。こういう状況では、われわれは物書きではないので、うまくまとまった文章なんか書けません。急ぐ場合、手が震えることがあります。この間、優に30分くらいかかることがあります。
紹介状を書き始めると、診療は完全にストップします。診察室の外では、待ち時間が長いと苦情が出てくることもあります。こんな最中に、診察室のドアをノックして、母親が「今主人と相談したんだけどー、あの病院より○○病院の方がいいんじゃないかって、言うんだけどー」と言ってきたり、紹介しようとしている病院から「ベッドの都合がつかないから無理」と連絡が入ることがあります。患児の状態が悪いときは救急車を要請しますが、ここも電話だけでは動いてくれません。決められた用紙に必要事項を書いてFAXを送らないといけません。1秒でも惜しいときに。こちらに患者を運び込む時は電話1本なのに・・。意識のない子や、息が止まりそうな呼吸状態の悪い子の横で、書類を書くのは怖いですよ。うちのようなクリニックではないことですが、極端な話として、心マッサージをしていても紹介状を書かないことには、患者を送れません。私が紹介状を書くケースの半分は、緊急入院のためものです。口頭で要点を伝えて、書類はあとで送るのではいけないのか、としばしば思います。
上にも述べましたが、今の時代、とにかく「文書」を要求されます。診断書、証明書、登園許可書、医療意見書、アレルギー除去食に関する連絡書、行政機関に出す書類などなど。書類はすぐには書けないです。この忙しい日々、文書、文書、と、医者に一体何枚書類を書かすのだろうか、と思います。 忙しい最中に、どんな職種の人が面倒な書類、手紙を書いてくれますか。通勤通学でごった返している改札口で、駅員に領収証、乗車証明書を書いてくれと言うようなものです。ある機関の人らは、何かにつけ、「カルテに明記のこと」 「詳細に記載すること」 「カルテに書かれてなければ算定できない」 「文書が必要」と言います。完全週休2日で、祝日休みの、年休いっぱい、昼休みはきっちり取って、1日の仕事が夕方5時までのおじさんらじゃないの、座ってゆっくり書類を書いている暇なんかないのよって。
様々な分野で技術が進歩し、コミュニケーションの手段も携帯電話、インターネットなど格段に進歩しているのに、医療機関での情報連絡は時代劇みたいなことをやっているように思います。もう少し融通をきかせて、簡便なシステムに変えていくべきでしょう。医師は主に診療と勉強をする。なるべく書類書きには時間を取られないようにしてもらいたいと考えます。



さっちに、この時期にやらんといかんの

平成27年2月 

冬来たりなば春遠からじ」と言えば美しいのですが、いつの時代も大学入試はそう甘いものではないです。極端に易しい所は別ですが(今頃、そういう大学も多いです)。そもそも競争に打ち勝つことが大変なのですが、入試の時期に問題があるのではないかと。大学入試センター試験の時期になると、いつも今回のタイトルのように思ってしまいます。われわれの世代にはこの試験はありませんでした。少し下の世代から「共通1次試験」という受験生の基礎学力を試すテストが始まり、これが11年間続き、1990年から現在の大学入試センター試験になりました。共通の試験問題で、全国の各会場で一斉に実施され、毎年、1月の10日〜25日の間で行われてきました。二十四節気の大寒の頃で、1年で最も寒い時期です。
医学部教官時代には、実際に、松山の愛媛大学城北キャンパスに試験監督に行きました。大学病院の医師は、研修医、非常勤の医員の時代を経て、常勤になると、文部(科学)教官という立場になります。入試のときの監督業務は大事な仕事の一つでした。20年余り、医学部、附属病院に在籍しましたので、センター試験の監督にはかなりの回数行きました。大学勤務の終わり頃は、受験生が多く入る広い教室の監督責任者を任されていました。
いつも寒かったです。雪がちらついていることもよくありました。暖かかった記憶はありません。試験会場には暖房をいれなかったので、監督をしながら「寒いだろうな」と、よそ様の子のことが気になりました。一方、窓際の席で試験を受けている子の中には、日光が当たってのぼせて鼻血を出す子がいました。解答用紙(マークシート)が鼻血で汚れて、交換することもありました。あと、腹痛を訴える子がいました。寒さと緊張、女子では月経痛と思われる腹痛で、真っ青な顔をして、われわれ教官に向って手を挙げる受験生がいました。腸炎のための下痢で、トイレに駆け込む子もいました。日暮れの早い時期で、1日目の試験が終わった時刻は、あたりは真っ暗です。その日の試験の出来が悪いと、寒さと暗さと次の日の試験(数学、理科)に対する自信のなさで、気分が落ち込んだことでしょう。
また、必ず、全国のどこかでは、雪で交通機関が乱れ、入試開始時間を遅らせる所が出ます。地域によっては、インフルエンザが大流行している時期でもあります。寒さにやられることなく、かぜにじゃまされることなく、受験生一人ひとりが持てる力を出し切れるといい、と思うのですが、このセンター試験には困難がつきものです。最も実力が出しにくい時期ではないかと思います。わが家でも、3人の子が5年から10年くらい前に、このセンター試験を受けました。天気予報で当日の天気が悪いと、伊予鉄、JRの電車は止まらないだろうかと心配したものです。昼食は、少しくらいは暖かい場所で食べれるのだろうか、などなど。
4月初めの入学式から逆算して行けば、3月に合格発表、下宿探し。とすれば、各大学独自の2次試験は2月中に行わなければいけない。そうなると、センター試験は1月となります。現行のこの流れはわかっておりますが、それでもやはり、「わざわざこの時期に、全国一斉の入試をする必要があるのか」と思うのです。

余談になりますが、子どもの数はどんどん減り続け、出生数はわれわれの時代の半分になっています。受験生の数も、ここ何年かに限ってみても、減ってきています。一方、大学はそれこそ腐るほどあります。ピンからキリまであります。いろいろと批判があるかもしれませんが、レベルの高い大学にはセンター試験は不要だと思います。レベルの低い大学にはセンター試験をする意味がないと思います。選ばなければ、日本では、どこかの大学には入れます。そこで得意分野を伸ばし、楽しく、その子なりの大学生活を送れればよいと思います。
ついでに述べますが、合否を決める際に、面接、小論文を重視することには反対です。あの程度の時間の会話とあれくらいの長さの文章で、受験生の人となり、能力がわかるはずがないです。だいたい、大学教官の中には、わりとエキセントリックな方が多いです。AOや推薦、地域枠での入学は、それを導入した意図はわかりますが、学生のレベルを下げ、ひいては大学のレベルを下げるという負の作用があるように思います。



紅白歌合戦

平成27年1月 

昔は大晦日と言えば、NHK紅白歌合戦でした。今でもそういう方は大勢おられます。自分としては、実に久しぶりに、この番組を最初から最後まで見ました。テレビ画面を見ながら途中でふと思いました。「もう何年ぶりかな、この番組をこうやって見ているのは」と。 とはいっても、新聞を読んだり、年越し蕎麦を食べたりしながらではありましたが。何回か、チャンネルを替えて、ダウンタウンの番組もちらちら見ていました。
それにしても、最後まで全部見たのは、実に20年ぶりくらいではないか。いや、もしかしたら、もっとかもしれない。大みそかのこの時間帯に、テレビの前にゆっくり座っていたこと自体がめずらしい。ここ何年かは、書き終えてない年賀状を書いたり、院長室の片づけをしたり、たまっている書類をチェックしたり、自宅の方に届く新聞、雑誌等を読んだりしていました。“紅白”については、子どもらがつけていたのをちらりと見るか、晩ご飯を食べているときに見るくらいでした。

何より、知らない歌手、聞いたことのない曲が年々増えていき、興味も薄れていました。むしろ、その年の審査員のほうが気になったときもありました。今どきの家では、チャンネル権を握っているのはだいたい子どもさんだと思います。その子らが大きくなって紅白を見なくなると、家では紅白を見なくなります。それと、気持ちに余裕がないと、こういう長時間の番組をゆっくり見る気分にはなれないのではないかと思います。年末になっても大きな心配事があると、紅白どころではなくなります。良い例が受験です。大学受験生がいると、センター試験がすぐそこに迫って来ているので、家族で紅白を見るような心の余裕がなくなります。ずっと前のことになりますが、自分の受験の時もそうだった気がします。もう一つ自分のことを言うと、今なら、正月三が日に小児科の休日当番医が当たっていると、なかなか落ちついては見ることができません。この休日当番医というのは、それくらいストレスになります。幸い、今回の年末年始の休日当番は12月29日でした。嫌なことといっては語弊がありますが、その役目が早めに終わり、年賀状も書けていたので、ゆとりがあったのかもしれません。もっとも、12月29日は来院患者さんが120人来られたので、その日はかなり疲れました。保護者の中には、待ち時間が長くなり、いらいらしていた人もいました。わからないこともありませんが、年末年始の小児科の当番医とはそんなものです。

今回の紅白に出場した歌手についての感想を少し。中島みゆきさんの「麦の唄」は初めて聞きました。歌も上手ですが、歌う姿、声に貫禄がありました。朝の連続テレビ小説の主人公夫婦役のお二人がジーンと来ているのを見て、こちらも胸に迫るものがありました。美輪明宏さん。ちょっと気持ち・・・と言えばそれまでなんですが、この独特の歌い方も良いのでしょう。AKB、HKT、SKE、NMBはよくわかりません。SMAP、嵐、V6などのジャニーズ系のグループは、メンバーそれぞれがよく成長してきたと思いました。歌手ではありませんが、紅組初司会の吉高由里子さんは、言葉のキレがあまり良くなかったですが、あれはあれで良かったのでは。総合司会のNHKアナウンサー有働由美子さんは、ご本人は騒がしているつもりはないのでしょうが、彼女の言動は同業者のマスコミや視聴者に何かと言われることがあります。しかし、有働さんは、やはり、こういう大舞台では落ち着きがあり、安心して見ていられます。私らにとっては、歌手よりも華があり、若い歌手、AKBにはない大人の色気があります。いろいろな衣装をもっと着たら良かったのに。桑田佳佑さんは“軽い”桑田さんの方がいい。時代批判、政治色、社会性を持つメッセージソングはあまり出して欲しくないです。私はボブ・デュラン、ジョン・レノン、忌野清志郎さんらも嫌いではないのですが、彼にはそっち系には行って欲しくない。晩年の芭蕉ではないが、「かるみ」こそが良い。福山雅治さん。これほどかっこいい男は少ないですね。ただ、桑田、福山このアミューズのお二人には、たまには他の出場歌手と同じようなかたちで出てもらいたいと思うのですが、無理ですかね。最後に、大トリですごく緊張して歌った松田聖子さん。司会の吉高さんが「松田聖子さんでも緊張するんだなって。すごく震えて・・・」と言っていましたが、映像を見ていたわれわれにもそれは伝わりました。これまで数えきれいない回数のステージ、コンサートをやってきた、今や大ベテランの彼女がこれほど緊張するとは。紅白の大トリとはやはり特別なんでしょうか。逆に、彼女のこの様子で、他の番組にはない紅白の権威が証明されたと言えるかもしれません。また、松田聖子さんは、紅白の番組の中で、娘さんがアメリカからの中継で歌っている時に泣いていました。わが子の晴れ姿を見てのうれし涙で、感動のシーンでした。

NHK紅白歌合戦は、今回が65回の長寿番組で、大型音楽番組です。その視聴率の高さ、視聴者の年齢層の広さから国民的番組と言われることがあります。例によって、この番組をけなす人もいます。しかし、紅白をゆっくり見ていられる年の方が、精神心理的に落ち着いていて良いのかもしれない。近年は、年末の大みそかまであくせく働いていたわけではないので、むしろ気持ちの上で余裕がなかったのかもしれません。なにはともあれ、この番組が続いていれば、また見ることがあるでしょう。この番組を全放送時間見れるような大晦日なら、おそらく、その1年は、仕事も家庭も落ち着いていたはずです。






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