歳時記(2014〜2024年)



 東京百景(2)

令和6年2月 

朝ホテルの部屋のカーテンを開けると、快晴でした。東京タワーがきれいに見えました。「久しぶりに東京タワーに行ってみよう」と思いました。地下鉄(大江戸線)に乗り、赤羽橋駅で降りました。地上に出ると、目の前に、空に向かってそびえ立つ東京タワーが現れました。空のと東京タワーのはよくマッチします。私は東京タワーが好きです。これが東京のシンボルです。芝公園の中でしばらく眺めていました。
再び大江戸線に乗りました。次は築地市場で降りました。朝日新聞本社ビルや国立がんセンターの建物がありました。築地場外市場にはものすごい数の外国人がいました。いったいどこから、どうやって来たのだろうか。東京の地下鉄は路線図が複雑で、日本人でもわかりかねるのに。そして、そこらじゅうの外人さんらがいろいろな物を買って食べていました。これはなんぼ何でも高いんじゃないのと思うような値段でしたが、飛ぶように売れていました。
さらに、蔵前へ進み、乗り換えて浅草へ行きました。5年以上来てなかった「駒形どぜう」で、ドジョウ料理とクジラ料理を食べました。おいしかったです。ちと塩分が多かったかな。私が子どもの頃、田植えの時期になると、祖父の家に近所のお百姓さんらがやってきて、昼にみんなでドジョウ汁を食べていたのを思い出します。美味しそうに、そしてドジョウ汁と一緒にご飯をかきこむように食べていました。それが終わると、勢いよく田んぼに向いました。
店を出て浅草の雷門の交差点で止まった時、横を見ると近くに東京スカイツリーが見えました。
浅草から銀座線に乗って溜池山王駅で下車しました。日枝(ひえ)神社に参拝しました。そこから赤坂見附方面に歩き、宿泊しているホテルニューオータニに帰りました。

  *東京百景(1)写真集のコーナーです。写真の下の数字は通し番号になっています。

 
7. 東京タワー(2月24日)   8. 築地場外市場


 
9. 駒形どぜう   10.ドジョウ鍋


 
11. 浅草寺雷門   12. 雷門前から見たスカイツリー


 
13. 山王日枝神社   14. ホテルニューオータニの日本庭園



 元日の富士山

令和6年1月 

標高 3776m、日本一の山、富士山。令和6年の元日に威厳のある美しい富士山を見ることができました。富士山はその高さもさることながら、なだらかな曲線を描く山裾に魅力があります。これまで何度となく写真や映像で見てきましたが、近くで眺めると、一層そう感じました。東京から見える富士山は、その手前に丹沢山地があるため、あの雄大な麓は見ることができません。

めったに早起きをしないこの私が、午前5時に起きて、あたりがまだ真っ暗な中、ホテルから赤坂見附の地下鉄の駅に行きました。6時15分発の丸の内線に乗り、東京駅に向かいました。7時3分発の新幹線ひかりを待っている間に少しずつ明るくなりました。朝日が見えたのは、東京駅を出発した後でした。空には下弦の月よりやや大きい更待月(ふけまちづき 旧暦の20日の月)が見えました。

午前8時過ぎに静岡市に着きました。富士山が一番よく見えるのは朝8時頃と、以前、地元の人に聞いていました。初めに、羽衣伝説がある三保の松原に向いました。ここで富士山を見た時は感動しました。しばらく、目の前にある太平洋、三保の松原、富士山を眺めていました。松原の中の松も、幹の太い、枝ぶりの良い木が多かったです。
次に、清水港に向いました。刺身マグロとして流通する冷凍マグロの水揚げ量が日本一の清水港は、全国一のマグロの集積地と呼ばれています。そこの市場で豪華な海鮮丼桜えびかき揚げ丼を買いました。我々の世代より上の方々は、清水次郎長と「旅姿三人男」を思い出すのではないでしょうか。
そのあと、日本平(にほんだいら)に上がりました。夢テラスからの富士山の眺めは豪快でした。前回ここに来た時は晴れているにもかかわらず、富士山が全く見えませんでした。観光案内のボランティアの方に「ここに来る7割の人が富士を見ることができずに帰っていくんですよ」と慰められました。日本平のお茶会館で茶畑を見せてもらいました。おいしいお茶もいただきました。静岡名産のお茶を買いました。
最後に駿府城に寄りました。駿府城は徳川家康が晩年大御所として政治を行った所で、彼はここで生涯を終えました。正午頃、駿府城のお濠の土塁に座って(人の邪魔にならない場所)、清水港の店で買った海鮮丼と桜えびかき揚げ丼を食べました。この時も目の前に富士山が見えていました。暖かい良い元日でした。
13時少し前の新幹線こだまで帰途につきました。富士市あたりでは富士山の全貌が見渡せます。東京までの新幹線の中から、少しずつ姿を変える富士山の威容に感銘を受けました。ホテルに帰ると、「春告草」の異名をもつの花が咲いていました。

 
更待月(行きの新幹線の車窓から撮影 7時37分)   朝日を浴びる富士山(富士市あたり 7時53分)


 
三保の松原(静岡市 8時59分)   三保の松原と富士山 (9時3分)


 
日本平から望む富士山と清水港(10時29分)   日本平のお茶畑と富士山(11時1分)


 
富士川と富士山(帰りの新幹線の窓から 13時10分)   白梅(ホテルニューオータニの日本庭園)



 静岡、「どうする家康」、富士山

令和5年11月 

何十年ぶりかに東海道新幹線に乗りました。昔「夢の超特急」と称された 「ひかり」で、東京から静岡に向いました。静岡市は初の訪問でした。ここ10年、上越・北陸・東北新幹線は度々利用しましたが、東海道新幹線に乗ることはなかったです。東海道の景色は、もっぱら上空(飛行機の中)から眺めるだけでした。うれしくて写真のような駅弁を買いました。

静岡市までの乗車時間はちょうど1時間でした。窓からずっと富士山の方を見ていました。静岡に到着する少し前までは富士山がわりときれいに見えていました。今回の旅の一番の目的が富士山見物でした。先に結果を言いますが、静岡市に6時間以上いましたが、その間一度も富士山を見ることはなかったです。天気は良く晴れていました。甲府(山梨)の観光タクシーの運転手や今回の旅で会った日本平(にほんだいら)の観光案内の人が、「富士山は天気が良くても見えないことがよくある。逆に、雨が降っていても見える時もある。不思議な山です。」と話していました。
10月末には富士山はしっかり雪化粧をしていました。ところが、11月に入ると異例の温かさで富士山の雪が解けていきました。私が静岡市を訪れた11月4日は25℃を超える夏日でした。

NHK大河ドラマ「どうする家康」は後半から面白くなってきました。前半が長すぎた。前置きがやたら長い講演のようでした。私が大河ドラマの最高傑作の一つと評価する「葵三代」と比べると、随分レベルが違います。でも、主役の松本潤君(徳川家康 役)は良い演技をしていたと思います。
静岡駅に着いて、初めに駿府城を訪れました。駿府(静岡市)は、家康が幼少期に人質として8年暮らした所ですが、晩年には大御所政治の舞台となりました。家康は愛知県岡崎生まれで、浜松に城を構えていました。駿府は日当たりが良く、富士山が近くで見え、海が近く駿河湾の海の幸も獲れます。ここを人生の終焉の地に選んだのがわかる気がしました。

次に登呂遺跡に行きました。小学校の社会科の教科書には必ず出てくる弥生時代を代表する遺跡です。稲作に向いていた土地だったのでしょう。そのあと、日本平(にほんだいら)に向いました。この地名は日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説に由来します。登呂遺跡の近くで草薙という地名の看板を見ました。三種の神器の一つ草薙剣ゆかりの名だろうと思いました。日本平の夢テラスに上って、富士山の方角をじっと見ていましたが、最後まで姿を現すことはなかったです。「こんなにいい天気なのに」残念でした。
日本平ロープウェイで久能山東照宮に行きました。乗っている時間は5分ほどですが、乗り場には長い行列ができていました。久能山東照宮は徳川家康公を御祭神として祀る神社です。家康公の遺命により遺体は久能山に埋葬されました。日本最古の東照宮建築で、御社殿は国宝に指定されています。
帰りのロープウェイからは、きらきら光る駿河湾、遠くに御前崎、久能山の南斜面にはたくさんのイチゴハウスが見えました。穏やかな晩秋の1日でした。

 
11月4日午前9時 東京駅(新幹線ひかり車内)   三島-静岡間で見えた富士山(新幹線車窓から撮影)


 
徳川家康 像(駿府城本丸跡 静岡市)   駿府城跡 天守台発掘調査


 
登呂遺跡   日本平(久能山)から駿河湾を望む


 
久能山東照宮 楼門   国宝 御社殿



 初夏 2023

令和5年5月 

10人足らずの小児科医で、大洲、八幡浜、西予等の南予地域の小児休日当番医を担当しています。休日・祝日の多い年末年始ゴールデンウィークはだいたいどこかで当番医が当たります。今年のゴールデンウィークで、まとまった休みを取れたのは5月3日(水)からでした。ちなみに、7日(日)の午前中は臨時で診療をしました。
日本の四季の風景は美しい。中でも初夏の風景が好きです。日が長く、暖かく、野や山にいろいろな花が咲き、若葉の色がみずみずしい。自然界の息吹を感じます。今年もそれを求めて、旅に出かけました。
旅の始まりは5月3日夕方、東京駅からでした。北陸新幹線で長野に向いました。当初、8年ぶりの長野旅行だけの計画でした。しかし、この新緑の時期にどうしても見たい景色があって、新潟にも行くことにしました。信濃の旅は『写真集』のページを参照してください。今回は上田、松本、安曇野に行きました。天気が良く、きれいな景色をたくさん見ることができました。

新潟県湯沢町(南魚沼郡)には5月4日19時頃に到着しました。日暮れが遅い時期なので、まだ明るさが残っていました。ホテルで地元の美味しい料理をいただきました。
翌5日朝早めの時間にホテルを出発し、苗場ドラゴンドラ乗り場に向かいました。これに乗ることが今回の旅行の大きな目的でした。5年前の同じ時期にここを訪れており、その時の感動を再び味わうべく、やって来ました。苗場ドラゴンドラはプリンスホテルが運営するゴンドラの愛称で、松任谷由実さんによって名づけられました。全長5481m日本最長のゴンドラです。片道約25分、アップダウンを繰り返しながら進んでいきます。越後山脈の山々、新緑の草や木々、湖沼、残雪、真下に見える小川や沢、これらを空中から眺めることができます。まさに空中散歩です。新緑には濃淡があり、水の色も透明、薄い水色、サファイアブルー、エメラルドグリーンなど様々です。これに空の青、雪の白が加わります。感激します。

ドラゴンドラの乗り場付近に水芭蕉群生地があります。帰りに寄ってみました。朝、苗場プリンスホテルの敷地に入った所で、職員に水芭蕉のことを聞くと、「今年は雪解けが早かったので、咲くのが早くて、もう終った」と短く言われました。多くは期待せずに群生地にいてみましたが、少し残っていました。5年前とは様子が違っていましたが、この上品な花をまた見ることができ、うれしかったです。
そのあと、八海山に向いました。苗場からはまあまあ距離があります。八海山は古くから信仰の山として崇(あが)められている山です。八海山スキー場のロープウェー山麓駅から歩いて数分の所に、カタクリ群生地があります。スキー場の雪が解けると、カタクリが花を咲かせます。ここのカタクリの花もピークは過ぎていましたが、少し残っていました。気候は完全に初夏でしたが、春の花の代表格である水芭蕉やカタクリの花を、ここ南魚沼地方で観察できました。

もともと、今回の旅行は信濃、越後の「遅い春」を味わうための旅行でした。しかし、今年は例年になく春の到来が早く、5月の連休中は完全に初夏の気配でした。初夏の風景は生き生きしています。自然界から元気をもらった気分になりました。

 
A. ホテルから見た越後湯沢の街(5月5日8時半)   B. ドラゴンドラ(上り)からの景色 (9時45分)


 
C. 苗場スキー場(10時10分)   D. ドラゴンドラ(下り)からの景色(10時40分)


 
E. 水芭蕉群生地(11時15分)   F. 水芭蕉


 
G. カタクリの花(八海山ロープウェー山麓駅付近 13時半)   H. 八海山(13時50分)



 都心の桜 (2)

令和5年3月 

3月19日(日)はよく歩きました。神奈川県に住む次男がホテルまで来て、昼から一緒に行動しました。夕方、次男が「今日は1万歩歩いているよ」と話していました。
紀尾井町のホテルニューオータニの日本庭園を散策した後、ホテルの敷地から出て、外堀土手を歩きました。その土手は、春になると桜が満開になる都心の隠れた「絶好の花見スポット」です。この日は、紀尾井町側の桜はまだ2-3分咲きでしたが、上智大学の脇を通って四ツ谷駅に近づくにつれて開花した花の割合が高くなり、6-7分咲きくらいになっていました。四ツ谷駅付近でタクシーに乗り、靖国神社へ行きました。境内にある「桜の標本木」などを見ました。参拝客が大勢いました。靖国神社を出て、皇居に隣接する北の丸公園に向いました。田安門を入ると、日本武道館があります。午前中にどこかの大学の卒業式があった様子でした。北の丸公園を出て、竹橋、さらに内堀通りを進んでもタクシーがひろえず、結局地下鉄を乗り継いでホテルに帰りました。

20日(月)は、タクシー観光でいろいろな所に連れて行ってもらいました。その日もタクシーを降りた場所ではよく歩きました。国立劇場前の駐車場で降りて、写真をたくさん撮りました。次に日本銀行本店に向いました。テレビによく映る有名な建物ですが、人がほとんどいませんでした。そこから日本橋、京橋、八丁堀(ここにも桜並木がありました)、茅場町、兜町(東京証券取引所)を通って、谷中霊園に行きました。ここには著名人(政治家、文豪、文豪、徳川家など)の墓があります。たくさんの鳥がいました。きれいな色の小さい鳥を近くで見ることが出きました。人に慣れているのか、近づいてもすぐには逃げず、木に止まったままさえずっていました。この後、混んでいる細い道路を通って、播磨坂に行きました。坂の上から下まで、桜並木を歩きました。近くに小石川植物園がありました。最後に、本郷の東京大学に向いました。ここは家内の方が詳しいので(長男がこの大学を卒業)、案内してもらいながら広いキャンパス中をゆっくり散歩しました。

あー、本当に桜はいいなあ。心が明るくなる。都心とは言え、人がいっぱいいる所をなるべく避けたので、ゆったりとした気分で見て回れました。17時15分、羽田発の飛行機で愛媛に帰りました。座席がプレミアムクラスだったので、夕食が出て、少しリッチな気分でした。

 
羽田空港・『鬼滅の刃』じぇっと 参(2023年3月18日)   ホテルの朝食・ルームサービス(3月19日)


 
靖国神社(3月19日)   東京大学 安田講堂(3月20日)



 都心の桜 (1)

令和5年3月 

今年(2023年)、東京桜の開花3月14日でした。昨年より6日早く、平年より10日も早く開花しました。ちなみに、満開になったのは3月22日でした。これも平年より9日早かったそうです。
近年、東京の桜の開花は早いです。今年がそうですが、全国で一番早く開花することがあります。ほとんどの年で、愛媛より開花が早いです。3月18日(土)の夕方、大洲の自宅を出発するときには、わが家の桜はまだ咲いていませんでした。
19日と20日の2日間、東京はきれいに晴れていました。その5日前までは天気予報で傘のマークが出ていました。その時は「ホテルで美味しいものを食べて、部屋で休んどこ」と思っていたくらいでした。しかし、幸運なことに天気に恵まれ、春の陽気と青空に引かれて、都心のいろいろな場所の桜を見てきました。

写真A靖国神社の「桜の標本木」です。東京管区気象台が開花を観測するため指定した桜(ソメイヨシノ)です。四分咲きくらいの開花状況でした。
写真B
武道館北の丸公園の桜。靖国神社から少し歩いた所にあります。
写真C
千鳥ヶ淵。ボート遊びをしている人たちが大勢いました。気持ち良さそうでした。
写真D
国立劇場の前庭です。何種類かの桜が咲いていました。ここのソメイヨシノはほぼ満開でした。
写真E日本銀行本店前の桜です。この格式のある建物は、テレビのニュースでよく映ります。平日だったのに、人通りが少なかったです。
写真F
播磨坂の桜並木です。近くに小石川植物園があります。
写真G東京大学本郷キャンパス内の桜です。後ろの建物は法文1号館です。
写真H
:桜のうしろに見える建物は上智大学です。ホテルニューオータニから外堀土手を通って、四谷駅方面に歩いていきました。外堀土手にはたくさんの桜の木があります。

 
A. 靖国神社、桜の標本木(3月19日)   B. 武道館、北の丸公園(3月19日)


 
C. 千鳥ヶ淵(3月19日)   D. 国立劇場(3月20日)


 
E. 日銀本店前(3月20日)   F. 播磨坂(3月20日)


 
G. 東京大学(3月20日)   H. 上智大学(3月19日)



 師走の積雪

令和4年12月 

12月18日(日)の夜から雪が降りはじめ、夜9時過ぎには、医院の駐車場や周囲の道路、畑が真っ白になっていました(写真A)。週明け19日(月)の朝、出勤してきた職員の仕事は雪かきから始まりました(写真B)。これで雪は終わりかと思っていたら、23日(金)の未明から再び雪が降り積もり、朝の診療開始時間になっても雪が降り続いていました(写真C)。写真Dは翌24日(土)クリスマスイブの夕方の風景です。駐車場の看板のサンタクロースとトナカイの絵の下に雪が残っています。これがクリスマス寒波2022でした。

温暖な気候の南国、愛媛と言われていますが、南予の気候は東中予のそれとは異なります。今回のような12月の積雪は珍しいかもしれませんが、冬季、大雪になることは、大洲に来てからでも度々ありました。
大洲に来る前に27年間重信町(東温市)に住んでいましたが、その頃から「南予の天気をなめたらいかん」と思っていました。大学病院に勤務していた頃、非常勤医師として県立北宇和病院、町立吉田病院、市立宇和島病院などに行くことがありました。その頃からしばしばこの雪には泣かされました。家に着いたら、深夜で日付が変わっていたようなことも何度かありました。

一方で、今年12月のこの時期は新型コロナ第8波のさなかで、当院にも連日小児のコロナ患者さんが来ていました。その子や保護者も大変だったでしょうが、寒さの中、駐車場までコロナの検体を取りに行く看護師も大変でした。

 
A. 12月18日(21時半)   B. 12月19日(8時半)


 
C. 12月23日(8時半)   D. 12月24日(17時)



 懐かしい写真(2)

令和4年11月 

前回の続きです。スペインでは首都マドリードの他に、エル・エスコリアルとトレドを訪れました。これら2つの都市はマドリードからそう遠くない所にあります。
エル・エスコリアルでは、歴史のある大学(中世の建物)内で1週間近く、小児内分泌疾患小児糖尿病に関する講演や発表を聴いて勉強しました。そこの宿泊施設で、世界の医師・研究者ら数十人と一緒に寝泊まりしました。毎日、朝昼晩、外国人と同じテーブルで食事をするのが、一番しんどかったです。
エル・エスコリアルからマドリードに戻り、国際糖尿病学会に参加しました。トレドへは観光で行きました。その学会のオプショナル・ツアーだったかもしれません。

下の写真2枚(A、B)は、トレドの旧市街の写真です。これら2枚の写真をつなげると、パノラマ写真のようになります。いつ書いたか覚えていませんが、写真の横に「タホ川南側にある展望台ミラドール・デル・バジェから望むトレド旧市街の景色。街の周囲をタホ川が流れる。」と、メモをしていました。写真Aに写っているとんがった塔の建物はトレド大聖堂で、写真Bの丘の上の建物は古代ローマ時代から要塞として機能したアルカサルです。

 
A. 古都トレドの旧市街。トレド大聖堂が見えます。   B. 丘の上の建物はアルカサル


スペインの首都マドリードからバスで1時間ちょっとのところに、突然中世そのままのような都市が現れました。ここだけが中世から時が進んでないかのようでした。トレドは三方をタホ川に囲まれた小高い丘のある街で、中世の城郭都市です。どこかの旅行会社の案内に書かれてありましたが、この街は「スペインに1日しかいないのなら、迷わずトレドへ」と言われるほど、見どころが集中しています。スペイン観光の目玉ともいわれ、旧市街全体が世界遺産として登録されています。

トレドは1561年に首都がマドリードに移されるまで、首都として君臨してきただけに威風堂々とした佇まいでした。古代ローマ時代に城壁が築かれ、その後イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の攻防がありました。イスラム教様式とキリスト教様式とが融合したこの街独特の文化は、スペイン文化の源流となっています。世界的にも貴重な建築物が数多くみられます。また、トレドは16世紀の画家、エル・グレコが愛し、数多くの作品が残る芸術の町でもあります。悠久の時の流れを感じる街でした。

マドリードからトレドまでの行き帰りのバスの窓から見た景色も素晴らしかった。写真からわかるように、その日は快晴でした。澄んだ青い空はどこまでも高く、乾燥した広大な赤土の大地が続きました。畑一面にひまわりの花が咲いている所がありました。高速道路の近くの原っぱで子どもたちがサッカーをしている風景が度々目に入りました。サッカーが盛んな国なんだなと、漠然と思いました。まだ、スペインリーグなど知らない頃です。
ここが自分にとって海外旅行・国際学会の原点なので、生きているうちに、いや動けるうちにぜひもう一度行きたいと思いました。


 懐かしい写真(1)

令和4年10月 

懐かしい写真を見つけました。何十年ぶりかです。大洲に来る前に住んでいた重信(東温市)の家においたままになっていました。まずはその写真の説明です。

 
マドリードの日本料理店  


スペイン マドリードの日本料理店での写真です。右端の人が、愛媛大学医学部小児科初代教授の松田博先生(当時55歳)です。左端の人が同 助教授(のちの2代目教授) の貴田嘉一先生(当時44歳)で、後ろにいる右から2番目の人が松山成人病センター長の河野恒文先生です。そして、後ろの左でカメラの方を見ずに、料理に気がいってしまっている若造が私です。20代でした。こういう先生らと同じ席に、よく自分がいたもんだと思います。
私以外の3人の先生方は、すでに鬼籍に入られています。当時、私の目からは(失礼ですが)かなりのお年寄りと見えていた方々が、実際は随分とお若い。今の私の年齢よりはるかに若いです。

写真の右下の日付は1985年9月29日になっています。37年前の今頃の季節です。スペインでの国際学会が終わり、ほっとした日だったと思います。この写真が入った同じアルバムの中に、スペインに到着した日の写真もありました。その日付は1985年9月17日でした。4人が同じ飛行機で日本を発ちました。写真を撮った時点で、2週間近くスペインにいたことになります。

このあと、松田教授と河野先生は日本に帰られました。貴田助教授と私は、マドリードから空路、西ドイツ(当時ドイツは西ドイツと東ドイツに分かれていました)フランクフルトに移動し、そこから列車でスイス・フランスとの国境の街フライブルクに向いました。フライブルク大学の助教授と、研究の打ち合わせをしました。その後フランクフルトに戻り、そこから日本に帰りました。長い旅でした。旅の初めから終わりまで、目にするもの耳にするものすべてが新鮮でした。田舎者のペーペー(私)にも、世界はとても広いこと、欧米の医学研究のレベルが極めて高いことが、よくわかりました。

日本の元号はまだ昭和でした。2つの国際学会への参加と研究打ち合わせのためのこの海外出張が、自分にとっての初の海外旅行でもありました。当時、ヨーロッパは遠かったです。成田空港を出発して、給油のため、まずアンカレッジ空港(アラスカ)で降りました。次はアムステルダム空港(オランダ)で給油。スペインに着くのにほぼ1日かかったと記憶しています。現地時間の昼前に着いたので軽く市内観光をしましたが、機内での長時間の旅と慣れない時差のせいで、へとへとになりました。疲れたときは、やはり日本料理です。実は、写真のお店には、スペイン到着当日にも来ていました。 「帝」とか「皇帝」とかいう名前だったと思います。外国にある日本料理店の名前は、こういう名前が多かったです。

時間だけでなくお金もかかりました。でも、旅行中の食事代はほとんど出してもらいました。滞在費・学会参加費などもある程度出してもらったと記憶しています。飛行機代は自費だったと思います。当時私は大学院の4年目で、貯金なんかはしていませんでした。その海外出張の10か月後に結納、1年2か月後に結婚式を挙げましたが、この旅の出費が響いて、婚約指輪を買ったらお金がなくなりました。結婚式の費用は親が出しました。新婚旅行は家内の貯金で行きました。新居は古い借家で、汲み取り式のトイレでした。ウジ殺しをよく撒いていました。家のカーテンがしばらく買えず、前に住んでいた下宿のレースのカーテンだけ掛けていました。家のすぐ裏は伊予鉄 横河原線の線路で、上り下りの電車が15分ごとに通っていました。

この写真をしげしげと見ていたら、こんなことを思いました。あの世でこれらの先生方にお会いしたなら、こう話したい。
・この後18年も大学にいたのに、自慢できるしっかりした業績を残すことができませんでした。
・当時若かったとはいえ、物事がよくわかっていませんでした。自分ができることはちょっとだけだったのに、生意気でした。反省しています。
・私もこの年になるまで、まあまあ苦労をしました。痛い目にも会いました。今頃になって、やっと気づいたことが多々あります
・自分より偉い人、自分の何倍も努力をしている人を何人も見てきました。近くにも尊敬すべき人がいることを知りました。
・先生方が「あんたに言っておきたかった事がまだあった」と言われるなら、私は何時間でも聞きます。
そのあとの雑談の中では、先生方が退官された後、あるいは亡くなられた後に、医局がどうなったとか、少子高齢化で小児科の将来が危ないとか、そんな野暮な話をするつもりはないです。子どもがたくさんいて活気があったあの時代、今より小児科医が随分少なかったけど、小児科医も活気がありました。国立大学と言えども今のようながんじがらめの経理ではなく、ある程度は融通が利いたおおらかな時代でした。「昔は良かった」と、皆で微笑みたいです。


 七夕の風景 今昔

令和4年7月 

七夕の日が晴れる確率は3割だそうです。であれば、今年の七夕の天気は良かった方だと思います。夜は、一時半月がきれいに見えましたが、あとはぼやけているか、雲に隠れていました。織り姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)は観察できませんでした。
7月6日午前0時過ぎ、2013年7月7日のロンドンピカデリーサーカスの写真(C)をこのホームページのトップに載せました。すると、翌7日(七夕)にジョンソン英首相が辞意を表明しました。七夕の日は縁起もあまり良くないのかなと思いながら、過去の写真を探すと、懐かしい写真がいろいろ出てきました。写真は古い順に並べています。

写真Aは浅草のほおずき市の写真です。その2日前の1985年7月7日に入谷(いりや)朝顔市に行ったはずなのですが、写真がありません。まだ私が20代、大学院生の時です。ある研究所の同年輩の若者らと、仕事が終わってから車で出かけました。寄宿舎は昭島市(八王子市と隣接)にあり、浅草までは時間がかかります。日を開けず、2回もその辺りまで行きました。若かったです。
写真Bは写真Aの10年後です。重信町(当時は温泉郡、今の東温市)に住んでいた頃の家庭菜園の写真です。トマトがたくさん成っています。自分の家で作ったトマトは新鮮でおいしかったです。キュウリ、ナスビ、ピーマン、サツマイモ、ニンジン、ネギ、枝豆などいろんな野菜を作りました。中古住宅を買った際、宅地以外に25坪ほどの畑が付いていました。

 
A. ほおずき市(浅草寺 1985年7月9日)   B. トマト(重信町の自宅の庭 1995年7月7日)


写真Cピカデリーサーカスの写真です。家内と長女(イギリス留学中)がロンドン市内の観光をしました。家内がそこに滞在した5日間は、ずっと天気が良かったそうです。 写真Dはイギリスを代表する料理の一つ、フィッシュ・アンド・チップスです。国民食としての長い歴史があります。世界的な物価高騰の中、この料理の値段も上がり、英国の人々が困っていると、先日ニュースで報道されていました。この事とジョンソン首相の不人気と少し関連があったかもしれません.

 
C. ピカデリーサーカス(ロンドン 2013年7月7日)   D. フィッシュ・アンド・チップス(同)


写真EF2017年の七夕の日の院内の記念写真です。今から5年前、開院から8年経っています。写真Eの若いナースは今、2歳の子の母親になっています。写真Fのベテラン ナースにはお孫さんがいます。この日の天気は晴れでした。

 
E. 当院の廊下(2017年7月7日)   F. 当院受付(同)


写真G。4年前の2018年の七夕、大洲は西日本豪雨で深刻な被害を受けました。今も人々の心に大きな傷跡が残っています。写真Gは当院の玄関から市立図書館の方向を撮影したものです。道路も畑も完全に水に浸かっています。その日の正午前、ここに押し寄せてきた濁流の速かったこと、油臭い何とも言えない嫌なにおい、今も覚えています。それと、この豪雨災害当日の地元マスコミの報道は実にお粗末でした。家のまわりを泥水に囲まれて、身動きできなかったので、ずっとNHK、民放のテレビを付けて見ていました。夕方まで全くと言っていいほど、南予の水害は報道されませんでした。彼らは使命を果たしてなかった。
写真H。駐車場の当院の看板です。開院後13年が経ち、色あせてきたので、今年新しくしました。立てたばかりの姿です。見た目に看板がすっきりしました。もうしばらくここで仕事をします。

 
G. 西日本豪雨(当院玄関から見えた景色 2018年7月7日)   H. 新しい看板(2022年7月7日)


七夕の日にスポットを当てて、過去から現在までたどってみました。自分自身、周囲の人々・景色などいろいろ変わるものです。一方で、この約35年、あっという間だったような気もしました。


 今年の桜 

令和4年4月 

「この2週間のために、1年を生きている」ような気がします。少し大げさかもしれませんが、今はそんな風に感じています。そう思う人が、私以外にもおられるのではないでしょうか。
私の誕生日は4月9日です。桜のシーズンが終わると、新しい「年」になります。私が子どもの頃は桜の開花が遅かったです。誕生日が近づくと、桜が咲き始め、誕生日の頃に満開になっていました。桜が誕生日を祝ってくれているかのようでした。この花とともに人生の転機がありました。

今の家の桜は今年、3月19日に2輪花が咲きました。翌20日の昼には8輪咲いていました。21日には花の数はざっと数えて40以上ありました。去年とは異なり、開花後あまり雨が降らず、強風が吹き荒れることもなかったので、2週間あまりゆっくりこの上品で美しい花を楽しむことができました。でも、散り始めると、何とも言えない寂しさがあります。毎年のことですが、年々この花への思いが強くなっています。

 
3月20日   3月24日


 
3月25日   3月28日


 
3月29日   3月30日


 
4月1日   4月3日



 快晴の雪国 

令和4年2月 

「湯沢には冬は来ない方がいいよ。雪がすごいんだから。ほんと、半端じゃないのよ。車で行けない場所が多いし、雪ばっかりで見る所もないしね」元運転手の知人の言葉です。しかし、こう言われると、生まれも育ちも南国伊予の者としては、ちょっと行ってみたくなります。ちなみに、彼の一番のお勧めの季節は4月後半でした。「桜が満開になっても、あたりに雪がまだ残っていてね、とてもきれいよ」 実際に行きました。2018年の4月の終わりでした。感激でした。このホームページの中に何か所か写真を載せています。

下の6枚の写真は、昨年(2021年、令和3年)の2月12日から14日に越後湯沢町とその周辺の市で、撮ったものです。ここは日本の豪雪地帯の一つです。文豪・川端康成の小説『雪国』の舞台となった所です。
本物の雪国見たさの旅行でしたが、滞在した2月12日午後から14日昼過ぎまで3日間快晴が続きました。抜けるような青空でした。雲をほとんど見なかったです。2日間お世話になった観光タクシーの運転手さんは「この時期にこんな天気が続くのは、奇跡に近い」と話しました。私の知人はその期間、別の仕事をしていて会うことができませんでしたが、「本当に良いときに来たね」と家内の携帯にメールが来ました。
この地域の昨シーズンの冬は、事実として、そんなに甘いものではなかったようです。降雪量が観測史上1位を記録していました。ここを訪れる2か月前の2020年12月には、関越道で大規模な車の立ち往生が発生して、大ニュースとなりました。最長52時間、2100台もの車が雪に閉じ込められました。これは、予想外の大雪が降ったこともさることながら、NEXCO東日本新潟支社の対応のまずさも大きな原因でした。
この「事件」の記憶がまだ新しい頃に、まさにその場所に行くことにしたので、出発前は心配していました。怖いもの(豪雪)見たさのような旅行でしたが、そこに行ったきっかけは、度重なる非常事態宣言の発出とその延長で、息子の結婚式が延期(2度目)になったことでした。式は2月11日にとり行われる予定でした。ホテルはキャンセルしてもお金はかかりませんが、飛行機の方はキャンセル料が発生します。「それならどこかへ行くか」というのが、旅の始まりでした。

越後湯沢に来たのは4回目でした。真冬に来るとは考えていませんでした。でも、やっぱり来てよかった。こんな景色は見られないから。実際に見ないとピンとこないです。
それから、2月13日には宮城県と福島県で震度6強の地震がありました。新潟県の湯沢町に居てもけっこう揺れました。上越新幹線は動いていましたが、東北新幹線運休になりました。もし、結婚式をしていたら、東北から結婚式に出席してくれた人たちが、帰れなくなるところでした。

こんなに天気が良いときに、本場の雪国に来られたのだから、緊急事態宣言も結婚式の延期も受け入れないといけない。災い転じて福となす。良かった、良かったと思った次第です。

 
宿泊したホテルの駐車場(越後湯沢町)2月12日   ホテルの近くの民家の除雪風景 2月13日


 
小説「雪国」の冒頭で出てくるトンネル 13日   上杉景勝、直江兼続ゆかりの雲洞庵(南魚沼市)13日


 
車の中から撮影した民家(南魚沼市)13日   宿泊したホテルの客室内の露天風呂 14日



 大晦日 ー源頼朝ー(1)

令和4年1月 

2018年の年末に伊豆に行きました。12月29日は伊豆半島の東岸中部に位置する伊東に宿泊し、30日に熱海に移動しました。熱海では有名な旅館の数寄屋造の離れ(石庭・屋内露天風呂付き、2階建て)に泊まりました。31日(大晦日)の11時前にチェックアウトをし、東京行き特急スーパービュー踊り子に乗る15時半まで時間があったので、タクシー観光をすることにしました。
私はいつも同じことを運転手に言います。「博物館や美術館には行かなくていいから、景色の良い所に連れて行ってほしい」。ただ、車に乗ってから話をしていると、いろいろな話題が出て、しだいに観光の興味が変わり、あげくに行先も変わってしまうことがしばしばあります。

この時もそうでした。初めは、熱海の港や海岸を走ってもらい、景色の良いスポットで写真を撮っていました。私が「昨日泊まった旅館の近くに神社があり、石碑にに『源頼朝公源氏再興祈願成就之神社』と書いてあったんだけど、熱海って頼朝と関係があるのですか」と聞くと、運転手が待ってましたとばかりに「実はそうなんですよ」と答えました。そこから頼朝の話が始まりました。そして、私が「頼朝は蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されたけど、蛭ヶ小島ってどこなんですか」と言うと、運転手が「ここからそう遠くないですよ。行きますか」。蛭ヶ小島は伊豆の離れ小島かと思っていたら、そうではなかったのです。熱海から蛭ヶ小島へは、伊豆半島の付け根を東から西へ(地図なら右から左)に向かう道路を進みました。
そこに着いて、タクシーを降りると、どアップの富士山が目の前にありました。あいにくの雲で上の部分が見えませんでしたが、富士山の雄大な裾野を目の当たりにしました。頼朝は流罪になったといっても、この景色を見ることができたのなら、配流地でも一等地だったのではと思いました。蛭ヶ小島の近くには、世界遺産に登録された韮山反射炉(明治日本の産業革命遺産)がありました。そこにも寄りました。

その後帰途につき、熱海梅園の横を通り、日本三大古泉の一つ「走り湯」に行きました。洞窟の中は熱く、源泉の光景は神秘的でした。走り湯がある海辺から車で山に登って行き、伊豆山神社を参拝しました。「頼朝・政子腰掛け石」という石がありました。説明文には、蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝は伊豆山神社を崇敬した。当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、この神社で二人は結ばれたと書かれていました。歌手・女優の小泉今日子さんが奉納した鳥居もありました。

余談になりますが、この旅行で伊東市を初日の宿泊地に選んだのは、単に星野リゾートに泊まりたかったからでした。今考えると、伊東は伊東祐親(いとうすけちか)ゆかりの地でした。彼は平家に仕え、その威光を盾に伊豆でのし上がった実力者です。平清盛から頼朝の身柄を預かり、監視してきた人物です。頼朝の最初の妻である八重姫は伊東祐親の娘でした。頼朝と八重はこの地(伊東)で逢瀬を重ね、二人は男児に恵まれました。しかし、そのことを知った祐親は激怒しました。狙われた頼朝が命からがら逃げた先が伊豆山神社(熱海)でした。以後、頼朝は北条氏を頼ります。政子を妻に迎え、北条という後ろ盾を得た頼朝は、この伊豆から源氏再興の道を歩み出しました。

この時の伊豆(伊東・熱海)への旅行は頼朝を巡る旅ではありませんでしたが、結果的にはそうなっていました。これが3年後の2021年(令和3年)の大晦日へとつながります。

 
A. 源頼朝公源氏再興祈願成就之神社 (熱海今宮神社)   B. 源頼朝の流刑地:蛭ヶ小島


 
C.源頼朝と北条政子の像 (蛭ヶ島の夫婦)   D.頼朝・政子腰掛け石 (伊豆山神社)



 年末風景 2021

令和3年12月 

今年も、コロナに始まりコロナで終わった1年でした。昨年は大晦日に当番医が当たっていたので、年末はずっと重たい気分でした。職員もそうだったと思います。今年は12月29日の昼過ぎまで診療をして、仕事納めとしました。くじ引き大会をして、お寿司を食べて、大掃除をしました。
「コロナが怖くて、小児科がやってられるか」個人的にはそういう気持ちで仕事をしておりますが、社会的に忘年会や歓送迎会をしにくい状況が続いております。職場には楽しい行事も必要です。来年は少しずつ開いていきたいと考えています。1年、お疲れさまでした。

 
くじ引き大会   当たり(一等、二等、三等賞)


 
盛り上がりました   院内の大掃除


 
 


 
  最後に集合写真



 協議会・講演会  

令和3年11月 

秋になって新型コロナウイルス感染症の患者数が減少し始め、11月には東京で30人を切るなど激減しました。愛媛でも新規感染者数がゼロの日が多くなりました。これによって、長らく開催できなかった学会、講演会なども開くことができるようになりました。

下の写真は、11月24日に喜多医師会病院の多目的ホールで開かれた第40回乳幼児教育協議会の風景です。2年2か月ぶりの開催となりました。喜多医師会の医師(9名)、大洲市立の保育所・こども園・幼稚園の園長(全員、15名)に加え、大洲市保健センター・新型コロナウイルス感染症対策室(5名)、小学校養護教諭(3名)、私立の保育園園長(2名)らが参加されました。一部、Webでの参加の方もいました。
講演は、愛媛大学医学部附属病院感染制御部部長・特任教授の田内久道先生にお願いしました。演題は「新型コロナウイルス感染症 〜愛媛県のこれまでと今後の展望〜」でした。講演後に質疑応答の時間をとりました。貴重かつ有意義な講演会でした。

人の話は対面で聞かないと、細かい事が理解できない場合がしばしばあります。また、関係者が一堂に会すること自体に意味があるように思います。

 
喜多医師会病院 7階 多目的ホール   講師の田内久道先生(愛媛大学医学部附属病院)


 
質疑応答  



 奥能登

令和3年10月 

例によって、この「能登行き」もそんなに前から計画していたものではなく、数週間前に決めたことでした。7月の海の日の連休に愛媛に来る予定だった大事なお客さんが、コロナ禍の影響で来られなくなり、そこの4日間(7/22〜7/25)がすっぽりあいてしまいました。また、こういう長い連休の時によく当たる小児休日当番医も外れていました。
40年前の輪島の朝市で買って食べた甘えびの味が懐かしくて、能登に行くことにしました。コロナ禍の中ですので、混雑する都会への旅行は避けたいという気持ちも影響しました。

のと里山空港に着いた後、観光タクシーに乗りました。運転手さんからもらった能登周遊イラストマップには、「能登の里山里海にはどこか懐かしく、心が温かくなる『日本のこころの原風景』がたくさん残っている」と書かれてありました。その通りでした。
初めに、輪島に向いました。輪島塗会館に立ち寄った後、朝市通りで車を降り、端から端まで歩きました。40年前とは様子が違っていましたが、懐かしかったです。露店でいくつか干物を買いました。家内は地酒を買っていました。その日は天気がよくて、真っ青な夏の空でした。暑い時期でしたが、すがすがしい1日でした。その後の奥能登観光もとても素敵なものでした。

日本の棚田百選に選ばれている輪島市白米町にある白米(しろよね)千枚田。日本海に面して、小さい田んぼが段々になって海岸まで続いていました。絶景でした。揚げ浜式製塩(珠洲市)は能登の伝統文化です。ベルギー人の若い男性が製塩の工程を説明してくれました。
奥能登の天領庄屋が収集した絵画、書、陶磁器などの古美術品を展示した南惣美術館。客は我々だけでしたので、ゆっくり回ることができました。天領庄屋の豊富な財力に驚くとともに、それを保存・維持してきた御子孫の努力に感心しました。そこからそう遠くない所に時国家(ときくにけ)がありました。壇ノ浦の戦いに敗れて奥能登に配流された大納言 平時忠の五男・時国を祖とする名家で、時国家の邸宅は国指定重要文化財になっています。金箔で描かれた平氏の家紋 揚羽蝶(あげはちょう)がその格式の高さを表していました。
そのあと、能登半島の東海岸に出て、魚影を待ち網をたぐるボラ待ちやぐら、能登長寿大仏、能登さくら駅との愛称を持つ能登鹿島駅(穴水町)に立ち寄りました。「ツインブリッジのと」を通って能登島に渡り、能登島大橋で能登半島に戻った所が和倉温泉(七尾市)でした。

和倉温泉の加賀屋に宿泊しました。昨年、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において39回目の総合第1位に選ばれた老舗旅館です。連続36年、日本一に選ばれたという記録もあります。昭和天皇・皇后両陛下、上皇・上皇后両陛下、天皇・皇后両陛下らも宿泊されておられました。一度は泊まってみたいと前々から思っていました。部屋から七尾湾、能登島を一望できました。日の長い時期なので、夕方遅くまで能登の景色を楽しむことができました。夕方7時前に淡い黄色の丸い月が上がっていました。7半頃には明るさを増していました。風情がありました。旧暦6月13日、二十四節気の大暑の日でした。この景色を見ながら、趣向を凝らした海の幸、山の幸の料理をいただきました。とくに能登の海で水揚げされた新鮮な魚介類は最高でした。もう少しゆっくりと滞在したかったです。

翌日、七尾線観光列車の『花嫁のれん』に乗って、和倉温泉から金沢に向いました。


 
輪島の朝市   奥能登揚げ浜塩田


 
七尾湾のぼら待ちやぐら(穴水町)   能登鹿島駅(愛称 能登さくら駅)


 
加賀屋(七尾市和倉温泉)   海の幸山の幸


 
和倉温泉駅   JR観光列車『花嫁のれん』



 12回目の8月8日

令和3年8月 

当院は2009年8月8日に開院しました。今年で干支(えと)が1周したことになります。ほぼ毎年、8月8日は記念写真を撮ったり、講師をお呼びして記念講演をしていただいたりしていました。
ところが、今年の8月8日は日曜日で、医院は休みでした。とは言っても、私と看護師4名は、昼から新型コロナウイルスワクチンの集団接種会場に行って仕事をしました。その前の日曜日(8月1日)が休日当番医でしたので、2週間以上休みがありませんでした。
開院記念日の前日の7日まで、正確に言えば8日の朝までは、晴れの日が続きました。熱中症警戒アラートが出されるような猛暑でした。8日正午過ぎに、接種会場に向かう頃には雲行きが怪しくなっていました。接種会場でのわずかな休憩時間にトイレに行きましたが、建物の外は横殴りの雨が降っていました。家に帰る頃には雨はやんでいましたが、この日以降、長くぐずついた天気が続きました。今年は、夏らしくない夏でした。

夕方、帰宅して、玄関の上を見上げると、大きくなったツバメの子たちが顔を出していました。帰りを待っていてくれたかのようでした。この5匹の子ツバメたちもその週には巣立っていきました。『院長挨拶』の項に書いた5月29日付の記事にも、ツバメの子について触れていました。その時の巣と少し離れた場所に、今回のツバメの子がいる巣が作られました。前のツバメの子が巣立って少し経ってからだったと思います。今、うちの玄関先には2つ巣がありますが、初回の巣の方が大きくて完成度が高いです。今年、2回ツバメの子が誕生して、合計11羽の子ツバメたちが元気に巣立っていきました。時期的には、早すぎるのと遅いのと両極端です。「何か縁起の良い事でもあるのかな」と思いつつ、日々過ごしています。

 
新型コロナウイルスワクチン 集団接種会場にて(8月8日)   今年2回目のツバメの子の誕生(8月8日)


 
職員全員で記念写真(8月10日)   ちなみに12年前は(2009年8月)



 母校

令和3年3月 

ユーミンこと、松任谷由実(発売当時は荒井由実)さんの曲『卒業写真』の中に「話しかけるようにゆれる柳の下を 通った道さえ今はもう 電車から見るだけ」という歌詞があります。この曲がかかると、ジーンと来ます。以前にも触れたことがあったかもしれません。
県立西条高校西条藩陣屋跡に建てられています。大手門が校門になっており、門のわきの堤やお(ほり)に昔の面影が残っています。高校時分、登下校時にお濠の周囲に植えられた柳の下を通っていました。当時は何とも思いませんでしたが、『卒業写真』を聴くたびに、懐かしさがこみ上げてきます。
今年3月27日(土)に私の好きな海産物を買いに、生まれ故郷の東予方面に行きました。そして、少し足を延ばして、西条高校に寄ってみました。着いた時には夕方になっていました。立派な校門と満開に近いが迎えてくれました。もう40年以上経ちますが、雰囲気は昔のままでした。家に帰って、写真の履歴を調べてみると、2012年3月1日、2014年2月16日、2017年4月22日、2018年3月25日にここを訪れていました。卒業・入学シーズンばかりです。その頃になると、自然と気持ちがそこに向うのでしょうか。
校門をくぐって、10メートルばかり進むと、金子元太郎先生の胸像があります。私は、卒業時にこの先生のお名前が付いた賞状(金子賞)をいただきました。名誉なことです。しかし、卒業後40年あまり、毎日のように「しんどい、眠たい」を繰り返しながら頑張ってきましたが、ぱっとした業績はまだないように思います。

日暮れ前に帰途に就きました。途中で眠気が出てきて、車を停めて、短い時間仮眠を取りました。周桑平野からは石鎚山の美しい姿が見えます。燧灘(ひうちなだ)から上がってきた満月が東の空に見えました。幼児期や小中高校に通っている時代に吸った空気の匂いを、体が覚えているように感じました。その頃に見ていた自然の景色は、目に焼き付いています。食べた物の味もよく覚えています。

 
お濠と柳(2021年3月27日)   大手門(校門)と桜


 
金子元太郎先生の胸像の前で   金子賞 賞状


 
周桑平野から見た石鎚山   東の空に現れた満月



 師走の夜空

令和2年12月 

今年の歳時記は、1月の『1等星 カノープス』で始まりました。早いもので、もう師走になりました。今年最後は、やはり星に関する話でこの歳時記を締めくくりたいと思います。
12月は日暮れが早いです。仕事が終わって外に出ると、すでに真っ暗。空を見上げると、星が輝いています。冬の夜空は空気が澄んで、星の観察には最高です。今の時期は、時間とともにいろいろな有名な星座が現れます。それに加え、今年は木星と土星の超大接近という一大イベントがありました。
12月の初めは、夜の7時くらいまでなら、まだ「夏の大三角」を見ることができます。わし座のアルタイル彦星)、こと座のベガ織姫星)、白鳥座のデネブが作るトンガリ帽子のような3角形が、北西方向の低い空に横たわっています。アルタイルとベガの間を天の川が流れています。白鳥座は、白鳥が東に向かって飛んでいるような形をしています。この星座は少し高い所にあるので、もうちょっと遅い時間まで見ることができます。
秋の四辺形」は頭の真上に見えます。今は火星が近くにあり、それ以外、まわりに明るい星がないので、四辺形を見つけやすいです
オリオン座は東の低い空からゆっくり上がってきます。夜7時台だとわかりにくいです。日付が変わる頃は、南の空のいい位置にあります。左上のベテルギウスと右下のリゲルが1等星で、中央に3つ並んだ星があるので、最も探しやすい星座です。オリオン座のベテルギウスは赤い星ですが、その星の上にあるおうし座のアルテバランは橙色の星です。今の時期は、火星、ベテルギウス、アルテバランの3つの赤い星が近い位置に見えます。
オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンで構成される「冬の大三角」。とても有名です。シリウスは惑星を除くと、全天で最も明るい星です。青白く輝きます。
北東方向の空にはぎょしゃ座のカペラが明るく見えます。その近くにふたご座があります。今年、ふたご座流星群が12月14日に極大になりました。私は、東の空を右から左に流れる流れ星を見ました。家内を呼びに行って、トイレに行っている間に、家内が1回流れ星を見ました。寒かったので、すぐ家に入りました。その時間帯は、次々に星が流れる感じではありませんでした。

夏以降、夜空で目立っていたのは、赤い星の火星でした。10月6日の最接近時の火星と地球の距離は、前回の2018年7月31日(西日本豪雨の水害の後)の距離ほど近くはないものの、火星の明るさはマイナス2.6等となっていました。それから日が経ち、ピークは過ぎましたが、まだまだ明るいです。ただ、12月の一番星は木星になっています。

今月になって、夕方から宵に南西の空の低い位置で大接近した木星土星を見ることができました。超大接近でした。21日が最も近づいた日でした。木星と土星がこれほど接近するのは、実に397年ぶりだそうです。397年前は西暦1623年です。この年は徳川家光が江戸幕府の第3代将軍に就いた年です。今回と全く同じくらいの接近は約800年ぶりだと言っている人もいます。もしそうなら、鎌倉時代の源氏の将軍が途絶えたのが1219年なのでその頃です。
私はその大接近を23日(水)の夕暮れに見ました。散歩から帰ってきた時は、まだ空が明るく、初めは星が見えませんでした。初めに現れたのは木星でした。そのあと、土星が徐々に見えてきました。土星は木星の右斜め下にありました。初めは重なっているように見えました。2つの星がはっきり見えてくると、ほんのわずか間隔が開いていました。17日にはこの2つの惑星と三日月が集合した現象を見ました。
木星と土星は公転周期の違いで20年ごとに近づきます。次回の接近は2040年10月31日です。でも、今回と同程度に近づくのは2080年3月15日だそうです。もう生きてない。とても貴重な現象を観察することができました。良かったです。
冬の夜空はいいです。寒くなかったら、ずっと外で星を見ていたい。


 2020年8月以降の夜空

令和2年12月 

今年は新型コロナウイルスのせいで暇だったからでしょうか。トップページに月や星に関する記述が多かったように思います。8月以降のトップ・ページの夜空に関する記述を拾ってみました。

8月2日(日)
・今日は暑くて夕方まで外には出ませんでした。薄暗くなって医院に向かう時に、神南山の右に大きいが見えました。冬と夏では月の出る位置が違います。今、月の近くで木星が輝いています。

8月14日(金)
・今夜は北斗七星北極星がきれいに見えています。北斗七星は柄杓
(ひしゃく)の形をしています。今の時間は、柄杓の椀が下で柄が上になって、垂直に立っているように見えます。

8月23日(日)
・今日は夕焼けの空に三日月
が見えました。夜が更けて、今は虫の音が響き渡っています。

8月31日(月)
・今日は雑節の一つ「二百十日」です。実際に台風が近づいています。夕方は満月に近い月が出ていました。

10月2日(金)
・昨夜は十五夜中秋の名月)、今宵は満月。二晩続けて美しく輝く月を見ることができました。
・今火星が地球に最接近しています。満月の左下で赤く輝いています。10月6日に6200万kmまで近づきます。次にこの距離より近づくのは2035年9月11日だそうです。しっかり見ておきます。

10月20日(火)
・少しずつ冬の夜空になっています。オリオン座カシオペア座などが見えます。
・今月は火星が明るく輝いています。2018年7月西日本豪雨による水害の後もそうでした。思い出します。地球と火星は2年2か月ごとに最接近します。

10月24日(土)
・今宵はちょうど半分の月が頭上で光っています。夜になると、気温が下がります。

11月1日(日)
・今日は午後から天気が崩れましたが、ここ数日は良い天気でした。夜はきれいな月を見ることができました。木曜日が十三夜で、昨夜は満月でした。

11月8日(日)
・早いものです。昨日が立冬でした。今日は昼前から快晴になりました。夜空もきれいです。南東の空に火星が、南西の空に木星土星がはっきり見えます。惑星共演です。

12月23日(水)
木星土星が「超大接近」しています。これほどの接近は西暦1623年7月以来で、397年ぶりだそうです。散歩から戻ってきて20分くらい、医院の駐車場で空を見上げていました。
・明るさの残る宵の空に見えていたのは、頭の真上に半月火星、南西の空の木星だけでした。土星はもう少し暗くなって見え始めました。確かに、大接近していました。

十五夜(10月1日)


*次回は師走の星、星座について、もう少し詳しくお話します。


 新潟から日光へ ーその2ー 

令和2年9月 

日光東照宮は、江戸幕府を開いた徳川家康を「東照大権現」として祀っています。江戸のほぼ真北に位置しており、家康は、動くことのない北極星の位置から徳川幕府の安泰と、日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられています。また、日光は古来霊山としての信仰の場所でもありました。

日光へは過去1回か2回来たことがありました。東京から電車(たぶん東武線)でやって来たと思うのですが、何せ30年以上前のことなので、はっきりしません。東照宮の参道まで来ると、懐かしさと再訪できた喜びで感無量でした。まわりに人がたくさんいましたが、一緒に行った知人は「これはまだ少ない方だ」と話しました。

東照宮の参道の石鳥居は日本最大の鳥居です。九州福岡藩の藩主黒田長政が奉納しました。石材は九州から舟で栃木県の小山まで運ばれ、そこからは陸路を人力で運ばれました。石鳥居をくぐると、左手の方に五重塔があります。東照宮の最初の門が表門です。左右に仁王像が安置されており、仁王門とも呼ばれます。表門をくぐるとすぐに
三神庫(さんじんこ)があります。この建物の屋根の下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の彫刻があります。左に進むと、神厩舎(しんきゅうしゃ)があります。ここは神馬をつなぐ厩(うまや)です。昔から猿が馬を守るという言い伝えがあり、猿の彫刻が計8面あります。中でも「見ざる言わざる聞かざる」の三猿(さんざる)の彫刻は有名です。「悪いことは見ず、言わず、聞かないほうがよい」という人生の教訓を表現しています。

その辺りから石段の上の陽明門(国宝)が見えてきます。日本で最も美しい門と言われています。いつまでも見ていても飽きない門という意味で「日暮の門」とも呼ばれます。故事逸話、子どもの遊び、聖人賢人などの 508体の彫刻でおおわれています。このきらびやかな陽明門をじっくり見ていたら、前に進めなくなります。
陽明門から左右に延びる回廊(国宝)があり、その壁には国内最大級の花や鳥の彫刻があります。どれもが一枚板の透かし彫りで作製されており、極彩色が施されています。東回廊には、左甚五郎作と伝えられる眠り猫(国宝)の彫刻があります。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたた寝をしているように見える猫です。その猫の彫刻の裏側には、竹林に遊ぶ雀の彫刻があります。猫が寝ているから、雀が楽しく暮らすことができる平和な時代。つまり、徳川政権下での太平の世を表していると言われています。一方で、この「猫」は、実は眠ってないという説があります。両耳を立て、前足を踏ん張っているようにも見えます。家康の墓所への参道を守る猫ですので、寝ていると見せかけ、いつでも攻撃できる体勢をとっているとの見方もあるようです。
陽明門をくぐると御本社です。その入り口に建つのが唐門(からもん)(国宝)です。大名など高い位の人だけが通ることができた重要な門です。全体が胡粉
(ごふん)で白く塗られています。611体もの彫刻が施されて、その数は陽明門を越えています。舜帝(しゅんてい)朝見の儀」や「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」など細かい彫刻が施されています。

時間の都合で、日光東照宮を少し足早に観光しました。でも、予期せぬ展開でここまで来れて、感激しました。それにしても、昔の人の力、匠の技というものはすごい。東照宮の造営にかかわった職人の意気込みが伝わってきます。こういう歴史的建築物は、現代のように「働き方改革」なんて言ってたら造れないでしょう。
これから先、行ったことのない所へ行くか、過去に行って良かった所をもう一度訪れるか。どちらもしてみたいのですが、残り人生が・・。

 
日光東照宮参道、石鳥居   「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿


 
陽明門(国宝)   陽明門の彫刻


 
眠り猫(国宝)   唐門(国宝)



 新潟から日光へ ーその1ー 

令和2年9月 

日光を見ずして結構と言うなかれ」 9月の連休に旅行に行きました。19日(土)仕事が終わってから東京に向かい、一泊して、20日の朝、新潟行きの上越新幹線に乗りました。この時点で、今回の旅行で日光(栃木県)に行くことになるとは全く予想していませんでした。越後湯沢で新幹線を降り、知人の運転する車で上越市の春日山城上杉謙信の居城)に向かいました。けっこう距離がありました。その帰りの車の中で、私が、群馬県の沼田河岸段丘の話をしたら、元タクシードライバーの知人が「よし明日行こう」と話し、そして「せっかくだから日光まで行っちゃおう」ということになりました。

越後湯沢から関越自動車道に入り、日本一長い関越トンネル(約11km)を通り抜け、群馬県に出ました。あちらこちらに広がるこんにゃく畑と、実が色づき始めたりんご園を見ながら、国道120号線を栃木県の日光に向かって車は走りました。南の方向には赤城山が見えていました。河岸段丘もわかりました。片品村の菅沼キャンプ村近くの食堂売店で1回目の休憩を取りました。湖沼としての菅沼は透明度では本州一だそうです。この辺りの標高はすでに1700mを越えています。日本の軽自動車は坂道でもよく走ります。車は群馬と栃木の県境の金精峠を進みました。金精トンネルは標高1843mで、国内のトンネルでは最も高い所にあります。余談ですが、「金精」の由来は面白いです。奈良時代の僧侶 道鏡と関係があります。何かと逸話の多い人物です。

金精トンネルを抜けると、栃木県側に出ます。標高が高いので、湯ノ湖、男体山、戦場ヶ原など奥日光が一望できました。日光国立公園戦場ヶ原で昼休憩を取りました。ここはラムサール条約に登録された湿原です。標高1394mと書かれていました。男体山がすぐ近くに見えました。短い時間でしたが、あたりを散策しました。そこを発ってしばらく行くと、進行方向の右手に中禅寺湖が見えてきました。中禅寺湖の端に華厳の滝があります。人気のスポットで、車が渋滞して見に行くことができませんでした。いろは坂を一気に下って、東照宮に向かいました。紅葉にはまだ早い季節でした。今回は奥日光から入ったので、日光の雄大な自然を満喫することができました。

 
あたり一面、こんにゃく畑(群馬県沼田市)   りんご園(沼田市)


 
ヤマメの炭火塩焼き(群馬県片品村)   金精トンネルを抜けて奥日光へ。戦場ヶ原と男体山が見える。


 
戦場ヶ原と男体山(標高 1394m)   中禅寺湖と男体山



 29年ぶりの山形・山寺

令和2年7月 

    (しずか)さや 岩にしみ入(いる) 蝉の声  『おくのほそ道』芭蕉

俳聖 松尾芭蕉が弟子の曾良と立石寺山寺)を訪れたのは、元禄二年五月二十七日(1689年7月13日)でした。静寂の中に蝉の声だけが響き渡る山寺に感動し、この句を残しました。

この7月に東北の山形に行きました。29年ぶりでした。山形のあるお家とご縁ができましたので、海の日の連休中に挨拶のため訪問しました。当初、6月に伺う予定でしたが、飛行機が取れませんでした。というより、航空便の予約・決済を完了させていても、1週間経つと航空会社が欠航のメールを送ってきました。これが三度続きました。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で国内航空会社も大変なのはわかりますが、こんなことをしていたのでは会社の信用を失うのではと思いました。

29年前の山形訪問は学会に出席するためでした。学会開催中の2日目か3日目の午後、山形駅から各駅停車の列車に乗って、一人で山寺に行きました。それが唯一の観光でした。立石寺はふつうに山寺と呼ばれています。芭蕉が名句「閑(しずか)さや」を詠んだ名刹であることは、当時から知っておりました。ただ、なぜそこに行ったのかが思い出せません。1991年5月22日のことでした。
この時は学会の演者(発表者)だったので、背広にネクタイ、革靴の格好だったと思います。JR山寺駅で降りて、川を渡り、多くの仏さんを見ながら山を登っていきました。若かったので、最後まで登り切りました。五大堂からの展望は素晴らしいものでした。日本の原風景を見た感じでした。もう随分前のことですが、記憶に残っています。

時は流れ、今回の山形訪問でも山寺を訪れました。山形出身の山寺に詳しい方が連れて行ってくれました。7月25日でした。どんよりと曇っていましたが、傘は使わずに済みました。初めに山寺の本堂である根本中堂に参拝しました。根本中堂という文字を見て、ここが天台宗のお寺であることがわかりました。6年前の8月16日に比叡山延暦寺に行った際、根本中堂にお参りをしました。
山寺では根本中堂の中に入れてもらえました。御本尊は薬師如来で、50年に一度だけ御開帳され、そのお姿を拝めるそうです。お寺の人としばらく話ができました。堂内には比叡山延暦寺より移された法灯が1100余年間燃え続けていること。織田信長の延暦寺焼き討ちのあとの再建時には、ここから逆に京都まで1か月かけて分燈したこと。柱にはブナが使われており、ブナ材の建築物としては日本最古であること。東日本大震災の地震により柱などが痛んだこと。四国には天台宗のお寺は10か所くらいしかない(弘法大師が讃岐の生まれ)ことなどをお聞きしました。
根本中堂を出て、少しばかり歩きました。芭蕉と曾良の、「閑さや」の句碑を見ました。懐かしかったです。30年という年月は人間の体力を落とします。残念ながら山には登りませんでした。
そのあと、山寺芭蕉記念館、JR山寺駅に行きました。そこからは巌の上に建つ五大堂開山堂納経堂がよく見えました。何とかあそこまで行けるようにならないものかと、つくづく思いました。

 
山形県の県花:紅花(山寺の駐車場近く)   山寺立石寺の本堂(根本中堂)


 
根本中堂   俳聖 芭蕉像


 
芭蕉句碑   五大堂、開山堂、納経堂



 伊予灘の夕日

令和2年5月 

5月下旬、市内長浜地区にある2つの保育所の内科検診を終えて、松山近郊の眼科医院に向かいました。長浜からですので、行きも帰りも海岸線沿いの道路を通りました。すぐ横に伊予灘が見えていました。色合いが異なりますが、天気が良かったので空も海もきれいな青色でした。松山方面に行くときには、今はほとんど高速道路を利用します。この道を通って中予方面に行くのは久しぶりでした。あとで思い出しましたが、この道路は「夕やけこやけライン」と呼ばれています。

家に帰る途中、景色が良かったので「道の駅 ふたみ」で休憩をとりました。海辺のコンクリートの階段に座って、しばらく夕日と海を眺めていました。夕方6時20分でも、太陽の位置は海面から10度くらい上方にありました。西の空に水平なうすい雲が何層かあるため、太陽が時々雲に隠れ、その間は丸い太陽の形が見えます。雲から出てくると、まぶしい夕焼け空になりました。
ふと思いました。今は皆既日食ではないので肉眼では見れないけど、あの太陽の周りにはコロナがあるんだよな。昔小学生の頃、日食の観察をしました。学校の中庭で同級生らとガヤガヤと、文房具の下敷き越しに太陽を見た記憶があります。
元々コロナとは、太陽の大気の最も外側にあるガス層のことです。それがあの迷惑なウイルスのせいで、単語のイメージが非常に悪くなってしまいました。コロナウイルスというウイルスの種類は以前からよく知られていました。その名称は、電子顕微鏡で見たウイルスの外観が太陽コロナに似ていることに由来します。大方はごくふつうのカゼのウイルスでした。しかし、2003年に流行した重症急性呼吸器症候群のSARSコロナウイルス、2015年に韓国、中国で広がった中東呼吸器症候群のMERSコロナウイルスが特定され、このウイルスの評価が随分変わりました。

突然話が大きく変わりますが、私の世代ならコロナといえば、トヨタ・コロナマークUをイメージする人が多いと思います。人気の車種でした。ちなみに、吉田拓郎のデビューシングルは「イメージの詩」ですが、B面は「マークU」という曲でした。この曲のタイトルは、もちろんコロナマークUからきてます。私は東温市(当時は温泉郡重信町)に住んでいた頃は、マークUの姉妹車のクレスタに乗っていました。この15年くらいはホンダの車に乗っています。やっぱり車はトヨタかな。日産には気の毒だけど、ゴーン元社長は会社内で新型コロナウイルスみたいなものに変異してしまったのかもしれない。
というようなことを考えながら、海岸線を西方向に帰っていきました。太陽に向かって走っているようで、とても眩しかったです。なるほど、夕やけこやけラインでした。コロナマークUに乗ってみたくなりました。

「夕やけこやけライン」から見た夕日



 一等星 カノープス(Canopus)

令和2年1月 

竜骨(りゅうこつ)座α星、カノープス。全天に21ある1等星の一つで、太陽を除くとシリウスに次いで2番目明るい恒星です。グァムに行くまで、この星のことは知りませんでした。カノープスは日本では南の空の低い位置にしか現れず、地平線上にある時間も短いことから、見ることが難しい星です。星は東から昇り、徐々に高度を上げて真南に来ると、夜空の一番高い位置になります(南中)。カノープスの南中高度は、東京で約2度、京都で約3度、高知県の足摺岬で約4度、鹿児島市で約6度、那覇市で約11度です。南の地域ほど高く上がり、観測できるチャンスも高くなります。それでも、南の方角に山や建物があると、カノープスはそれに隠れてしまいます。南方に地平線か水平線が見渡せる所でないと観察できない星です。愛媛では見ることは難しいです。
カノープスは本来は白い恒星ですが、日本や中国では南中時でも地平線に近いため、赤みを帯びて見えます。古代中国の政治文化の中心であった黄河流域(長安など)では、カノープスは南の地平線すれすれに現れる奇妙な赤い星として知られていました。見つけにくく、かつ縁起の良い赤い色に見えることから、中国では「南極老人星」や「寿星」と呼ばれてきました。この星を見ると、長生きできると伝えられています。ちなみに、南極老人は日本の七福神の福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)の元になった神様で、長寿をつかさどるとされています。

2020年1月1日夜10時過ぎ、グァム島の海辺にいました。ガイド兼運転手で日本語が上手なアメリカ人のおじさん(私よりは若い)と、日本人観光客6人がいっしょでした。 このガイドのジムさんは、前日(大晦日、2019年12月31日)にタクシー観光をした時の運転手でした。半日一緒にいたので、すっかり友だちになっていました。この「スター・ウォッチングツアー」がスタートして、すでに3時間経っていました。その日(元日)の夜は、あいにく雲が多く、なかなか星を見ることができませんでした。ジムさんがスマホでグァムの雲の様子を見ながら、星が観察できそうな場所を探して、車で移動していました。
その海辺は、大きいホテルが建ち並ぶタモン湾の街明かりから離れた所で、辺りに民家はなく真っ暗でした。昼間は30℃くらいになるこの島も、夜は肌寒く感じました。私は日本を発つ時と同じ服装でした。車から降りると、波の音が聞こえてきました。懐中電灯の光を頼りに、みんなで波打ち際まで進みました。星が見えるまでの時間つぶしに、ジムさんから海の生き物の説明を受けながら、海岸の貝殻を拾っていました。カニやヤドカリ、クラゲなどがいました。

「ジムさん、星が見えてきましたよ。ほら、あそこ。あれはシリウスじゃないですか」と私が話しかけました。他のツアー客と貝探しに熱中していたジムさんが、ちらっと上を見て「うん、あれね」と言いましたが、この空ではまだダメという感じでした。しばらくして、にわかに夜空が開きました。星がまたたく、きれいな夜空になりました。すかさず、ジムさんが「これがオリオン座、この六角形が『冬のダイアモンド』、この三角形が『冬の大三角形』・・」と説明を始めました。日本ではオリオン座は鼓が立った形をしていますが、グァムでは横になっていました。何より不思議だったのは、さっきシリウスと思ったとても明るい星がシリウスではありませんでした。シリウスは冬のダイアモンドにも冬の大三角にも含まれる星ですが、その明るく輝く星はそれらの星座より下の離れた位置にありました。「あれはシリウスではないのですね」とジムさんに聞くと、彼は「そう、あれはカナパス」。家内に「カナパスって何だ」と言うと、それを聞いたジムさんが「日本から来た星に詳しい人が言ってたけど、日本ではなかなか見れない星みたいです」と話しました。
ホテルの部屋に帰ってから、家内のスマホで「カナパス」を調べましたた。タクシー観光の時、ジムさんは「オリオン座のベテルギウスなど日本語のカタカナの発音が難しい」と語っていたのを思い出しました。多分、英語の発音をしているだろうからスペルはこんなものだろうと思い、入力してみるとCanopus(カノープス)が出てきました。

元日の夜に星空観測。日本にいたら、まずしないことです。晴れ渡った夜空ではなかったですが、ときどき星々が雲間から姿を見せてくれました。緯度の違いによって、日本とは異なる星空を楽しむことができました。そして、愛媛では見ることができない縁起の良いカノープスを見ました。この星を見た者はは長寿になるという伝説があります。北緯13度の南の島に来て見た1等星カノープスではありましたが、正月から良いことがあったと思いました。
日本でも、冬の夜空は明るい星が多く、形がわかりやすい星座が多いです。暖かい服装で冬の星座を見てみませんか。グァムの海岸にいる時、深夜のラジオ番組「ジェットストリーム」の城達也さんの名ナレーションの一節を思い出しました。『満点の星をいただく果てしない光の海を、豊かに流れゆく風に、心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂(しじま)の、なんと饒舌(じょうぜつ)なことでしょうか』 思い出に残る正月でした。

 
2019年大晦日の夜。グァム デュシタニホテルの部屋。
客室係の人たちが持ってきてくれました。
  2020年元日の夜、グァムの海岸で集めた貝殻



 北海道(トマム、十勝)ーその2ー

令和元年9月 

国道38号の狩勝峠をどんどん下って行きました。狩勝峠から新得町までのこの国道沿いはそば畑が続くため、そばロードと呼ばれています。途中、休憩のため寄った所が羊の牧場でした。羊がいっぱいいて、せわしそうに草を食(は)んでいました。ここでちょっとしたトラブルがありました。出発しようとしても、車のエンジンがかからない。困って、近くの何か所かのレンタカー会社の営業所に電話をしましたが、どこも出ない。電話は他の営業所に転送されるが、そこも出ない。羊牧場に3人の若い男性がいたので、声をかけました。うち一人が来てくれて、さっとエンジンをかけました。「この車はブレーキを踏んでおかないと、エンジンがかからないんですよ」と。こういうことは、乗る前に説明してほしかった。
新得町といえば、日本映画の名作『幸せの黄色いハンカチ』の中の一場面を思い出します。監督は山田洋次さん、主な出演者は高倉健、武田鉄矢、桃井かおりさんでした。偶然出会ったその3人が網走から夕張まで車で行きます。途中、様々な人間模様が描かれます。この映画の中で健さんと寅さんの共演がありました。渥美清さんは警察官の役でした。2人は過去に会っており、再開のシーンでした。名優同士の味のある演技でした。その場面がここ新得町でした。映画の中の話はそこから佳境に入っていきます。
国道38号から離れて、十勝地方の鹿追町に入りました。そこの「道の駅」で連続テレビ小説『なつぞら』の大きいポスターを目にしました。それを見て、このドラマが北海道十勝が舞台だったことを初めて知りました。店員さんに聞くと「テレビのロケは隣町の新得町でしたんですよ」と少し残念そうでした。それでも、出演者の誰かが近々その町に来ると、うれしそうに話してくれました。

十勝地方は北海道を代表する畑作地帯で、日本の主要な食糧基地でもあります。 車で走っていると、広大な農村風景のパノラマが広がります。北海道の道は広くてまっすぐで走りやすいので、そこからさらに然別湖(しかりべつこ)まで足を伸ばしてみることにしました。
鹿追町の北部にある然別湖は標高810mに位置し、北海道では最も高い場所にある湖です。天空の湖と呼ばれています。途中、白樺林が続きました。急に霧が出てきて、運転が怖くなり引き返そうとしました。しかし、横に乗っている家内が行こうと言うので、勇気を出して進みました。然別湖周辺はとても寒く感じました。冬は湖が全面氷結して、氷の世界になるようです。これまでに、北海道の湖にはけっこう行きました。サロマ湖、能取湖、網走湖、屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖、オンネトウ、支笏湖、洞爺湖、大沼などなど。サロマ湖、オンネトウはここと同じように8月でも寒かったです。摩周湖は2回とも霧で湖面が見えませんでした。
北海道には、北海道ならではの豊かな自然が残されています。大雪山系、日高山脈をはじめとする雄大な山々と緑なす広大な大地。湖面のきらめき。のどかな丘陵地、放牧。心が癒やされます。
今回の十勝エリアの旅は、当初全く予定していなかったコースでした。旅は分刻みで計画なんかするものではない。風の向くまま、気の向くままが一番いい。これが持論です。

おわりに。9月の末の土曜日、午前の診療がいつもより長引きました。終わって休憩室のテレビを付けると、朝ドラの再放送をしていました。番組が始まって少し経ったところでした。それが『なつぞら』の最終回でした。このドラマを初めて見たのが最終回でした。画面に十勝の風景が写っていました。短い時間でしたが興味深く見ました。それと、草刈正雄さんはいい俳優になったなと思いました。大河ドラマ『真田丸』に出演しているときもそう思いました。年を取ってどんどん良くなる。見習わないといけません。

 
国道38号 狩勝峠   羊牧場(新得町)


 
鹿追町   長くまっすぐ延びる道路


 
然別湖   北海道の海の幸



 北海道(トマム、十勝)ーその1ー

令和元年9月 

NHKの連続テレビ小説『なつぞら』が終わりに近づいています。「朝ドラ」の愛称で親しまれてきたこのテレビドラマは、現在放送中の『なつぞら』でちょうど第100作目になるそうです。ちなみに、大洲市ゆかりの『おはなはん』は第6作目(昭和41年)です。『なつぞら』は、北海道・十勝で広大な大自然と開拓者精神あふれる強く優しい大人たちに囲まれて、たくましく育っていく子の人生を描いています。私は朝ドラを見ていません。実は、これらのことについては、現地北海道十勝(とかち)に行って初めて知りました。
昨年の「海の日」の連休に北海道の富良野・美瑛に旅行に行くことになっていました。ところが、その1週間前にあの西日本豪雨災害(2018年7月7日)が起こり、旅行どころではなくなりました。旅行会社の人がやっとのことで飛行機やホテルの予約を取ってくれたのに(最も混む時期)、とても残念でした。今年8月の「山の日」の連休に北海道に行きました。

今回訪れたのはトマム・十勝地方でした。トマムは宿泊するホテルがある所で、新千歳空港から特急列車で行きました。十勝は今回の旅行の目的地にしていた場所ではありませんでした。レンタカーのナビをうまく使えず、「えーい、もうこっちでええわい」と言って向かったのが十勝地方でした。
トマムには過去3回行ったことがありました。20年以上前です。子どもが小さかった頃のことです。3回ともトマム内の異なる建物(ホテルアルファトマム、ザ・タワー、ガレリア)に泊まりました。現在は 星野リゾートトマムになっています。今回はザ・タワーに宿泊しました。以前とはいろいろ変わっていましたが、一番驚いたのは、中国人が多いことでした。チェックインのとき、人でごった返していましたが、周り全員が中国人かと思うほど中国人が多かった。従業員も中国人が多かったです。彼らは日本語を上手に話すのと、よく教育されていて対応が丁寧なので、すぐには中国人とはわかりません。
到着して少し休憩をとったあと、辺りを散策しました。白樺の林、葉っぱの大きいクマザサとフキなど、北海道に来たことを実感させる景色がありました。施設内のレストランに行くとき、白いあじさいをよく見ました。夜には花火が上がりました。
私の旅行では珍しいことですが、レンタカーを借りました。広い北海道では車がないと、観光ができません。レンタカー会社の事務所での会話です。「どちらに行かれますか」(さあ、決めてないんですが) 職員の人がけげんな顔をするので(富良野、美瑛まではどのくらいかかりますか)と聞くと、「1時間半くらいです。地図を渡します」 このような会話のあと出発したのですが、運転しはじめてそれほど経たないうちに場所、方角がわからなくなりました。そして、全く考えてなかった十勝方面に向かって、車を走らせていきました。続きは次回。

 
北海道には、北海道とすぐわかる特有の景色があります   ザ・タワー(星野リゾート トマム)


 
トマムの遊歩道。白樺の木やクマザサ。  


 
白いあじさい   ホテルの部屋から見えた景色



 アニバーサリー

令和元年8月 

この稿を書こうとして、 今思い出したことがあります。「Anniversary」というKinKi Kids(キンキキッズ)の歌がありました。彼らのファンではありませんが、いい曲だったと思います。サビの部分が良かったです。作曲が織田哲郎さんで、この人らしいきれいなメロディーでした。
まだ重信町に住んでいる頃、土曜日の夜11時台に『LOVE LOVE あいしてる』というテレビ番組がありました。家族が見ていたので、自分も時々見ていました。キンキキッズ、吉田拓郎さん、坂崎幸之助さんらが出演し、歌とトークコーナーがありました。われらが吉田拓郎が何でこんな番組に出ているんだろうと、初めは思いました。しかし、出演者たちが良い持ち味を出し、拓郎さんも乗っていました。たぶん彼がいたからでしょう、一流ミュージシャン(LOVE LOVE オール・スターズ)が揃い、生演奏をしました。歌や演奏がピシッと締まっていました。大物ゲストも来ました。あれから約20年です。

いきなり話が逸れました。今年の8月8日で当院は開院からちょうど10年になりました。10年前の8月8日は土曜日でした。昼間の何時間か、雨が降りました。新型インフルエンザの流行が始まったところでした。母校の西条高校が夏の甲子園の初戦で勝利しました。今年の8月8日は木曜日でした。その夜、月のすぐ近くで木星が輝いていました。昼間は一日中晴れていましたが、恐怖を感じるような暑さでした。この日ちょっとしたニュースがありました。将来の総理候補と言われる小泉進次郎議員(38歳)と、「お・も・て・な・し」の女性フリーアナウンサー(41歳)とが結婚を電撃発表しました。彼女はすでに妊娠中とのことでした。おもてなしに陥落した。失礼。

8年前(2011年)の8月の『歳時記』に、私は次のようなことを書いていました。タイトルは「1969年8月8日の写真」で、ビートルズのレコードアルバム『アビーロード』のジャケット写真についてです。
(前の文は略)【このアルバムのジャケット写真が1969年の8月8日に撮影されたことは、開院して間もない頃、雑誌を読んでいて偶然知りました。すごくラッキーな気分になりました。実は、この私も、自分がこの横断歩道をわたっている姿を写真におさめたいと、何年も前からずっと思ってきました。少し大袈裟ですが、「アビイ・ロードの横断歩道を渡るのと、ピラミッドを見るまでは死ねない」と、いろいろな人に言ってきました。今考えるに、この名所を訪れるのなら、できれば、2019年8月8日にしたい。ジャケット写真が撮影されてからちょうど半世紀、当院がオープンしてからちょうど10周年になる。良い写真が取れたら、院長室にこっそり飾っておきたい。】
しかし、行けませんでした。とても残念です。体調を考え、中止しました。でも、まだあきらめていません。いつの日にか行こうと。

自慢できる話ではありませんが、院長室、ダイニングに読んでない新聞が山積みになっています。先日、それらの古い新聞を処理しようと、片っ端から新聞を読みあさっていたところ、昨年の9月7日の新聞に「寅さん 帰ってくる 22年ぶり新作という小さい見出しを見つけました。映画『男はつらいよ』シリーズは、主人公の寅さん(渥美清)とその周りの人物らによる日本人の心の原風景を描いた作品です。1969年8月に第1作が公開され、今年で50周年です。
この7月、たまたま柴又帝釈天に行きました。このニュースを知らないときでした。最近の記事を読んでみると、その映画の題名は『男はつらいよ お帰り 寅さん』になったようです。前作から22年ぶりの新作で、シリーズ50作目となります。サザンオールスターズの桑田佳祐さんが主題歌を歌い、オープニングに出演するそうです。封切りは年末です。

物心が付いてからの自分の人生を10年ごとの刻みで思い出してみると、この10年は、自分なりに頑張ったと思うのですが、それ以前とは異なり、多くの人々に手伝ってもらい、助けられた期間でした。「人生いろいろ」です。残り人生が少なくなってきたことは確かです。この先、1年1年を大事にしていきたい。10周年開院記念日にそう思いました。

 
2019年8月7日   ありがとうございました(8月8日)


 
私の宝物。右はアポロ11号の記念切手が入った切手帳   柴又帝釈天(7月14日)



 アポロ11号の記念切手

令和元年7月 

50年前のことです。アポロ11号の記念切手の懸賞に応募して当たりました。うれしくて、そこら中走り回って喜びました。そのときの切手を宝物のように大事に大事に持っていました。たぶん『少年マガジン』です。少年サンデー、少年キングも身近な所(散髪屋、銭湯など)にありましたが、マガジンだったと思います。マンガ本の最後の方のページに懸賞コーナーがあり、それを見た当時小学生だった私が、葉書か手紙を出しました。
その頃、世間ではアポロ11号の月面着陸の話題でもちきりでした。家ではテレビにかじりついて、アポロ11号関係の番組を見ていました。学校でも、家庭科室のテレビでその映像を見ました。各教室にテレビがあるような時代ではなかったので、松、竹、梅のクラスごとに順番にテレビ放送を見ました。世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われています。
アポロ11号は3人の宇宙飛行士を乗せ、日本時間の1969年7月16日に打ち上げられました。そして、7月21日に月面に着陸しました。その時のアームストロング船長の言葉は有名です。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍である」アームストロング船長とオルドリン飛行士は2時間15分船外の月面で活動しました。7月25日に太平洋に帰還しました。その後、ニューヨークなどでの祝賀パレードが行われ、その様子がテレビに映し出されていました。ものすごい数の人々が歓声を上げ、大量の紙吹雪が舞っていたのを覚えています。

今年は梅雨が開けるのが遅く、7月になってからもぐずついた天気が続きました。アポロ11号の打ち上げからちょうど50年後にあたる7月16日の夜、丸い月が見えました。次の日が満月でした。医院の駐車場に立って、しばらく月を眺めながら、昔を思い出していました。「50年経ったか」
家に帰って、あの記念切手を探しました。ありました。それを見て感動しました。しかし、何より驚きました。この切手の中にアメリカ合衆国の切手は1枚だけでした。ずっと、全部アメリカの切手と思っていました。これに気づくのに半世紀かかりました。

 
アポロ11号記念切手   アメリカ合衆国の切手



 桶狭間(おけはざま)の戦い  

令和元年6月 

『人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者の あるべきか』

織田信長はこの「敦盛」を舞って、6月の明け方、小姓衆5騎だけを連れて清州城から突如出陣しました。歴史に名高い桶狭間の戦いの始まりです。信長25歳、彼の生涯のほぼ中間地点です。 「本能寺の変」で亡くなるまで、猛スピードでその人生を駆け抜けました。豊臣秀吉、前田利家など多くの武将を育てました。徳川家康、明智光秀らもその中に入るかもしれません。過去の価値観、宗教界とも戦いました。茶の湯を愛好し、茶器・茶道具に大きい価値を付けました。「尾張の大うつけ者」なんかではなく、時代が求めた英傑だったと思います。

4月の終わりに名古屋に行きました。その際、清州城、熱田神宮、桶狭間も訪れました。この稿は6月の「歳時記」です。6月に何でこのタイトルなのか。織田信長の生涯をみると、6月はどうも特別な月のように思えます。信長と言われて、ぱっと思い浮かぶのは桶狭間の戦い長篠の戦い本能寺の変です。これらすべてが今の暦の6月に起こっています。誕生日もそうです。誕生日は天文3年5月12日(1534年6月23日)、桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)、長篠の戦いは天正3年5月21日(1575年6月29日)、本能寺の変は天正10年6月2日(1582年6月21日)です。

敵の今川義元の大軍に、清洲城内では籠城する準備を進めていました。兵の数で大きな差がある状況下で、籠城ではなく城から打って出た。この勝負勘たるや凄いものがあります。「敦盛」を舞うシーンは、大河ドラマなど時代劇でよく出ます。現在、清州城公園には「織田信長公 桶狭間出陣の歌」の石碑が置かれ、「敦盛」の詩が書かれています。その公園のすぐ横を、東海道新幹線がひっきりなしに通って行きます。

信長は戦に向かう途中、熱田神宮に寄っています。慌ててあとから追いかけてきた軍勢が集結し、そこで戦勝祈願を行いました。地図で見ると、清州城から右斜め下方向に進むと桶狭間があります。熱田神宮はその中間あたりです。
信長の行動の特徴の一つとして、比叡山焼き討ち、各地の一向一揆の制圧、石山本願寺との対立など仏教勢力に対する軍事行動が目立ちます。信仰心に乏しいと思われている信長ですが、そうではなかったのかもしれません。勝つ確率の低い、イチかバチかの戦いゆえ、この熱田神宮に参ったのでしょう。熱田神宮は草薙神剣を御神体とし、天照大神を祀る日本有数の神社です。信長は桶狭間の戦いで勝利した後、熱田神宮にお礼として塀(信長塀)を奉納しました。 

おけはざま山は今川義元の本陣があった場所です。山と言っても標高64.9mで、固有の山の名称ではありません。桶狭間の戦いが始まる直前の午後1時頃、視界を妨げるほどの豪雨となりました。『信長公記』には「石水混じり」と書かれており、ヒョウだった可能性があります。が轟き、落雷もあったようです。前線が通過していたのでしょうか。
信長軍はそこに一気に攻め込み、今川義元を討ち取りました。まさかのまさかでした。義元は駿河・遠江・三河の3国を治める大大名で、2万人とも4万5千人とも言われる大軍勢を率いていました。一方の信長は、田舎の尾張一国をやっと統一したような小国の「おやかた様」でした。兵の数は3千ほどでした。桶狭間古戦場公園がある所は古来「田楽坪」と呼ばれ、今川義元最期の地とされています。今そこには、信長と義元の銅像「近世の曙」が立っています。

梅雨はうっとうしいです。今も昔もそうでしょう。ときに大きな災害を引き起こすことがあります。偶然だったのか、それを予想してのことだったのか、信長は梅雨の時期の悪天候を味方につけ、勝利を収めました。桶狭間の戦いは、日本の歴史の中で、いや世界史上でも稀にみる大逆転劇でした。このあと、彼は天下統一への第一歩を踏み出すことになります。ピンチをチャンスに変えました。そればかりでなく、松平元康(のちの徳川家康)が今川氏から独立して大名になる転機となるなど、桶狭間の戦いは中世から近世への幕を開けた歴史の転換点となった戦いでした。
尾張名古屋、清洲、熱田神宮、桶狭間は、以前から一度行ってみたかった所でした。桶狭間ではガイドのおじさんから詳しい説明を聞くことができました。満足して帰りました。

 
清州城   「織田信長公 桶狭間出陣の歌」の石碑(清州城公園)


 
熱田神宮の信長塀   おけはざま山 今川義元本陣跡


 
桶狭間古戦場   「近世の曙」の像



 5月 ー 令和のはじまり ー

令和元年5月 

新緑がまぶしい季節の訪れとともに、令和の時代が動き出しました。平成の天皇陛下が4月30日に退位されて上皇となられ、5月1日皇太子殿下が第126代新天皇に即位されました。国民の一人として、ご即位を心からお祝いしました。それとともに、長年のお勤めを果たされ、このたび上皇・上皇后になられた平成の天皇・皇后両陛下には、これからはどうかごゆるりとお過ごしいただきたいと思いました。
1日午前、皇居では天皇皇后両陛下が即位の儀式に臨まれました。皇位継承に伴う最初の儀式は「剣璽等承継の儀」です。受け継がれた剣璽(けんじ)とは、天皇に伝わる三種の神器ののうちの剣と曲玉を指します。剣は分身で本体は名古屋市の熱田神宮にあります。この日の2日前、4月29日に私は熱田神宮を参拝していました。学会出張のため、3日間名古屋に行っておりました。うち2日間は天気がよく、良い思い出になりました。

日本各地が祝福ムードに包まれ、お祝い一色の一日だった5月1日、当院は喜多・八幡浜・西予地区小児休日当番医が当たっていました。令和の幕開けと、自分にとって最も重労働でストレスがかかる休日当番医が重なりました。看護婦不足の中、129人診ました。全体の9割以上が初診患者さんなので、事務職員も大変でした。患者さんと保護者の方も大変でした。午前中に受付けた患者さんを診終わったのが午後3時。待ち時間が長くて帰られた方がいました。当院の前まで来て、車の多さを見て、帰った人もおられたようです。当院がかかりつけの患者さんの何人かには「明日も診療しますので」とお話をして、翌日の5月2日にまわっていただきました。最後の職員が帰ったときには、あたりは真っ暗でした。
地域の基幹病院である公立病院などが、一斉に、ひと月の3分の1に当たる10日間も外来診療をとめるようなことはしない方がいいと思う。これは市民の大多数の意見です。それと、「お薬手帳」を見ても、病歴を聞いても、いつもは他の診療科にだけかかっている子がけっこういます。「ふだん、あれほど子どもを診ている某診療科も輪番で休日診療をやってよ」と思いました。

5月12日には長女の結婚式が明治神宮でありました。私も長い間生きておりますが、かつてこれほど天気が良かった日を覚えていません。若葉が生い茂り、緑がきれいでした。吹く風も爽やかで、気持ちのいい1日でした。「良い年が続きますように」と祈りました。

5月最後の週末は、全国で記録的な暑さとなりました。大洲は34.5℃まで上がりました。北海道で39.5℃が記録され、5月では観測史上全国1位となりました。本格的な夏になってしまった感がありました。
この5月はいろいろな事で特別な月でした。

 
熱田神宮(名古屋 4月29日)   みかんの花(当院の庭 令和元年5月1日)


 
明治神宮(東京 5月12日)   当院のスタッフ(6月3日)



 10年経った桜の木 

平成31年3月 

わが家の桜には悪いけど、初めの頃はかなり貧相でした。桜(ソメイヨシノ)にある華やかさがなかった。それでも、桜が咲くとうれしいので、毎年記念写真を撮りました。当院の職員の方が華があるくらいでした。一つには、花の数が少なかった。枝にポツンポツンとしか花びらがなかった。もう一つは、開花時期が遅く、花が咲くとすぐ葉っぱが出てきました。
ちょうど10年前の今頃、医院の建前(棟上げ)がありました。私の記憶では、この桜の木を植えたのは、医院がオープンしたあとの、その年の秋だったと思います。ということは、花が初めて咲いたのは翌年2010年の春で、今年で9回目ということになります。2、3年経った頃、「この木は本当にソメイヨシノなんだろうか」と真面目に心配したことがありました。悪気があって言っているのではないとわかっていても、うちに来るお客さんや職員に「ここの桜はまだ咲いてないのですか」「花が少ないのですね」「あれ、もう葉っぱが出よる」とか言われると、胸にぐさっときていました。「先生、それじゃいかんですよ、もっと痩せんと」と言われるより辛かったです。それでも毎年開花を楽しみにしていました。
一昨年くらいから「うちの桜もいっぱしになってきた」と思えるようになりました。枝に花がいっぱい付くようになりました。開花時期も、ニュースで報道される時期と揃うようになりました。十分満足しています。
今は朝に夕に、何回も桜の木の所に行っています。「もうあと10年経つと、この桜はどうなるのだろうか。さぞや立派な木に成長していることだろうな」その一方で、こうも思ってしまいます。あと何年ここで桜を眺めることができるのだろうか。10年後、その頃まだ仕事ができるのか。何より生きているのかどうか・・。 やめとこ。せっかく訪れためでたい春だ。
1年のうちの10日ほどですが、すごく楽しませてくれます。

 
 


 
 


 
 



 平成最後の大晦日、元日 

平成31年1月 

大晦日、夕方5時過ぎ。東京四谷のJRの駅で電車を降りると、あたりはもう真っ暗でした。東京は日が暮れるのが早い。駅前の道路を警察車両が何台も走って行きました。そこから乗ったタクシーの運転手が「(警察は)渋谷へ行くのではないか」と言っていました。毎年、若者がカウントダウンで騒ぐ所です。ハロウィンの時もそうですが、近くの店はみんな迷惑していると話していました。

宿泊したホテルニューオータニの部屋でNHK紅白歌合戦を見ました。ここ10年くらい、この番組を見ることはあまりありませんでした。何年ぶりでしょうか。大晦日のこの時間帯はたいてい何か用事をしていました。医院・診療に関する仕事、院長室の片付け、年賀状書きなどです。NHKホールにユーミンが来て歌い、サザンがトリを務めました。最後は2人が一緒に歌っていました。これはすごいと思いました。また、北島三郎が「まつり」を歌い、松田聖子が4曲をメドレーで歌いました。YOSHIKIも出演してピアノを弾いていました。布袋寅泰は石川さゆりの「天城越え」でギターを演奏していました。民放の番組との比較では、NHKが圧勝したと感じました。


翌朝すなわち元旦、部屋のカーテンを開けると、快晴でした。正面に富士山が見えました。美しい姿でした。しばし見とれていました。ホテルの中では様々な正月の催しが行われていました。寿獅子舞、祝い太鼓、初釜、餅つき、津軽三味線等々。
昼前からタクシーで観光に出かけました。予め、予約をしていました。ふだんは人が多い丸の内、東京駅、銀座、有楽町あたりはがらがらでした。車の中から見えた人はもっぱら外国人でした。都心を走っている車の数も少なかったです。翌2日は箱根駅伝があるので、場所によっては全く異なった光景になったと思います。一方、神社お寺はどこも混雑していました。浅草、スカイツリー、東京タワー周辺は人がいっぱいいました。オリンピック会場となる国立競技場は工事が進み、建物のだいたいの形ができ上がっていました。
午後3時過ぎには羽田に着きました。例によって(いつも)、飛行機の出発が遅れました。元日ですので、空港は混んではいませんでした。近頃、JALもANAも出発が遅れることが多いです。定刻に飛ばす気がないのではないかと思ってしまいます。多くの人が怒っています。JRを見習えと。これについてはまたいつか述べます。
本来の出発時間が過ぎ、ロビーで待っているうちに日が暮れてしまいました。でも、下の写真のような夕焼け空に浮かび上がった富士山を見ることができました。今年はいい年であってほしい。心からそう思います。

 
元日の朝、都心のホテルの窓から見えた富士山   ホテルの日本庭園では和太鼓の演奏をしていました。


 
増上寺。都心の神社、お寺には人がいっぱいいました。   日が落ちた後の富士山(羽田空港にて)



 裏磐梯(うらばんだい) 

平成30年9月 

あのタモリさんが「これ、俺、今まで見た中で一番のおご馳走の景色ですねえ」と語っていました。2年前の7月に放送されたNHKの番組『ブラタモリ』でのことです。旅行から帰ってきたあと、録画している「磐梯山編 ブラタモリ」のDVDを家内に探してもらい、改めてその放送を見てみました。タモリさんは「いい景色だな、これは」「すごいな」「なにせ長年来たかったもんでね」「思いがつまってましてね」「宝物ですね」というような言葉を何度も口にしていました。感動をこのようにストレートに言葉や表情に出すことは、この人の場合珍しいことです。

下に載せている最初の写真は、郡山から会津若松方面に向かうJRの普通電車から撮ったものです。明治期に世界へ羽ばたいた野口英世がたびたび乗り降りした猪苗代駅の少し手前です。穏やかで豊かな田園風景と会津富士と呼ばれる磐梯山(表磐梯)が目に入りました。前回、猪苗代に来たときは、あいにくの天気で磐梯山の上の方は雲で見えませんでした。猪苗代駅から迎えのマイクロバスに乗って約30分、裏磐梯高原ホテルに着きました。途中、道端で福島県産のを売っているお店を何軒も見ました。その桃がとてもおいしそうで。翌日、その桃を買いました。ホテルの部屋、帰りの羽田空港の出発ロビーでも食べました。最高の味でした。
裏磐梯に来て、裏磐梯高原ホテルに泊まる。これは、私の念願でした。チェックインをしたあと、部屋には行かず、庭に出てみました。すぐ目の前に、夕日に照らされた磐梯山(裏磐梯)、五色沼の一つ弥六沼、緑の林が現れました。そこに広がる美しい大自然、感動的でした。「これはすごい」の一言でした。

磐梯山は4つの山から成る連山の総称です。明治21年7月、磐梯山が突然大爆裂を起こしました。朝のことでした。噴火に伴う大規模な山体崩壊が起こり、4つの山のうちの1つ(小磐梯)が一瞬のうちになくなりました。山体崩壊とは、山そのものがどーと崩れてしまうことです。大量の土砂や岩が裏磐梯を埋め尽くし、麓の景色を一変させました。わずか10分ほどのことだったそうです。犠牲者は500人近くに及びました。明治、大正、昭和、平成と、日本で一番大きな火山の災害は、実はここ磐梯山です。
表磐梯では見られない裏磐梯の(がけ)は山体崩壊の痕跡です。火山の内部が見えていることになります。今なお木が生えることはなく、赤茶色の山肌を見せています。
五色沼湖沼群もこの山体崩壊のあと、突如姿を現しました。沼ごとに色が違っています。家内、観光タクシーの運転手さんと一緒に私も遊歩道を2kmくらい歩き、五色沼を6つ見ました。本当にきれいな景色でした。五色沼はそれぞれの沼でpHの数値が大きく異なっており、それによって色の違いが生まれているそうです。
人はどこを旅しても新たな発見、驚き、感動がありますが、今回は格別でした。この絶景、まさに磐梯山の宝物と思いました。

 
電車から見えた 磐梯山(表磐梯)(9月15日)   裏磐梯高原ホテル(磐梯山が見える側)


 
弥六湖と裏磐梯   赤みがかった裏磐梯の山肌


 
緑の多い景色   五色沼の一つ「るり湖」と裏磐梯(9月16日)



 火星と金星

平成30年7月 

今年の夏は火星金星がきれいに見えます。6月の終わり頃から気がついていました。今の時期は、仕事が終わって夕食をとったあとでも外が明るいです。あたりが薄暗くなると、この2つの星が輝いて見えます。
今年は火星大接近します。最接近する日は7月31日です。2003年以来15年ぶりだそうです。私が大洲に来たのは翌年の2004年です。その年の秋に、大洲では台風16号による大きな被害が出ました。

今年7月7日に、大洲を含む南予地域で未曾有の豪雨災害が起きました。とんだ七夕でした。そのあとの8日、9日は夜空がとてもきれいでした。水も出ず、エアコンも作動せず、夜はすることがないので星を眺めていました。
それから1週間経った「海の日」を過ぎた頃になると、被災者の方々はもとよりボランティアの皆さん、各自治体、自衛隊、国の機関の人らの尽力により、徐々に復旧が進んでいました。

今宵、火星は10時頃南東の空の低い位置で赤く光っています。マイナス2.8等級なのでかなり明るいです。ちなみに、ふだん夜空で一番明るい、おおぐま座のシリウスはマイナス1.5等級です。三日月から上弦に向かっている月も、良い風情を出しています。

嫌なことを忘れさせてくれる夜空です。

 ヴィーナス & マース(1975年リリース)
わが家の書庫にあるポール・マッカトニー & ウイングスの名盤です。最初の曲の歌詞に「Venus and Mars are alright tonight(金星と火星は今夜最高)」があります。これを思い出しました。アルバム全体がライブで演奏することを想定して作られています。あらためて曲を聴いてみましたが、元気が出るアレンジになっていました。



 「五月雨の 降り残してや 光堂」 

平成30年6月 

まだ雨が降っています。もう何日も降っているような気がします。雨が続くと、大事なものが朽ちていくような気がします。

陰暦三月二十七日(新暦5月16日)、芭蕉は江戸深川から船に乗り千住で船から上がって、遠い旅路につきました。『奥の細道』への旅立ちです。元禄2年(西暦1689年)、今から329年前のことです。奥州平泉藤原氏が滅亡してから500年後、また、平泉を2度訪れたことがある西行の500回忌にもあたる年でした。旅を始めて44日目、陰暦五月十三日(新暦6月29日)に、芭蕉は平泉に来ました。ここで有名な2つの句を残しています。このホームページでも、平成25年5月の歳時記『岩手・平泉』で言及したことがあります。
芭蕉は平泉の高館(たかだち)の丘に立ち、夏草があたり一帯に茂っている景色を目の当たりにして、藤原三代の栄華のはかなさ、数々の功名をうちたてた義経主従の悲劇的な最期を偲びました。「国破れて山河あり 城春にして草木深し」彼は杜甫の五言律詩『春望』の中の一節に触れています。この詩を念頭に「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」と詠みました。笠を敷いて腰を下ろし、時の移るまで涙を落としたと書いています。

5年前に私は平泉に行きました。4月末でした。中尊寺、毛越寺(もうつうじ)は人がいっぱいで、巡回バスも満員でした。道路が渋滞し、バスがなかなか進まないので、途中で降りて、歩いて高館義経堂(たかだち ぎけいどう)に向かいました。実際、この方が早く着きました。不思議なことに、この高館義経堂には人が2、3人しかいませんでした。すぐ下を北上川がゆっくりながれ、正面に束稲山(たばしねやま)が見えました。平泉が栄華を極めた当時、束稲山の山腹には一面に桜が植えられていました。あの西行が感嘆し、歌を残しています。私のような凡人でも高館の丘に立つと、栄枯盛衰の感慨が湧いてきました。

芭蕉は中尊寺を訪れ、金色堂(こんじきどう)を参詣しました。
五月雨の 降り残してや 光堂(ひかりどう)
光堂とは金色堂のことです。長年降り注ぎ、あらゆるものを朽ち果てさせてきた五月雨も、光堂にだけは降り残したのであろうか。500年も経っても光堂は色あせずに光り輝き、かつての栄光を偲ばせている、と詠んだものです。「五月雨」は、芭蕉がとくに好んで用いた季語です。

世界遺産に登録された中尊寺、毛越寺(もうつうじ)など5遺産のうち、現存する建造物は中尊寺の金色堂、鞘堂(さやどう)、経蔵の3つです。とくに、金色堂は世界に誇る工芸、建築技術、仏教美術の宝庫です。金色堂はまさに国宝の中の国宝と言えるものでした。中に入ると、その美しさに息を呑みました。人がいっぱいでしたが、シーンとしていました。あらゆるものが金色に輝き、荘厳さがありました。感動して、しばし動けなくなりました。
下の写真は、私が5年前に中尊寺に行ったときに撮りました。金色堂の近くに芭蕉の像とともに、この句の句碑があります。『奥の細道』の中の平泉の章は、自然と人の世、恒久と流転、これらの対比を中心に書かれています。胸に迫るものがあります。

外の雨音を聞きながら、この句を思い出しました。

 
中尊寺金色堂   芭蕉の句碑


 
芭蕉の像  



 羽生善治氏「永世七冠」達成、「国民栄誉賞」受賞

平成30年4月 

昨年12月、将棋の竜王戦で羽生善治(はぶ よしはる)氏が勝ち、15年ぶりに竜王を奪取しました。これで、彼は通算7期竜王になったことになり、「永世竜王」の資格を得ました。同時に、永世称号のある7大タイトルすべてでその称号を獲得したことになり、史上初めて「永世七冠」を達成しました前人未到の歴史的快挙です。このことを「歳時記」に早く書こうと思いながら、5か月が経ってしまいました。
永世七冠を達成した12月中に、羽生さんに国民栄誉賞が贈られる見通しとなりました。年明け早々の1月5日に国民栄誉賞授与が決定しました。「今年は自分にとっても、いい年になるぞ」と勝手に思いました。2月13日には首相官邸で同賞の表彰式が行われました。4月に入ると、将棋界で最も長い歴史を有しているタイトル戦、名人戦が始まりました。羽生さんはこの名人戦七番勝負の挑戦者になっており、現時点では1勝1敗の成績です。もしこれに勝てば、タイトル通算100期の大記録を樹立することになります。4月25日には春の園遊会に招待されました。天皇、皇后両陛下や各界の著名人と歓談する姿がテレビ画面に映っていました。このように、羽生さんに関連した動きが次々ありました。
将棋界の七大タイトルの竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖には、それぞれ異なる永世称号の獲得条件があります。永世称号は一つでもすごいことで、過去に永世称号を獲得した棋士は10人で、複数の永世称号を獲得したのは羽生さんを入れて4人しかいません。
1985年に史上3人目の中学生棋士となり、鮮烈な快進撃を見せました。19歳で初のタイトルの竜王を獲得しました。25歳で七冠を独占し、2000年には68勝の年間最多勝記録を達成しました。91年以降、無冠となった時期はありません。どんな戦型も柔軟にこなし、「羽生マジック」と呼ばれる終盤の逆転力が評価されてきました。
しかし、将棋界のスーパースターもすでに47歳。 去年は王位、王座の2冠を20代の若手棋士に奪われました。「羽生の全盛期は過ぎた」と一部で言われました。羽生善治ー渡辺明の竜王戦七番勝負は今度で3回目でした。彼は2008年と2010年にも永世七冠をかけて渡辺と戦いましたが、いずれも敗れていました。逆風をはね返しての今回の快勝は見事でした

私は羽生さんの「永世竜王」の記録達成を心待ちにしていました。2008年の竜王戦では、3連勝のあと4連敗という将棋界初の大逆転負けを喫しました。私もすごく悔しい思いをしました。あれから9年が経ちました。ずっと応援をしていました。タイトル戦で過去98期も勝ってきたのに、竜王戦でのあと1勝がなかなか勝てませんでした。今回の対戦後、彼は「自分にとって、もしかしたら(永世竜王、永世七冠の)最後のチャンスかもしれないという気持ちで臨んだ」と語っていました。
長きにわたり結果を残し続ける彼の姿には敬服します。不世出の天才棋士はいつも謙虚真摯的でした。これからも、おごることなく将棋道を追求していくことと思います。

以前から、羽生さんの調子の良し悪しと、自らの仕事や生活での登り調子と下り坂の時期とが、わりと合っていた気がしていました。私にとっては、昨年はめまい、人生初めての手術などで、良い年ではなかったと思っていました。それが、年末の彼の竜王戦勝利で気持ちが一転しました。大げさですが、「もう、思い残すことはあまりない」くらいでした。

最後に、余談になりますが、私はこの〈好調〉を背景に、「今年こそ大丈夫だろう」と人間ドックに行きました。ところが、血液検査の大腸癌の腫瘍マーカー高値でひっかかり、4月に大腸の内視鏡検査を受ける羽目になってしまいました。「またか」です。検査当日、腸の中をきれいにするため何度も下痢便を出したため、検査を受ける前からヘロヘロの状態で病院に行きました。軽く麻酔をかけてもらいましたが、自分が「痛い痛い」と言ってたのを覚えています。検査終了後、担当の消化器内科の先生から説明を受けました。「見て下さい。きれいな腸です。問題ありません」「でも、睡眠時無呼吸があるようですので、釈迦に説法かもしれませんが、もう少しお痩せになられたほうがよろしいのでは」 今年は、本当にいい年かもしれません。



 大洲の積雪  ー『国境の長いトンネルを抜けると・・』追加 ー

平成30年3月 

日本には四季があります。四季の中のそれぞれの季節にも、年によって気象や天候に違いが出ます。もう5か月前のことになりますが、去年10月の終わりに2週連続で台風が来ました。台風21号22号です。これらの台風は南予を暴風域に巻き込みながら進みました。10月22日と29日のせっかくの日曜日が台無しになりました。10月末に2週連続で台風が四国を襲うことは珍しいことです。
次の週の11月最初の週末に、越後湯沢に行きました。それら2つの台風のせいで、出かける前から天気のことが気になりました。愛媛も東京も快晴でしたが、湯沢町とその周辺の市はあいにくの天気でした。寒さがこたえました。
その月の23日、勤労感謝の日のことです。前の日曜日が休日当番医だったので、久々にゆっくりできた1日でした。夕方、医院の休憩室でくつろいでいると、テレビの画面に『10年ぶりの早い積雪。早くも大勢のスキー客』という見出しが出ました。ここはもしかしてと見はじめると、コマーシャルに変わりました。家内を呼んで、2人でテレビにかじりついていると、越後湯沢のかぐら・みつまたスキー場のロープウェイ乗り場とその横の広い駐車場が映っていました。18日前に訪れた場所でした。景色が一変していました。
12月13日のテレビのニュースでは、新潟県十日町市の雪の風景が映りました。湯沢町の北隣の市です。『例年より速いペースの積雪』との見出しで、家や車が雪に埋もれている景色が映っていました。旅行に行ったときの観光タクシーの運転手さんは「12月20日頃から雪が積もる」と話していましたので、かなり早かったのでしょう。12月24日(日)の朝5時のニュース(まだ寝てなかった)では『南魚沼市 7か月で5億円のふるさと納税。6億円突破目前』というのをやっていました。確かに、南魚沼産コシヒカリはおいしかった。
上記以外にも、年末に南魚沼地方のニュースをいくつか目にしましたが、に関するものが多かったです。前述の運転手さんや旅館の仲居さんらがしみじみと語っていました。「毎年毎年、豪雪との闘い。雪の高さが3mから4mになる。一晩で1mなんてこともある」「みんな、雪から逃げ出したいんだわ。雪のことを除いたら、良い所なんだけどね」「好きなんだけど、困っているのよ、ほんとに」その人らの話から、豪雪地帯は本当に大変なんだということがよく伝わってきました。

年が明けて、1月11日、12日にこの大洲にも大雪が降りました。高速道路が閉鎖されたり、JRが止まったり、タクシーの予約ができなかったりしました。雪のため来られなくなった患者さんも大勢いました。しかし、この積雪の時は、久しぶりの大雪だったので、迷惑半分めずらしさ半分で、子どもや一部の大人も雪だるまを作ったりして、けっこう楽しんでいました。おそらく、多くの人が、このあと何度も雪が積もるとは思わなかったでしょう。ところが、その後3回、計4回雪が積もりました。なかでも、3度目の2月6日、7日の雪が最もひどかった(写真)。野村町や宇和町から来られた患者さんの保護者の方が「大洲の方が雪が多い」と話していました。

大洲から北に進んで長浜まで行くと、東の方に松山・伊予市方面が見えます。遠くはありません。ところが、この冬大洲で積雪があったとき、松山や松前町では雪は降っていませんでした。3回はそうでした。この程度の距離で、どうしてこんな気象、天候に違いが出るのか、不思議でした。道路でいえば、犬寄トンネルあたりを境に天気(降雪)に違いが出ていました。書くのに少し気が引けますが、南国伊予での『(南予中予の境の)長いトンネルを抜けると雪国であった』のようです。雪が数10cm積もっている夜に、外を見ると『夜の底が白くなった』の感じがよくわかりました。
雪かきが大変なこともわかりました。ただ、湯沢町の人が言っていました。「大雪でも、上越新幹線は1分と狂うことなくやってくる。高速道路も車が走っている」「夜中の3時頃から業者が除雪作業をして、朝には大きい道の除雪は終わっている。学校が雪で休みになることはほとんどない」
雪国では道路にいろいろな雪対策が施されていました。雪で集落が孤立しないように、山の奥の方までトンネルや道路が整備されていました。タクシーの運転手に「ここの選挙区は昔でいうと、どこに・・」と聞くと、「新潟3区です」という返事でした。ピンときた人がいると思いますが、あの田中角栄氏の選挙区です。例によって、マスコミに叩かれまくった元首相です。ある旅館の人が言っていました。「悪い人のように言われたけど、われわれはあの方を全力で応援しました。」

今年はここ大洲で雪が多かったせいで、いつもの年より、春が待ち遠しかったです。桜の木もそうだったみたいです。去年より12日早く開花しました。

 
 



 『国境の長いトンネルを抜けると・・』その2

平成30年1月 

越後湯沢の駅に着いたとき、ひんやりとした小雨が降っていました。ホテルまでの距離がそう遠くないので歩いていきました。途中、越後名産 笹だんごのお店などがありました。いわゆる古い温泉街の風情でした。ホテルでチェックインをすませたあと、観光に出かけました。
湯沢町と隣接する十日町市に日本三大峡谷 清津峡があります。そこの紅葉は素晴らしかったです。赤の色がとてもきれいに入っていました。広い範囲にずらりと並んだ柱状節理の岩肌は、美しくかつ迫力がある景観でした。ブラタモリに出してほしいなと思いました。十日町市と南魚沼市の境を尾根伝いに走る魚沼スカイラインでは、観光タクシーの運転手さんが「天気が良ければ、この下にいい景色が見えるんだけどなー」と何度も言いました。でも、けっこういいドライブコースだと思いました。このあたりは、秋はきのこの宝庫だそうです。天然のきのこは、倒れたブナの木から自生します。倒れてすぐ自生するのはキクラゲ、3年経つとナメコ、5,6年経つと○○、10年になると○○と、説明を受けました。その運転手さんは「1週間前に1kgのマイタケをここで採った」と話していました。
魚沼スカイラインを下りると、スキー場とホテルがいくつもありました。それから、NHK大河ドラマ『天地人』ゆかりの場所が次々と現れました。越後と言えばまず出てくるのが上杉謙信です。謙信には実子がいなかったため、跡を継いだのは、彼の姉(仙桃院)の子 上杉景勝(かげかつ)でした。その家老が直江兼続(なおえ かねつぐ)でした。景勝はのちに豊臣家五大老の一人になります。タクシーは、景勝の生まれたお城の跡、彼の母親(仙桃院)のお寺の近くを通り、景勝と直江兼続が子ども時代に学んだ雲洞庵に向かいました。運転手は「こんなとこ、人が大勢来る場所じゃなかったんだけど、テレビとはすごいもので『天地人』が始まったら、観光バスが何台も来て道路が大渋滞よ。お寺に入る道も広げたのよ」と話していました。
大河ドラマ『天地人』が放送されたのは、2009年(平成21年)でした。当院の工事が始まったのがその年の1月で、完成したのが6月、開院が8月でした。その間ずっとこのドラマを見ていました。主人公の直江兼続を演じたのは妻夫木聡くんでした。知的で優しく、「愛」がよく似合う武将をうまく演じました。上杉景勝の母の役の高島礼子さんがとてもきれいでした。当院の名前「ななほし」は、一つには、この天地人に由来しています。そのことは以前【院長挨拶】のコーナーに書きました。

初日、ホテルに戻るちょっと前に、運転手が「あれが高半(たかはん)ですよ。あの『雪国』の旅館。今日は天気が良くなかったので、残念だったね。ここは冬の大雪がなければ、本当に良い所なのよ」 確かにそうだと思いました。家内のスマホの天気予報では、翌日は時々晴れマークがありました。
私「明日、新幹線に乗るまでに3時間くらいあるんだけど、運転手さん、明日の都合は・・」 
運転手「いいよ。明日は夕方6時入りだから、何とかするよ」
ということで、2日目もその運転手さんに案内してもらうことになりました。川端康成の小説『雪国』に関係する場所、加山雄三さんがつくったスキー場、石川遼くんの記念館(今はどちらも使われていません)、大源太山・大源太湖、それから三国街道を進んでかぐら・みつまたスキー場近くまで行きました。これらについては、いつかまたお話ししたいと思います。

いろいろな人から「先生がいろいろ調べて、旅行の行き先やコースを細かく決めているのですか」と聞かれます。違うんです。ほとんど行き当たりばったりみたいなものです。今回の越後湯沢行きの案は旅行会社の人が持ってきました。初めは新潟県の上越市に行くつもりでした。観光タクシーのコースについても、こちらからは何も言っていませんでした。迎えに来たタクシーに乗っただけでした。ただ、私の場合、何かにつけ雑学が身についておりますので、どこに行ってもたいていの人と話ができます。得意とするところです。人生残り少なくなってきたと思っております。診療に影響が出ないようにしながら、国内外を問わず、いろいろ見て話をしてきたいと考えております。

 
上信越高原国立公園 清津峡(十日町市)   清流・清津川と柱状節理の岩肌、それと赤色がきれいに入った紅葉を見ることができました。


 
魚沼展望台(十日町市)。タクシーの運転手が何度も「晴れてたら、下の田んぼの景色がきれいなんだけどなー」   雲洞庵(南魚沼市)。大河ドラマ「天地人」の中で出ていた上杉景勝、直江兼続ゆかりのお寺。この景色を見ると、とても寒かったことを思い出します。


 
川端が滞在した湯沢町の高半旅館(現:雪国の宿 高半)の文学資料室の展示。与謝野晶子・鉄幹夫妻、北原白秋もここを訪れ、歌を作っていました。   大源太山(湯沢町)は角張った山容から「東洋のマッターホルン」と呼ばれています。うすく雪化粧をしていました。湖の周辺はきれいに紅葉していました。



 『国境の長いトンネルを抜けると・・』その1

平成30年1月 

日付が変わった午前0時過ぎ(11月5日)、部屋の外にある露天風呂から夜空を眺めていました。雲の薄い所から月の光がこぼれていました。あとで知ったのですが、その日は満月でした。深夜、あたりの気温はおそらく5℃以下。この寒さのため湯の温度が適度に下がり、熱い風呂が苦手な私は、心地良く湯船に浸かっていました。静かな夜でした。目線を少し下に落とすと、高速道路(関越自動車道)を走る車のライトが見えました。深夜なので走っている車も少ない。時間がゆっくり進んでいる感じでした。めったに味わえない感覚です。医院で仕事をしていても、自宅にいても、いつも時間との競争みたいな生活です。現代人の辛いところです。

今回初めて越後湯沢を訪れました。行き先、ホテルを決めるのが遅かったので、旅行会社の担当者から「料金が高い露天風呂付き客室しか残っていませんでした」と言われていました。部屋はホテルの最上階(6階)にあり、ドアを開けて中に入った途端、とても広くて驚きました。掃出窓から外に出たら広い日本庭園があり、その隅に露天風呂がありました。これも家に帰ってから知ったのですが、その部屋はホテルに一つしかない『貴賓室』と呼ばれている庭付露天風呂付客室でした。7名まで泊まれる部屋でした。豪華なわけです。「その時知っていたら、あの部屋でもっとゆっくりしていたのに」と思いました。
昼間の雨は上がっています。その日、午前11時前に越後湯沢の駅に着きました。ホテルでチェックインして、タクシーで観光、そのあと夕方ホテルに戻るまで、ずっと雨が降っていました。初めは小降りでしたが、午後2時前に上杉景勝直江兼続ゆかりの寺「雲洞庵」に入った頃はかなり強く降っていました。それより何より寒くて寒くて、寒さでどうかなりそうでした。新潟県ということで、暖かい格好をしていったつもりでしたが、そんなものではとてもダメでした。タクシーの運転手さんが「昼間だというのに、今7℃ですよ。たぶん、山は雪になっていますよ」と言いました。7℃なんていうのは、愛媛なら今これを書いている1月の気温です。根っからの伊予人の私にとっては、耐えられないほどの寒さでした。

しかし不思議でした。11月4日の朝、東京新橋にあるホテルを出て、越後湯沢の駅に到着するほんの10数分前まで晴れていました。家内が撮ったデジカメの写真にそれが残っています。今は撮影した画像の時刻が分単位でわかります。新潟に向かって走る上越新幹線「とき」の窓から撮った快晴の広い関東平野の景色が写っています。群馬に入って進んでいくと越後山脈が近づいてきますが、その山腹には日が当たっています。群馬と新潟の県境にあるいくつかのトンネルを通り抜けて行きました。長いトンネルの中で「まもなく越後湯沢に着きます」の車内放送がありました。新幹線から降りると、雨が降っていました。冷たい雨でした。国境の長いトンネルを抜けると、天気も気温も異なる別世界でした。
11月の始めですから、大洲ではお祭りの頃です。湯沢のタクシーの運転手さんは、初めは「雪が積もるのは12月20日頃になってから」と言っていました。ところがその日雪が降りました。翌朝、ホテルの部屋の窓から外を見ると、山が白くなっていました。文豪川端康成は小説『雪国』の巻頭で「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」と書きました。私が行った時とは季節が違っていますが、『雪国』のこの一節の感じが少しわかったような気がしました。

 
上越新幹線「とき」。座席のすぐ横にお笑いコンビ「浅草キッド」の玉袋筋太郎さんが、斜め前にビートきよしさんが座っていました。   越後湯沢駅。東京からずっと晴れていたのに、そこに着くと雨でした。冷たい雨でした。


 
越後湯沢温泉の宿泊ホテルの部屋。広い間取りで、ここ以外にツインベッドルーム、内風呂がありました。   部屋はホテルの最上階にありましたが、外に日本庭園と露天風呂がありました。


 
雲洞庵(南魚沼市)。大河ドラマ「天地人」の中で出ていました。上杉景勝、直江兼続は子どもの頃ここで学びました。着いた時、寒くて体が凍りそうでした。   山には早くも雪。まさしく「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」でした。湯沢は川端康成の『雪国』の舞台となった所です。冬は豪雪地帯です。



 氷見の寒ぶり

平成29年12月 

12月の初め、このホームページのトップに次のような文章を載せました。
・先日『ひみ寒ぶり宣言』が出されたというニュースを見ました。「ひみ寒ぶり」とは、富山湾の定置網で捕獲され、氷見漁港で競られた7kg以上のブリのことです。天然の魚なので、年によって水揚げ量に差があります。今季も食べられるか、気になります。

12月27日、日頃世話になっている人と行きつけの料理屋に行きました。席について早々に、氷見の寒ぶりの話をすると、そこの息子さんが「今日出ますよ」、大将が「昨日やっと着きました」。やったーと思いました。2年前の冬だったか、この寒ぶりが不漁で、冬の間3、4回この店に通いましたが、食べることができませんでした。
私はもともと、刺身ではさより、かれい、ひらめ、おこぜのような透明に近いあっさりした魚が好きでした。ある時「大将は何の魚が好きなんですか」と聞くと、すぐ「ぶりですね」という返事でした。私が「ふーん、ぶりね。僕はね、ぶりとかハマチはどうも・・・」と言うと、大将「いつか、ホンモノを食べてもらいます」。それから何か月後かに、氷見の寒ブリをそこでいただきました。即、考えを改めました。その他、さば(鯖)なんかについても同様でした。「知らぬこととは言え、ぶりさん、さばさん、すみませんでした。ただ良いものを食べてなかっただけでした」という感じでした。

氷見漁港は富山湾の西岸にあります。富山湾は天然の生けすと呼ばれるだけあって、水産資源の宝庫です。約500種の魚が生息すると言われています。立山連峰を始めとする3000m級の山々から豊富な栄養分、ミネラル、酸素を含んだ水が流れ込み、大陸棚から急激に1000mの深さの海底まで落ち込む地形になっています。漁港から近い所で漁ができるため、文字通り生け簀から新鮮な魚を取るようです。寒ブリ、ホタルイカ、紅ズワイガニ、白エビなど名高い海の幸が取れることで知られています。
太田和彦の日本百名居酒屋』というテレビ番組がありました。深夜(0時半)から始まる番組で、ケーブルテレビでしか放送してないので、ほとんどの人が知らないと思います。酒はあまり飲めないのですが、私はこの旅番組が大好きで、それを見るために放送時間直前に家に帰っていました。その番組の『富山編』を見て、富山に行きたくなり、実際に行ってきました。旅行会社に富山までの乗り物、ホテルの手配をしてもらい、ついでに、その番組で紹介されていた富山市内の居酒屋の予約もしてもらいました。その時の話はいつかしたいと思います。

年の瀬も押し迫り、世の中全体が慌ただしくなりました。小児科医院は、年末は子どもの病気が増えるので、毎年忙しくなります。それに加え、当院は、この年末年始、元日が小児休日当番医に当ってしまいました。それが終わるまでは、年末年始の休みという気分にはなれません。
場面を行きつけの料理屋さんに戻します。そこで大将と話をしながら寒ぶりを食べていると、不思議に、今年が良い年だったような気がしてきました。帰る時は、来る時よりはるかに元気になっていました。

 
5年くらい前に初めて「ひみ寒ぶり」を食べました。ブリの評価が変わりました。平成29年12月27日撮影。   氷見漁業協同組合の証明書。完全にブランド化されています。



 「うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」

平成29年9月 

『大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は煙立ち立つ 海原は鴎(かまめ)立ち立つ 美し国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

舒明天皇の詠まれた国見の歌です。万葉集に撰ばれた御製歌(おほみうた)です。中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)は舒明天皇の子です。
蜻蛉島は「大和やまと)」の枕詞で、秋津島や秋津洲とも書かれます。秋津はトンボの古代の名称でした。蜻蛉島とはトンボが飛び交う国という意味になります。一方、トンボは害虫を捕食する貴重な益虫で、五穀豊穣につながる穀霊の象徴でした。古来、「蜻蛉島 大和の国」は五穀が豊かに稔る聖なる国という意味を含んでいます。

舒明天皇の歌をひとことで言う(畏れ多いことですが)と、「ああ、なんと良いところだろう、日本の国は」だと思います。今の時代の人々もそう感じているでしょう。
ところが、我が国の近くの半島の独裁国家がミサイルを発射して、日本の上空を飛ばすというとんでもないことをしています。もっと近くには、ときに握手をしながら、あちこちで悪口を言い回っているお性根の悪い、怒りっぽい国があります。さらには、その向こうの大陸の国が威張りくさっています。大国でありながら、行儀の悪い、正義感に乏しい国です。嫌になります。

下の写真は、高知県の四万十市トンボ自然公園(トンボ王国)で撮ったものです(9月3日)。この日は天気が良く、良い景色をたくさん見ました。帰りの車の中で、ふと上の「うまし国ぞ あきづしま 大和の国は」の歌を思い出しました。

 
 


 
 



 遅いような、早いような

平成29年7月 

妙なタイトルになってしまいました。今年はいつもの年に比べて、季節がやって来るのが何か遅れ気味と感じていました。別の言い方をすれば、季節の進み具合が遅かったのかもしれません。
が咲いたのは4月に入ってからでした。大洲市内でも場所によっては、4月15日になっても、桜の花がまだたくさん咲いていました(写真1)。菖蒲(ショウブ)が咲くのも遅かったです。南楽園の「花菖蒲まつり」の初日(5月20日)に行きましたが、花はほとんど咲いていませんでした。また、「梅雨入り宣言」があってもなかなか雨は降らず、梅雨になったなと実感したのは6月下旬でした。当院のツバメの巣から雛の声が聞こだしたのは、7月に入ってからでした。「海の日」の頃には黒い毛が生えてきて、口を開けて親鳥から餌をもらう可愛らしい姿をよく見るようになりました。いつもの年なら、もう巣立っている時期です。このように、その時時の風物詩がなかなか見られなかったため、何か遅れているように感じていました。
写真2は、7月15日に松山ー羽田便の機内から撮った富士山の写真です。飛行機が駿河湾沖の上空を飛行しているときに、雲海の上にぽっかり姿を現しました。この日は梅雨前線がまだはるか南にありました。東海・関東は低気圧の影響で曇っており、雲の上だから見えた有り難い光景でした。

7月16日、福島県の猪苗代町に行きました。天気は曇りで、時おり雨がぱらぱらと降りました。磐梯山の山頂まで見えたのは短い間だけでした。猪苗代湖もあいにくの天気で、澄んだブルーには見えませんでした。タクシーの運転手さんが「これは気の毒」と思ってか、近くの天鏡閣、迎賓館に連れて行ってくれました。天鏡閣は、有栖川宮威仁親王の別邸として明治の終わりに建てられた洋館です。去年、NHKの番組「ブラタモリ」でタモリさんと近江アナが来ていました。その放送日はちょうど1年前の7月16日でした。天鏡閣の近くには、高松宮の和風別邸 迎賓館があり、敷地の中に入ることができました。そこからは猪苗代湖がすぐ下に見えました。クマザサが生い茂り、ゆりをよく見かけましたがまだ咲いていませんでした。
タクシーを待たせていたので足早に歩いていると、蝉の抜け殻を見つけました(写真3)。蝉がさっき出たばかりかと思うくらい新鮮な抜け殻で、木にしっかり付いていました。四国の愛媛でもまだ蝉の鳴き声を聞いてないのに、こんなとこで蝉が、と不思議に思っていると、近くを赤トンボが飛んでいきました。ここでは、「何か、季節が早いな」と感じました。「福島はそばがおいしいですよ」とタクシーの運転手さんが教えてくれたので、野口英世記念館の近くのそば屋さんでそばをいただきました。店を出た所で朝顔を見つけました。少し前に降った雨で花びらに水滴が付いていました。涼しさを感じさせる風景でした(写真4)。今年一番の朝顔でした。
その3日後の7月19日午後、気象庁は「四国も梅雨明けしたものとみられる」と発表しました。

この歳時記を書いている7月23日は二十四節気の大暑にあたります。例の子ツバメたちはだいぶ大きくなり、「おせらしい姿」になってきました。しかし、まだ巣にいます。東北地方はまだ梅雨が開けておらず、秋田では河川の氾濫、浸水被害が出ていることがテレビで報じられていました。
大暑の日、文字通りの暑さで庭の草木がへばっていました。夕方涼しくなってから、家内が水を遣っていると、黒々としたりっぱな体格のコオロギが現れました。こういうコオロギは、ふつう立秋を過ぎないとあまり見ないものです。「これもなんか早いな」
季節が来るのが何か遅いような、一方では、季節が進むのが何か早いような。四季のある日本という国は、いろいろ悩むけど、やっぱりいいですね。

 
写真1. 大洲市梅川の(平成29年4月15日)
  写真2. 機内から見た雲の上の富士山(7月15日)


 
写真3. 猪苗代湖畔で見つけた蝉の抜け殻(福島県猪苗代町にある旧高松宮別邸 迎賓館 7月16日)   写真4. 水滴の付いた朝顔(同町野口英世記念館の近くのそば屋さん 7月16日)




 ポール・マッカートニー(2)

平成29年6月 

先月の歳時記に、ポール・マッカートニーの東京ドーム コンサートの鑑賞記を書きました。先週、家でラジオを付けていると、彼の歌声が聞こえてきました。6月18日がポールの誕生日ということで、何曲か続けて彼の曲が流れてきました。そして、今日も朝からラジオでビートルズの曲がかかっていました。ビートルズが来日したのが51年前の今日、1966年6月29日で、それを記念した番組のコーナーでした。いつまでも人気があります。今回は、先月の歳時記の追補版のようなものになります。
音楽評論家で作詞家でもある湯川れい子さんが、6月5日の読売新聞の『時代の証言者』という欄に書いていました。〈「ビートルズを聴くと不良になる」とまことしやかに言われたことがありました〉私も子どもの頃、このフレーズをまわりの大人から聞いた記憶があります。当時日本では、彼らの長髪のことがよくとり上げられていました。しかし、実際は、髪はそう長くはなかった。ビートルズが来日したのは、彼らの作品(アルバム)で言えば『ラバー・ソウル』と『リボルバー』の間の時期です。ジャケット写真を見ても、武道館でのコンサートの写真を見ても、彼らのヘヤースタイルは今ならごくふつうです。真面目な青年風で、就活に行っても問題ありません。
もう何年も前に、日本の音楽の教科書にビートルズの曲が採用されました。お固い文部省が、彼らの価値を早くから認めていたわけです。今治市の獣医学部の新設には長年難色を示し、結局は、内閣府に押し切られて、やっと・・・のお役所が。話が反れそうですので、元に戻します。

ビートルズの初期の歴史です。日本では1964年2月に、【抱きしめたい】がデビューシングルとして発売されました。同じ月に、彼らはニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを行い、アメリカデビューを果たしました。その時の日本の新聞の第一報は、「ティーンエイジャーの悲鳴と興奮で、音楽の殿堂はかつてみないほどの混乱をみせ、警官隊まで出動した」でした。当時からすでに彼らの才能は、その曲の中にふんだんに現れていたのですが、初めはミーハーのための音楽のように受けとめられていました。
それから半世紀が経ちました。メンバーの中で生きているのはポールとリンゴになりました。ポールのシンガーソングライターとしての功績はとても大きく、国際的なさまざま栄誉や賞を授与されています。1965年にMBE勲章(大英帝国五等勲章)を受章、1997にはそれがナイト爵位に格上げされました。彼にはSirの称号が用いられます。映画『LET IT BE』で、1971年の米国アカデミー賞の歌曲・編曲賞を受賞。2010年には、アメリカで作曲家・演奏家に贈られる最高の栄誉であるガーシュウィン賞を外国人として初めて受賞しました。2012年のロンドン・オリンピックでは、国を代表する人物として、開会式の終わりに名曲【ヘイ・ジュード】を熱唱しました。同じ年に、フランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受賞しました。ポールは史上最も成功を収めたソングライターとしてギネスに認定されています。

(ここから先はマニアにしかわからない内容です。すみません。おわかりになる方とは、すぐ友だちになれるかもしれません。)
東京ドームでのコンサート中、ポールが「どうやって曲を作るんだとよく聞かれるのだけど、この曲はこういうふうにしてできたんだ」と言って、アコースティック・ギターを弾き始めました。長い長い前奏から次第にどこかで聞いたことのあるようなメロディーに変わっていきました。【You Won't See Me】でした。この曲はアルバム『ラバー・ソウル』に入っている曲です。このアルバムには【Norwegian Wood(ノルウェーの森)】【Nowhere Man(ひとりぼっちのあいつ)】【ミッシェル】【In My Life】などの曲が入っています。とくに【ノルウェーの森】は、名だたるアーティストたちが「名曲だ」「大好きな曲だ」と賞賛している曲です。しかし、私はラバー・ソウルの中では【You Won't See Me】が一番好きでした。「ふーん、こうやってできたのか、この曲は」ポール自身から裏話が聞けたようで、うれしかったです。
ポールがピアノを弾き、歌い始めたのが【The Fool On The Hill】でした。これはアルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』の中の曲です。このアルバムの中には【ペニー・レイン】【ストロベリー・フィールズ・フォーエバー】【愛こそはすべて】【ハロー・グッドバイ】などの有名な名曲が入っています。ちなみに、当院の電話の保留音は、今は【ペニー・レイン】です。しかし、私はその【The Fool On The Hill】が昔から好きでした。原曲と違って、彼はピアノを弾きながら歌いましたが、いい雰囲気でした。そして、「ポールも好きなんだな、この曲が」と思い、これまたうれしく感じました。
ビートルズの代表作『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売されてから6月1日で50年を迎えました。このことについては、コンサート中にポール自身が触れていました。このアルバムは「永遠の金字塔」「歴史的名盤」などと言われています。オーケストラなどを取り入れた華やかな音はロックの可能性を広げ、米国ローリング・ストーン誌の「偉大なアルバム500選」の1位に選ばれています。『サージェント・ペパーズ・・』50週年を記念し、音を現代的に再構成したリミックス版が発売されました。今回リミックスを手がけたのは、ビートルズ時代のプロデューサー、ジョージ・マーチン氏(昨年死去しました)の息子さんです。東京ドームに入場するときに、受付で渡された唯一のチラシがそれでした。

うーん、もっともっと書きたいのですが、字数の関係でここらで終わりにします。この人に関係する知識や話題は豊富にもっています。いずれまた。



 松代・川中島

平成29年5月 

平成27年5月5日午後1時頃、私は長野市の南、松代城の前にいました。2年前の5月の連休中です。雲一つない、澄みきった青空でした。遠くに雪をかぶった北アルプスの山々が見えました。
前日の夜11時頃、宿泊していた湯田中温泉の貸し切りの露天風呂に入っている時は、強い雨が降っていました。湯船に浸かっていると、その雨と風が妙に心地よかった記憶があります。朝起きると、快晴でした。長野市まで戻り、JR長野駅内の観光案内所で観光タクシーを紹介してもらいました。帰りの新幹線の時間までの4時間コースを選びました。運転手さんから行き先、コースについていろいろ聞かれましたが、ほとんどおまかせしました。その結果、川中島古戦場、松代城、真田文武学校、真田宝物館、真田邸などに行くことになりました。
今回の歳時記は、過去の2つの歳時記の続編になるかもしれません。一つは平成27年5月に書いた『信濃の春』、もう一つは平成29年2月の『真田丸』です。

北信濃、長野市の南に位置する松代は真田十万石のお膝元で、松代藩は江戸時代、信濃最大の藩として栄えました。初代藩主は真田信之です。昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』を観ていた方はよくご存知と思います。大泉洋さんがその役を演じていました。この人物は、戦国武将として名高い真田幸村(信繁)の兄であり、かつ徳川軍を2度破った名将真田昌幸の嫡男です。真田と言えば信州上田というイメージが強いのですが、上田にいたのは39年間でした。大阪夏の陣の7年後1622年に、真田信之は上田から移封されて、松代に来ました。彼とその子孫が10代250年の長きに渡って、この信州の雄藩を治めました。今でも町の随所に文化遺産が残り、往時の名残をとどめています。
写真1は松代城の本丸跡です。内堀にかかる太鼓門橋を渡って本丸の中へ入りました。ゴールデン・ウィークのさなかでしたが、城の外にも中にも観光客はあまりいませんでした。前日に訪れた善光寺は、6年毎の「善光寺御開帳」の年でしたので大勢の人がいました。大河ドラマ『真田丸』が始まる前の年なのに、少し拍子抜けしました。
ところで、この松代城は、平成25年の映画『清州会議』のロケが行われた所で、映画の中で出てくる清須城は実はこの松代城でした。清州会議が開かれたのは、安土桃山時代の天正10年(1582年)です。「本能寺の変」で織田信長を自害に追い込んだ明智光秀を、秀吉が「山崎の合戦」で破ったあとです。信長亡き後の織田家の後継問題、織田領地の再分配を決める重要な会議でした。この会議のあと、織田家で最も影響力を持っていた柴田勝家の力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位に就くことになりました。監督は三谷幸喜、羽柴秀吉役は大泉洋、信長の妹・お市の方は鈴木京香、織田家重臣 丹羽長秀は小日向文世でした。もうお気づきになられたと思いますが、『真田丸』とキャスティングが似かよっています。『真田丸』では脚本が三谷、大泉洋は真田信之、鈴木京香は北政所ねね、小日向文世が秀吉を演じました。
さて、松代城の中に入ると、「海津城址の碑」と書かれた大きな石碑が立っていました。 そうです、「川中島の合戦」で有名なあの海津城です。松代城の基礎となったのは、戦国時代時代に武田信玄上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城なのです。川中島を目の前にした武田の最前線の城で、川中島の合戦の中心にあった城です。海津城(松代城)の近くに、川中島の合戦のときに上杉謙信が陣を敷いた妻女山があります。この場所とあの山で武田信玄と上杉謙信が対峙していたのかと、感慨にふけりました。
川中島古戦場はすぐ近くにあります。頼山陽の詩句「鞭声粛粛(べんせい しゅくしゅく)夜河を渡る」を思い出しました。この城跡に来る前に、八幡原史跡公園で「信玄・謙信一騎打ちの像」を見てきました(写真2)。大型時代劇や映画で、数々の名俳優が演じてきたシーンです。タクシーの運転手さんが「ここはあまり知られていません」と、山本勘助の墓に連れて行ってくれました。確かに、知っている人がいないと来られない場所でした。千曲川の土手の内側のひっそりとした畑の片隅に、質素なお墓がありました。山本勘助は武田信玄の軍師で、川中島の合戦で戦死しました。平成19年のNHK大河ドラマ『風林火山』はこの山本勘助の生涯を描いたものでした。ちなみに、主演は内野聖陽さんでした。
このあたりは、歴史好き、時代劇ファンにはたまらない場所です。このあと、松代藩文武学校、真田宝物館、真田邸へと向かいました。それはまたいつか(いつになることやら)。

 
写真1. 松代城本丸 後ろ姿の二人は私とタクシーの運転手さんです(平成27年5月5日)
  写真2. 信玄・謙信一騎打ちの像 時代劇によく出てくる名シーンです(八幡原史跡公園)




 ポール・マッカートニー コンサート

平成29年5月 

「この人は本当に音楽が好きなんだな」盛り上がっているコンサートの最中にそう思いました。実に楽しそうに、大勢のファンの前で歌い、演奏をしていました。まさしく「音・楽」です。4月29日、ロック界いやミュージック界全体の至宝、ポール・マッカトニーコンサートに行ってきました。私にとっては、本当に「やっと」という感じでした。

写真1
はちょうど3年前の写真(2014年5月17日)です。この時のコンサート会場となっていた東京国立競技場のゲート前の写真です。会場に着いて、まずポールの記念グッズを買って、準備万端で入場ゲートのすぐ前で、開場を今や遅しと待っていた時でした。「今日のポール・マッカトニーのコンサートは中止になりました」と、係の人がハンドマイクで叫びました。大勢の人のどよめき、落胆の叫びが周囲に起こり、青ざめた顔がありました。その場にしゃがみ込む人もいました。私もその一人でした。愛媛から張り切って出て来ていました。宿泊はホテルオークラを予約し、コンサートのあとはそのホテルのラウンジで祝杯をあげる予定でした。ちなみに、ホテルオークラはアメリカ大使館のすぐ横にあり、その前の月、4月の終わりにはオバマ大統領がそこに宿泊しました。安倍首相と「すきやばし次郎」に行った、あの来日のときです。

話を今回の東京ドーム・コンサートに戻します。前回のことがあるので、今度はそう早くからは会場には行きませんでした。でも、1時間前には自分の席を探して、座っていました。ポップコーンや焼き鳥などを食べながら時間をつぶしていると、見る見るうちに、会場内の人の数が増えていきました。開演時刻前には、東京ドームは満員の観客で埋まっていました(写真2)。ところが、開演時刻を過ぎて20分経ってもステージに動きがなく、「まさか、また・・・」と不安がよぎりました。この20分は本当に長く感じました。
突然、大きなスクリーンにポールのベースギターが映し出されました。ビートルズ初期の大ヒット曲【A Hard Day's Night】でコンサートがスタートしました。会場にいる約5万人の歓声が一気に沸き起こりました。ポールは「コンバンワ、ニッポン」「コンバンワ、トーキョードーム」と挨拶をしました。「キョーモ、ニホンゴ、ガンバリマス」どこで練習したのでしょうか、実際、時々日本語をしゃべっていました。 一方で、彼がしゃべった英語の方はすぐに訳されて、横のスクリーンに日本語で映し出されました。
ポールは、コンサートの途中でつぶやくように「ここはいい観客だ」と話しました。「いい」という表現に、彼は"beutiful"を使いました。あとで"nice"も使いました。確かに、この日の東京ドームの観客は良かった。盛り上がるところは盛り上がって、節度を守って楽しんでいました。「このあたりが、朝鮮半島や中国大陸の品のない民度の低い輩とは違うのよ」心の中で思いました。

ポールは2時間40分一度も休むことなく、39曲を歌い続けました。すごい体力と思いました。ふだんから健康に気をつけて、コンサートをやりきるためのトレーニングもしていると思いました。ギターを持った立ち姿も、あの声も昔のままでした。高音域の声もよく出ていました。考えてみれば、私は中学生の頃からこれまで、彼の声(歌)を1か月以上聞かなかったことはないです。ウイングス時代の【Jet】【Band on the Run】の前奏が流れ出した時は鳥肌が立ちました。「ジョージに捧げる」と語って【Something】を歌いはじめ、スクリーンに当時のポールとジョージ・ハリソンのツーショット写真が映し出された時は涙が出そうになりました。『レット・イット・ビー』のレコーディング・セッションの頃は、メンバーの気持ちがバラバラの状態になって、メンバー同士の不仲が誰の目にもわかりました。このコンサートの時に見たポールとジョージの写真では、二人ともいい表情でした。ビートルズの4人のメンバーが、もし今会えば、何のわだかまりもなく、笑顔で演奏し歌うことだろうと思いました。

ポール・マッカートニーと言えば、偉大な作曲家、ボーカル、ベーシストのイメージですが、楽器はピアノ、アコースティック・ギター、リードギター、リズムギター、ドラムス、ウクレレ、マンドリンなどを使いこなすオールラウンド・プレーヤーです。このコンサートでも、ベース、エレキギター、アコースティックギター、ピアノ、ウクレレなど演奏楽器を次々変えました。ベースをひいていたのは、全部の曲の1/3くらいだったと思います(写真34)。
Hey Jude】で本編が終了しました。この曲の終わりのコーラスのところでは、ポールが「ジョセイノカタ」「ツギハ ダンセイノカタ」と日本語でリードしながら、観衆と熱唱しました。アンコールは【Yesterday】で始まりました。アンコールの曲も終わりに近づいた時、ポールが「モウ、ソロソロ」と話して、会場に笑いが起こりました。終わりは、アルバム『アビーロード』の最後の部分、【Golden Slumbers】から【Carry That Weight】、【The End】までのメドレーでした。歌、演奏ともに完璧でした。
ポールのコンサートを心ゆくまで堪能し、混雑の中、水道橋の駅に向かって歩きました。これで私の体調不良が治ると感じました。

 
写真1. 開演直前の中止。3年前、国立競技場のゲート前で体の力が抜けました(平成26年5月17日)   写真2. ファンで埋めつくされた東京ドーム(平成29年4月29日)


 
写真3. ポールもしだいにのってきて、熱くなったのでしょう。ジャケットを脱いで、シャツの袖を上げています。   写真4. ピアノを弾きながらの熱唱。ポールはベース以外にもアコースティック・ギター、ウクレレ、エレキギターなどいろいろな楽器を演奏していました。




 『真田丸』

平成29年2月 

去年1年間、NHK大河ドラマ『真田丸』を楽しみに見させてもらいました。三谷幸喜さんの脚本が優れており、出演していた俳優さんたちも良かったです。中でも、大泉洋さんがいい味を出していました。彼はもともとタレント、コメディアンとして活躍していました。役者としても、ユーモラスな芝居やお調子者の役をすることが多かったのですが、近年は、彼の渋い演技にしばしば感心していました。
『真田丸』の中での大泉洋さんは、信州の大名 真田家の礎となった真田信之の役でした。徳川家の重臣・本多忠勝の娘と結婚し、関が原の戦いの前に信之は徳川の臣下(東軍)になりました。一方、父昌幸と弟信繁(幸村)は西軍につきました。豊臣家の最後となる大坂の陣では、兄と弟が徳川方、豊臣方に分かれて、戦うことになりました。嫡男信之は、結果的に真田の家を守りぬきました。その後、彼は信濃上田藩の初代藩主、のちに同じく信濃の松代藩の初代藩主となり、以後明治維新までその子孫が真田の家を継いでいきました。

この歳時記では、1)『真田丸』を見終わって 2)真田家と伊予との関わり 3)信州松代城界隈の3部に分けて書こうと考えています。これらを続けて書くかどうか、まだわかりません。これまでもそうだったように、第2部、第3部が間をあけてポツリンポツリンと出てくるような気がします。真田に関する歳時記は、平成27年5月に書いた『信濃の春』の続きと思ってください。

さて、『真田丸』の主人公は、堺雅人さんが演じる真田信繁幸村)でした。ドラマの前半は、草刈正雄さんが演じた父親の真田昌幸が主役のようでもありました。大泉洋さんは、真田昌幸の嫡男で、信繁の兄信之の役でした。この役は、初期においては、生真面目で慎重な性分ですが、活躍する場面が少なく、よくぼやいている、パッとしない人物として描かれていました。しかし、主役の堺さんと準主役の草刈さんの間に入り、大泉さんは地味ですが味のある演技をしていました。優柔不断な父親の言動に振り回される場面や、元の妻と新たに迎えた正室に挟まれてうろたえるシーン、怖い義父との対面のシーンなどでは笑わせてくれました。 ドラマ後半に、真田家の逸話で有名な「犬伏の別れ」がありました。関ヶ原の合戦を前に、真田親子が家の存続をかけて決断を下す名場面です。豊臣家と徳川家のどちらにつくべきかを議論し、真田家の将来を考え、大泉さん演ずる信之が、父と弟と袂を分かつ場面です。それまでの信之の真面目さゆえの苦悩、不器用さ、遠慮がちな生き方が、この場面で一転します。それまでの彼の様々なシーンはすべて、この場面のためにあったかのようでした。父に対し「たとえ徳川と豊臣に別れても常に真田は一つでございます」と堂々と意見を述べる姿、別れで涙する主人公の弟信繁の肩をたたいて笑顔で励ますシーンは、視聴者から大きな反響を呼びました。
去年の正月の特別番組『ブラタモリ』は、その年に始まる『真田丸』の宣伝のためのような番組でした。その中で、地元の案内役の人が言っていました。「真田と言えば信州上田ですが、真田は上田を何年治めたか、ご存知ですか。たった39年間です」天正11年(1583年)から元和8年(1622年)までの39年間です。確かに長くはないです。『真田丸』の最終回、その放送の最後は、ナレーションを務めた有働由美子アナウンサーの「これより7年後、真田信之は松代藩十万石の大名となった。そして幕末、松代藩は、徳川幕府崩壊のきっかけを作る、天才兵学者 佐久間象山を生み出すことになるのだが、それはまだ遠い先の話である。」の言葉で終わります。江戸の佐久間象山の塾生には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らがいました。彼らは、徳川の世を終わらせ、維新へと向かわせました。象山の登場は、真田家本来の「反徳川」が脈々と続いていたかのようです。

話は変わって、私は南予に来て12年になりますが、津島町の南楽園によく行きます。東予、中予に住んでいたときには、一度も行ったことがありませんでした。今月も南楽園「梅まつり」に行って参りました。紅梅、白梅、黄梅がきれいに咲いていました。この南楽園の中に「里の家」という茅葺きの農家を模した休憩所があります。その家の横に「お里帰りのアンズ」と題した説明板が立てられています。日付は昭和63年弥生月になっています。
その文章の中に、宇和島藩(伊達家)第二代藩主の姫君が、信濃松代藩(真田家)第三代藩主の正室としてお輿入れされたことが書かれています。私は、この説明文を『真田丸』よりずっと以前に読んでいました。松代藩第三代藩主と言えば、真田信之の孫に当ります。その文章の最後には、「伊達家と真田家はえにし深く・・」とあって、松代藩第十代藩主には宇和島藩主伊達家の長男が養嗣子に迎えられたことも書かれています。ちなみに、松代藩第四代藩主には伊予西条藩の姫君が正室として嫁いでいます。江戸時代、伊予から信濃までの距離はいかばかりのものだったでしょうか。説明板のタイトルの「お里帰りのアンズ」は千曲市の「あんずの里」と関係しています。その「あんずの里」は、平成25年4月に天皇、皇后両陛下が初めて「私的」な旅行をされた所です。
近いうちに、この続きを書きたいと思います。

 
南楽園の紅梅(平成29年2月25日)   説明板「お里帰りのアンズ」




 熱かった8月(2)

平成28年12月 

年末に真夏の8月のことを書いています。随分前のようですが、4か月前のことです。夏から冬はすぐです。地球は温まりにくく、冷めやすいのでしょうか。人の心と同じような気が・・・また話が逸れて行きそうなので、やめときます。それにしても、年々、冬が長く感じるようになりました。

ポケモンGO』この夏、大きな話題になった携帯ゲームアプリです。子どもや若者だけでなく、大人も熱中しました。スマホ画面に現れるモンスターをゲットしようと夢中になって、私有地に侵入したり、車の運転中に使用して事故を起こしたり、歩行中の使用で他の歩行者等と衝突したりするトラブルが頻発し、社会問題化しました。ポケモンGOは世界150カ国で配信されました。当院に来る製薬会社の若いMRさんや卸さんたちもこのゲームをしていました。当院のまわりや建物の中にはポケモンがわりといたようです。実際、ある方が診察室の中で、ピカチュウ、マダツボミを捕まえるところを見ました。第2駐車場にイーブイ、カビゴンがいたと聞きました。
8月14日には国民的アイドルグループのSMAPが解散を発表しました。日本中に大きな衝撃を与えました。このニュースは年末の今も週刊誌ネタとなっています。
今年の8月は、お盆を過ぎても暑さは和らぐことなく続きました。8月17日に知人に宛てた礼状の中に「毎日暑い日が続いています。大洲は連続10日以上猛暑日です。」という文を書いていました。

オリンピック8月21日までの17日間、ブラジルのリオデジャネイロで開催されました。リオデジャネイロは南半球の都市なので、季節は北半球の逆になります。開催地の気候が冬季で、夏季オリンピックが開催された初めてのケースでした。日本の選手は過去最多のメダル41個(金12、銀8,銅21)を獲得しました。応援をしながら思いました。日本にはりっぱな若者がまだたくさんいる。晴れ晴れとした気分にしてくれた期間でした。
選手たちはみんなよく頑張り、その活躍に順位は付けにくいです。しかし、私の個人的な評価でトップにくるのは、男子400mリレーの銀メダルです。これは歴史的快挙です。他の競技の金メダル以上、と言っては語弊がありますが、それくらいの価値のある結果だと思います。日本の陸上競技と言えばかつてはマラソンで、体格、体力で劣る日本人選手は短距離走は得意種目ではありませんでした。それがあのボルト選手がいるジャマイカに次ぐ2位でゴールし、記録は37秒60。9秒台の選手が1人もいない日本チームが37秒台で走りました。バトンパスの技術を磨いたことが大きかったのでしょう。それから、銅メダルでしたが、テニスの錦織圭選手は日本勢では96年ぶりに表彰台に立ちました。 内村航平選手は、体操男子団体総合と個人総合で2つの金メダルを獲得しました。彼は大変な苦労をしていました。五輪後のNHKの特別番組を見て、それを知りました。体操ニッポンの復活でしたが、若い世代の台頭もありました。白井健三選手の跳馬、床は実にきれいです。柔道もがんばりました。お家芸と言われながら、前回のロンドン大会では惨敗でした。重圧がのしかかっていた監督、コーチもさぞやうれしかったことでしょう。水泳の萩野公介選手は金メダルを含む3個のメダルを獲得しました。400m個人メドレーは、開会式翌日に始まった競技で、しかも最初に行われた決勝種目でした。彼のその金メダルで日本勢に勢いがついたように見えました。日本はバドミントンでも初の金メダルを取りました。
オリンピックを見ていると、若いアスリートに勇気づけられます。お前も頑張れと言われているような気がします。一方で、年をとったせいか、涙もろくなりました。選手たちの勝利のうれし涙には弱いです。

8月にはひと月に4つの台風が上陸しました。そのうちの3つは北海道に相次いで上陸しました。観測史上初めてのことでした。8月終わりに岩手県に上陸した台風10号は各地に甚大な被害を及ぼしました。他にも嫌なニュースがありました。8月上旬に尖閣列島近辺に多数の中国の船が侵入しました。8月24日には北朝鮮が潜水艦発射弾道ミサイルの発射実験をしました。このミサイルは約500km飛行しました。捜索が難しい海中の潜水艦から発射される弾道ミサイルは探知されにくく、実戦配備されれば、敵視されている日本や米国にとっては、安全保障上重大な脅威となります。これらの国は民主主義国家ではなく、何をするかわからない国です。何よりその事が怖いです。

当院の8月の状況については、ホームページで以下のように触れていました。8月19日:真夏でもRSウイルス感染症の子がいます。毎年この時期は医院ががらがらになるのですが、今年は患者さんがそこまでは減ってきません。23日:今日は、8月に入って最も患者さんが多かったです。手足口病、ヘルパンギーナの流行がないのに、咳で来る子どもさんが多いので、患者数が多くなっています。30日:ここ数年の間では最も患者数の多い8月となりました。この時期になっても、ヘルパンギーナ、手足口病の流行はありません。マイコプラズマ感染症が学童保育、部活に行っている小中学生で出ています。
8月の終わりにこういう文を書いていました。「8月が終わると、これで暑さも和らぎ過ごし安くなるかとほっとする反面、寂しい気持ちにもなります。」「今日、遅めの朝食のような昼食をとった後、何気にラジオをつけると、山下達郎の声が聞こえてきました(あの長寿番組です)。そして、かかった曲が『さよなら夏の日』でした。彼の名曲の一つです。」
これを読むと、随分前のことのような気がします。実にいろいろなことがあった暑い、熱い8月でした。



 熱かった8月(1)

平成28年12月 

師走も半ば、例年この時期、小児科は忙しい日が続きます。世の中全体が気ぜわしくなってきます。この先、どんどん寒くなっていくと思うと、気が滅入ってきます。
今、院長室の中は、無造作に積まれた新聞でいっぱいになっています。少しは減らそうと、一塊の新聞をつまんで取りあげると、8月の新聞でした。こんなに読んでなかったのかと思いました。それらの新聞の大きい見出しだけを見ていっても、8月はいろいろな事があった月でした。今年を象徴するひと月だったと思います。暑くて、そして、気持ちが熱くなった月でもありました。年の瀬が迫り寒くなってきたこの時期に、8月の事を書くのもいいかもしれないと考えました。この歳時記のタイトルは、敢えて「熱かった」としています。
今年の8月は本当に暑かった。何日か前のテレビのローカルニュースの中で、『一足早い、愛媛の今年1年を振り返って』というコーナーがありました。その中で、大洲では最高気温が35℃を超える猛暑日が21日間あり、20日間以上になったのは実に何年か振りだったと語っていました。

8月1日(月)の新聞の1面は、「都知事小池氏 初の女性 増田、鳥越氏破る」「元横綱・千代の富士死去 61歳 優勝31回、国民栄誉賞」でした。お二人とも強引とも見えるやり方で勝負を仕掛ける。そして、豪快に勝つ。共通点があるように感じます。小池さんは、前都知事の舛添氏が政治資金使途の公私混同問題で辞任したあと、いち早く立候補を表明しました。党の公認が得られませんでしたが、そのことも含めて、選挙戦の流れを読み切っていたように見えました。最近は東京五輪の会場問題や豊洲市場問題で都議会に押されていました。ただこの女性は、都議会議員あたりの人間とは政治家としての役者が違います。細川元総理の誘いで政界入りし、小沢一朗氏の側近、小泉純一郎元総理の「郵政解散」の際の刺客、第1次安倍内閣で初の女性防衛大臣、自民党総務会長などなど、キャリアが違います。横綱千代の富士は現役時代「小さな大横綱」と呼ばれました。豪快な上手投げで勝つ姿は見ていても気持ちが良かった。横綱らしい勝ち方でした。また、足を高く上げる彼の土俵入りは美しかった。ただ、往々にしてありますが、強すぎる人は敵もできてしまいます。

8月3日(水)には内閣改造がありました。首相は第1次内閣が1年という短命で倒れた後、5年を経て「カムバック」しました。前の政権の時の失敗体験が生きているのでしょうか、政権を奪還した2012年12月の衆議院選以来、4回の国政選挙で勝利しています。「安倍1強」で「ポスト安倍」がいない政治情勢です。
リオ五輪の開会式が日本時間の8月6日午前8時から始まりました。くしくも、この日この時間は広島に原爆が投下された日時(正確には午前8時15分)でした。日本人にとって忘れることのできない不幸な日に、地球のちょうど裏側で平和の祭典が始まりました。対照的です。オリンピックは、このあと8月21日までの17日間に渡って熱戦が繰り広げられました。日本人選手が活躍した名勝負、名プレーが数々ありました。
8月7日(日)の当院のホームページにはこう書いていました。「朝から出かけるつもりでしたが、起きてカーテンを開けて見えた景色が、あまりにも暑そうでした。クリニックの医療器械が心配で家の玄関を出たら、あまりの暑さにグラっときました。」「16時頃からの雨は大粒で激しく降り、雷を伴っていました。せっかくの日曜日でしたが、草や木には恵みの雨だったと思います。昼ごろ見た庭の植物は、暑さで瀕死の状態でした。」「18時頃、外に出ると、さっきの雨で気温が下がり、ひんやりしたが吹いていました。18時半頃、きれいな夕焼けが見えました。うとうとして19時過ぎに目を覚ますと、院長室の窓から晴れた西の空に三日月が出ていました。立秋だなと思いました。」
8月8日(月)当院は平成21年の8月8日に開院しました。7年が経ち、8年目のスタートでした。「ななほし」の7年が過ぎ、88日から8年目のスタート。7・7・7と8・8・8。多少こじつけぎみですが、縁起の良い数が並んでいました。この日には2つ大きな出来事がありました。アメリカ大リーグ、マイアミ・マーリンズのイチロー外野手が、日本時間の8日(現地時間では7日)コロラド州デンバーで行われたロッキーズ戦で3塁打を放ち、大リーグ史上30人目となる通算3000安打を達成しましたた。16年目での達成は、ピート・ローズと並ぶ最速でした。
この8日、天皇陛下が国民に向かって「お言葉」を述べられましたた。生前退位の意向を示唆する内容でした。陛下は平成24年に心臓バイパス手術を受けられました。今の82歳という年齢による体力の衰えについて、穏やかな表情で率直に語られました。「象徴」としての務めに対する強い思いも述べられました。陛下が語られた「お気持ち」の含意は、多くの国民に届いたと思います。終戦の玉音放送を思い出した年配の方もいたでしょう。「平成の玉音放送」と表現したメディアもありました。

このあとの後半で、リオ五輪での日本人選手の活躍、ポケモンGO、4つの台風の上陸、RSウイルス・マイコプラズマ感染症など今年8月のこの地域の病気等について、述べたいと思います。



 立冬 快晴

平成28年11月 

11月7日は立冬でした。昼間は雲一つない快晴で、抜けるような青空でした。
今年は、医院の中庭のみかんが大きく実りました。このみかんの木は、7年前、当院が開院するときに植えたものですが、3年前までは木がやせ衰え、実を付けなくなっていました。シルバーの植木屋さんが、2年半前に今の場所に植え替えてくれて、木や葉っぱに勢いが出ました。どんどん大きくなり、大きな実を付けるようになりました。この日、昼休憩の時間に、みかんを採って職員と写真を撮りました。カレンダーを見ると、大安でした。本当に縁起の良い日だと感じました。
前日、北海道では記録的な積雪があったと報道されていました。このあたりも、これから徐々に寒くなっていくと思います。

今、寒さなんか関係なく、熱く燃えている国があります。アメリカ合衆国と韓国です。お隣の国のことは大して興味はないのですが、日本を嫌い「告げ口外交」をしていたあの大統領が袋叩きにあっています。「国の代表があれほど謝っているのだから、もう許してやろうよ」と、誰も言わないのがこの国の凄い(怖い)ところです。この文を書いている時間(11月8日夜10時)、アメリカでは大統領選挙の投票が始まりました。不人気な候補者同士と言われ、選挙戦はネガティブな要素で案外盛り上がっていたようにみえました。私たち夫婦は、4月の終わりから1週間ニューヨークに行っていました。ジョン・F・ケネディ空港に迎え来てくれた現地の日本人ドライバーが、「トランプが勝つかもしれない」と語っていたことを思い出します。

今、快晴の天気で思い出すのが、4月30日のニューヨークです。その日は早朝から良い天気でした。午前中、ガイドさんと日本人運転手のハイヤー(レクサス)に乗ってマンハッタンを観光し、昼食後、クルーズ船に乗りました。すぐ近くにブルックリン・ブリッジが見える港からイースト・リバーを南に下り、自由の女神に向かいました。この時のきれいな空の色、風の心地良さ、それとクルーズ終了時に船内でかかっていたフランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」の曲が忘れられません。
例によって、話が反れぎみでしたが、日本の晩秋ニューヨークの春の快晴の日、どちらも素晴らしいものでした。

 
11月7日(月)立冬、大安
雲一つない抜けるような青空でした
  今年は蜜柑が大きく実りました


 ニューヨーク(2016年4月30日)
今年、快晴で思い出すのがこの日です。写真はクルーズ
船から見たマンハッタンの景色です。




 青森、秋田の旅 (2)

平成28年10月 

10月9日(日)の昼前、秋田県大館市のJR大館駅の前にいました。日は差していましたが、風の強い日でした。車をレンタカーの営業所の中に入れて、女性職員にカーナビの使い方を聞きました。その店員が「これからどちらへ行かれます」 私「時間が余ったので、八郎潟にでも」 店員「えっ、はち、八郎潟ー」彼女はびっくりしていました。私「八郎潟は、小学校の時、社会の授業で習った記憶がある・・」それからの会話で、八郎潟行きを思いとどまらせようとする彼女の必死さが伝わってきたので、素直にあきらめました。そもそもその場所からはかなり遠く、おまけに、連休で混んでいて、片道3時間くらいかかるとのことでした。ちなみに、秋田県や岩手県は大変広いです。愛媛県の2倍、3倍の面積です。地図では同じような広さに見えますが、縮尺が異なっています。
その店員さんに「どちらから来られたのですか」と聞かれました。愛媛と答えると、これにも目を丸くして驚いていました。私が「今、ここで、日本全国の都道府県に行ったことになりました」と話すと、すごく喜んでくれました。「おめでとうございます。それじゃあ、ぜひ」と、『大館きりたんぽまつり』のことを教えてくれました。駅前からシャトルバスがでているので、会場へはそれで行くよう勧められました。駅前でバスに乗る人らを案内していた男女のきりたんぽまつり関係者にも、秋田県内のどこから来たのか尋ねられました。彼らも「愛媛県て、確か四国ですよね」と、えらい驚きようでした。まあ、そうだろうな、逆なら、こっちだってたまげるわなと思いました。
『きりたんぽまつり』会場に向かうバスはギューギュー詰めの満員で、会場のドームの中、周囲も人・人・人で大盛況でした。そのあたりの駐車場はどこも車がいっぱいでした。レンタカー会社の方がバスで行くようにと言った理由がわかりました。会場の 大館樹海ドームは、秋田杉を2万5千本も使った国内最大の木造建築です。野球、サッカー、テニスなどのスポーツをはじめ、コンサートなど各種イベントに使われています。ちなみに、あのSMAPやKinKi Kids、B'Zもここでコンサートをしています。
秋田と言えば、きりたんぽ。大館市は「きりたんぽの本場」と呼ばれています。きりたんぽとは、つぶしたお米のご飯を竹輪のように細い棒に巻き付けて焼き、棒から外して食べやすく切った食べ物です。切る前の段階のきりたんぽは、正しくは「たんぽ」と言います。会場内で、家内と一緒に、焼いたたんぽに味噌を塗った「味噌付けたんぽ」をいただきました。収穫したばかりの秋田の新米に味噌がよくマッチしておいしかったです。特産の地鶏を使ったきりたんぽ鍋にも人気がありました。長い行列ができていました。地鶏のガラでだしをとったスープが最高でした。それ以外にも、焼き鳥、唐揚げ、お好み焼き、焼きそば、うどん、そば、ラーメン、カレー、牛タン焼き、漬物、地酒、饅頭、大判焼き、ワッフル、ポテト、アイスクリーム、キャラクターグッズなど、それはそれはたくさんの店が広い会場の中にありました。ステージでジャズコンサートもしていました。ドームの外には秋田犬がいました。樹海ドームを出てバス停に向かうと、ここにも列ができていました。バスは分単位で到着していましたが、どれも満員になりました。帰りのバスの中で「こういう行きあたりばったりの旅もいいな」と思いました。

レンタカー会社の店員さんにお礼を言って、宿泊ホテルのある青森方面に引っ返しました。県境を越えた所の道の駅「いかりがせき」に寄りました。途中、雨が降っていましたが、そこに着いた時はやんでいました。焼き鳥、アイスクリームを食べて、あたりを歩くと、立派な門がありました。碇ヶ関の関所が復元されていました。説明文には、伊能忠敬や吉田松陰もそこに来たと書かれていました。吉田松陰は、この関所を通ったあと、弘前城下、さらに津軽半島を北上し竜飛岬まで行っています。国防についての認識を深めるためだったようです。彼の一生は短かったのに、山口生まれの彼がここまで来ている。その情熱に凄みを感じました。その情熱が明治維新の志士たちを動かしたのでしょう。
日が暮れる前に宿泊するホテルに着きました。青森県南部の大鰐温泉「星野リゾート 界 津軽」でした。雨が降った様子がありましたが、着いた頃は晴れていました。まわりのりんご畑には、りんごがたわわに実っていました。津軽の赤い夕日とりんご。愛媛生まれの愛媛育ちの私にとっては、見たことのない美しい景色でした。
りっぱなホテルと部屋でした。自然と静寂に包まれ、何もしないで休日をゆったり過ごすにはもってこいの所でした。大浴場に2回入りました。湯船にリンゴがたくさん浮かんでいました。大きな窓ガラスを開けたままにしており、外から冷たい空気が入り込んでいましたが、一旦湯に入ると、心地よい肌寒さでした。目の前の林と空を見ながら、自然を満喫したひと時でした。風呂場から出た所には小さい缶のビールや清涼飲料水が置いてありました。タダでした。これもうれしかった。夕食は特別会席を予約していました。料理に使われる食材は、大間のマグロなど青森産の食材を厳選していました。食後にロビーで津軽三味線の演奏を鑑賞しました。最後の「津軽じょんがら節」の音の迫力と、演奏者の見事なバチさばきに感動しました。
津軽と秋田の県北部の旅。実にけっこうな旅でした。

 
きりたんぽまつり(大館樹海ドーム)   ドームの外できりたんぽ作り


 
特別会席(星野リゾート界 津軽)   りんご湯・古代檜の湯殿




 青森、秋田の旅 (1)

平成28年10月 

青森空港に到着したのは夜10時頃で、横なぐりの雨が降っていました。松山→羽田、羽田→青森の飛行機がどちらも遅れました。ホテルに着いてもレストランは終わっており、フロントで傘を借りて夜の街に出かけました。その時は雨が降ったりやんだりの状態でした。夜の11時だというのに、店にも道にも大勢の人がいました。
朝、ホテルの部屋を出ると、廊下の端の窓から光が差し込み、青空が見えました。窓に近づくと海も見えてきて、外を見渡すと、瞬間に「ここは青森」と実感しました。大きな青森の地図を見ているようでした。目の前の海は青森湾陸奥湾で、左前方に津軽半島が伸びていました。この先端が竜飛岬かと思いました。青函連絡船の港だったと思われる場所もすぐわかりました。
ホテルのビュッフェスタイルの朝食会場には、東北らしい食材が並んでいました。とても美味しかったのですが、塩分を控えないといけない私にとっては、その辛さが少し気になりました。ホテルからレンタカー会社の支店までは歩いて行ける距離でしたが、チェックアウトの頃には、外はもやがかかったようになっていて、雨も少し降っていました。ここは天気があっという間に変わるな、と思いました。ホテルのフロントの人がタクシーを呼んでくれました。距離が近すぎてタクシーには気の毒でしたが、初老の運転手さんはとても親切で、レンタカー店に到着しても、タクシーの中で青森のことをいろいろ教えてくれました。その運転手さんの話で、その日の旅のコースが決まりました。
私にとって、今回の旅行は、青森県と秋田県に行くことが主目的でした。この2県だけが行ったことのない県として残っていました。宿泊ホテルこそ決まっていましたが、両県のどこを訪れるかは決めていませんでした。とにかく、青森県と秋田県に赴いて、全国すべての都道府県訪問を完了させたかったわけです。ここで言う「行った」とは、鉄道や車で素通りしたのは含まず、その県のどこかの地に足を下ろしたということです。富山、新潟、福島、岩手、秋田の5県以外では宿泊をしています。
旅行会社の担当者が作ってくれた企画提案書では、その日は十和田湖に行くことを勧めていました。十和田湖の中に青森県と秋田県の境界があり、紅葉を見ながら両県訪問の目的を達するという都合のよい案でした。紳士のタクシー運転手が「道路がくねくね続きます。車もバスも多いです。後ろからくっついて付いて来る車は、横によけて、先に行かせて下さい。」これを聞いていくのをやめようと思いました。私はもともとドライブは好きではありません。「でも、今は一番のシーズンですよ」とも言ってくれたのですが、気持ちは変わらなかったです。


青森駅前でレンタカーを借りて、東北自動車道に乗り、津軽平野の東端を南下しました。右手に円錐形のきれいな形の山が見えてきました。その形から津軽富士とすぐわかりました。地図を調べると、岩木山でした。太宰治がその山容を「十二単を拡げたよう」と喩えています。走っている高速道路の横には延々と広がるリンゴ畑がありました。サービスエリア津軽で、名峰・岩木山をしばらく眺めていました。カーナビの指示に従って、県境の碇(いかり)ヶ関インターで高速を降り、国道7号線で秋田県に入りました。これで、私は日本全国すべての都道府県に行ったことになりました。

その日は、雲が多く時おり強く雨が降っていましたが、JR大館駅に到着した時は晴れ間が見えていました。青森のレンタカー店の若い男性職員がカーナビでセットしてくれた最初の場所がここでした。全く知らなかったのですが、その駅前には「忠犬ハチ公像」がありました。東京渋谷の忠犬ハチ公の故郷は、ここ大館市でした。ナビの示していた到着時間より随分早く着いていました。あとでわかったのですが、そのナビの到着時間は、その日の最終目的地の宿泊ホテルに着く時間でした。時間が余りすぎているので、秋田県内の別の場所に行こうとナビを触っていると、思うように使えず、何が何だかわからなくなってきました。困り果てて顔を上げて外を見ると、目の前に、今乗っているレンタカーの営業所がありました。ここから先の話は、次のパート2で述べていきます。

 
名峰・岩木山(弘前市)   忠犬ハチ公像(JR大館駅前)




 梅雨明け

平成28年7月 

先週、このホームページのトップに『7月も半ばとなりました。気の早い話かもしれませんが、あと3週間で立秋です。1か月すればお盆です。そろそろ梅雨も開けてもらわないと、がなくなります。』と書きました。今日は7月18日。月曜日ですが祝日の「海の日」で、ちまたでは3連休の最終日でした。朝からいい天気でした。そろそろかなと思っていたら、梅雨開け宣言が出ました。やっとという感じですが、記録によると、7月18日というのは四国地方の平年の梅雨明けの日でした。

今日は、当院が小児休日当番医に当っている日でもありました。96名の子どもさんが来院しました。多くは、いわゆる夏かぜでした。重症者がいなくて、ほっとしています。小児医を35年やっていますが、今でも休日当番日の前は緊張します。前日には、蘇生に使う器具、救急カートの中の薬剤の点検等のため、医院の処置室に必ず行きます。けいれん重積やアナフィラキシーショックのときの薬の種類、投与量を確認します。当番医の前日に遠出はしません。
本日、来院者数はまあまあ多かったのですが、冬の当番医の時のように検査や処置が多くないので、診療は早めに終わりました。片付け、簡単な掃除をするために残る最後の職員も18時前には帰りました。日は少しづつ短くなっていますが、まだまだ日暮れは遅いです。仕事が終わって疲れていても、外が明るいと、得をした気分になります。医院の外に出てみると、左下がわずかに欠けた月が出ていました。「明日が満月だろうか」。今から昼の弁当の残りを食べる→眠くなる→仮眠をとる、といういつものコースをたどるのが、もったいないような夕方の景色でした。家内を呼んで「ちょっと、どっかに行ってみるか」「どこに行くん」。

行き先が決まらないまま、車庫から車を出して、出発しました。結局、がある方向、長浜方面に向かいました。潮が満ちているのか、肱川河口近くの水位が高いように見えました。海水浴場に近づくと、泳ぎ終わって自転車で帰る中学生の小集団に会いました。釣りをしている人らが車を停めている場所に愛車を停めて、海岸に向かって歩きました。潮の香りがしました。眩しい夕日ときらきら光る海をしばらく眺めていました。漁船が何隻か見えました。(ハモ)漁かなあ。散歩をしている老夫婦が近くを通り過ぎました。脳梗塞の後遺症でしょうか、奥さんの方が足が不自由そうでした。ご主人が少し手伝っている様子で、奥さんのリハビリを兼ねた散歩のように見えました。18時半を過ぎていましたが、まだまだ明るさがありました。
帰途につき、白滝から橋を渡って肱川の対岸に進み、から川沿いに上流に向かって車を走らせました。道端のあじさいが年老いたようになっていました。八多喜で再び橋を渡り、祇園さんの近くの土手に車を止めました。肱川をしばらく眺めていました。本流から逸(そ)れた水のたまった所にはアメンボウの姿がありました。鳥の鳴き声がよく聞こえてきました。 
19時過ぎに家に戻りました。ほぼ円形の薄い色の月がさっきより高いところにありました。筋雲が少し見えるだけの晴れた夕暮れでした。明日から何か良いことがあるような気がしました。

 
今年の7月18日(18時半頃)
きれいな夕日と海です
  去年の7月18日(12時半頃)
まさに白砂青松の地です

偶然ですが、今年も去年も長浜に行っていました。夏になると、海に向かうのでしょうか。



 快晴のロンドン(2)

平成28年7月 

7月7日の七夕の頃、日本では、梅雨の末期でぐずついた天気が続きます。前回と今回の2回にわたって、3年前のちょうど今頃のロンドンの話をしております。実際に行ったのは家内と長女で、家内の話と彼女が撮った写真がこの原稿の元になっています。期間中連日、ロンドンはきれいに晴れわたり、とても気持ちの良い旅だったようです。本来、ロンドンは「霧のロンドン」と言われるくらい、天気の良い日が少ないことで有名です。
(前回からの続き)世界遺産ウェストミンスター寺院の前を車で通り過ぎました。中に入るのを待つ人々で長い行列ができていました。車窓から見えた芝生がとてもきれいでした。ロンドンの中心部を流れるテムズ川の遊覧をしました。ビッグベンロンドン・アイ(観覧車)を近くで見ることができました。タワーブリッジは2つの塔を持つ見栄えの良い、世界的に有名な跳ね橋です。ロンドン橋としばしば勘違いされています。映画「ハリー・ポッター」に出てくる有名な駅、キングス・クロス駅にも行きました。映画の1シーンをまねて、そこで写真を撮ってもらいました。

アビー・ロード。ビートルズのアルバムの題名にもなっているロンドンの通りの名前です。レコーディング・スタジオ前の横断歩道をメンバー4人が歩くジャケット写真は、レコード・ジャケット史上最も有名なものになっています。そして、ここは世界一有名な横断歩道として、人気の観光スポットになっています。訪れた時も、様々な人種の大勢の観光客がいました。人々はあの写真をまねて、横断歩道を渡りながらポーズを取り、その姿を撮ってもらっていました。長年来のビートルズファンの私が、この憧れの横断歩道を、家内に先に渡られてしまいました。7月なので木の緑が濃かったそうです。ちなみに、このジャケット写真が撮られたのは8月8日で、当院の開院日と同じです。EMIスタジオは、そのレコードが大ヒットしたので、「アビー・ロード・スタジオ」に改称されました。スタジオの入り口までの階段は、ビートルズのメンバーが何度も昇り降りした場所です。入口のドアの所から、中をちらっと見ることができました。当院の電話の保留音は、開院時は「ヘイ・ジュード」でした。次は「ウーマン」。現在は3曲目の「ペニーレーン」です。ロンドンでの市内観光ガイドを務めてくれたデービットさんは、「ヘイ・ジュード」の録音現場の集団の中にいました。

伝統ある古い造りのホテルで、本場の英国式アフタヌーンティーをいただきました。暖炉のある部屋でした。アフタヌーンティーは3段に盛りつけて提供されます。当然、紅茶がついています。1段めがケーキとゼリー、2段めがスコーン、3段めにクロテッドクリームとジャム。これだけでも食べきれないのに、これにサンドイッチが付いていました。サンドイッチは載りきらないので、別の皿に置かれていました。ロンドンは、緯度でいうと、北海道より高い所にあり、樺太の中央より上です。このため、夏は日がとても長く、夜10時を過ぎても明るさが残っています。すごく得をしている気分になったそうです。
当時のイギリスの状況で、必ず触れておかないといけないのは、ウイリアム王子とキャサリン妃のご長男(ジョージ王子)が生まれる少し前だったことです。国中がお祝いムードに包まれていました。世界中のメディアが産院の前に張り込み、王室の人のそっくりさんが現れたり、新王子が誕生する日を当てる「賭け」が行われたりしていました。この頃は、通貨のポンドも強かったし、イギリスという国にまとまりがありました。
今のイギリスはどうでしょう。先月(6月23日)に行われた欧州連合(EU)残留か離脱かを問う英国の国民投票では、離脱支持派が僅差で残留派を破り、脱退方針が決まりました。国民のEUに対する不満が想像以上でした。離脱派は、EU法の肥大化に伴い、英国の主権が縮小することを批判しました。特に説得力を持ったのが「移民を制限する」との主張でした。 経済学者など専門家は一貫して離脱に反対しましたが、国民の耳には十分には届きませんでした。意外なことに、EU離脱派は勝ったのに、ぱっとしません。離脱派の有力指導者は敵前逃亡みたいなことをやっています。勝った後の確たる方針がなかったのでしょう。そして、EU離脱を選んだ多数の市民が、地元メディアに「離脱の意味をよく考えなかった」「後悔している」と答え、「扇動に踊らされた」と嘆いています。昨今、社会の特定の階層や組織を敵視し、響きの良い言葉で、現状に不満を持つ国民の共感を集める無責任な反グローバルのポピュリズム(大衆迎合主義)が、世界中とくにヨーロッパで広がっています。彼らのスローガンは「反○○」「反○○」。「反対すれば良い社会になる」というほど、現実は甘くないように思います。 日本でも似た事がよく起こっていますが。


ちなみに、私は3年前のその頃、七夕の10日後、生まれて初めて入院しました。3泊4日間ほどの検査入院でしたが、長く感じました。高島屋の屋上の観覧車を病室の窓から寂しく眺めていました。退院した2日後の7月22日にジョージ王子が誕生しました。

 
タワーブリッジ   アビーロードの横断歩道


 
英国風アフタヌーンティー  




 快晴のロンドン(1)

平成28年7月 

ここ最近、欧州連合(EU)離脱問題、首相辞意表明、新しい党首選びなど何かと話題の多いイギリス。首都はロンドンで歴史と伝統のある都市です。「霧のロンドン」と言われ、雨が多い所との評判があります。今回は、家内から聞いた「快晴のロンドン」の話です。
7月7日。「なな・なな」なのでうちのクリニックを想像する。そんな人はいませんね。7月7日は七夕です。ただし、今使われている新暦の7月7日は、梅雨がまだ開けてないことが多く、晴れる日は少ないです。むしろ、梅雨末期で大雨が降り、各地で土砂災害、洪水、浸水の被害が出たりします。今年も、前日までは晴れていたのに、7月7日当日は曇りで夜遅くには雨が降りだしました。二十四節気や風物詩と呼ばれるものは、やはり旧暦でないと、季節感とうまく合いません。

この時期は、日が長いため夕食が日暮れ前になることが多いです。食事をしながらテレビの天気予報を見ていた時に、家内がイギリス ロンドンの天気のことを話し始めました。ちょうど3年前のこの日(2013年7月7月)、家内はロンドンに行っていました。長女のイギリス留学(大学院)に際し、保護者兼荷物運びで一緒に付いて行きました。家内がロンドンに滞在したのは4日間でした(長女はそのままイギリスに残りました)が、その間ずっと快晴だったようです。地元に住むイギリス人の男性ガイドさんも、「こういうのは珍しい」と語っていたそうです。ちなみに、この英国人紳士のガイドさんは、日本語が堪能で、日本の歴史・地理にも詳しく、日本国内で訪れてない県は2か所だけとのことでした。もう一つ、驚いたのは、彼はビートルズの名曲「ヘイ・ジュード」の録音に立ち会っていました。彼が高校生の時、行き先を告げられず連れて行かれたのが、ビートルズのレコーディング現場だったそうです。たぶん、あのよく見るプロモーション・ビデオに写っているでしょう。彼は「その時のビートルズのメンバーの髪型、服装・服の色を今も鮮明に覚えている」と語ったそうです。話がこのままずっとそっちの方に行ってしまいそうですので、元に戻します。

すばらしい青空です。私「この時期の日本とはえらい違いやなあ」。家内が撮った100枚を超える旅行写真を見て、そう思いました。写真と実際に見たのではやはり差があるようで、自分の目で見たロンドンの風景はもっと良かったと言っています。到着する数日前までは、天気も悪く、7月でも肌寒かったそうです。ゴルフの全英オープンは毎年7月中旬に開催されますが、テレビ中継で映るゴルフ場の天気はたいてい良くないです。そして、寒そうです。「天候が良い年は全英オープンらしくない」と言われるくらいです。気まぐれな天気(じめじめとした雨、湿った強い風)にゴルファー達は苦しめられます。ただし、開催地がスコットランドですので、ロンドンとはまあまあ離れてはいます。家内の滞在期間中、気温は22℃くらいで暑くもなく寒くもなく、湿度が高くないのでとてもすがすがしく気持ちよかった、と言います。
ここから家内に任せます。バッキンガム宮殿は宿泊しているホテルから歩いて行ける距離でした。美しく風格のあるたたずまいでした。衛兵交代式も見ました。ロンドンの中心地、ピカデリーサーカスにも歩いて行きました。途中、英国王室御用達 紅茶専門店があり、そこに寄っておみやげの紅茶を買いました。日本大使館もそのあたりにあり、参議院選挙(前回平成25年の選挙)の期日前投票の受付をしていました。日本のデパート三越があって、その中のツアーデスクで、オプショナルツアーの相談をしました。1階には日本食売り場がありました。その三越はその後閉店したそうです。パブでイギリスの名物料理フィッシュ&チップスを食べました。イギリスの料理はあまり美味しくないと聞かされていたのですが、この大衆料理(白身魚のフライとポテト)は美味しかったです。
 このあと、翌日のウェストミンスター寺院、テムズ川の遊覧と続くのですが、そろそろ字数の限界です。残りは次回にします。もう少しお付き合い下さい。

 
バッキンガム宮殿   ピカデリーサーカス


 
英国王室御用達紅茶専門店   フィッシュ・アンド・チップス




 グレート・バリア・リーフ

平成28年4月 

ケアンズはオーストラリア大陸の北東岸、地図では右上の方、ヨーク岬半島の付け根にあります。南半球にあるケアンズの緯度は北半球のサイパンのそれに近く、気候は熱帯モンスーン気候に属しています。どこのお家も子どもが大きくなるにつれ、家族全員での旅行はだんだんできなくなってきます。ケアンズは、わが家の最後の家族旅行の地です。子どもたちの春休み中に訪れました。15年くらい前のことです。ケアンズの近くには、世界最大のサンゴ礁グレート・バリア・リーフが広がっています。今回はこの世界遺産の話を中心に述べます。

ケアンズの港から船で1時間くらい行ったところだったと思います。船長が船を停泊させたところは、グレート・バリア・リーフのサンゴ礁の中でした。人工の建築物が視界に入らず、青い空と海が広がっていました。船の上から見る海の色は、コバルトブルーのような濃い青ではなく、淡い青いわゆる水色でした。見上げる空も、紺碧の空ではなく、薄いそら色でした。「地球は青かった」と言ったのは、1961年4月世界初の有人宇宙飛行に成功した旧ソビエト連邦の軍人、宇宙飛行士のガガーリンです。彼のこの言葉は日本ではとても有名ですが、実は、正確な引用ではなかったと言われています。「青」ではなく、「薄青色」と語ったようです。英語訳では light blueです。彼が宇宙から見た地球の色は、このグレート・バリア・リーフで見る水色、空色ではなかったかと思ったりします。 また、そこにいて周囲を見渡すと、水平線が丸い円を描いていて、地球が丸いということを実感しました。
途中で、島に寄りました。以前、どこかで書きましたが、私は大学病院時代に、非常勤医師として働く病院に行くため、毎週1回、10年間に渡って高速艇に乗っていたので、船酔いはしないと思っていました。ところが、この時は天気が良いのに、酔ってしまいました。旅行中で疲れていたのかもしれません。その島での休憩で助かりました。子どもらもそうでした。島の名前は忘れましたが、サンゴが堆積してできた島で、純白の砂浜が印象的でした。海岸を歩くと、砂の感触を直に感じました。実に気持ちが良かったです。島には熱帯雨林の植物が生えていて、その緑と砂の白のコントラストが美しかったです。おかげで船酔いから回復しました。船は再び出発しました。
到着した目的地点は、陸から随分離れたところでしたが、あたりはサンゴ礁の浅瀬になっていました。用意していた海パンに着替えて、海に入りました。海水は冷たくなく、陽光で海中が明るく、サンゴのまわりには色とりどりの魚が泳いでいました。 船にはインドの団体客も乗船していました。そのインド人のおっちゃんらが下着のパンツ姿で海に飛び込んでいました。景色としては悪いのですが、彼らがとても楽しそうにしているので、なんとなく滑稽で憎めない感じでした。うるさいマナーの悪い中国人観光客よりはるかにいいです。

先月の3月28日の読売新聞に、「世界最大のサンゴ礁として人気が高い、オーストラリアのグレートバリアリーフで高海水温が続き、サンゴから共生する藻が逃げる「白化」が起きた。サンゴの半分が死んだ海域もあるという。(略)サンゴそのものが死ぬと、魚など他の生物もいなくなる。豊かな海中環境は長く失われてしまう。」という記事が出ていました。あの美しいサンゴ礁が、一体どうなっているのだろう、と心配になりました。温暖化などの気候変動や環境汚染は、現在さまざまなところに弊害をもたらしています。世界の自然七不思議の一つに挙げられるグレート・バリア・リーフとそこの貴重な生態系の破壊が懸念されます。

上記以外にも、ケアンズ滞在中は、キュランダ鉄道スカイレールに乗車して熱帯雨林や雄大な滝などの自然美を堪能しました。洞窟の中で見た土ボタルの神秘的な光は、今でも目に浮かびます。澄んだ夜空の満天の星も忘れることはできません。



 古都 長安(下)  ー 兵馬俑 ー

平成28年2月 

西安に行ったのは20年前の9月でした。昨年の秋に「古都 長安」の題で、この『歳時記』を書き始めました。(上)(中)を書き終え、シリーズ最後?の(下)を書いている今は、立春を過ぎてしまっています。この時期、中国は春節で、その連休を利用して大勢の中国人が日本やってきています。先ほどテレビで、大勢の中国人が出国する中国の空港と、中国人観光客でごった返す日本の空港の様子、そして、今や有名になった彼らの日本での「爆買い」のニュースが流れていました。

中国に初めて統一王朝を築いた秦の始皇帝(紀元前259年-紀元前210年)。彼は、中国の歴史のなかで最初に「皇帝」の称号を名乗りました。皇帝とは、諸国の王たちの上に君臨するという意味合いを持っています。始皇帝の時代は、今から2200年以上前のことです。これと比べると、「関ヶ原の戦い」はたかだか400年前、「源平合戦」は800年くらい前の出来事で、そんなに昔ではないということになります。卑弥呼は日本では大昔の人になりますが、始皇帝はそれよりさらに500年くらい前の人物です。
中国の歴史上で、始皇帝が登場するのは、春秋時代に続く戦国時代と呼ばれる時代です。当時中国には7つの国、いわゆる『戦国の七雄』(燕、斉、趙、魏、韓、楚、秦)が並び立ち、秦は西のはずれにある1国にすぎませんでした。ちなみに、これら7国のなかの楚は「四面楚歌」の楚です。秦が衰退する頃から歴史の表舞台に出てくる項羽や劉邦は楚の国の人です。彼らの祖国は始皇帝によって滅ぼされました。しかし、秦という国と始皇帝に対するこの二人の評価は全く異なります。このことは、いつかどこかでもう少し触れたいと思います。始皇帝は50歳で亡くなるまで、 官僚制度、中央集権、貨幣や計量単位の統一、万里の長城や兵馬俑坑を含む始皇帝陵の建設などを手がけました。彼が築いた国家は、当時の世界では例をみない最も進んだものでした。ここからは、その中の兵馬俑の話です。
西安市内のホテルから学会本部がチャーターしたバスで兵馬俑坑に向かいました。この日は小雨が降っていて、霧も出ていたように記憶しています。われわれが乗ったバスが目的地に着く少し前に、ガイド役を務めていた中国人の通訳の方が、「そこが始皇帝陵です」と指で示してくれました。当時は、仰々しく塀などで囲っているわけでなく、看板や塔も見当たらず、どこにでもある小さい山としか見えませんでした。しかし、ここには歴史上の重要な資料、考古学的な「謎」が、まだいっぱい埋もれたままになっています。兵馬俑は始皇帝陵の東1.5kmのところで、1974年(昭和49年)に農民の井戸掘り作業の途中で偶然発見されました。俑とは墓に副葬品として埋められた像のことで、兵士や馬をかたどっていることから兵馬俑と呼ばれます。兵馬俑は20世紀最大の考古学上の発見といわれています。発掘は現在も続けられており、秦王朝と始皇帝の歴史が徐々に解き明かされています。
バスが兵馬俑坑に着いた時、観光客はあまり来ていませんでした。そこの施設の中国人関係者がこちらをじっと見ていました。中国人は動いてない。だいたい止まっている。立ったままか、座ったままで、こちらを向いている。仕事をしていてもその動きは遅い。当時、これが私の中国人に対する印象でした。一緒に行ってた日本人の誰かが言った「共産主義の国で、人口もめちゃめちゃ多いので、日本人のようにシャカシャカ働いたら、する仕事がすぐになくなってしまう」という話が、まんざら間違いでもない気がしました。兵馬俑坑は、大きなドームで覆われている巨大空間でした。すごく広い室内プールを頭に思い浮かべて下さい。そのプールの中が水でなくて土で、ところどころに大きな兵士の像が集団で立っている。それをプールサイドから見下ろすような感じです。私が訪れた時は、兵馬俑が発見されてからまだ22年で、発掘はそれほど進んでおらず、多くの兵馬俑がまだ地中に埋もれている状態でした。その時から今日まで20年の年月が経ち、発掘、修復が進み、今では当時とは違った様子になっていると思います。現在は、坑全体の30~40パーセントが発掘されているそうです。ここまで来るのに40年の年月が経過していますので、単純計算すると、発掘完了まであと50年以上はかかることになります。
兵馬俑の数はおよそ8000体にのぼるとみられています。その数にも驚かされますが、顔立ち、髭、ポーズ、服や装備などにいろいろなバリエーションがあります。私がそこを訪れた時、坑のどこか1箇所、土の部分に降りられる場所があって、兵馬俑を間近で見た記憶があります。もしかしたら、中華医学会の方が一緒だったので、特別に見せてくれたのかもしれません。兵俑は、髪の一本一本まで精密に造られていました。まるで生きているかのような兵士の像でした。これらの像の身長は平均約180cmあります。秦の時代の兵士たちの中でも、精鋭の兵士の姿を表わしていると考えられています。この生き生きとした造形は、像の横にモデルがいて、職人がそれを見ながらつくった可能性が高いと言われています。もともと兵馬俑は色の付いた像で、10色以上の色で彩られたそうです。掘り出した俑を地上の空気に触れさせると、表面に残っていた色彩がたちまち変色してしまうようです。
今では、始皇帝陵の周辺に埋められた兵馬俑については、軍人をはじめ文官、芸人などあらゆる階級層や職業の人々を模した俑があることがわかっています。先にも述べましたが、兵馬俑が造られたのは遥か昔、2200年も前のことで、日本はまだ縄文時代から弥生時代に移行したばかりの頃です。その膨大な年月を越えて、それが地下の世界から蘇った。すごいものを見せてもらいました。中国の秦という国は、そんな昔に、中央集権、官僚制をもつ『近代国家』をつくりあげていたのです。いつか「古都長安 おわりに」を書こうかなと思いながら、稿を終えます。


 東京国立博物館での特別展『始皇帝と大兵馬俑』
これは家内が同博物館の記念撮影コーナーで撮ったレプリカです(平成27年12月3日)。



 ジョン・レノン

平成28年1月 

今回は年末年始の歳時記です。このタイトルと季節とは直接は結びつきませんが、読んでみて下さい。1980年12月8日。ジョン・レノンが亡くなった日です。先月のちょうどその日に、自宅で彼の曲を聴いていて、その事を思い出しました。そして、ホームページのトップに『12月8日は元ビートルズのメンバー ジョン・レノンの命日でした。1980年のこの日、彼は銃で撃たれて亡くなりました。40歳でした。35年前、学生だった私はこのニュースをバッティングセンターで知り、大きなショックを受けたことを覚えています。』と書きました。そのあとで、「そうだ、ホームページの歳時記の次の題はジョン・レノンで行こう」と思いつきました。しかし、12月は患者さんが最も多い月で、小児科医としての仕事が忙しく、また、つき合いで出席しないといけない忘年会などもあり、あっという間に12月の終わりが来てしまいました。そして、一旦は「ジョン・レノンは、来年の12月に書こう」に変わっていました。

今回の年末年始、当院は12月27日(日)に小児科休日当番医が当たっていました。職員にその日に休日出勤をさせましたので、今年はいつもの年より1日早い12月29日を仕事納めとしました。その日から1月3日までの5日間が休みになりました。うちのようなクリニックでは、これだけの日数を休むことはめったにありません。この年末年始の休みを利用して、たまっている録画したビデオを一つ一つ観ていくことにしました。まずは、「ブラタモリ」の軽井沢編。
軽井沢には1度だけゴルフをしに行ったことがあります。2007年8月、8年半前のことです。私は、ゴルフ場で行ったことがあるのは4か所だけです。県内では大洲と内子、県外では神戸市有馬と軽井沢です。もう2年以上ゴルフはしていません。軽井沢でのゴルフは濃い霧の中でのラウンドでした。スコアは覚えていませんが、悪かったと思います。いつもですから。軽井沢には2泊しました。観光もしました。今の天皇皇后両陛下がご結婚されるきっかけとなったあの有名なテニスコート。それから、軽井沢には万平ホテルという老舗ホテルがあります。ジョン・レノンが気に入っていたホテルということでも知られています。彼は、1976年(昭和51年)から亡くなる前年までの4年間、毎年一家で避暑のために軽井沢にやってきて、このホテルに滞在しました。「ブラタモリ」を観ながら、そんなことを思い出しました。

年が明け1月2日になり、テレビは朝からにぎやかに、新春恒例の東京箱根間往復大学駅伝競争の中継をしていました。今年の結果は、ご存じの方も多いかと思いますが、青山学院大学が全区間を首位で通過して優勝しました。私は往路の3区からテレビを見ました。この駅伝のクライマックスとも言える5区「箱根の山登り」では、青学のキャプテン神野大地選手が懸命に走っている姿を長々と映していました。途中、箱根町宮ノ下の富士屋ホテルが映りました。ここも老舗ホテルです。私は今から約9年前に、宿泊はしませんでしたが、そのホテルに行ったことがあります。近くにかなり古い写真屋さんがあって、そこで撮った外国人を含む著名人の写真が飾られていました。その中にジョン・レノンの写真がありました。
その日の夜、テレビで歌舞伎の中継をしていました。私は、以前の古い歌舞伎座に2度芝居を観に行ったことがあります。初めての時は、予約のチケットを持っているのに、気が高ぶっていたのか、開演の2時間以上前に東銀座の歌舞伎座に着いてしまいました。昼の部の公演がまだ終わっておらず、建物の中に入れませんでした。時期は1月で外で待っていると寒いので、少し歩いた所にあったこぢんまりした喫茶店に入りました。人がやっと上がっていけるくらいの狭い幅の階段を登って席に着くと、メモが目に入りました。これも8、9年くらい前の事で完全には覚えてないのですが、『この席で、あのジョン・レノン氏が家族と一緒に、静かにコーヒー(紅茶だったかも)を召し上がっていました。私たちは驚きましたが、彼はごくふつうにしていました。大変名誉なことと思っています。』というような文章が、小さい紙に地味に書かれていました。

私が軽井沢、富士屋ホテル、歌舞伎座に行ったのは、だいたい同じ年だったと思います。大洲に来て数年経った頃でした。ジョン・レノンはイギリス人です。そして、彼の2番めの奥さんは日本人のオノ・ヨウコさんです。彼が日本通だったことはある程度想像がつきますが、我々が思っている以上に、彼は日本国内のいろいろな所に行っていたと思われます。彼の遺作となったアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケットは篠山紀信氏が撮影したものです。ちなみに、当院の電話の現在の保留音は、そのアルバムの中に収録されている「ウーマン」です。
以上のように、この年末年始はジョン・レノンを想い出す映像がいくつか目の前に現れました。「ジョン・レノン。やっぱり、今書いとこう。」と思い、書き記したしだいです。『古都 長安(下)- 兵馬俑 -』はどうなったの、といういうご指摘がありました。しばらくお待ちを。

ダコタ・アパート(New York 平成28年4月)
1884年に建設された高級アパート。ジョン・レノンはオノ・ヨーコさんとこのアパートに住んでいました。1980年12月8日、彼はこの南玄関で撃たれ、命を落としました。

 
ストロベリー・フィールズ   イマジン碑

ダコタ・アパートの前の道路を渡ると、セントラル・パークに入ります。そこから少し歩くと、彼を偲んだ「ストロベリー・フィールズ」「イマジン碑」があります。ビートルズの曲を歌っている人がいました。



 古都 長安(中)  ー 秋風吹く大雁塔にて ー

平成27年11月 

大雁塔(だいがんとう)は、652年(唐の時代)玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)がインドから持ち帰った経典や仏像を保存するために、時の皇太子(のちの第3代皇帝 高宗)に申し出て建立した塔です。西安市の南東郊外にある大慈恩寺の境内に建っています。高さが7層64mある瓦造りの塔で、西安のシンボルになっています。内部はらせん階段が設けられ、最上層まで登ることができます。各階の窓から西安の街並を一望することができました。建物の内部はそう広くなく、展示物も多くありませんが、この塔からの眺めは素晴らしいものでした。その日は天気が良く、心地良い秋風が吹いていました。他の観光客から少し離れて、古都長安の景色を静かに見ながら、しばし、この国と日本の歴史に思いを馳せました。

ーー ここ西安の地域は、周、秦、漢、隋、唐など13の王朝の都が築かれた地域である。千年以上にわたって、政治、文化の中心地として栄え、古都と呼ぶにふさわしい歴史をもっている。「鴻門の会」など項羽劉邦の話の舞台もここである。劉邦は、実力的に上だったライバル項羽を逆転して倒し、王朝を確立した。漢はこの地に都城を建設し、長安と命名した。漢のあと、三国時代など幾つかの時代を経て、中国を統一したのはだった。この隋には、日本から遣隋使が渡っている。摂政であった聖徳太子から倭国(日本)の将来を託され、学問を学びに行った留学生には、高向玄理(たかむこのくろまろ)南淵請安(みなみぶちのしょうあん)(みん)らがいた。高向玄理と南淵請安の留学期間は実に32年間、旻は24年間であった。彼らの留学中に、隋が滅び、唐が建国された。彼らはその過程を目の当たりにしただろう。その後、隋、唐の進んだ学問知識をいっぱい日本に持ち帰った。しかし、帰国しても聖徳太子はこの世に亡く、蘇我氏が強大な権力を持つ時代になっていた。中大兄皇子(のちの天智天皇)中臣鎌足(藤原氏の祖)は南淵請安の塾に通ったと伝えられている。大化の改新には、彼ら偉大な留学生が大きな役割を果たしたことが想像できる。乙巳いっしの変(大化の改新の端緒)ののちに、高向玄理と旻は国博士(政治顧問としての官名)に任じられている。
長安は、碁盤目状の道路で東西南北に区画された街づくりがなされた所である。日本の平城京や平安京はこれを見習って造られた。大雁塔から見ると、長安は城壁の都市というのがよくわかった。この古城壁は、世界でも最も整った古代の軍事砦として有名である。中国史上最高の名君の一人と称される李世民(唐朝第2代皇帝 太宗は唐王朝の建国の立役者である。各地を転戦し、群雄を滅ぼし、さっそうとここの門をくぐって入城したのだろう。その英雄の姿が思い浮かんだ。唐が最も栄えた玄宗皇帝の時代に、遣唐使に同行して阿倍仲麻呂が長安に留学した。彼は科挙に合格し、玄宗に仕えた。李白王維ら詩人とも親交があった。在唐35年を経過し、彼が帰国を決意した時に詠んだ歌は百人一首に選ばれている。「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」しかし、彼は帰国できなかった。この歌は非常に重いものを感じさせる。唐の時代には空海も長安に来ている。
城壁や門のあたりを見ていると、ここがシルクロードの果てかと思った。ただし、もっと東の洛陽とする説、いや終着点は日本であるという意見もある。正倉院に保存されている美術工芸品(宝物)を見れば、そういうふうに考えるのか正しいように思うが、またどこかの国が文句を言いいそうだ。もっとも、『絹の道』という名からすると、長安は終着点ではなく、シルクロードの起点と言うべきなのかもしれない。中央アジアを横断し、西アジア・地中海沿岸地方と結んだ古代の交易路である。その時代の中国の茶、陶磁器、文化、科学がシルクロードから世界へ伝播されて行った。シルクロードの発着点となっていた西門からキャラバンが出て行く光景を想像した。 ーー

あれから20年近く経っています。詳しくは思い出せませんが、大雁塔の窓から古都長安の景色を見ながら、上のようなことを考えた気がします。中国は、長きにわたって、世界のトップクラスの文化、文明を持っていた国家だったと思います。当時の日本にとって、見習うべき国だったと思います。「それがなんで、今のような品のない・・・」「一党独裁がいかんのやろ」 せっかく誉めている文面なので、これ以上はやめときます。続き(古都長安(下))は、そのうち。

 大雁塔にて 1996年(平成8年)9月8日



 古都 長安(上)  

平成27年11月 

土曜日の夕食後、久しぶりに、ゆったりとした気分でテレビを見ながらくつろいでいました。すると、中国・西安の兵馬俑の番組が始まりました。番組冒頭の映像を見て「なつかしいな。このあたり、随分きれいになっている。」と、食い入るように見始めました。あとで調べると、私は19年前の1996年9月に西安に行っていました。1週間滞在していました。西安は、中国の歴史上、長きにわたって都がおかれていた所で、古くは長安と称されていました。日本で言えば、京都に相当する所でしょうか。今回はその時の話です。 ちなみに、今、東京・上野の東京国立博物館で特別展『始皇帝と大兵馬俑』が開催されているそうです。
今も昔もそう好きな国ではないのですが、中国へは過去3回(初めが上海、2回めが今回の話の西安、3回めは北京)行っています。旅行というより、日中の医学会への参加と、その学会運営の手伝いが主な目的でした。中国へ旅行する場合、出かける前は、たいてい気乗り薄でした。しかし、この国、行くと必ず強い衝撃を受けます。旅行のたびに、記憶に残る光景があります。

西安への旅は「えー、そんなー」で始まりました。西安に向かう飛行機の中で「濃霧のため西安空港に着陸できそうにないので、上海にひき帰します。」というアナウンスがありました。西安-上海の距離はけっこうあります。日本に比べ中国の国土は広いです。三国志などの舞台となった場所を一つ一つ地図で探していくと、大軍勢、ときには一緒に領民をも率いて、よくもまあこの距離を移動したものだといつも感心します。
翌日、やっとのことで西安に着きました。その日も霧が出ていました。西安は関中平原の中部に位置しており、近くを黄河の支流の渭水が流れています。季節、天候によっては霧がよく出るのだろうと思いました。空港からホテルへ向かうバスの中から外の景色をじっと見ていましたが、霧のため視界が悪く、ふつうの田舎の風景のようでした。中国の歴史と文化の発祥地であり、世界でも人類文明が最も早く発達した地域という貫禄は、この時は感じませんでした。しかし、この4、5日後には考えが一変しました。

学会が無事終わり、最終日は事務局を務めた中華医学会の人らと食事をしました。みんな、やれやれという感じで、本場の中華料理を食べながら、楽しいひとときを過ごしました。「この人らはみんな良い人なのに。どうして、中国共産党の政治家や軍人は・・・」この手の話はこの稿ではやめときます。
あとの2日間は観光に出かけました。日本語が話せる中華医学会の通訳の方がいろいろな観光地を案内してくれました。最も印象に残ったのは、大雁塔(だいがんとう)兵馬俑です。文章の長さと文脈を考慮して、大雁塔と兵馬俑の話はそれぞれ次回(古都長安 中)、次々回(古都長安 下)にまわします。



 平成8年8月8日の切符 その2

平成27年9月 

北海道の夏は短い。道東の方では夏はさらに短いです。「毎年、あとになって思うんですよ。あの1週間が夏だったんだなと。」旅先で会った現地の方が話していました。 我々が家族旅行で北海道を訪れたのは、上の二人の子どもが夏休みの時でしたが、7月末、8月上旬、そしてお盆過ぎと、年によって時期が少しずつ違っていました。網走から近いサロマ湖では電光掲示板に14℃と表示されていたことを思い出します。阿寒湖からさらに奥に行ったオンネトーでは震えるほど寒かった。摩周湖は歌謡曲の題の通り「霧の摩周湖」で、釧路湿原も霧でよく見えませんでした。8月は、だいたいこういう天気だそうです。
それでも、その頃は 夏が長かった気がします。時間もゆっくり進んでいました。1日がもっと長く、1時間の間にもいろいろな事ができました。そして、その頃は、家族がひとつにまとまりやすかったように思います。子どもは、小学生の頃が一番やりやすいです。楽しみ、喜び、笑顔がいっぱいありました。サザンのテープを家から持ってきて、それをレンタカーの中で聴きながらの道央、道東の最高の旅でした。北海道の道道(県道と同じ)は、このあたりの国道より広く直線が多く、車を快調に走らせることができました。見える景色は雄大でした。
平成8年8月8日は、調べてみると木曜日でした。その時の行程は大体わかります。日曜日に重信町の家を出発して、空路で北海道に行き、まず日高ケンタッキーファームで1泊。翌日、富良野で1泊。そのあと網走で2泊して、チェックアウトしたのが木曜日の8月8日だったと思われます。そして、その日最初に訪れた場所が小清水原生花園(駅)で、8.8.8の切符を買いました。この時、縁起の良い切符を手に入れたと喜びました。ただ、その13年後の平成21年8月8日に、この大洲市に今の医院を開設することになるとは全く予想しなかったことでした。当時は、こてこての大学病院の勤務医、研究者、教官をやっていました。

年月が進んで、今年の6月のある日のことです。目の前にある8月のカレンダーと、開院した年(平成21年)のそれが似ていることに気がつきました。日にちと曜日の関係だけではありません。8月1日の土曜日が仏滅で、8月8日の土曜日が大安であることも同じでした。以前、このホームページに書いたことがありますが、オープンを8月1日にせず、8月8日にした大きな理由がこれでした。開院を週初めの月曜日にせず、土曜日にしたのは、全職員が電子カルテを使うのが初めてで、トラブルを心配したためでした。何かトラブルが生じた場合、診療終了後に反省会を開いて、その日の夜と翌日の日曜日に修正、再研修する予定でした。結果的には、大きなトラブルは起こらずにすみました。
今年と開院した年(平成21年)とで違ったところもありました。今年は8月8日が立秋でしたが、平成21年は8月7日が立秋でした。今年の8月8日は一日中よく晴れた猛暑日でしたが、6年前の開院日はどんより曇って、ときどき小雨が降る天気でした。どちらの8月8日も、夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)で愛媛県代表のチームの初戦の試合がありました。今年の今治西高校は敗れましたが、平成21年の西条高校(母校です)は勝ちました。ちなみに、平成8年8月8日は、第78回の夏の甲子園大会が始まった日でした。この年の優勝校は、愛媛の古豪松山商業でした。決勝戦での、あの「奇跡のバックホーム」は球史に残る名場面として語り継がれています。

去年は春先から夏にかけて、私的な面でも医院の方でも良い事があまりなく、開院記念日を祝うムードではありませんでした。「今年は何かしないと」と考えていたところに、友人がJR松山駅の駅長になるという吉報が5月末に飛び込んできました。彼に講演の依頼をしたところ、気持ちよく引き受けてくれました。8月8日の診療が終わってから、記念講演をしてもらいました。当院と前の薬局さんの職員17名が聴講しました。そのあと全員で記念写真を撮りました。
平成8年8月8日にJR北海道の記念切符を購入し、19年後の今年、JR四国の松山駅長に院内で講演をしてもらいました。何かの縁かもしれません。それにしても、19年は長かった。8月8日という日は、これからも、私にとって良い日であってほしいと思ったしだいです。



 平成8年8月8日の切符 その1

平成27年8月 

健さんこと、高倉健さん主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』(監督 山田洋二、共演者 武田鉄矢、桃井かおり、倍賞千恵子ら)をご存知の方は多いと思います。この映画を見ていない方でも、夕張の晴れた空に、何十枚もの黄色いハンカチが風にたなびくあの感動のラストシーンは、どこかで見ているのではないでしょうか。この映画は、第1回日本アカデミー賞など国内の映画賞を総なめにしました。健さんの映画には良い作品がありますが、なかでも、私はこの『幸福の黄色いハンカチ』と『あなたへ』が好きです。健さんは昨年亡くなられ、『あなたへ』は彼の遺作となりました。同時に、この映画は2012年に亡くなった名優 大滝秀治さんの遺作でもありました。主人公の健さんと、散骨のために船を出した船頭役の大滝さんの海での演技は、とても良かった。想い出します。あの大滝さんのセリフ「久しぶりに、きれいな海ば見た」。いきなり、話があさっての方向に行っているので、元に戻します。

長年使っていた机の横の引き出しに、8.8.8と日付が印字されたJRの切符を大事にしまっていました。引き出しの角に、切符をきっちり揃えて、置いていました。引き出しの開け閉めで、少しでも動いていると、またきちんと角に寄せました。しばらくは宝物のように扱っていました。ちょっとした強迫性障害の症状のようでした。ところが、度重なる引越しと息子たちに机を譲っため、いつの頃からか、その切符の在りかがわからなくなってしまいました。平成8(1996)年8月8日網走に近い小清水原生花園駅で購入した切符でした。
朝、網走のホテルを出発し、屈斜路湖、阿寒湖方面に向かって、オホーツク海に面した道路を走っている途中、そこに立ち寄りました。感じの良いJR北海道の職員さんが切符を販売していました。8が並ぶ縁起の良い切符ということで、迷わず3枚買いました。うちの子どもらは、駅長がかぶる帽子やJR職員の制服(おそらくイベント用)を着させてもらい、記念写真を撮りました。みんな大喜びでした。私は、「末広がり」八の数字が並ぶこの切符を手に入れ、「いつか良い事があるかな」と期待しました。汚れや折り目が付かないように、大事にしまっておくことにしました。JR北海道の職員さんらは、厳しい経営状態にある会社のため、少しでも収入を増やすべく頑張っていたのだと思います。
私は、北海道には、仕事(学会出張)では何度も行っていますが、家族旅行では夏に3回行きました。1回目がとても楽しかったので、3年連続で行きました。コースは年によって多少変えましたが、飛行機で千歳に行き、そこから網走まで行って帰って来るという点は共通でした。夏の道央・道東の旅でした。当時は、松山ー新千歳の直行便がありましたので、便利でした。新千歳空港到着後、レンタカーを借りて、初日は日高ケンタッキーファーム(今はなくなったようです)に行き、そこで宿泊しました。自然に触れ合える所でした。牧場で乗馬もしました。宿舎はログハウスでした。1泊か2泊して、富良野・美瑛に向かいました。そこでは、ラベンダー畑、麓郷の森、パッチワークの道、マイルドセブンの丘、ケンとメリーの木、そして雄大な大雪山など、美しい風景を目にすることができました。その次の日は長距離の運転になりました。旭川、上川町、層雲峡と進み、石北峠を越えて北見、網走まで運転しました。帰りは、網走からリゾート地のトマムに行き、そこで1-2泊して、最終日に新千歳空港に戻りました。
網走からトマムまでのコースは毎年変わりました。ある年は、知床まで行って引き返し、摩周湖に立ち寄って、釧路まで足を伸ばしました。釧路湿原にも行きました。若かったからでしょうか、この距離をよく運転したと思います。別の年には、帯広に近い、廃線となった広尾線の駅、愛国駅に寄りました。駅はもう利用されていませんでしたが、近くの店で愛国駅ー幸福駅の切符を売っていたので、それを買いました。その切符は「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズで人気となり、縁起切符ブームの火付け役となったものです。
8.8.8の切符を手に入れた年の帰りのコースは、「幸福の黄色いハンカチ」の健さんらの旅のコースとほぼ同じでした。映画の中に小清水原生花園も映っています。美幌峠で屈斜路湖を眺め、阿寒湖に寄りました。足寄を通って帯広に出ました。帯広新得→狩勝峠を越えて、目的地のアルファリゾ−ト・トマムに向かいました。「黄色いハンカチ」の映画では、帯広の駅前で武田鉄矢が外車を蹴って、たこ八郎扮するチンピラにボコボコにされます。それを見た健さんが怒り、逆にたこ八郎をボコボコにします。新得では、警察署に連れて行かれた健さんが、渥美清が演ずる旧知の警察官に偶然会います。昔話をするシーンがありますが、両名優の演技が光り、泣けるシーンです。

本稿は、ここでひとまず終わりにします。懐かしい夏の北海道旅行と名作映画、大事にしていた縁起物のJR切符の話でした。次回はこの続きと、平成21年の8月8日(当院の開院日)と今年の8月8日の話をすることにします。



 山寺(立石寺 山形)

平成27年7月 

今現在、国内で一度も行ったことのない県は、秋田と青森の2県だけになっています。宿泊したことがない県は、その2県とあと富山、新潟、福島、岩手の4県です。自分は生粋の伊予の人間です。それにしてもいろんな所に行ったな、という感じです。子どもの頃は、県外への旅行なんかには行ったことなかったです。県外に行くようになったのは、大学に入ってから後のことで、多くは医師になってからの学会出張です。日本小児科学会以外にも、会員数の多い大きな学会に今でもいくつか入っていますが、大学の医局にいた時分には、それら所属する学会にはほぼ毎年行っていました。
先日、ある方からさくらんぼを頂きました。山形産と箱に書いていました。さくらんぼは、味もさることながら、この色が何とも言えず良いです。近頃は、安くて、店頭に出ている期間が長いアメリカン・チェリーを食べる機会が増えましたが、さくらんぼというからには、やはり明るい上品なこの赤でないと。いかにも「実」という感じで、幸せを呼びそうです。

   (しづ)かさや 岩に染み入る 蝉の声 (『奥の細道』 芭蕉

山形には一度行ったことがあります。さくらんぼの季節でした。実は、この山形に行ったのがいつだったかがなかなか分からず、調べるのに苦労しました。自分にも曾良のような人物が近くにいたらなと、分不相応なことを考えてしまいました。私が山形に行ったのは、平成3年(1991)5月22日でした。山形市で学会があったときで、2泊か3泊しました。当時、山形市にホテルが少なかったので全日程の宿泊予約が取れず、1日は隣の天童市に泊まった記憶があります。
上の超有名な句は、松尾芭蕉が元禄2年5月27日に山形領の立石寺(りっしゃくじ)を参詣した際に詠んだ句です。立石寺は、最澄(さいちょう)の弟子の慈覚大師(円仁)が貞観2年(西暦860年)に創建した天台宗の寺で、通称を「山寺」といいます。というより、「山寺」は完全な固有名詞になっています。私も山形に行った際、半日ほど学会会場を離れて、この山寺に行きました。一緒に山形に来ていた上司は、庭を見に行くと、はるか遠方の日本海側にある酒田市に向かいました。5月24日だったと思います。芭蕉が訪れたのが5月27日で、ほぼ同じ頃と思われるかもしれませんが、全然違います。「奥の細道」のなかの日付は旧暦で書かれています。元禄2年5月27日を西暦になおすと、1689年7月13日になります。小生が行ったのは梅雨入り前で、俳聖芭蕉が訪れたのは梅雨明けのちょうど今頃でした。
JR山形駅から1両か2両の鈍行列車に乗って行きました。山寺駅は山形駅から5つ目くらいの駅で、そう時間はかかりませんでした。乗ったのが昼前で、乗客はほとんどいませんでした。山寺駅は山と山に挟まれた谷間にあり、立石寺の山が目の前にそびえ立っていました。ちなみに、芭蕉は立石寺を「りゅうしゃくじ」と呼んでいます。誰かが書いていましたが、立石寺に行ったことも見たこともない人は、中国の山水画に描かれた空中にそびえる岩山を思い浮かべるといいです。今だったら決して登らなかったと思いますが、当時は若かったので、その山をどんどん登っていきました。岩に岩を重ねたような山のところどころにお堂が建っていました。仏さんの近くを通るときには、拝礼しながら進みました。そして、最後の最後まで登りきりました。そこで、眼下に見えた大地の景色はたとえようのないものでした。芭蕉は、この句の前に、短い説明文を書いています。その文章の終わりは、「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として、心澄みゆくのみおぼゆ」(拙い私の訳ですが)崖を巡り岩の上を這って仏閣を参拝した。すばらしい景色がしんと静まり返った空間の中にあり、ただただ心が澄んでいくようであった。その時その場所では、確かに、私もそういう気分でした。

また余談になりますが、この句は「山寺や 石に染み付く 蝉の声」「寂しさや 岩に染み込む 蝉の声」、そして「閑かさや 岩に染み入る 蝉の声」の順で推敲されたと考えられています。また、この句に出てくる蝉はニイニイゼミとする説が強いようです。明治から昭和の歌人で山形生まれの斎藤茂吉は、当初この句の蝉をアブラゼミと断定しましたが、のちの実地調査の結果から誤りを認め、ニイニイゼミだったと結論付けました。斎藤茂吉は東京帝国大学医科大学を卒業した精神科医でもありました。
この「閑かさや」の句は、芭蕉一生涯の作品の中でも選りすぐりの秀句とされています。ちなみに、「奥の細道」での次の句は、これもまた有名な『五月雨を あつめて早し 最上川』です。この句も、俳諧の発句として詠んだ時点では「五月雨を あつめて涼し 最上川」だったそうです。芭蕉の山形での作品には秀句が多いです。ただ、パッと一発で思い浮かんでいるのではなく、天才も苦労しながら完成させています。



 信濃の春

平成27年5月 

人、人、人、人だらけ。今年の5月4日、長野の善光寺に着いたときのことです。東京ディズニーランドの比ではなかったです。かつてこれほど混んでいた場所にいた記憶はないです。一つ思い出しました。随分昔のことですが、昭和44年(1969年)夏の甲子園大会(全国高等学校野球選手権)で、松山商業が全国優勝した時の凱旋パレードです。子どもの頃でしたがよーく覚えています。あの時、松山は沸いていました。延長18回引き分けで、翌日再試合となったあの伝説の松山商業と三沢高校の決勝戦は、名試合としてに高校野球史に残っています。試合内容も濃かったです。これだけで話が終わってしまいますので、元に戻します。
善光寺は、今年は、数え年で7年に一度(実際には6年に一度)の『善光寺御開帳』で、1か月前から賑わっていました。長野駅で北陸新幹線を降り、荷物をコインロッカーに預け、バスで善光寺に向いました。このコインロッカーがすでに混雑していました。バスは臨時でピストン輸送をしていました。善光寺前のバス停で降りると、目の前に見えたのは参道を埋め尽くす人の波でした。「遠くとも一度は詣れ善光寺」 「牛に引かれて善光寺参り」 長野市は善光寺の門前町を起源として発展したところで、駅の横断幕には『日本一の門前町大縁日』と書かれていました。古くは、源頼朝も参拝しています。私は36年前に、友人2人とこの善光寺に来たことがあります。白馬での春スキーに行く前に、ここに立ち寄りました。車で愛媛を出発し、大阪から北陸をまわり、新潟から長野に入りました。大変な距離でした。
この日、善光寺が大混雑していたのは、ゴールデンウィーク中だったことと、やはりこの御開帳のためだったと思います。御開帳期間中は、本堂前に約10mの回向柱(えこうばしら)が立ちます。この柱に触れると、来世の幸せが約束されるといわれています。参拝者の多くがこの回向柱に触れて帰ります。われわれもそのつもりでした。ところが、表参道の最初にある仁王門の手前で、お寺の関係者が 『ここが最後列。回向柱まで100分』 と書いたプラカードを持って立っていました。せっかくここまで来たのですが、そのあとの宿泊先(温泉)に行く予定がありましたので、回向柱に触れることはあきらめました。本堂に入りましたが、それもミニコースの拝観でした。パラパラと小雨が降り始めました。雨宿りをする感じで、すぐ近くの東山魁夷(ひがしやま かいい)館に入りました。長野市にかの有名な画家の美術館があるとは知りませんでした。あの荘厳な「東山ブルー」を目の当たりにして、感動しました。

JR長野駅まで戻って、今度は長野電鉄で終点の湯田中(ゆだなか)温泉に向いました。長野市から北東方向に、急行電車で50分くらいの所です。そこからもうちょっと行くと志賀高原があります。長野電鉄の電車に乗る時、その車両をどこかで見た気がしました。車内放送でわかりました。小田急のロマンスカーの再利用でした。先頭車両が展望デッキになっていました。電車は千曲川(ちくまがわ)を渡って、北へ向かって北信濃の平地を進んでいきました。千曲川、響きの良い名です。また余談です。私は、演歌はほとんど聴きませんが、五木ひろしの「千曲川」という曲は好きです。彼の曲の中では一番いいんじゃないかと思っています。昭和50年の曲で、作詞は山口洋子さんです。彼女が、五木の「NHK紅白歌合戦のトリで歌いたい」という夢をかなえさせてやりたいと思って、作詞した歌と言われています。その曲の三番の歌詞は、「ひとりたどれば 草笛の 音(ね)いろ哀しき 千曲川 寄せるさざ波 くれゆく岸に 里の灯ともる 信濃の旅路よ」です。明治生まれの文豪島崎藤村の『千曲川旅情の歌(小諸なる古城のほとり)』の影響を強く受けていると思います。藤村は信州木曾(当時の筑摩県で、長野県を経て現在は岐阜県)の生まれでした。
千曲川を渡ったあたりから畑が増えました。白い花をいっぱい付けたリンゴの木が主でした。西の方向には戸隠山、黒姫山、妙高山など北信五岳が見えました。それらの山にはまだ雪が残っていました。途中の町、小布施。あの葛飾北斎が晩年の一時期を過ごしたところです。80歳を過ぎた頃です。不撓不屈の浮世絵師、画人で、人生で93回も転居したことでも有名ですが、いくらエネルギッシュといっても、その年齢で江戸からここまでよく来れたものだ、と感心しました。電車が進むにつれて、北信五岳の山がよく見えてきました。さらにその山々の向こうには、もっとはっきり真っ白な雪をかぶった北アルプスの山々が見えました。次の中野市は、国文学者、作詞家の高野辰之(故郷、朧月夜、もみじ、春が来た、春の小川などの唱歌の作詞者)と、作曲家の中山晋平(とりわけ童謡が有名。シャボン玉、てるてる坊主、兎のダンス、雨降りお月など)の生まれ故郷です。このあたりはいい文化人が出ています。
目的地の終点湯田中温泉に近づくにつれ、線路の勾配がきつくなってきました。リンゴの花が満開の畑の中を、長野電鉄の赤と白の電車が線路をきしませながらゆっくりと進んで行きました。窓からは、桃の花のピンク、地面に咲く背の低いタンポポの黄色が目に入りました。夕方、4時半に到着しました。ホテルでチェックインをして、夕食までまだ時間があったので、1時間ほどあたりを散策しました。昭和の香りがする温泉街でした。営業できなくなった店、旅館が目に付きました。ホテルの部屋からは信州北部の景色がよく見えました。この日の夜、貸し切りの露天風呂に入りました。旅行中、この時だけ本格的に雨が降っていました。風が吹き気温も少し下がっていましたが、湯の中にいるとそれはそれで気持ち良かったです。

明けて5月5日は、一日中、雲一つない快晴でした。一年を通してそう見ることがない晴れ渡った空でした。天からの贈り物かと思いました。この日は川中島古戦場(上杉謙信と武田信玄)、松代城、真田邸、真田宝物館などに行きました。来年のNHK大河ドラマは『真田丸』に決定しました。5月5日の歴史にまつわる話は、いずれまた。今年は5月2日が八十八夜で、5月6日が立夏でしたが、今回の旅で「信濃の春」を満喫できました。

 
善光寺山門   長野電鉄の電車と湯田中温泉駅



 ゴールデンウィーク

平成27年5月 

5月3日(日)午前、松山空港で飛行機に乗って席に着いたとたん、窓に雨粒が当たり始めました。「あーあ、やっぱり」と思いました。気になって毎日見ていた天気予報では、ゴールデンウイーク後半のこの5月の連休の天気はあまり良いものではありませんでした。それでも、10年ぶり、いやもっとかもしれない、この連休を利用しての旅行を楽しみにしていました。前日の5月2日(土)は、いつも通り午前は診療しました。診察室から見える空は快晴で、「もったいないな」と思いました。昼過ぎから、大川鯉のぼりを見に行きました。たくさんの鯉のぼりが肱川の上を気持ち良さそうに泳いでいました。その日は八十八夜でした。

松山空港であいにくの雨になったため、ちょっと暗い気持ちで飛行機に乗っていました。ところが、飛行機が名古屋上空を過ぎたところで、突然、眼下に雲がなくなり、地上の景色がきれいに見えるようになりました。しばらくすると、左前方に
富士山が見えてきました。この日は、着陸するまでこの富士山を見ることができました。これほど長く、いろんな方向から富士山を見れたのは初めてでした。伊豆半島、伊豆大島、鎌倉、あの江の島も、横須賀もよくわかりました。良い空の旅でした。
羽田からモノレールで浜松町まで行き、そこからタクシーでホテルに向かいました。タクシーの運転手から、連休中あまり混んでない都内の観光地として、亀戸(かめいど)天神を教えてもらいました。宿泊するホテルニューオータニでチェックインして、少し休憩した後、浅草のどじょう料理屋「
駒形どぜう」に向かいました。ここは私が東京に行った時、ちょくちょく寄る店です。4月は学会出張、会議が多くバテ気味でした。実は10日前にも東京に来ていました。元気をつけるため、真っ先にこの店に行きました。この店には、くじら料理もあります。店の前で40分待ちました。どじょう鍋、柳川、どじょう汁、鯨の竜田揚げ、さらしくじらなどを食べて、腹いっぱいになりました。
元気が出たところで、左手にスカイツリーを見ながら、亀戸天神を目指して歩きはじめました。先ほどのタクシーの運転手さんの話では、「亀戸の天神さんはどうでしょう。今は藤がきれいですよ。駒形からは近いし。」ということでしたので、徒歩で向かいました。少し歩いた時点で気が付きましたが、それが遠かったのなんのって。しかし、知らずに歩いたことで、途中、相撲部屋の
高砂部屋、九重部屋を見つけ、お相撲さんにも会えました。両国国技館に近いため、このあたりには相撲部屋がちょくちょくありました。野村町出身の元玉春日が親方を務める片男波部屋も、道路端の町内会の地図に載っていました。ちなみに、九重親方は元横綱 千代の富士ですが、この原稿を書いている日の新聞に、「九重親方の還暦土俵入りの綱打ち」の記事が出ていました。やっとのことで亀戸天神に着いたときには、日が沈みかけていました。亀戸天神の藤は昔から有名だったようで、浮世絵師 歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれています。大混雑ではありませんでしたが、境内には人がたくさんいました。藤の花はピークを少し越えた感がありましたが、きれいでした。客が多くて、名物の和菓子が買えませんでした。帰りは近くの駅から電車に乗りましたが、この日は1万6千歩も歩いていました。

2日目の5月4日は、今回の旅行のメインイベント、
北陸新幹線『かがやき』に乗って長野に行きました。東京駅は人だらけで、迷子になりそうでした。行きの車両はグランクラスでした。10年に一度の旅行だと思って奮発しました。新幹線の普通車両は通路を挟んで左右に3席と2席ありますが、このグランクラスの座席は左が2つ右は1つです。しかも、それが6列しかないので、満席でも1両に18人しか乗っていない、とてもゆったりした空間です。また、そのシートも快適でした。軽食が出ますがこれがまた立派な軽食で、飲み物はアルコール類を含めて飲み放題でした。豪華な鉄道の旅でした。東京の次が大宮で、大宮を過ぎると全速力で走り、次の長野までは1時間かかりませんでした。何か物足りないくらい早く着きました。長野に行ってからのことは、次号に書きます。
5月5日の17時に長野を発って、東京に戻ってきました。まだ少し明るさが残っていました。東京駅から山手線で有楽町まで行き、銀座界隈を歩きました。家内といっしょだったのでデパートにも行きましたが、私が探していたのは「
吉野家」でした。そして見つけました。学生時代、給料が少なかった若かりし頃、この「吉野家」の牛丼と「豚太郎」の味噌ラーメンにはお世話になりました。今でも、無性に食べたくなることがあります。2泊以上する出張の時には、必ず1食は牛丼を食べます。そこの吉野家に入って、スタンダードな牛丼並とお新香を注文しました。しかし、注文を取りに来たのが中国人のアルバイトで、われわれより後で入ってきた3人の女性客も中国人でした。この銀座で、なんで。やや興ざめしてホテルに帰りました。
5月6日の朝も晴れていました。結局雨が降ったのは、4日の夜だけでした。その時は長野で露天風呂に入っていました。連休最終日で今回の旅行の最終日でもありました。ホテルの「なだ万」で朝食をとって、ニューオータニ自慢の日本庭園を散歩しました。その後、ホテルの敷地を出て、四谷界隈を散策しました。チェックアウトに戻ってきた時には、
ガーデンプールは人でいっぱいでした。6日は二十四節気の立夏でした。そういう時期になったか、と思いながら、ホテルを後にしました。天気にも恵まれた良い旅でした。

 
九重部屋の玄関   北陸新幹線「かがやき」グランクラスの車内サービス




 ノース ショア

平成27年3月 

ノースショア(North Shore)。世界中のサーファーたちがやって来るハワイ オアフ島にあるサーフィンの聖地です。ノースショアは、直訳すると、North(北の) Shore(海岸)ですが、そこは島の北西部になります。オアフ島の北端のカフク岬と西端のカエナ岬を結ぶ海岸地域一帯を指す地名です。地図を見ていると、オアフ島の形が愛媛の中央部分の形と似ている気がし、そう思って見るとノースショアは北条あたりの位置です。オアフ島にはハワイ州最大の都市かつ州都であるホノルルがあり、ワイキキビーチやダイアモンドヘッドなど大勢の観光客が訪れる場所があります。これらの場所は地図では右下にあり、ノースショアは左上で、ちょうど島の反対側にあります。2度目のハワイ旅行のときに、オプショナル ツアーでオアフ島を一周している途中、そこに立ち寄りました。10数年前のことです。先日、NHKの番組だったと思いますが、ノースショアで行われるサーフィン競技会で活躍しているライフガードチームの責任者である父と、その後継者の息子の物語が放映されていました。良い番組でした。
ノースショアには、サーファーが憧れる有名なサーフィン・スポットのワイメアベイビーチ、サンセットビーチ、エフカイビーチ(パイプライン)などがあります。その数年前に行った初めてのハワイ旅行では、マウイ島での滞在が長かったため、オアフ島での時間が少なくなりゆっくり観光することができませんでした。2度目のハワイ旅行は、途中一日だけカウアイ島へ行きましたが、オアフ島をメインにした日程にしました。季節はちょうど今ごろ、3月の終わり頃でした。オアフ一周するオプショナル ツアーでは、ホノルルのホテルまで白い豪華なリムジンで迎えに来てくれました。リッチな気分でスタートしました。ドライバーは日系の人でした。しかし、日本語はほとんど通じませんでした。その頃、バブル崩壊による景気悪化で、日本からの観光客が減り、彼は「収入がかなり減って、食べていくのがやっとだ」と話していました。真面目そうな人でしたが、どこか元気がなかったです。車は、オアフ島を時計回りに進んで行きました。

3月末のノースショアは閑散としていました。ホノルルのワイキキビーチ周辺とは異なり、あたりに大きなホテルや店はなく、歓声もありませんでした。若者の姿がぱらぱら見えるだけでした。あくまで波が主役だということがわかりました。ここは、冬には北西からのかぜで巨大な波が打ち寄せることでよく知られており、それに乗ろうと世界中からサーファーが集まってくる伝説的な場所です。11月から2月がビッグ・ウェーブ・サーフィンのシーズンで、毎年12月には大きな競技会が開催されます。一方、夏の5月〜9月は波が穏やかで、海水浴や日光浴に良いスポットになります。私が訪れた時は、波のピークは過ぎていましたが、静かな海しか見てこなかった者にとっては、十分迫力あるものでした。若者たちがサーフボードに腹ばいになり、パドリングをしながら沖に向かって行きました。波のトンネルをくぐるような技は見れませんでしたが、楽しそうに波に乗っていました。うらやましい光景でした。「若いときに、少しは経験しておきたかった。もう一生することはないだろうから。」

時は移って、今年の春分の日はのどかな一日でした。松山空港へ家内を迎えに行き、その足で、松山観光港、運転免許センター、堀江、北条まで海岸の近くを走りました。凪いだ海のきらきらした光と道路端の菜の花の黄色が目に留まりました。北条海岸には多量の砂が入れられ、堤防も昔の姿とは変わっていました。ここに来たのも10数年ぶりでした。当時は、ここで水上バイクに乗ったり、大した波もないのにサーフィンをしている若者がいました。子どもがチャプチャプ水遊びをするような海水浴場での人の迷惑を顧みない行為は、情けない光景でした。この日は春の大潮のためか、ちょうど潮が大きく引いていました。初老の夫婦がわかめ取りをしていました。『ひねもすのたり のたりかな』の穏やかな瀬戸内の海もいいかな、と思ったしだいです。



 熱かった正月

平成27年2月 

「あの年の正月もそうだった」テレビのニュースを見ながらふと思いました。その時も、中東での出来事が世界中の目をくぎ付けにしていました。今年の「そのニュース」は恐ろしく、実に残念な結末になりました。

24年前の1月、われわれがメルボルンからシドニー経由で成田に到着した途端、イラクで戦争が始まりました。湾岸戦争です。1991年(平成3年)1月17日のことでした。アメリカを中心とする多国籍軍がイラクへの空爆を開始したことで、本格的な開戦となりました。われわれ日本人医療スタッフと小児1型糖尿病の患児たちが、成田を発ったのは1月2日の夜でした。オーストラリアで開催される国際小児糖尿病キャンプに参加するためでした。このキャンプに参加するための準備をしている頃から、様々な事態が連日のように報道されていました。サダム・フセイン率いるイラク政府は、一般外国人を人質に取って「人間の盾」として監禁していました。出発する1か月前には、国連安保理で、1月15日をイランのクウェートからの撤退期限とした『対イラク武力行使容認決議』が採択され、年明けの1月にはいつ戦争が始まってもおかしくない状況でした。実際、われわれがオーストラリアに着いた日に、オーストラリア海軍の艦船がペルシャ湾に向けてシドニーの軍港から出ていく映像を現地のテレビ局が流していました。「これはまずいな」と思いました。日本人スタッフの間で「これ、帰りの飛行機はちゃんと飛ぶのかな」という会話が出ていました。

オーストラリアは南半球なので、季節が逆になります。訪れた頃は真夏です。キャンプ地に向う前に、メルボルンの大学の寮で一泊しました。夏休み中なので、ほとんどの大学生が不在でした。ただ、中国人留学生だけが寮に残っていました。暑いので部屋のドアを明けて、勉強していました。トイレに行く際、その部屋の前を通るので後ろ姿が見えました。彼の背中を流れる汗を今でも覚えています。「日本は今に中国に負ける」上司の言葉がやけに印象に残りました。
翌日、その大学を発って、バスでキャンプ地に向いました。メルボルン近郊ではありましたが、中心部からはわりと距離があったと記憶しています。ティンバートップという場所の学校でした。イギリスのチャールズ皇太子も在籍したことのある名門スクールということでした。建物は決して豪華ではありませんが、長い伝統を感じさせる英国風のものでした。寄宿舎があり、そこに日本、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポール、韓国、中国などの医師、看護婦、栄養士、医学生ボランティアらのスタッフと、インスリン注射をしている小児糖尿病の子どもたちが1週間余り、一緒に宿泊しながら、様々なプログラムをこなしていきました。
オーストラリアの田舎で、広い自然の中にいる感じでした。目が覚めると、朝もやの中にカンガルーの姿をよく見ました。とても軽やかにぴょんぴょん跳ねて、移動していました。真夏なので、昼間は35℃を越える気温になり、Tシャツ1枚で過ごしました。けれども、夜になると、南極の方から吹いて来る南風のせいで気温がぐっと下がり、毛糸のセーターやジャンバーを着ることがありました。プールなんかありません。現地の人らがダムと呼んでいた濁った沼のような所で泳ぎました。入るのに勇気がいるような所でしたが、競泳もしました。日本だったら、こんな所では絶対泳がせないだろうと思いました。お国柄でしょうか、実に大らかです。動物のフンがそこらにいっぱいありますが、全く気にしません。フンが乾いているというのもありますが、フンの上に平気で横たわったり、そのあたりをごろごろ転げ回っていました。がたくさんいますが、これも気にならないようでした。
ミーティングの時も驚きました。オーストラリアの子どもたちは、主治医である先生の話をごろんと寝そべって聞いていました。この先生は、国際学会の責任者にもなっている有名な小児科医ですが、先生が椅子に座って伸ばしているその足元に、患者が数人、片肘をついて手のひらに頭を載せて横になっていました。先生と患児がいろいろしゃべりながら、笑い飛ばしていまし。ほんに、細かいことは気にしない。オーストラリアの中高生の男子患者は1日5000キロカロリーも食べていました。これには度肝を抜かれました。しかし、1日中動いていました。暇さえあれば、バスケットをしたり、サッカーをしたり、ジョギングをしたりしていました。
シャワーとトイレが同じ場所というのには閉口しました。昔の日本の公園の公衆便所みたいな所で、コンクリートの壁に向って用を足すのですが、その尿が流れる場所に立ってシャワーをしました。小用をする所の上に固定されたシャワーノズルがあって、そこからぬるい湯が流れ出てきました。これが入浴でした。しきりもなければ、足拭きもありませんでした。
私はこのキャンプ中に、ウォンバットの掘った穴に落ちて捻挫をしました。ウォンバットは地上を歩くコアラみたいな動物で、夜行性でいろいろな所に穴を掘ります。50cmくらいの高さの宿舎の床からぴょんと下に降りたのですが、そこに穴があったのです。夜で見えませんでした。あまりの痛さで、体がぶるぶる震えました。愛媛大学小児科の先輩医師が背負って、学校の保健室みたいなところへ連れて行ってくれました。養護の先生が手際良く、足の関節の手当てをしてくれました。まだ若い美人の先生でした。そこに2日間 “入院” しました。オーストラリアは国土が広く、医療機関はまばらにしかないので、学校でのけがなどは養護教諭がかなりのことまでやっていました。

真夏のオーストラリアと厳寒の日本。オーストラリアの人々の大らかさと日本人の細かさ。1型糖尿病患者に対する療養指導の違い。ティンバートップの1日の中での暑さと寒さ。そこでの平和でのどかな風景が想い浮かぶ時、同時に、あの湾岸戦争が記憶の中から出てきます。いろいろな事があった本当にホットな正月でした。



 野村乙亥(おとい)大相撲 観戦

平成26年12月 

西予市の野村町とは多少縁があります。町内の公立病院に、5年ちょっと非常勤医師として週2回午後半日、外来診療に行っていた時期がありました。このため、この町で相撲が盛んであることはよく知っておりました。乙亥相撲の時期が近づいてくると、小児科の外来に来る子や親御さんから相撲の練習の話を聞いていました。今もそうですが。
野村乙亥大相撲を観戦したのは、今年が初めてでした。去年、一昨年と過去2回この相撲大会を見に行った家内から「すごくおもしろかった」と聞かされていました。百聞は一見に如かず。思っていたよりずっと良かったです。今年の第163回野村乙亥大相撲初日が11月24日の振替休日であったため、家内と2人で見に行くことができました。その名が付いた乙亥会館で、熱のこもった一番一番とそれに匹敵するくらい熱い統制のとれた応援を土俵近くの桝席でしっかり見てきました。いや、これは本当に感動しました。外人なら “very exciting” と言うところでしょうか。変な話ですが、私はトイレが近い方で、「糖尿か前立腺が悪いんじゃないの」と言われるくらい仕事中もよくトイレにいきます。しかし、この相撲大会の時は、7時間近く乙亥会館の中にいて、1回しかトイレに行きませんでした。熱中して観戦していました。

乙亥会館はちょっと小ぶりの両国国技館のようです。今どき、山の中の小さな町で、こんなりっぱな公共施設がある所はめずらしいのではないでしょうか。観戦した座席は、大会関係者のご配慮で、桝席番号4番という東側土俵すぐ下の最高の場所をいただきました。選手、力士の背中が50cmくらい前にあり、汗が滴り落ちているのが見えました。負けた力士に付いた砂の粒が見えました。おじさんの体臭もじかに来ました(失礼)。立ち合いのときのドーンという音、力が入って「うおっ」と思わず出る声、土俵下で出番を待つ団体戦の選手同士のひそひそ話も聞こえてきました。
将来角界を担う力士になるかもしれない南予の中学・高校の相撲部の生徒、大学の相撲部の学生、相撲部OBの社会人、町内各地区の代表選手団と、消防、警察、市役所、JAなどの職域チーム、それに加えて、実際の相撲部屋に所属している若い幕下の力士たちらが、真剣にかつ楽しんで相撲を取っていました。相撲は、当日になって急に土俵に上がって取れるものではないです。この競技はすぐけがをします。アマの成人選手の人らは、仕事が終わった後や休みを利用して、稽古をしていたのだと思います。皆さん一生懸命やってたので、こちらも力が入りました。また、選手の家族や地区の応援団の人々たちが整然と力いっぱい応援をしているのも印象に残りました。大会関係者らも協力し合ってよく動き、町を挙げての催しであることが見てとれました。

今回の乙亥相撲の前日まで、福岡で大相撲九州場所が行われていました。一晩寝ただけだというのに、人気力士の遠藤関と隠岐の海関もこんな所までと言っては何ですが、よく来てくれました。これも伝統ある行事だからなのでしょう。過去には大横綱 大鵬も来ています。男児の健やかな成長を祈願する「稚児土俵入り」の際に、招聘力士の遠藤関と隠岐の海関はともに東の花道から入場してきたので、私の座っている席のすぐ前から土俵に上がりました。当日の夜のNHK、民放の地方版ニュースには、何度も自分の顔が写っていました。両関取ともに九州場所は勝ち越していましたので、気分も良さそうでした。稚児にとっても縁起が良かったと思います。遠藤関が土俵の上でのインタビューで、「昨日の千秋楽の熱気が、そのまま残っているみたいで、すばらしいです」と、乙亥相撲に賛辞を呈していました。その通りだと思いました。今年は24日が月曜日でしたが振替休日でしたので、観客席も埋まっていました。大会関係者の方々も喜ばれたのでは。少子高齢化が進む人口の少ない町でこれだけ大会を盛り上げるのは大したものです。遠藤、隠岐の海両関取には、彼らの控室で私たち夫婦と一緒に写真を撮らせてもらい、握手もしました。

昨今、やれ、サッカーだ、ゴルフだ、テニスだ、と高額の年俸、賞金がもらえるプロのスポーツ選手をめざして、たくさんの親子が頑張っています。「相撲をしませんか」なんて聞くと、ダサーイと言われてしまうような時代です。相撲は日本の国技であるにもかかわらず、今や、外国人力士だらけになっています。中でも、白鵬、日馬富士、鶴竜の3横綱をはじめとしてモンゴル勢が一大勢力となっています。辛抱、厳しい稽古、古いしきたりの残る相撲部屋。日本の子どもはもう相撲には振り向かないかもしれない。
改革、変革と、声高に叫ばれる今日この頃ですが、その土地その土地の良き伝統、文化を守り、維持し、後世に伝えていくことは大切です。野村乙亥相撲は良い例かと思います。

 
遠藤関   隠岐の海関




 秋の終わり

平成26年11月 

 啄木鳥(きつつき)や 落葉をいそぐ 牧の木々   水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)

水原秋桜子は、中学や高校の国語の教科書によく出ている日本の俳人で、名前がユニークなので覚えておられる方も多いかと思います。明治25年生まれで、昭和56年に没しています。秋桜子は、東京 神田で代々産婦人科の病院を開業していた家に生まれ、自身も東京帝国大学医学部を卒業し、10年後には昭和医学専門学校の初代産婦人科学の教授になっています。その後、家業の病院を継いで、多くの皇族の子どもの出産に立ち会ったそうです。私は、彼の俳人としての活躍や作品については以前から少しは知っておりましたが、彼が医師であったことは最近知りました。

文頭の俳句に戻ります。作者、秋桜子が、実際に訪れた群馬県赤木山の晩秋の風景を回想して詠んだ句です。昭和2年、彼が35歳頃の作品です。季語は啄木鳥で秋ですが、落ち葉という冬の季語も使われています。木の葉がはらはらと落ちていく光景が目に浮かびますが、「いそぐ」なので、多くの木の葉はまだ落ちてないことになります。それで、主になっているのは、冬の季語である落ち葉ではなく、秋の季語である啄木鳥の方なのだろう、と考えたりします。初めの「啄木鳥や」で、牧場に響き渡っている啄木鳥が木をつつく音が想像できます。芭蕉の閑さや 岩にしみいる 蝉の声」などの句と同様に、「音」が強調される状況は、逆に、静かな空間であるということを強く示す効果があります。「落ち葉をいそぐ」という擬人法は、いそがないでほしい、散ってほしくないという心情が表現されているのでしょう。「いそぐ」という語の裏に、惜秋の心情が読みとれます。広い空間に響く啄木鳥の木を打つ音もまた寂しい感じです。

「麓よりも一足早く訪れる高原の牧場で、木々の色づいた葉がみずから急ぐがごとく散っている中で、啄木鳥が音を立てている晩秋のうらさびしい情景」という解説があります。ただ、この句を読んで、その情景を思い浮かべるとき、「秋が終わる、寂しい」という感じはあっても、晩秋の「暗さ」はないように思います。実際、秋桜子自身が「明るい外光を取り入れた句」と語っています。また、「印象派風の油絵が好きで、展覧会を見ては勉強していた効果が現れた」とも述べています。

今、うちの医院の院長室の机に向って座ると、すぐ横の窓のブラインドの隙間から夕陽が射しこんで来ます。11月終わりの夕陽は眩しいけれど、何か勢いがなくなっています。毎年、この夕陽を見ていますが、これで気持ちが落ちついているのか、元気がなくなっているのか、どうもはっきりしない。世の中は、大半がつらいこと、悲しいことで、楽しいことはそんなにはない。年をとっても腹が立つこと、心配なことは多い。これからやって来る長い寒い冬のことを考えると、やはり晩秋の夕暮れは憂鬱です。行動力が鈍り、精神的な活動性も落ちます。けれども、これで良いのかもしれない。パソコンではないが、たまにはシャット・ダウンしないといけない。パワーセーブの状態でしばし過ごすのもいいだろう。いきり立って、いらいら、あくせく、動き、考えるのは、しばらくあっちに置いとこう。

 晩秋の風景 (鬼北町川上)



 満月とドイツ フライブルグ

平成26年9月 

今年は十五夜が例年より一足早くやって来ました。9月8日でした。ふだんの年だったら、まだ厳しい残暑でフーフー言っている時期で、月を愛でる気分にはならなかったと思います。しかし、今年は梅雨が明けてからも雨の日が多く、さほど高温にはなかったものの、雨だらけの夏はもうたくさんという思いでした。幸いなことに、9月8日の十五夜(中秋の名月)と翌9月9日の満月(今年3回目のスーパームーン)は晴天に恵まれ、じっくり眺めることができました。十五夜の月は、長浜の料理屋さんの駐車場で見ました。さすがは中秋の名月、貫禄がありました。空気が澄んでいたせいか、月の中のうさぎの模様がよく見えました。次の日のスーパームーンは当院の庭から見ました。神南山の山の端(は)からゆっくりと姿を現しました。いつもの月より大きく感じました。

「どこで見ても満月は同じなんだなあ」 昔、遠く離れたドイツの都市フライブルグでそう思ったことを想い出しました。
ドイツへは、スペインマドリードから空路でフランクフルトに入りました。スペインで開かれた国際学会の帰りで、助教授(当時)との二人旅でした。出発するマドリード空港では、空港職員の仕事が雑なのと遅いのにはうんざりしたことを覚えています。飛行機の中でも驚いたことがありました。イベリア航空の中型の飛行機でしたが、客室とコックピットを隔てるドアがなく、カーテンで仕切られているだけでした。しかもそのカーテンはほとんど開いていました。スチュワーデスが脚を組んで座って、機長か副機長とずっと楽しそうに話していました。その光景が座席から丸見えになっていました。時おり、クルー全員が大笑いをしていました。日本の飛行機では考えられないことです。ラテン系は実におおらかですが、ちょっと心配になるときがあります。
当時、ドイツにはまだベルリンの壁が残っており、西ドイツと東ドイツに分かれていました。西ドイツの首都はボンでしたが、フランクフルトは西ドイツ中央部にある主要都市で、交通の要になっている所でもありました。フライブルグに行く前日に1泊しました。駅の近くでカレーラーメンが食べられるレストランを見つけ、突進するように入り、すごい勢いでそれらを平らげた記憶があります。その時に身に付けた知識ですが、日本人のお腹にはカレーとラーメンがよく合います。海外で現地の料理を食べ続けると、消化器の調子が弱ってきます。そんな時、これらやうどん、梅干しは最良の整腸剤となります。
翌日、列車で目的地フライブルグに向かいました。列車の座席は、日本では見かけることのないコンパートメントタイプでした。車両の片側が通路で、その通路から個室に出入りする 、洋画や外国のテレビドラマで観るあの様式です。感激しながら乗っていました。座席から外の景色を食い入るように見ていました。ドイツロマンチック街道の西方をほぼ平行に走っている鉄道路線で、広大な大地の中を列車は走って行きました。一面、じゃがいも畑のように見えましたが、定かではありません。ところどころに小さい村があって、あっという間に通り過ぎて行きますが、その村の中心には必ず教会が建っていました。

フライブルグを訪問する目的は、上司の助教授(のちに教授に就任)の共同研究の打ち合わせのためでした。当時、大学病院の小児科で診ていた先天代謝異常症の遺伝子レベルでの病因解明を依頼する旅でした。今でこそ遺伝子解析は比較的簡単にできるようになりましたが、その頃は世界の中でも数えるほどの研究室でしか行えなかった技術でした。現在、フライブルグは松山市と姉妹都市になっていて、「フライブルグ通り」という所があるようです。私が訪れたのはそれより前でしたので、旅行前にはこの市のことはほとんど知りませんでした。
フライブルグに到着してすぐ、大学の研究室に向いました。相手の研究者は、40歳前後の口ひげを生やした、いかにもドイツ人というような実直な感じの方でした。おそらくかなり有名な方だったのでしょうが、私の方がまだペーペーだったので、彼の偉大さがよく理解できていませんでした。会談のあと、その先生がフライブルグの街を案内してくれました。大聖堂にも行き、その塔の上まで長い階段を登りました。そこからの景色はすばらしかったです。

ホテルでチェックインして、少し休憩をとったあと、食事に行きました。市内のこじんまりしたレストランでした。フライブルグ大学の優れた研究者と医局の助教授といっしょに食事ができたことは、当時はあまり気がつきませんでしたが、名誉なことでした。われわれが夕食を終えて外に出ると、あたりを照らすきれいな満月が出ていました。雲は全くありませんでした。まわりはぶどう畑だったと思います。海外で見る初めての満月でした。9月の下旬のことで、日本で言えば中秋の名月です。もともとヨーロッパの夏は短いですが、スペインのマドリードと違い、フランス、スイスとの国境に近いこの市では、夜の気温はぐっと下がっている感じでした。そこで、月を見ながら、文頭の「どこで見ても満月は同じなんだなあ」と私がつぶやくと、ドイツ人の先生が何かウイットに富んだ言葉を話されました。それが想い出せない。「何と話されたかなー」と考えるうちに、それ以外の記憶は次々と蘇りました。今年の中秋の名月、スーパームーンを見ながら、当時の遥かかなたの地に想いを馳せた次第であります。

 十五夜(平成26年9月8日)
東方の神南山から姿を現した中秋の名月



 京都 五山送り火

平成26年8月 

点火は夜8時と聞いていました。見学者はその30分前にホテルのロビーに集まりました。そこから職員の指示に従って、エレベーターで順に屋上に向いました。1階のロビーですでに行列ができていました。屋上に着くと、たくさんの人たちが待っていました。その数がどんどん増えて行きました。開始直前にはすごい人数になっていました。宿泊客で、かつ、ホテルのレストランでその夜食事をする人たちだけが行ける“場所”だったのですが、そこらの通行人が紛れ込んでいるのではないか、と思ってしまいました。「隣の国のビルなら床が抜けるぞ」とも。何より、雨が心配でした。後で述べますが、昼間、京都は豪雨でした。「杓子定規に、8時まで待たなくても、雨が降ってないうちに、火を付けたらいいのに」と思っていたら、近くにいたおばさん同士が同じことを話していました。
(その8時間前) 昼前に、観光タクシーで比叡山延暦寺に向いました。ホテルを出発した時は雨は降っていませんでした。京都市の東の方の白川通りを走っている頃から小雨が降り出しました。その後、急に雨足が速まり、比叡山の道路を登り始めると、大粒の雨がフロントガラスを激しく叩き、前が見えないくらいになりました。車のワイパーはあまり役に立っていませんでした。雷も大きく鳴っていました。道路の横の山肌から滝のように水が流れ出していました。危険を感じました。延暦寺の国宝殿の近くのバスセンターに着いて売店の中に入ると、雨宿りする観光客でごったがえしていました。国宝殿の展示物を1時間くらいかけて見て回り、外へ出ると、雨は小降りになっていました。そのあと、大講堂、根本中堂(総本堂)などを見学しました。
比叡山を降りて行く途中、雲の切れ間から琵琶湖が見えました。霧で見えなくなったかと思うと、さっと霧が流れ去り、琵琶湖と周辺の大津市や草津市も見えました。水墨画のような幻想的な風景でした。タクシーは同じ道を京都市内に向って下っていきましたが、何か所かで道路に土砂が流れ出ていました。大きめの石も道路に転がっていました。鴨川は、これが鴨川かと思うくらい水かさが増していました。夕方、ホテルの部屋でテレビを見ていると、京都市に記録的短時間大雨情報が出されていました。滞在していた中京区あたりにも時間100 mmの雨量があったようでした。テレビの画面には、京都市内の道路のアスファルトがめくれ上がって、そこから噴水のように水が噴き出しているところが写っていました。「あー最悪。大文字焼きももう中止じゃないか」と家内に言いました。

(夜8時前) 雨を心配していました。8時少し前にぱらぱらと来たので、渡されていたカッパを着ましたが、すぐやみました。8時が来ました。あたりの電灯が消されて、初めに「大文字」に点火されました。あとでわかりましたが、この右手(東)に見える大文字が、5つの文字、形の中で最も高い所にあり、そしてはっきり大きく見えました。この「大文字」が五山送り火のシンボルになっています。しばらくして、「妙法」→「船形」→「左大文字」→「鳥居形」の順に右(東)から左(西)へ点火されて行きました。この屋上からは「妙」の文字だけは、前のビルが障害になって見えませんでした。これらの文字、形にはそれぞれ意味があります。これについてはまた別の機会で述べることにします。
五山の送り火は約1時間静かに燃え続けていました。人はたくさんいましたが、なんとはなしに、しんみりした雰囲気でした。外人さんもわりといましたが、彼らにはどうも理解できてないようでした。昼間はひどい天気でしたが、無事最後まで、古都の夜に浮かぶ送り火を鑑賞することができました。長年の望みがかなった時でした。そのあと、ホテルの日本食レストランで食事をし、満足してホテルの部屋に戻りました。テレビを付けると、その日京都市内のいろいろな所で道路や店が冠水したことが報道されていました。翌朝のニュースでは、京都府福知山市の市街地が広い範囲で水没している映像が写っていました。大洲に住んでいる者にとって、水害はひと事とは思えません。痛ましい光景でした。

午後、松山空港に着くと、快晴でした。久しぶりに聞く蝉の声でした。ちなみに、京都で泊まったANAクラウン プラザ ホテルの部屋に置かれていた歯みがきセットも、『製造 愛媛県大洲市新谷』と書かれておりました。不思議と、うれしいものです。

 
比叡山から望む琵琶湖と大津、草津   ホテルから見た「左大文字」




 桔梗(ききょう)と蓮(はす)

平成26年8月 

今の時代、日本航空(JAL)や全日空(ANA)のマイレージカードを持っている方は多いかと思います。わが家では家族全員が持っています。先月、貯めたマイレージで特典航空券を購入し、「海の日」の連休に、家内と2人で東京に行ってきました。夏休みに入って初めての休日で、しかもそこが連休になっていたため、人気がある所はどこも人がいっぱいみたいでした。それならと、あまりうろうろせず、久しぶりに家族で食事でもしようということになりました。イギリスにいる娘を除いて、仙台から長男、就活の終わった東京在住の次男が、ホテルにやってきました。7月20日(日)夜の都心は、雷が激しく鳴り、ゲリラ豪雨のような雨が降っていました。

その日の午前、四国地方の梅雨明けが発表されました。今年の梅雨は長かったです。東京は昼間は晴れていました。行く当てもなかったのですが、上野方面に向かってみました。
地下鉄銀座線 上野広小路駅で降りて少し行くと、年末のにぎやかな風景で有名なアメ横(アメヤ横町)があります。夏でも、通りは人だらけで、店員の大きな声も加わり、相変わらず活気がありました。円安効果なのか、外国人が多いという印象を持ちました。そのあと、池之端の旧岩崎邸庭園、横山大観記念館、上野公園の不忍池と歩いて行きました。

 
旧岩崎邸庭園の桔梗   不忍池の

(平成26年7月20日 夕方撮影)

上の2枚の花の写真は同じ日に撮ったものです。桔梗(ききょう)と蓮(はす)。様々な点で対照的で、趣がありました。
桔梗は、旧岩崎邸庭園の入り口(料金所)に向かう通路の端にポツンと一輪だけ咲いていました。桔梗は秋の七草のひとつで、「あれ、もう咲いている。早いな。」と思いました。花の色がうす紫色で、楚々たる姿でした。旧岩崎邸庭園は、三菱財閥岩崎家の本邸だった建物とその庭園からなります。邸地は三菱財閥初代総帥の岩崎弥太郎が購入し、洋館、和館など建物は3代岩崎久弥によって建てられました。
一方の鮮やかな紅色のの花は不忍池(しのばずのいけ)で見ました。行った頃がちょうど蓮の花期に当たります。早朝に開いて昼には閉じるので、われわれが到着した時間にはほとんどの花が写真のようになっていました。あの広い不忍池全体が蓮の葉に埋め尽くされ、花も無数と言っていいくらい咲いていました。圧倒されるスケールで、ちょっとだけ極楽浄土にいる気分でした。多くの外国人が写真を撮っていました。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」を実感しました。

また余談です。桔梗と言えば、明智光秀の家紋(桔梗紋)を思い起こします。今年のNHK 大河ドラマ 「軍師 官兵衛」では、ちょうど1週間前とその日の放送で『本能寺の変』をやっていました。視聴者にわかりやすいように、森蘭丸に「桔梗の紋、明智にござりまする」と言わせていました。しかし、この有名なシーンはやはり、蘭丸「惟任日向守(これとう ひゅうがのかみ)、謀反」 信長「是非に及ばず」とやってほしかった。大河ドラマは、秀吉が絡む時代すなわち戦国時代から関ヶ原の戦いくらいまでと、幕末が一番面白い。前者の時代で主人公にする人物はもう蜂須賀小六くらいしか残っていないのではないかと心配しています。



 ほおずき市、あさがお市

平成26年7月 

会社の独身男性寮の一室を借りて、約2か月そこの社員と一緒に食事をしたり、風呂に入ったりしていると、年齢も近いためか、いつからとはなく打ち解けて、友人になっていきました。その会社は臨床検査を請け負う検査会社でしたが、当時その業種では国内最大手の企業で、設備、検査機器は地方の大学病院よりはるかに充実していました。その会社の偉い方の説明では「今、このラボの規模は日本一かつ東洋一です」とのことでした。
医学部を卒業したあと大学院に入り、その大学院最後の年(4年)だったと思います。寮は東京の拝島という所にありました。東京と言っても中心部から随分離れている場所でした。中央線で立川まで行き、青梅線に乗り換えて5つ目くらいの駅でした。ラボに行くときは、この駅から八高線(はちこうせん)に乗って八王子まで行き、そこで中央線に乗り換えて日野まで行っていました。この八高線には驚きました。わが四国の予讃線と同じ気動車が走っていました。当時、まだ電化されていなかったのです。八高線は東京の八王子から群馬県高崎を結ぶ鉄道路線です。東京にもまだこんな列車が走っている、と愛媛の友人に話したことを想い出します。

「そろそろ愛媛に帰るんですよね。今週ちょっと車で行ってみませんか」親しくしていた若い社員の人に、風呂上がりに寮の食堂で声をかけてもらいました。ほおずき市あさがお市のことでした。随分前のことなので、どちらが先でどちらが後に行ったのか覚えていませんが、それぞれ別の日に行きました。3-4人で行ったと思います。今、インターネットで調べると、ほおずき市は、「四万六千日」の縁日にちなんで、7月9、10日に浅草寺で開かれています。もう一方のあさがお市は、7月6〜8日まで入谷鬼子母神周辺で開催されているそうです。ともに夏の初めの浅草の風物詩となっています。
その当時は、東京の地理のことはあまり知らなかったので、どの道をどう行ったのかわかりませんでした。今になって考えてみると、拝島から浅草まではかなり距離があり、さっと行ける所ではありません。しかも、ほおずき市、あさがお市の両方が休みの日の開催ではなかったはずで、仕事から帰って出かけたのだと思います。みんな若さゆえにできたことでしょう。研究室の想い出の写真集の中に、ほおずき一鉢を買って、浴衣姿の売り子のお姉さん二人(その時は自分も若い)と撮った写真がありました。今は、その写真がどこにいったかわからなくなっており、残念です。それと、もうすぐ愛媛に戻るというのに、買ってしまったあの鉢植えのほおずきをどうしたのか、想い出せず、もやもやしています。
寮の若い社員の方がもうひとつ想い出になった所に連れて行ってくれました。プロ野球のオールスターゲームです。神宮球場でした。チケット代をいくら払ったのか覚えていませんが、社員の方が取ってくれていました。よく取れたものだと思います。大勢のプロ野球選手を目の前でみるのは初めてでした。今なお記憶に残っているのは、あの伝説の投手 江川卓選手の投球です。内野席から観ていましたが、ストレートは本当に速かったです。
オールスターゲームを観戦した数日後に、愛媛に帰りました。5月20日頃に東京にやって来て、この時も2週間くらいの仕事という上司の指示でしたが、梅雨に入り、梅雨が明け、完全にになっていました。愛媛に帰るときの服装は、恰好悪いことに、5月の服装の長袖のシャツでした。

貴重な経験をさせてくださった独身寮の皆さんは、私より少し年上の方が多かったと記憶しています。今なら還暦あたりかと思います。その会社を退職されたか、在職していればかなり上の位の方になっているでしょう。もう会う機会はないと存じますが、深く感謝しております。それから、当時はそうは思いませんでしたが、マウス数百匹といっしょに重信の田舎から東京に送り込んでくださった愛媛大学医学部小児科教授 故貴田嘉一先生にも深謝いたします。



 宮崎

平成26年6月 

そこに着いた日の夜、宿舎の風呂から出てテレビのスイッチを入れると、どのチャンネルも同じ映像を映し出していました。1989年(平成元年)6月3日の夜11時過ぎだったと思います。恐ろしい光景でした。中国 天安門事件が起きた日でした。北京の天安門広場に民主化を求めて集まっていた一般市民に対して、中国人民解放軍が徹底した武力弾圧をし、学生らに多数の死傷者が出た事件です。愛媛から出て来ていきなりでしたので、インパクトがありました。この事件を含めその頃の世相と、宮崎に行った時のことはよく覚えています。

宮崎は温暖な気候で、かつては新婚旅行のメッカとして名を馳せ、今でも読売巨人軍をはじめプロ野球球団がキャンプ地として利用しているところであります。また、天孫降臨、海幸彦と山幸彦、神武東征等の神話の国としても有名です。仕事(医学研究)でこの宮崎に6週間ほど滞在したことがあります。文頭の天安門事件の頃ですので、随分前です。時期は、ちょうど今頃の梅雨入りから梅雨明けくらいまででした。目的は、宮崎医科大学(今は宮崎大学医学部)の基礎医学系の教室で、ある病気の患者さん達の血液中の自己抗体を高感度で測定することでした。宮崎医大は宮崎市の隣の清武町という所にあって、宮崎市の中心からはバスで40-50分かかりました。当時、医大の周辺にはまだ農村の景色が広がっていました。宿舎は、医大の敷地内にあったゲストハウスを利用させてもらいました。

当時は松山ー宮崎便の飛行機がありました。初日、昼頃に宮崎医大に着き、これから世話になる研究室にあいさつに行きました。その日はそれで終わりだろうと思っていました。ところが、教室に着くなり、教授にあるホルモンを測って検量線を書くよう命じられました。噂には聞いていましたが、大変厳しい教授でした。教室員は、教授がいるとピリピリして、みんな怖がっていました。しかし、数日後、彼らから「君はとても気に入られている。めずらしい。」と言われました。初日の実験で検量線がうまく引けたことと、初対面で「ところで、君は消費税についてどう思う」と聞かれ、「反対してません」と答えたのが良かったそうです。(直接税に偏り過ぎの税制。自営業者の所得が補足されてない。一方で、税金を使う方は“たかり放題”で、その当時から財政が立ち行かなくなるのは明らかでした。)しばらくして、指導教官から聞いた話ですが、教授は「彼は院も出ているし、実験はできるようだ。それに、あの年で消費税賛成とは大したものだ。ちゃんと見てやれ」と言われたそうです。

その年は、新年早々、元号平成に変わった年でした。前年に発覚したリクルート事件竹下内閣の支持率は下がり続け、最後に、内閣総辞職とひきかえに消費税法案を通しました。私が宮崎に行った日は、竹下内閣総辞職、宇野内閣発足の日でもありました。そして、その日の夜に、天安門事件が起こりました。今月の4日であの事件から25年経ったと、新聞各紙が報道していました。この野蛮な国は、今も、昔と何ら変わらない気がします。宮崎での滞在は当初2週間の予定でしたが、測定する検体数が増え、6週間となりました。この間、世の中では様々な事が起こっていました。昭和の歌謡界を代表する歌手 美空ひばりさんが52歳でなくなりました。医大の宿舎は、規則で日曜日だけは利用できなかったので、日曜の朝にバスで宮崎市内まで行って、安いビジネスホテルに泊まっていました。昼間街を歩いていると、消費税反対の署名を度々頼まれました。世間は反消費税ですごく盛り上がっていました。発足間もない宇野内閣は、いきなり総理の女性スキャンダルにみまわれました。それと、以前から引きずっていた「リクルート事件」の影響、消費税導入のいわゆる3点セットにより、7月に行われた参議院選挙で与党自民党はかつてない逆風にさらされ、結党以来の惨敗を喫しました。宇野総理は選挙翌日には退陣を表明しました。

医大の周辺の穏やかな風景は、当時のぎすぎすした国内の政治情勢、強権統治の象徴のような中国での事件とは無縁のようでした。まだ田んぼが多く、ゲコゲコとカエルが鳴いていました。「毎晩、カエルがうるさくて眠れない」と不機嫌そうに話す都会育ちの教官もおられました。庭の広い、昔ながらの農家があり、牛や鶏を飼っている家もありました。舗装してない道端や農家の庭に咲いているあじさいが、その「村」の雰囲気とよくマッチしていました。
私は水色のあじさいが好きです。先日、当院の庭にあじさいを植えてもらいました。今日は静かに雨が降っています。あの天安門事件から25年が経ち、その報道を見て、宮崎医大周辺の梅雨入りから梅雨明けまでの平和な風景、1型糖尿病の研究、若き研究者の頑張っている姿、熱の入った参議院選挙などを想い出しました。





 春の海 終日(ひねもす) のたりのたりかな

平成26年4月 

いつか、このホームページのどこかで触れたことがありますが、大学病院に在籍していた頃、瀬戸内海を渡って広島県の某病院に非常勤医師として週1回診療に行っていました。昭和61年から実に10年間です。今考えると、よくもまあそんな遠い所まで長いこと行ったもんだと思います。

朝5時台に起床、6時過ぎに重信町(現 東温市)の家を出て、今治港に向かい、さらにそこから1時間ほど高速艇に乗らなければならず、まずそれが大変でした。朝が弱く、車酔い・船酔いをしやすい起立性調節障害のような体質の私は、当初は、その病院に着いても診療どころではありませんでした。へろへろになっていました。しかし、不思議なもので、長年、常に揺れている高速艇に乗り続けていると徐々に慣れてきます。乗船すると、揺りかごに乗ったみたいな感覚で、すぐ寝てしまうようになりました。

とは言っても、高速艇は小さく、スピードが速いので、時には大きく揺れることがありました。何度か怖い思いをしました。とくに、冬が大変でした。瀬戸内海でも、冬はけっこう荒れます。行きの便は、今治港を出たのち、高縄半島と大島の間をしばらく進みます。そのあと、北東方向(進行方向の右)に舵を切って、伯方島と大三島を結ぶアーチ橋の大三島橋をめざしていきます。このあたりで、船は強い西風をもろに受け、大きく揺れ始めます。船がジェットコースターのように激しく上下することがありました。船内で悲鳴が出ることもありました。一度、私が乗る予定だった高速艇の前方のガラスが波の衝撃で割れて、港に曳航されてきたことがありました。
仕事が終わって帰るとき、冬の間は、すでに三原港で辺りが暗くなっていました。それが徐々に日の入りが延びていき、生口島(瀬戸田)まで明るく、続いて大三島伯方島大島までとなっていきます。これが楽しみでもありました。今治港に着いても日があるようになるのが、春の彼岸の頃で、日没が夕方の6時半でした。

春になると、穏やかな瀬戸の海になりました。船の中から島々に咲く黄色い菜の花が見える頃が一番のどかだった気がします。春は紫外線が強く、海面がきらきら光っていたことも思い出します。 

     春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな    蕪村

有名な与謝蕪村の句です。須磨の浦(神戸市)で詠んだものといわれています。須磨浦公園に句碑があります。自分が長年見てきた瀬戸内海の春の風景と同じです。しかし一方で、丹後の与謝の海を詠んだともいわれています。そこだと、若狭湾つまり日本海の海ということになります。やはりこの歌は瀬戸内海でないと合わないと思うのですが。

いつもの余談です。歌人 与謝野晶子、鉄幹を祖父母に持つ政治家 与謝野馨氏は政策の職人と呼ばれましたが、彼が読売新聞の中で「我が家のルーツは、天橋立の近くの与謝(現京都府与謝野町)にある」と語っていました。蕪村は39歳の時京都から丹後の宮津というところにおもむきます。そこで3年間滞在します。宮津の近くに与謝があり母親の出身地だと言われています。蕪村ははじめ谷口という姓だったのですが、宮津から京都に戻ってしばらくして、与謝姓にに改めています。ということは、これらのりっぱな人々は一つの地名でつながるのかなと思いました。

帰りの高速艇の右の窓から、ひょっこりひょうたん島のような形の小さな無人島が見えました。大三島の少し手前で、左に生口島があるあたりです。ヤギがけっこう住みついていました。あのヤギはどうなっただろうか。気になっています。春でももっと暖かくなってくると、早朝、がよく出て、朝の何便かが欠航することがありました。10時頃には霧は晴れてきます。今治港で船が動き出すまで待って、遅れて行っていました。そういうときでも患者さんは待っていてくれました。今でも、有難いことだったと思っています。

 穏やかな瀬戸内海(今治側から望む来島海峡大橋)



 ハロー・グッドバイ

平成26年3月 

子どもの頃、食い入るように見ていたテレビ番組がありました。1965年(昭和40年)にイギリスで制作された人形劇『サンダーバード』です。これまで、何度か再放送されたので、我々より若い世代の方もご覧になったことがあるかもしれません。私は、去年の秋、ケーブルテレビでこの番組を放送していることを知り、以後毎週見ています。と言っても、放映時間が土曜の夜から日付が変わった日曜の午前2時、最近は午前4時から始まるので、ビデオで撮って後日見るようにしています。待ち切れずに、リアルタイムで見ることが何度かありました。「これは人形劇ではなく、もはや絶賛すべき映画だ」と、この年になって思います。
今月初めの放送分では、印象的なラストシーンがありました。サンダーバード2号のバージルとともに救助にやってきたアラン(本来は3号担当)と、困難な任務を無事終えた若い女性隊員ミンミンが、スイスの豪華ホテルのバルコニーで話すシーンです。アラン「彼ら(知りあったバンドのメンバー)と別れて、基地に戻るのはつらいんじゃないのか」 ミンミン「(この仕事をするようになって)ハロー・グッドバイの繰り返しには慣れてきたわ」と答える。これだけじゃ、わからないとは思いますが、しんみりとした良いシーンでした。

話は変わって、3月23日の日曜日、天気が良かったので大洲城に行きました。2年ぶりかと思います。開花していました。24日には松山地方気象台が、桜の開花を発表しました。翌25日はわが家の桜が咲きました。東京でも開花宣言がありました。桜はハローとグッバイの象徴のような花です。我々が子どもの時分は、桜が咲く中、入学式、始業式があったように思います。うきうきばかりではなく、内心、次は誰と一緒の組になるだろうか、あの先生が担任だったら嫌だな、などと思いながら、学校に行ったものです。近年、このあたりでは、桜は入学式より卒業式のイメージの方が強いです。地球温暖化による暖冬の年が多いせいか、春分の頃に開花し始め、3月末までに満開を迎えます。入学式がある4月8日頃には、桜は散っています。

今年も春分の日が過ぎ、気候はすっかり春になりました。しかし、毎年のことながら、この時期は良いことばかりではありません。別れの季節でもあります。何年かおつきあいしてきたかかりつけの子どもさんとその親御さんが、先週、今週と大洲を去って行きました。長い医師生活で、この種の別れには大分慣れてきましたが、やはり寂しいです。今年は、それに加え、当院の職員との別れもありました。2月末から結婚退職、産休、転居などで当院を去る職員が続き、春が近づいて来ても暗い気分でした。彼女らはいずれも感じの良い有能な女性陣でした。偶然重なったことですが、これまで退職者の少ない職場でしたので、さすがの私も精神的に落ち込みました。しかし、不思議なもので、桜の花が咲いて行くのを見ていると、少しずつ元気が出てきました。そう言えば、タモリさんの「笑っていいとも」が今日で終わりました。私が医師になった年から続いていた番組でした。この間いろんな事がありました。最終回も「明日もまた見てくれるかな」、「いいとも」で終わったようです。

また余談になりますが、ビートルズ好きの私としては、「ハロー・グッドバイ」と聞くと、アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』のB面の最初の曲、その言葉通りのタイトル「ハロー・グッドバイ」を思い起こします。イエスとノー、ストップとゴー、ハイとローなど “対(つい)になるもの” をモチーフにしたポールの曲です。シングルとしてはビートルズ16枚目のレコードで、1967年11月にリリースされました。文頭で触れた『サンダーバード』とは、同じイギリスで、制作された年も近いです。もうしばらくは春の日差しの中の桜を眺めて、そして桜が散ってしまったら、サンダーバードの中の国際救助隊の活躍を見たり、ビートルズを聴いて、元気を出して行こうかな。


 大洲城と桜 (平成26年3月27日)



 子どもが通った学校

平成26年1月 

うちには20代の子どもが3人います。今は仙台、イギリス(コルチェスタ)、東京に住んでいる大学生、大学院生です。3人それぞれが幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と進んで行きましたが、私自身は入学(園)式、卒業式ばかりか、授業参観、個人懇談などにも一度も行ったことがありません。お遊戯会、学芸会、発表会、文化祭の類(たぐい)にも参加していません。子どもや家内から、「来てほしい」と言われたこともなかったように思います。小学校の運動会には数回行きました。当直明けで大学病院から家に帰って来て、昼ご飯の弁当を食べるために、小学校に行ったという感じでした。運動会の午後のプログラムを一つ二つ観て、帰った記憶があります。
今になって思います。一体、何をしていたのだろうか。かなり忙しかったことは確かですが、これほどまでに、子どもの学校に行かず、子どもの学校での生活を見ていないとは。もう少しふつうの父親らしくしておけば良かった、幼児期・学童期の子どもの姿を見ておけばよかった、と後悔しています。

先日、以前、一番下の子が通っていた学校の近くを自転車で通りました。このあたりの小学生や中学生はよく挨拶をしてくれます。先生方の指導が良いのか、南予の人たちの気質なのか、うれしいです。すぐ近くに校舎が見えるのですが、その場所に入ってないので思い出というものがない。生活習慣病を年々抱えてくるこの年になると、自分の母校を見ると、なぜかぐっと来るものがあるのですが、それと対照的です。
それぞれの子の学校での生活は、彼らの貴重な思い出になっていると思います。しかし、本当は、私自身にとっても、人生の中での大事な一時期だったはずです。あとではめぐって来ない、かけがえのない何ページかをきっと見落としているでしょう。子どもの学校に関する思い出がないのは、今となってはとても寂しい。

懐かしいラジオ番組「小沢昭一的こころ」風に、「世のお父さん方、子どもの学校には行っておきましょう。あとで後悔しますよ。」 まあ、今の時代、こういう父親はあまりいないと思います。卒業(園)式や発表会にはお父さん、お母さんが一緒に参加し、運動会にはお爺ちゃん、お婆ちゃんも行くことが多いそうです。良いことだと思います。ただ、近頃は、ビデオを持って子と一緒に運動場を走る父親がいたり、卒業式の風景を撮影するため室内をうろうろする親御さんもいるようです。

また、余談ですが、そう言えば、自分は子どもを病院に連れて行ったことがありません。近頃のお父さん方は偉いと思います。お父さんが子どもさんをよく連れてきます。お母さんよりお父さんの方が、子どもの病状をよく把握していることがあります。抱っこもおむつ替えも上手な方が多いです。お父さんと来た方が泣かない子がいます。お父さんと一緒だったら、口を上手に開ける子もいます。




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