歳時記(2019年〜2024年)



 井の頭公園と「SONGS」岡村和義

令和6年6月 

驚きました。5月23日(木)の夜、30分ほど仮眠した後、ぼうとした頭でなにげにテレビを見ていたら、ある景色が目に入りました。その前の週(5日前)に行ったばかりの井の頭公園が映っていました。「あれー、この間、ここ行ったぞ」と家内を呼びました。NHKの音楽番組「SONGS」(司会は大泉洋さん)で、ゲストは斉藤和義さんと岡村靖幸さんでした。大物ミュージシャンです。新聞のテレビ欄の見出しには『岡村靖幸と斉藤和義の大型ユニットが登場! 原点の吉祥寺を街ブラ』と書かれていました。あまりに最近のことだったので、びっくりしました。公園内の景色もよく覚えていました。
今では有名なシンガーソングライターのお二人は、若い頃は吉祥寺に住んでいたそうです。なかなか芽が出なかった時代です。街ブラロケは、2人だけのドライブのシーンから始まりました。吉祥寺に着いてから2人は、初めに彼らが当時暮らしていたそれぞれのアパートを探しました。ずいぶん前のことなので、当時のアパートはどちらもなくなっていました。しかし、2人はデビュー前、お互いをまだ知らない時期に、ここ吉祥寺で徒歩30秒の距離に住んでいたことがわかりました。目の前の道路で「ここですれ違っていた可能性、十分あるね」と2人は振り返っていました。

その後、2人は吉祥寺駅に近い通りから階段を下りて、井の頭公園に入って行きました。私はこの階段を覚えていました。この階段を逆に上がって、公園から出ていきました。斎藤さんと岡村さんが池のほとりを歩きながら、あるいは木のベンチに座って、昔話をするシーンはなかなか良かったです。草や木の葉の生え具合や色などから、撮影されたのは私と家内が訪れた時期より1か月程度早いのではないかと思いました。斎藤さんは、夜明け頃にこの池に来て、ギターの練習をしていたそうです。
番組の中で、2人が馴染みの店で食事をするシーンがありました。メニューを見ながらそれぞれが注文しました。2人ともが注文したのがなめこ汁でした。味しそうに食べていました。今度、吉祥寺に行って、このなめこ汁を味わってみようと思っています。

 
 井の頭公園にやって来た2人のミュージシャン   井の頭池の畔を散策


 
番組の中で一緒に「ずっと好きだった」を歌いました    自分も座ったここのベンチで2人が談笑していました



 東京百景(3)

令和6年5月 

地下鉄 銀座線で終点の渋谷まで行きました。乗り継ぎの電車に乗る前にトイレを探していた時に、ビルの窓から渋谷スクランブル交差点が見えました。テレビでよく映る場所です。ゴーカートが何台も続いて道路を走っていました。公道カートとかいうのでしょうが、車を運転している人にとっては迷惑な乗り物だろうなと思いました。
京王井の頭線に乗りました。渋谷が始発なのに人がいっぱいで、座れませんでした。井の頭線には何回か乗りましたが、下北沢より向こうへは行ったことがなかったので、ちょっと楽しみでした。しかし、昔乗っていた伊予鉄 横河原線かと思うくらい、走るとすぐ停まる電車でした。駅と駅の間隔が短い。あとで調べたら、平均駅間距離は0.8kmでした。明大前駅で乗客が大勢降り、そこからはゆったりと座れました。
井の頭公園駅で降りました。終点の吉祥寺駅の一つ前です。おばさん(同じ年代)が2人降りましたが、駅には人がほとんどおらず、ガラーンとしていました。駅を出てもあまりにひっそりしているので、どこが公園の入り口かすぐにはわかりませんでした。木立に向って進むと、奥の方に道が続いていました。たぶんここが井の頭公園だろうと思い、中に入りました。
少し歩くと、池が見えてきました。最初は、細い小さい池でしたが、進むにつれて広い池になっていきました。人が乗った白鳥のボートがたくさん動いていました。あとでわかりましたが、自分らは池尻から上流に向かって歩いていました。
「ここが神田川源流です」と書かれた看板を見つけました。井の頭池は神田川の源流だったのです。知りませんでした。井の頭弁財天周辺から湧き出た水は、池尻のひょうたん池から流れ出ます。そこが神田川の起点でした。
池のへりの散歩道を歩きました。この日は夏日で早々にばててしまいました。ベンチはあちこちにありましたが、日が当たらない場所のベンチは空いていませんでした。暑かったのでアイスクリームを買いました。公園内には野外ステージもありました。吉祥寺駅と書かれた矢印の方向に歩き、階段を上がって公園を出ました。
JR吉祥寺駅中央線快速に乗りました。すごく混んでいて、新宿までは座れませんでした。四谷駅で降り、そこから歩いてホテルに帰りました。行きよりはるかに短い時間で戻って来れました。

ホテルでしばらく休憩して、予約をしていた赤坂の料亭に向いました。料金がわかってないと、なかなか入れそうにないお店でした。美味しい料理を個室でゆっくりいただきました。良かったです。帰るときに、若い仲居さんに「ここは週末は混まないの」と聞くと、「ここはほとんど接待で使われるので、平日の方が忙しいです」との答えでした。我々2人は接待してくれる人などいないので、当然自腹です。

 
15. 渋谷交差点   16. 京王井の頭線 井の頭公園駅


 
17. 井の頭池 神田川源流   18. 井の頭池の中のボート池


 
19. 赤坂の料亭   20. 前菜



 庭のすずらん

令和6年5月 

純白の、形が美しい、上品な花です。今年も、わが家の庭にいっぱい咲きました。みずみずしい香りが辺りに漂っています。5月1日はすずらんの日だそうです。フランスでは古くから、この日に「幸運が訪れますように」と願って、大切な人にすずらんを贈る習慣があります。
ここに来るまでは、すずらんは北海道など寒い地方で咲く花と思っていました。すずらんが満開になる頃には、すっかり暖かく、日も随分長くなります。桜とはまた違った喜びがあります。

 
2024年4月6日   4月12日


 
4月16日   4月22日



 東京百景(2)

令和6年2月 

朝ホテルの部屋のカーテンを開けると、快晴でした。東京タワーがきれいに見えました。「久しぶりに東京タワーに行ってみよう」と思いました。地下鉄(大江戸線)に乗り、赤羽橋駅で降りました。地上に出ると、目の前に、空に向かってそびえ立つ東京タワーが現れました。空のと東京タワーのはよくマッチします。私は東京タワーが好きです。これが東京のシンボルです。芝公園の中でしばらく眺めていました。
再び大江戸線に乗りました。次は築地市場で降りました。朝日新聞本社ビルや国立がんセンターの建物がありました。築地場外市場にはものすごい数の外国人がいました。いったいどこから、どうやって来たのだろうか。東京の地下鉄は路線図が複雑で、日本人でもわかりかねるのに。そして、そこらじゅうの外人さんらがいろいろな物を買って食べていました。これはなんぼ何でも高いんじゃないのと思うような値段でしたが、飛ぶように売れていました。
さらに、蔵前へ進み、乗り換えて浅草へ行きました。5年以上来てなかった「駒形どぜう」で、ドジョウ料理とクジラ料理を食べました。おいしかったです。ちと塩分が多かったかな。私が子どもの頃、田植えの時期になると、祖父の家に近所のお百姓さんらがやってきて、昼にみんなでドジョウ汁を食べていたのを思い出します。美味しそうに、そしてドジョウ汁と一緒にご飯をかきこむように食べていました。それが終わると、勢いよく田んぼに向いました。
店を出て浅草の雷門の交差点で止まった時、横を見ると近くに東京スカイツリーが見えました。
浅草から銀座線に乗って溜池山王駅で下車しました。日枝(ひえ)神社に参拝しました。そこから赤坂見附方面に歩き、宿泊しているホテルニューオータニに帰りました。

  *東京百景(1)写真集のコーナーです。写真の下の数字は通し番号になっています。

 
7. 東京タワー(2月24日)   8. 築地場外市場


 
9. 駒形どぜう   10.ドジョウ鍋


 
11. 浅草寺雷門   12. 雷門前から見たスカイツリー


 
13. 山王日枝神社   14. ホテルニューオータニの日本庭園



 元日の富士山

令和6年1月 

標高 3776m、日本一の山、富士山。令和6年の元日に威厳のある美しい富士山を見ることができました。富士山はその高さもさることながら、なだらかな曲線を描く山裾に魅力があります。これまで何度となく写真や映像で見てきましたが、近くで眺めると、一層そう感じました。東京から見える富士山は、その手前に丹沢山地があるため、あの雄大な麓は見ることができません。

めったに早起きをしないこの私が、午前5時に起きて、あたりがまだ真っ暗な中、ホテルから赤坂見附の地下鉄の駅に行きました。6時15分発の丸の内線に乗り、東京駅に向かいました。7時3分発の新幹線ひかりを待っている間に少しずつ明るくなりました。朝日が見えたのは、東京駅を出発した後でした。空には下弦の月よりやや大きい更待月(ふけまちづき 旧暦の20日の月)が見えました。

午前8時過ぎに静岡市に着きました。富士山が一番よく見えるのは朝8時頃と、以前、地元の人に聞いていました。初めに、羽衣伝説がある三保の松原に向いました。ここで富士山を見た時は感動しました。しばらく、目の前にある太平洋、三保の松原、富士山を眺めていました。松原の中の松も、幹の太い、枝ぶりの良い木が多かったです。
次に、清水港に向いました。刺身マグロとして流通する冷凍マグロの水揚げ量が日本一の清水港は、全国一のマグロの集積地と呼ばれています。そこの市場で豪華な海鮮丼桜えびかき揚げ丼を買いました。我々の世代より上の方々は、清水次郎長と「旅姿三人男」を思い出すのではないでしょうか。
そのあと、日本平(にほんだいら)に上がりました。夢テラスからの富士山の眺めは豪快でした。前回ここに来た時は晴れているにもかかわらず、富士山が全く見えませんでした。観光案内のボランティアの方に「ここに来る7割の人が富士を見ることができずに帰っていくんですよ」と慰められました。日本平のお茶会館で茶畑を見せてもらいました。おいしいお茶もいただきました。静岡名産のお茶を買いました。
最後に駿府城に寄りました。駿府城は徳川家康が晩年大御所として政治を行った所で、彼はここで生涯を終えました。正午頃、駿府城のお濠の土塁に座って(人の邪魔にならない場所)、清水港の店で買った海鮮丼と桜えびかき揚げ丼を食べました。この時も目の前に富士山が見えていました。暖かい良い元日でした。
13時少し前の新幹線こだまで帰途につきました。富士市あたりでは富士山の全貌が見渡せます。東京までの新幹線の中から、少しずつ姿を変える富士山の威容に感銘を受けました。ホテルに帰ると、「春告草」の異名をもつの花が咲いていました。

 
更待月(行きの新幹線の車窓から撮影 7時37分)   朝日を浴びる富士山(富士市あたり 7時53分)


 
三保の松原(静岡市 8時59分)   三保の松原と富士山 (9時3分)


 
日本平から望む富士山と清水港(10時29分)   日本平のお茶畑と富士山(11時1分)


 
富士川と富士山(帰りの新幹線の窓から 13時10分)   白梅(ホテルニューオータニの日本庭園)



 静岡、「どうする家康」、富士山

令和5年11月 

何十年ぶりかに東海道新幹線に乗りました。昔「夢の超特急」と称された 「ひかり」で、東京から静岡に向いました。静岡市は初の訪問でした。ここ10年、上越・北陸・東北新幹線は度々利用しましたが、東海道新幹線に乗ることはなかったです。東海道の景色は、もっぱら上空(飛行機の中)から眺めるだけでした。うれしくて写真のような駅弁を買いました。

静岡市までの乗車時間はちょうど1時間でした。窓からずっと富士山の方を見ていました。静岡に到着する少し前までは富士山がわりときれいに見えていました。今回の旅の一番の目的が富士山見物でした。先に結果を言いますが、静岡市に6時間以上いましたが、その間一度も富士山を見ることはなかったです。天気は良く晴れていました。甲府(山梨)の観光タクシーの運転手や今回の旅で会った日本平(にほんだいら)の観光案内の人が、「富士山は天気が良くても見えないことがよくある。逆に、雨が降っていても見える時もある。不思議な山です。」と話していました。
10月末には富士山はしっかり雪化粧をしていました。ところが、11月に入ると異例の温かさで富士山の雪が解けていきました。私が静岡市を訪れた11月4日は25℃を超える夏日でした。

NHK大河ドラマ「どうする家康」は後半から面白くなってきました。前半が長すぎた。前置きがやたら長い講演のようでした。私が大河ドラマの最高傑作の一つと評価する「葵三代」と比べると、随分レベルが違います。でも、主役の松本潤君(徳川家康 役)は良い演技をしていたと思います。
静岡駅に着いて、初めに駿府城を訪れました。駿府(静岡市)は、家康が幼少期に人質として8年暮らした所ですが、晩年には大御所政治の舞台となりました。家康は愛知県岡崎生まれで、浜松に城を構えていました。駿府は日当たりが良く、富士山が近くで見え、海が近く駿河湾の海の幸も獲れます。ここを人生の終焉の地に選んだのがわかる気がしました。

次に登呂遺跡に行きました。小学校の社会科の教科書には必ず出てくる弥生時代を代表する遺跡です。稲作に向いていた土地だったのでしょう。そのあと、日本平(にほんだいら)に向いました。この地名は日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説に由来します。登呂遺跡の近くで草薙という地名の看板を見ました。三種の神器の一つ草薙剣ゆかりの名だろうと思いました。日本平の夢テラスに上って、富士山の方角をじっと見ていましたが、最後まで姿を現すことはなかったです。「こんなにいい天気なのに」残念でした。
日本平ロープウェイで久能山東照宮に行きました。乗っている時間は5分ほどですが、乗り場には長い行列ができていました。久能山東照宮は徳川家康公を御祭神として祀る神社です。家康公の遺命により遺体は久能山に埋葬されました。日本最古の東照宮建築で、御社殿は国宝に指定されています。
帰りのロープウェイからは、きらきら光る駿河湾、遠くに御前崎、久能山の南斜面にはたくさんのイチゴハウスが見えました。穏やかな晩秋の1日でした。

 
11月4日午前9時 東京駅(新幹線ひかり車内)   三島-静岡間で見えた富士山(新幹線車窓から撮影)


 
徳川家康 像(駿府城本丸跡 静岡市)   駿府城跡 天守台発掘調査


 
登呂遺跡   日本平(久能山)から駿河湾を望む


 
久能山東照宮 楼門   国宝 御社殿



 初夏 2023

令和5年5月 

10人足らずの小児科医で、大洲、八幡浜、西予等の南予地域の小児休日当番医を担当しています。休日・祝日の多い年末年始ゴールデンウィークはだいたいどこかで当番医が当たります。今年のゴールデンウィークで、まとまった休みを取れたのは5月3日(水)からでした。ちなみに、7日(日)の午前中は臨時で診療をしました。
日本の四季の風景は美しい。中でも初夏の風景が好きです。日が長く、暖かく、野や山にいろいろな花が咲き、若葉の色がみずみずしい。自然界の息吹を感じます。今年もそれを求めて、旅に出かけました。
旅の始まりは5月3日夕方、東京駅からでした。北陸新幹線で長野に向いました。当初、8年ぶりの長野旅行だけの計画でした。しかし、この新緑の時期にどうしても見たい景色があって、新潟にも行くことにしました。信濃の旅は『写真集』のページを参照してください。今回は上田、松本、安曇野に行きました。天気が良く、きれいな景色をたくさん見ることができました。

新潟県湯沢町(南魚沼郡)には5月4日19時頃に到着しました。日暮れが遅い時期なので、まだ明るさが残っていました。ホテルで地元の美味しい料理をいただきました。
翌5日朝早めの時間にホテルを出発し、苗場ドラゴンドラ乗り場に向かいました。これに乗ることが今回の旅行の大きな目的でした。5年前の同じ時期にここを訪れており、その時の感動を再び味わうべく、やって来ました。苗場ドラゴンドラはプリンスホテルが運営するゴンドラの愛称で、松任谷由実さんによって名づけられました。全長5481m日本最長のゴンドラです。片道約25分、アップダウンを繰り返しながら進んでいきます。越後山脈の山々、新緑の草や木々、湖沼、残雪、真下に見える小川や沢、これらを空中から眺めることができます。まさに空中散歩です。新緑には濃淡があり、水の色も透明、薄い水色、サファイアブルー、エメラルドグリーンなど様々です。これに空の青、雪の白が加わります。感激します。

ドラゴンドラの乗り場付近に水芭蕉群生地があります。帰りに寄ってみました。朝、苗場プリンスホテルの敷地に入った所で、職員に水芭蕉のことを聞くと、「今年は雪解けが早かったので、咲くのが早くて、もう終った」と短く言われました。多くは期待せずに群生地にいてみましたが、少し残っていました。5年前とは様子が違っていましたが、この上品な花をまた見ることができ、うれしかったです。
そのあと、八海山に向いました。苗場からはまあまあ距離があります。八海山は古くから信仰の山として崇(あが)められている山です。八海山スキー場のロープウェー山麓駅から歩いて数分の所に、カタクリ群生地があります。スキー場の雪が解けると、カタクリが花を咲かせます。ここのカタクリの花もピークは過ぎていましたが、少し残っていました。気候は完全に初夏でしたが、春の花の代表格である水芭蕉やカタクリの花を、ここ南魚沼地方で観察できました。

もともと、今回の旅行は信濃、越後の「遅い春」を味わうための旅行でした。しかし、今年は例年になく春の到来が早く、5月の連休中は完全に初夏の気配でした。初夏の風景は生き生きしています。自然界から元気をもらった気分になりました。

 
A. ホテルから見た越後湯沢の街(5月5日8時半)   B. ドラゴンドラ(上り)からの景色 (9時45分)


 
C. 苗場スキー場(10時10分)   D. ドラゴンドラ(下り)からの景色(10時40分)


 
E. 水芭蕉群生地(11時15分)   F. 水芭蕉


 
G. カタクリの花(八海山ロープウェー山麓駅付近 13時半)   H. 八海山(13時50分)



 都心の桜 (2)

令和5年3月 

3月19日(日)はよく歩きました。神奈川県に住む次男がホテルまで来て、昼から一緒に行動しました。夕方、次男が「今日は1万歩歩いているよ」と話していました。
紀尾井町のホテルニューオータニの日本庭園を散策した後、ホテルの敷地から出て、外堀土手を歩きました。その土手は、春になると桜が満開になる都心の隠れた「絶好の花見スポット」です。この日は、紀尾井町側の桜はまだ2-3分咲きでしたが、上智大学の脇を通って四ツ谷駅に近づくにつれて開花した花の割合が高くなり、6-7分咲きくらいになっていました。四ツ谷駅付近でタクシーに乗り、靖国神社へ行きました。境内にある「桜の標本木」などを見ました。参拝客が大勢いました。靖国神社を出て、皇居に隣接する北の丸公園に向いました。田安門を入ると、日本武道館があります。午前中にどこかの大学の卒業式があった様子でした。北の丸公園を出て、竹橋、さらに内堀通りを進んでもタクシーがひろえず、結局地下鉄を乗り継いでホテルに帰りました。

20日(月)は、タクシー観光でいろいろな所に連れて行ってもらいました。その日もタクシーを降りた場所ではよく歩きました。国立劇場前の駐車場で降りて、写真をたくさん撮りました。次に日本銀行本店に向いました。テレビによく映る有名な建物ですが、人がほとんどいませんでした。そこから日本橋、京橋、八丁堀(ここにも桜並木がありました)、茅場町、兜町(東京証券取引所)を通って、谷中霊園に行きました。ここには著名人(政治家、文豪、文豪、徳川家など)の墓があります。たくさんの鳥がいました。きれいな色の小さい鳥を近くで見ることが出きました。人に慣れているのか、近づいてもすぐには逃げず、木に止まったままさえずっていました。この後、混んでいる細い道路を通って、播磨坂に行きました。坂の上から下まで、桜並木を歩きました。近くに小石川植物園がありました。最後に、本郷の東京大学に向いました。ここは家内の方が詳しいので(長男がこの大学を卒業)、案内してもらいながら広いキャンパス中をゆっくり散歩しました。

あー、本当に桜はいいなあ。心が明るくなる。都心とは言え、人がいっぱいいる所をなるべく避けたので、ゆったりとした気分で見て回れました。17時15分、羽田発の飛行機で愛媛に帰りました。座席がプレミアムクラスだったので、夕食が出て、少しリッチな気分でした。

 
羽田空港・『鬼滅の刃』じぇっと 参(2023年3月18日)   ホテルの朝食・ルームサービス(3月19日)


 
靖国神社(3月19日)   東京大学 安田講堂(3月20日)



 都心の桜 (1)

令和5年3月 

今年(2023年)、東京桜の開花3月14日でした。昨年より6日早く、平年より10日も早く開花しました。ちなみに、満開になったのは3月22日でした。これも平年より9日早かったそうです。
近年、東京の桜の開花は早いです。今年がそうですが、全国で一番早く開花することがあります。ほとんどの年で、愛媛より開花が早いです。3月18日(土)の夕方、大洲の自宅を出発するときには、わが家の桜はまだ咲いていませんでした。
19日と20日の2日間、東京はきれいに晴れていました。その5日前までは天気予報で傘のマークが出ていました。その時は「ホテルで美味しいものを食べて、部屋で休んどこ」と思っていたくらいでした。しかし、幸運なことに天気に恵まれ、春の陽気と青空に引かれて、都心のいろいろな場所の桜を見てきました。

写真A靖国神社の「桜の標本木」です。東京管区気象台が開花を観測するため指定した桜(ソメイヨシノ)です。四分咲きくらいの開花状況でした。
写真B
武道館北の丸公園の桜。靖国神社から少し歩いた所にあります。
写真C
千鳥ヶ淵。ボート遊びをしている人たちが大勢いました。気持ち良さそうでした。
写真D
国立劇場の前庭です。何種類かの桜が咲いていました。ここのソメイヨシノはほぼ満開でした。
写真E日本銀行本店前の桜です。この格式のある建物は、テレビのニュースでよく映ります。平日だったのに、人通りが少なかったです。
写真F
播磨坂の桜並木です。近くに小石川植物園があります。
写真G東京大学本郷キャンパス内の桜です。後ろの建物は法文1号館です。
写真H
:桜のうしろに見える建物は上智大学です。ホテルニューオータニから外堀土手を通って、四谷駅方面に歩いていきました。外堀土手にはたくさんの桜の木があります。

 
A. 靖国神社、桜の標本木(3月19日)   B. 武道館、北の丸公園(3月19日)


 
C. 千鳥ヶ淵(3月19日)   D. 国立劇場(3月20日)


 
E. 日銀本店前(3月20日)   F. 播磨坂(3月20日)


 
G. 東京大学(3月20日)   H. 上智大学(3月19日)



 師走の積雪

令和4年12月 

12月18日(日)の夜から雪が降りはじめ、夜9時過ぎには、医院の駐車場や周囲の道路、畑が真っ白になっていました(写真A)。週明け19日(月)の朝、出勤してきた職員の仕事は雪かきから始まりました(写真B)。これで雪は終わりかと思っていたら、23日(金)の未明から再び雪が降り積もり、朝の診療開始時間になっても雪が降り続いていました(写真C)。写真Dは翌24日(土)クリスマスイブの夕方の風景です。駐車場の看板のサンタクロースとトナカイの絵の下に雪が残っています。これがクリスマス寒波2022でした。

温暖な気候の南国、愛媛と言われていますが、南予の気候は東中予のそれとは異なります。今回のような12月の積雪は珍しいかもしれませんが、冬季、大雪になることは、大洲に来てからでも度々ありました。
大洲に来る前に27年間重信町(東温市)に住んでいましたが、その頃から「南予の天気をなめたらいかん」と思っていました。大学病院に勤務していた頃、非常勤医師として県立北宇和病院、町立吉田病院、市立宇和島病院などに行くことがありました。その頃からしばしばこの雪には泣かされました。家に着いたら、深夜で日付が変わっていたようなことも何度かありました。

一方で、今年12月のこの時期は新型コロナ第8波のさなかで、当院にも連日小児のコロナ患者さんが来ていました。その子や保護者も大変だったでしょうが、寒さの中、駐車場までコロナの検体を取りに行く看護師も大変でした。

 
A. 12月18日(21時半)   B. 12月19日(8時半)


 
C. 12月23日(8時半)   D. 12月24日(17時)



 懐かしい写真(2)

令和4年11月 

前回の続きです。スペインでは首都マドリードの他に、エル・エスコリアルとトレドを訪れました。これら2つの都市はマドリードからそう遠くない所にあります。
エル・エスコリアルでは、歴史のある大学(中世の建物)内で1週間近く、小児内分泌疾患小児糖尿病に関する講演や発表を聴いて勉強しました。そこの宿泊施設で、世界の医師・研究者ら数十人と一緒に寝泊まりしました。毎日、朝昼晩、外国人と同じテーブルで食事をするのが、一番しんどかったです。
エル・エスコリアルからマドリードに戻り、国際糖尿病学会に参加しました。トレドへは観光で行きました。その学会のオプショナル・ツアーだったかもしれません。

下の写真2枚(A、B)は、トレドの旧市街の写真です。これら2枚の写真をつなげると、パノラマ写真のようになります。いつ書いたか覚えていませんが、写真の横に「タホ川南側にある展望台ミラドール・デル・バジェから望むトレド旧市街の景色。街の周囲をタホ川が流れる。」と、メモをしていました。写真Aに写っているとんがった塔の建物はトレド大聖堂で、写真Bの丘の上の建物は古代ローマ時代から要塞として機能したアルカサルです。

 
A. 古都トレドの旧市街。トレド大聖堂が見えます。   B. 丘の上の建物はアルカサル


スペインの首都マドリードからバスで1時間ちょっとのところに、突然中世そのままのような都市が現れました。ここだけが中世から時が進んでないかのようでした。トレドは三方をタホ川に囲まれた小高い丘のある街で、中世の城郭都市です。どこかの旅行会社の案内に書かれてありましたが、この街は「スペインに1日しかいないのなら、迷わずトレドへ」と言われるほど、見どころが集中しています。スペイン観光の目玉ともいわれ、旧市街全体が世界遺産として登録されています。

トレドは1561年に首都がマドリードに移されるまで、首都として君臨してきただけに威風堂々とした佇まいでした。古代ローマ時代に城壁が築かれ、その後イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の攻防がありました。イスラム教様式とキリスト教様式とが融合したこの街独特の文化は、スペイン文化の源流となっています。世界的にも貴重な建築物が数多くみられます。また、トレドは16世紀の画家、エル・グレコが愛し、数多くの作品が残る芸術の町でもあります。悠久の時の流れを感じる街でした。

マドリードからトレドまでの行き帰りのバスの窓から見た景色も素晴らしかった。写真からわかるように、その日は快晴でした。澄んだ青い空はどこまでも高く、乾燥した広大な赤土の大地が続きました。畑一面にひまわりの花が咲いている所がありました。高速道路の近くの原っぱで子どもたちがサッカーをしている風景が度々目に入りました。サッカーが盛んな国なんだなと、漠然と思いました。まだ、スペインリーグなど知らない頃です。
ここが自分にとって海外旅行・国際学会の原点なので、生きているうちに、いや動けるうちにぜひもう一度行きたいと思いました。


 懐かしい写真(1)

令和4年10月 

懐かしい写真を見つけました。何十年ぶりかです。大洲に来る前に住んでいた重信(東温市)の家においたままになっていました。まずはその写真の説明です。

 
マドリードの日本料理店  


スペイン マドリードの日本料理店での写真です。右端の人が、愛媛大学医学部小児科初代教授の松田博先生(当時55歳)です。左端の人が同 助教授(のちの2代目教授) の貴田嘉一先生(当時44歳)で、後ろにいる右から2番目の人が松山成人病センター長の河野恒文先生です。そして、後ろの左でカメラの方を見ずに、料理に気がいってしまっている若造が私です。20代でした。こういう先生らと同じ席に、よく自分がいたもんだと思います。
私以外の3人の先生方は、すでに鬼籍に入られています。当時、私の目からは(失礼ですが)かなりのお年寄りと見えていた方々が、実際は随分とお若い。今の私の年齢よりはるかに若いです。

写真の右下の日付は1985年9月29日になっています。37年前の今頃の季節です。スペインでの国際学会が終わり、ほっとした日だったと思います。この写真が入った同じアルバムの中に、スペインに到着した日の写真もありました。その日付は1985年9月17日でした。4人が同じ飛行機で日本を発ちました。写真を撮った時点で、2週間近くスペインにいたことになります。

このあと、松田教授と河野先生は日本に帰られました。貴田助教授と私は、マドリードから空路、西ドイツ(当時ドイツは西ドイツと東ドイツに分かれていました)フランクフルトに移動し、そこから列車でスイス・フランスとの国境の街フライブルクに向いました。フライブルク大学の助教授と、研究の打ち合わせをしました。その後フランクフルトに戻り、そこから日本に帰りました。長い旅でした。旅の初めから終わりまで、目にするもの耳にするものすべてが新鮮でした。田舎者のペーペー(私)にも、世界はとても広いこと、欧米の医学研究のレベルが極めて高いことが、よくわかりました。

日本の元号はまだ昭和でした。2つの国際学会への参加と研究打ち合わせのためのこの海外出張が、自分にとっての初の海外旅行でもありました。当時、ヨーロッパは遠かったです。成田空港を出発して、給油のため、まずアンカレッジ空港(アラスカ)で降りました。次はアムステルダム空港(オランダ)で給油。スペインに着くのにほぼ1日かかったと記憶しています。現地時間の昼前に着いたので軽く市内観光をしましたが、機内での長時間の旅と慣れない時差のせいで、へとへとになりました。疲れたときは、やはり日本料理です。実は、写真のお店には、スペイン到着当日にも来ていました。 「帝」とか「皇帝」とかいう名前だったと思います。外国にある日本料理店の名前は、こういう名前が多かったです。

時間だけでなくお金もかかりました。でも、旅行中の食事代はほとんど出してもらいました。滞在費・学会参加費などもある程度出してもらったと記憶しています。飛行機代は自費だったと思います。当時私は大学院の4年目で、貯金なんかはしていませんでした。その海外出張の10か月後に結納、1年2か月後に結婚式を挙げましたが、この旅の出費が響いて、婚約指輪を買ったらお金がなくなりました。結婚式の費用は親が出しました。新婚旅行は家内の貯金で行きました。新居は古い借家で、汲み取り式のトイレでした。ウジ殺しをよく撒いていました。家のカーテンがしばらく買えず、前に住んでいた下宿のレースのカーテンだけ掛けていました。家のすぐ裏は伊予鉄 横河原線の線路で、上り下りの電車が15分ごとに通っていました。

この写真をしげしげと見ていたら、こんなことを思いました。あの世でこれらの先生方にお会いしたなら、こう話したい。
・この後18年も大学にいたのに、自慢できるしっかりした業績を残すことができませんでした。
・当時若かったとはいえ、物事がよくわかっていませんでした。自分ができることはちょっとだけだったのに、生意気でした。反省しています。
・私もこの年になるまで、まあまあ苦労をしました。痛い目にも会いました。今頃になって、やっと気づいたことが多々あります
・自分より偉い人、自分の何倍も努力をしている人を何人も見てきました。近くにも尊敬すべき人がいることを知りました。
・先生方が「あんたに言っておきたかった事がまだあった」と言われるなら、私は何時間でも聞きます。
そのあとの雑談の中では、先生方が退官された後、あるいは亡くなられた後に、医局がどうなったとか、少子高齢化で小児科の将来が危ないとか、そんな野暮な話をするつもりはないです。子どもがたくさんいて活気があったあの時代、今より小児科医が随分少なかったけど、小児科医も活気がありました。国立大学と言えども今のようながんじがらめの経理ではなく、ある程度は融通が利いたおおらかな時代でした。「昔は良かった」と、皆で微笑みたいです。


 七夕の風景 今昔

令和4年7月 

七夕の日が晴れる確率は3割だそうです。であれば、今年の七夕の天気は良かった方だと思います。夜は、一時半月がきれいに見えましたが、あとはぼやけているか、雲に隠れていました。織り姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)は観察できませんでした。
7月6日午前0時過ぎ、2013年7月7日のロンドンピカデリーサーカスの写真(C)をこのホームページのトップに載せました。すると、翌7日(七夕)にジョンソン英首相が辞意を表明しました。七夕の日は縁起もあまり良くないのかなと思いながら、過去の写真を探すと、懐かしい写真がいろいろ出てきました。写真は古い順に並べています。

写真Aは浅草のほおずき市の写真です。その2日前の1985年7月7日に入谷(いりや)朝顔市に行ったはずなのですが、写真がありません。まだ私が20代、大学院生の時です。ある研究所の同年輩の若者らと、仕事が終わってから車で出かけました。寄宿舎は昭島市(八王子市と隣接)にあり、浅草までは時間がかかります。日を開けず、2回もその辺りまで行きました。若かったです。
写真Bは写真Aの10年後です。重信町(当時は温泉郡、今の東温市)に住んでいた頃の家庭菜園の写真です。トマトがたくさん成っています。自分の家で作ったトマトは新鮮でおいしかったです。キュウリ、ナスビ、ピーマン、サツマイモ、ニンジン、ネギ、枝豆などいろんな野菜を作りました。中古住宅を買った際、宅地以外に25坪ほどの畑が付いていました。

 
A. ほおずき市(浅草寺 1985年7月9日)   B. トマト(重信町の自宅の庭 1995年7月7日)


写真Cピカデリーサーカスの写真です。家内と長女(イギリス留学中)がロンドン市内の観光をしました。家内がそこに滞在した5日間は、ずっと天気が良かったそうです。 写真Dはイギリスを代表する料理の一つ、フィッシュ・アンド・チップスです。国民食としての長い歴史があります。世界的な物価高騰の中、この料理の値段も上がり、英国の人々が困っていると、先日ニュースで報道されていました。この事とジョンソン首相の不人気と少し関連があったかもしれません.

 
C. ピカデリーサーカス(ロンドン 2013年7月7日)   D. フィッシュ・アンド・チップス(同)


写真EF2017年の七夕の日の院内の記念写真です。今から5年前、開院から8年経っています。写真Eの若いナースは今、2歳の子の母親になっています。写真Fのベテラン ナースにはお孫さんがいます。この日の天気は晴れでした。

 
E. 当院の廊下(2017年7月7日)   F. 当院受付(同)


写真G。4年前の2018年の七夕、大洲は西日本豪雨で深刻な被害を受けました。今も人々の心に大きな傷跡が残っています。写真Gは当院の玄関から市立図書館の方向を撮影したものです。道路も畑も完全に水に浸かっています。その日の正午前、ここに押し寄せてきた濁流の速かったこと、油臭い何とも言えない嫌なにおい、今も覚えています。それと、この豪雨災害当日の地元マスコミの報道は実にお粗末でした。家のまわりを泥水に囲まれて、身動きできなかったので、ずっとNHK、民放のテレビを付けて見ていました。夕方まで全くと言っていいほど、南予の水害は報道されませんでした。彼らは使命を果たしてなかった。
写真H。駐車場の当院の看板です。開院後13年が経ち、色あせてきたので、今年新しくしました。立てたばかりの姿です。見た目に看板がすっきりしました。もうしばらくここで仕事をします。

 
G. 西日本豪雨(当院玄関から見えた景色 2018年7月7日)   H. 新しい看板(2022年7月7日)


七夕の日にスポットを当てて、過去から現在までたどってみました。自分自身、周囲の人々・景色などいろいろ変わるものです。一方で、この約35年、あっという間だったような気もしました。


 今年の桜 

令和4年4月 

「この2週間のために、1年を生きている」ような気がします。少し大げさかもしれませんが、今はそんな風に感じています。そう思う人が、私以外にもおられるのではないでしょうか。
私の誕生日は4月9日です。桜のシーズンが終わると、新しい「年」になります。私が子どもの頃は桜の開花が遅かったです。誕生日が近づくと、桜が咲き始め、誕生日の頃に満開になっていました。桜が誕生日を祝ってくれているかのようでした。この花とともに人生の転機がありました。

今の家の桜は今年、3月19日に2輪花が咲きました。翌20日の昼には8輪咲いていました。21日には花の数はざっと数えて40以上ありました。去年とは異なり、開花後あまり雨が降らず、強風が吹き荒れることもなかったので、2週間あまりゆっくりこの上品で美しい花を楽しむことができました。でも、散り始めると、何とも言えない寂しさがあります。毎年のことですが、年々この花への思いが強くなっています。

 
3月20日   3月24日


 
3月25日   3月28日


 
3月29日   3月30日


 
4月1日   4月3日



 快晴の雪国 

令和4年2月 

「湯沢には冬は来ない方がいいよ。雪がすごいんだから。ほんと、半端じゃないのよ。車で行けない場所が多いし、雪ばっかりで見る所もないしね」元運転手の知人の言葉です。しかし、こう言われると、生まれも育ちも南国伊予の者としては、ちょっと行ってみたくなります。ちなみに、彼の一番のお勧めの季節は4月後半でした。「桜が満開になっても、あたりに雪がまだ残っていてね、とてもきれいよ」 実際に行きました。2018年の4月の終わりでした。感激でした。このホームページの中に何か所か写真を載せています。

下の6枚の写真は、昨年(2021年、令和3年)の2月12日から14日に越後湯沢町とその周辺の市で、撮ったものです。ここは日本の豪雪地帯の一つです。文豪・川端康成の小説『雪国』の舞台となった所です。
本物の雪国見たさの旅行でしたが、滞在した2月12日午後から14日昼過ぎまで3日間快晴が続きました。抜けるような青空でした。雲をほとんど見なかったです。2日間お世話になった観光タクシーの運転手さんは「この時期にこんな天気が続くのは、奇跡に近い」と話しました。私の知人はその期間、別の仕事をしていて会うことができませんでしたが、「本当に良いときに来たね」と家内の携帯にメールが来ました。
この地域の昨シーズンの冬は、事実として、そんなに甘いものではなかったようです。降雪量が観測史上1位を記録していました。ここを訪れる2か月前の2020年12月には、関越道で大規模な車の立ち往生が発生して、大ニュースとなりました。最長52時間、2100台もの車が雪に閉じ込められました。これは、予想外の大雪が降ったこともさることながら、NEXCO東日本新潟支社の対応のまずさも大きな原因でした。
この「事件」の記憶がまだ新しい頃に、まさにその場所に行くことにしたので、出発前は心配していました。怖いもの(豪雪)見たさのような旅行でしたが、そこに行ったきっかけは、度重なる非常事態宣言の発出とその延長で、息子の結婚式が延期(2度目)になったことでした。式は2月11日にとり行われる予定でした。ホテルはキャンセルしてもお金はかかりませんが、飛行機の方はキャンセル料が発生します。「それならどこかへ行くか」というのが、旅の始まりでした。

越後湯沢に来たのは4回目でした。真冬に来るとは考えていませんでした。でも、やっぱり来てよかった。こんな景色は見られないから。実際に見ないとピンとこないです。
それから、2月13日には宮城県と福島県で震度6強の地震がありました。新潟県の湯沢町に居てもけっこう揺れました。上越新幹線は動いていましたが、東北新幹線運休になりました。もし、結婚式をしていたら、東北から結婚式に出席してくれた人たちが、帰れなくなるところでした。

こんなに天気が良いときに、本場の雪国に来られたのだから、緊急事態宣言も結婚式の延期も受け入れないといけない。災い転じて福となす。良かった、良かったと思った次第です。

 
宿泊したホテルの駐車場(越後湯沢町)2月12日   ホテルの近くの民家の除雪風景 2月13日


 
小説「雪国」の冒頭で出てくるトンネル 13日   上杉景勝、直江兼続ゆかりの雲洞庵(南魚沼市)13日


 
車の中から撮影した民家(南魚沼市)13日   宿泊したホテルの客室内の露天風呂 14日



 大晦日 ー源頼朝ー(1)

令和4年1月 

2018年の年末に伊豆に行きました。12月29日は伊豆半島の東岸中部に位置する伊東に宿泊し、30日に熱海に移動しました。熱海では有名な旅館の数寄屋造の離れ(石庭・屋内露天風呂付き、2階建て)に泊まりました。31日(大晦日)の11時前にチェックアウトをし、東京行き特急スーパービュー踊り子に乗る15時半まで時間があったので、タクシー観光をすることにしました。
私はいつも同じことを運転手に言います。「博物館や美術館には行かなくていいから、景色の良い所に連れて行ってほしい」。ただ、車に乗ってから話をしていると、いろいろな話題が出て、しだいに観光の興味が変わり、あげくに行先も変わってしまうことがしばしばあります。

この時もそうでした。初めは、熱海の港や海岸を走ってもらい、景色の良いスポットで写真を撮っていました。私が「昨日泊まった旅館の近くに神社があり、石碑にに『源頼朝公源氏再興祈願成就之神社』と書いてあったんだけど、熱海って頼朝と関係があるのですか」と聞くと、運転手が待ってましたとばかりに「実はそうなんですよ」と答えました。そこから頼朝の話が始まりました。そして、私が「頼朝は蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されたけど、蛭ヶ小島ってどこなんですか」と言うと、運転手が「ここからそう遠くないですよ。行きますか」。蛭ヶ小島は伊豆の離れ小島かと思っていたら、そうではなかったのです。熱海から蛭ヶ小島へは、伊豆半島の付け根を東から西へ(地図なら右から左)に向かう道路を進みました。
そこに着いて、タクシーを降りると、どアップの富士山が目の前にありました。あいにくの雲で上の部分が見えませんでしたが、富士山の雄大な裾野を目の当たりにしました。頼朝は流罪になったといっても、この景色を見ることができたのなら、配流地でも一等地だったのではと思いました。蛭ヶ小島の近くには、世界遺産に登録された韮山反射炉(明治日本の産業革命遺産)がありました。そこにも寄りました。

その後帰途につき、熱海梅園の横を通り、日本三大古泉の一つ「走り湯」に行きました。洞窟の中は熱く、源泉の光景は神秘的でした。走り湯がある海辺から車で山に登って行き、伊豆山神社を参拝しました。「頼朝・政子腰掛け石」という石がありました。説明文には、蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝は伊豆山神社を崇敬した。当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、この神社で二人は結ばれたと書かれていました。歌手・女優の小泉今日子さんが奉納した鳥居もありました。

余談になりますが、この旅行で伊東市を初日の宿泊地に選んだのは、単に星野リゾートに泊まりたかったからでした。今考えると、伊東は伊東祐親(いとうすけちか)ゆかりの地でした。彼は平家に仕え、その威光を盾に伊豆でのし上がった実力者です。平清盛から頼朝の身柄を預かり、監視してきた人物です。頼朝の最初の妻である八重姫は伊東祐親の娘でした。頼朝と八重はこの地(伊東)で逢瀬を重ね、二人は男児に恵まれました。しかし、そのことを知った祐親は激怒しました。狙われた頼朝が命からがら逃げた先が伊豆山神社(熱海)でした。以後、頼朝は北条氏を頼ります。政子を妻に迎え、北条という後ろ盾を得た頼朝は、この伊豆から源氏再興の道を歩み出しました。

この時の伊豆(伊東・熱海)への旅行は頼朝を巡る旅ではありませんでしたが、結果的にはそうなっていました。これが3年後の2021年(令和3年)の大晦日へとつながります。

 
A. 源頼朝公源氏再興祈願成就之神社 (熱海今宮神社)   B. 源頼朝の流刑地:蛭ヶ小島


 
C.源頼朝と北条政子の像 (蛭ヶ島の夫婦)   D.頼朝・政子腰掛け石 (伊豆山神社)



 年末風景 2021

令和3年12月 

今年も、コロナに始まりコロナで終わった1年でした。昨年は大晦日に当番医が当たっていたので、年末はずっと重たい気分でした。職員もそうだったと思います。今年は12月29日の昼過ぎまで診療をして、仕事納めとしました。くじ引き大会をして、お寿司を食べて、大掃除をしました。
「コロナが怖くて、小児科がやってられるか」個人的にはそういう気持ちで仕事をしておりますが、社会的に忘年会や歓送迎会をしにくい状況が続いております。職場には楽しい行事も必要です。来年は少しずつ開いていきたいと考えています。1年、お疲れさまでした。

 
くじ引き大会   当たり(一等、二等、三等賞)


 
盛り上がりました   院内の大掃除


 
 


 
  最後に集合写真



 協議会・講演会  

令和3年11月 

秋になって新型コロナウイルス感染症の患者数が減少し始め、11月には東京で30人を切るなど激減しました。愛媛でも新規感染者数がゼロの日が多くなりました。これによって、長らく開催できなかった学会、講演会なども開くことができるようになりました。

下の写真は、11月24日に喜多医師会病院の多目的ホールで開かれた第40回乳幼児教育協議会の風景です。2年2か月ぶりの開催となりました。喜多医師会の医師(9名)、大洲市立の保育所・こども園・幼稚園の園長(全員、15名)に加え、大洲市保健センター・新型コロナウイルス感染症対策室(5名)、小学校養護教諭(3名)、私立の保育園園長(2名)らが参加されました。一部、Webでの参加の方もいました。
講演は、愛媛大学医学部附属病院感染制御部部長・特任教授の田内久道先生にお願いしました。演題は「新型コロナウイルス感染症 〜愛媛県のこれまでと今後の展望〜」でした。講演後に質疑応答の時間をとりました。貴重かつ有意義な講演会でした。

人の話は対面で聞かないと、細かい事が理解できない場合がしばしばあります。また、関係者が一堂に会すること自体に意味があるように思います。

 
喜多医師会病院 7階 多目的ホール   講師の田内久道先生(愛媛大学医学部附属病院)


 
質疑応答  



 奥能登

令和3年10月 

例によって、この「能登行き」もそんなに前から計画していたものではなく、数週間前に決めたことでした。7月の海の日の連休に愛媛に来る予定だった大事なお客さんが、コロナ禍の影響で来られなくなり、そこの4日間(7/22〜7/25)がすっぽりあいてしまいました。また、こういう長い連休の時によく当たる小児休日当番医も外れていました。
40年前の輪島の朝市で買って食べた甘えびの味が懐かしくて、能登に行くことにしました。コロナ禍の中ですので、混雑する都会への旅行は避けたいという気持ちも影響しました。

のと里山空港に着いた後、観光タクシーに乗りました。運転手さんからもらった能登周遊イラストマップには、「能登の里山里海にはどこか懐かしく、心が温かくなる『日本のこころの原風景』がたくさん残っている」と書かれてありました。その通りでした。
初めに、輪島に向いました。輪島塗会館に立ち寄った後、朝市通りで車を降り、端から端まで歩きました。40年前とは様子が違っていましたが、懐かしかったです。露店でいくつか干物を買いました。家内は地酒を買っていました。その日は天気がよくて、真っ青な夏の空でした。暑い時期でしたが、すがすがしい1日でした。その後の奥能登観光もとても素敵なものでした。

日本の棚田百選に選ばれている輪島市白米町にある白米(しろよね)千枚田。日本海に面して、小さい田んぼが段々になって海岸まで続いていました。絶景でした。揚げ浜式製塩(珠洲市)は能登の伝統文化です。ベルギー人の若い男性が製塩の工程を説明してくれました。
奥能登の天領庄屋が収集した絵画、書、陶磁器などの古美術品を展示した南惣美術館。客は我々だけでしたので、ゆっくり回ることができました。天領庄屋の豊富な財力に驚くとともに、それを保存・維持してきた御子孫の努力に感心しました。そこからそう遠くない所に時国家(ときくにけ)がありました。壇ノ浦の戦いに敗れて奥能登に配流された大納言 平時忠の五男・時国を祖とする名家で、時国家の邸宅は国指定重要文化財になっています。金箔で描かれた平氏の家紋 揚羽蝶(あげはちょう)がその格式の高さを表していました。
そのあと、能登半島の東海岸に出て、魚影を待ち網をたぐるボラ待ちやぐら、能登長寿大仏、能登さくら駅との愛称を持つ能登鹿島駅(穴水町)に立ち寄りました。「ツインブリッジのと」を通って能登島に渡り、能登島大橋で能登半島に戻った所が和倉温泉(七尾市)でした。

和倉温泉の加賀屋に宿泊しました。昨年、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において39回目の総合第1位に選ばれた老舗旅館です。連続36年、日本一に選ばれたという記録もあります。昭和天皇・皇后両陛下、上皇・上皇后両陛下、天皇・皇后両陛下らも宿泊されておられました。一度は泊まってみたいと前々から思っていました。部屋から七尾湾、能登島を一望できました。日の長い時期なので、夕方遅くまで能登の景色を楽しむことができました。夕方7時前に淡い黄色の丸い月が上がっていました。7半頃には明るさを増していました。風情がありました。旧暦6月13日、二十四節気の大暑の日でした。この景色を見ながら、趣向を凝らした海の幸、山の幸の料理をいただきました。とくに能登の海で水揚げされた新鮮な魚介類は最高でした。もう少しゆっくりと滞在したかったです。

翌日、七尾線観光列車の『花嫁のれん』に乗って、和倉温泉から金沢に向いました。


 
輪島の朝市   奥能登揚げ浜塩田


 
七尾湾のぼら待ちやぐら(穴水町)   能登鹿島駅(愛称 能登さくら駅)


 
加賀屋(七尾市和倉温泉)   海の幸山の幸


 
和倉温泉駅   JR観光列車『花嫁のれん』



 12回目の8月8日

令和3年8月 

当院は2009年8月8日に開院しました。今年で干支(えと)が1周したことになります。ほぼ毎年、8月8日は記念写真を撮ったり、講師をお呼びして記念講演をしていただいたりしていました。
ところが、今年の8月8日は日曜日で、医院は休みでした。とは言っても、私と看護師4名は、昼から新型コロナウイルスワクチンの集団接種会場に行って仕事をしました。その前の日曜日(8月1日)が休日当番医でしたので、2週間以上休みがありませんでした。
開院記念日の前日の7日まで、正確に言えば8日の朝までは、晴れの日が続きました。熱中症警戒アラートが出されるような猛暑でした。8日正午過ぎに、接種会場に向かう頃には雲行きが怪しくなっていました。接種会場でのわずかな休憩時間にトイレに行きましたが、建物の外は横殴りの雨が降っていました。家に帰る頃には雨はやんでいましたが、この日以降、長くぐずついた天気が続きました。今年は、夏らしくない夏でした。

夕方、帰宅して、玄関の上を見上げると、大きくなったツバメの子たちが顔を出していました。帰りを待っていてくれたかのようでした。この5匹の子ツバメたちもその週には巣立っていきました。『院長挨拶』の項に書いた5月29日付の記事にも、ツバメの子について触れていました。その時の巣と少し離れた場所に、今回のツバメの子がいる巣が作られました。前のツバメの子が巣立って少し経ってからだったと思います。今、うちの玄関先には2つ巣がありますが、初回の巣の方が大きくて完成度が高いです。今年、2回ツバメの子が誕生して、合計11羽の子ツバメたちが元気に巣立っていきました。時期的には、早すぎるのと遅いのと両極端です。「何か縁起の良い事でもあるのかな」と思いつつ、日々過ごしています。

 
新型コロナウイルスワクチン 集団接種会場にて(8月8日)   今年2回目のツバメの子の誕生(8月8日)


 
職員全員で記念写真(8月10日)   ちなみに12年前は(2009年8月)



 母校

令和3年3月 

ユーミンこと、松任谷由実(発売当時は荒井由実)さんの曲『卒業写真』の中に「話しかけるようにゆれる柳の下を 通った道さえ今はもう 電車から見るだけ」という歌詞があります。この曲がかかると、ジーンと来ます。以前にも触れたことがあったかもしれません。
県立西条高校西条藩陣屋跡に建てられています。大手門が校門になっており、門のわきの堤やお(ほり)に昔の面影が残っています。高校時分、登下校時にお濠の周囲に植えられた柳の下を通っていました。当時は何とも思いませんでしたが、『卒業写真』を聴くたびに、懐かしさがこみ上げてきます。
今年3月27日(土)に私の好きな海産物を買いに、生まれ故郷の東予方面に行きました。そして、少し足を延ばして、西条高校に寄ってみました。着いた時には夕方になっていました。立派な校門と満開に近いが迎えてくれました。もう40年以上経ちますが、雰囲気は昔のままでした。家に帰って、写真の履歴を調べてみると、2012年3月1日、2014年2月16日、2017年4月22日、2018年3月25日にここを訪れていました。卒業・入学シーズンばかりです。その頃になると、自然と気持ちがそこに向うのでしょうか。
校門をくぐって、10メートルばかり進むと、金子元太郎先生の胸像があります。私は、卒業時にこの先生のお名前が付いた賞状(金子賞)をいただきました。名誉なことです。しかし、卒業後40年あまり、毎日のように「しんどい、眠たい」を繰り返しながら頑張ってきましたが、ぱっとした業績はまだないように思います。

日暮れ前に帰途に就きました。途中で眠気が出てきて、車を停めて、短い時間仮眠を取りました。周桑平野からは石鎚山の美しい姿が見えます。燧灘(ひうちなだ)から上がってきた満月が東の空に見えました。幼児期や小中高校に通っている時代に吸った空気の匂いを、体が覚えているように感じました。その頃に見ていた自然の景色は、目に焼き付いています。食べた物の味もよく覚えています。

 
お濠と柳(2021年3月27日)   大手門(校門)と桜


 
金子元太郎先生の胸像の前で   金子賞 賞状


 
周桑平野から見た石鎚山   東の空に現れた満月



 師走の夜空

令和2年12月 

今年の歳時記は、1月の『1等星 カノープス』で始まりました。早いもので、もう師走になりました。今年最後は、やはり星に関する話でこの歳時記を締めくくりたいと思います。
12月は日暮れが早いです。仕事が終わって外に出ると、すでに真っ暗。空を見上げると、星が輝いています。冬の夜空は空気が澄んで、星の観察には最高です。今の時期は、時間とともにいろいろな有名な星座が現れます。それに加え、今年は木星と土星の超大接近という一大イベントがありました。
12月の初めは、夜の7時くらいまでなら、まだ「夏の大三角」を見ることができます。わし座のアルタイル彦星)、こと座のベガ織姫星)、白鳥座のデネブが作るトンガリ帽子のような3角形が、北西方向の低い空に横たわっています。アルタイルとベガの間を天の川が流れています。白鳥座は、白鳥が東に向かって飛んでいるような形をしています。この星座は少し高い所にあるので、もうちょっと遅い時間まで見ることができます。
秋の四辺形」は頭の真上に見えます。今は火星が近くにあり、それ以外、まわりに明るい星がないので、四辺形を見つけやすいです
オリオン座は東の低い空からゆっくり上がってきます。夜7時台だとわかりにくいです。日付が変わる頃は、南の空のいい位置にあります。左上のベテルギウスと右下のリゲルが1等星で、中央に3つ並んだ星があるので、最も探しやすい星座です。オリオン座のベテルギウスは赤い星ですが、その星の上にあるおうし座のアルテバランは橙色の星です。今の時期は、火星、ベテルギウス、アルテバランの3つの赤い星が近い位置に見えます。
オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンで構成される「冬の大三角」。とても有名です。シリウスは惑星を除くと、全天で最も明るい星です。青白く輝きます。
北東方向の空にはぎょしゃ座のカペラが明るく見えます。その近くにふたご座があります。今年、ふたご座流星群が12月14日に極大になりました。私は、東の空を右から左に流れる流れ星を見ました。家内を呼びに行って、トイレに行っている間に、家内が1回流れ星を見ました。寒かったので、すぐ家に入りました。その時間帯は、次々に星が流れる感じではありませんでした。

夏以降、夜空で目立っていたのは、赤い星の火星でした。10月6日の最接近時の火星と地球の距離は、前回の2018年7月31日(西日本豪雨の水害の後)の距離ほど近くはないものの、火星の明るさはマイナス2.6等となっていました。それから日が経ち、ピークは過ぎましたが、まだまだ明るいです。ただ、12月の一番星は木星になっています。

今月になって、夕方から宵に南西の空の低い位置で大接近した木星土星を見ることができました。超大接近でした。21日が最も近づいた日でした。木星と土星がこれほど接近するのは、実に397年ぶりだそうです。397年前は西暦1623年です。この年は徳川家光が江戸幕府の第3代将軍に就いた年です。今回と全く同じくらいの接近は約800年ぶりだと言っている人もいます。もしそうなら、鎌倉時代の源氏の将軍が途絶えたのが1219年なのでその頃です。
私はその大接近を23日(水)の夕暮れに見ました。散歩から帰ってきた時は、まだ空が明るく、初めは星が見えませんでした。初めに現れたのは木星でした。そのあと、土星が徐々に見えてきました。土星は木星の右斜め下にありました。初めは重なっているように見えました。2つの星がはっきり見えてくると、ほんのわずか間隔が開いていました。17日にはこの2つの惑星と三日月が集合した現象を見ました。
木星と土星は公転周期の違いで20年ごとに近づきます。次回の接近は2040年10月31日です。でも、今回と同程度に近づくのは2080年3月15日だそうです。もう生きてない。とても貴重な現象を観察することができました。良かったです。
冬の夜空はいいです。寒くなかったら、ずっと外で星を見ていたい。


 2020年8月以降の夜空

令和2年12月 

今年は新型コロナウイルスのせいで暇だったからでしょうか。トップページに月や星に関する記述が多かったように思います。8月以降のトップ・ページの夜空に関する記述を拾ってみました。

8月2日(日)
・今日は暑くて夕方まで外には出ませんでした。薄暗くなって医院に向かう時に、神南山の右に大きいが見えました。冬と夏では月の出る位置が違います。今、月の近くで木星が輝いています。

8月14日(金)
・今夜は北斗七星北極星がきれいに見えています。北斗七星は柄杓
(ひしゃく)の形をしています。今の時間は、柄杓の椀が下で柄が上になって、垂直に立っているように見えます。

8月23日(日)
・今日は夕焼けの空に三日月
が見えました。夜が更けて、今は虫の音が響き渡っています。

8月31日(月)
・今日は雑節の一つ「二百十日」です。実際に台風が近づいています。夕方は満月に近い月が出ていました。

10月2日(金)
・昨夜は十五夜中秋の名月)、今宵は満月。二晩続けて美しく輝く月を見ることができました。
・今火星が地球に最接近しています。満月の左下で赤く輝いています。10月6日に6200万kmまで近づきます。次にこの距離より近づくのは2035年9月11日だそうです。しっかり見ておきます。

10月20日(火)
・少しずつ冬の夜空になっています。オリオン座カシオペア座などが見えます。
・今月は火星が明るく輝いています。2018年7月西日本豪雨による水害の後もそうでした。思い出します。地球と火星は2年2か月ごとに最接近します。

10月24日(土)
・今宵はちょうど半分の月が頭上で光っています。夜になると、気温が下がります。

11月1日(日)
・今日は午後から天気が崩れましたが、ここ数日は良い天気でした。夜はきれいな月を見ることができました。木曜日が十三夜で、昨夜は満月でした。

11月8日(日)
・早いものです。昨日が立冬でした。今日は昼前から快晴になりました。夜空もきれいです。南東の空に火星が、南西の空に木星土星がはっきり見えます。惑星共演です。

12月23日(水)
木星土星が「超大接近」しています。これほどの接近は西暦1623年7月以来で、397年ぶりだそうです。散歩から戻ってきて20分くらい、医院の駐車場で空を見上げていました。
・明るさの残る宵の空に見えていたのは、頭の真上に半月火星、南西の空の木星だけでした。土星はもう少し暗くなって見え始めました。確かに、大接近していました。

十五夜(10月1日)


*次回は師走の星、星座について、もう少し詳しくお話します。


 新潟から日光へ ーその2ー 

令和2年9月 

日光東照宮は、江戸幕府を開いた徳川家康を「東照大権現」として祀っています。江戸のほぼ真北に位置しており、家康は、動くことのない北極星の位置から徳川幕府の安泰と、日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられています。また、日光は古来霊山としての信仰の場所でもありました。

日光へは過去1回か2回来たことがありました。東京から電車(たぶん東武線)でやって来たと思うのですが、何せ30年以上前のことなので、はっきりしません。東照宮の参道まで来ると、懐かしさと再訪できた喜びで感無量でした。まわりに人がたくさんいましたが、一緒に行った知人は「これはまだ少ない方だ」と話しました。

東照宮の参道の石鳥居は日本最大の鳥居です。九州福岡藩の藩主黒田長政が奉納しました。石材は九州から舟で栃木県の小山まで運ばれ、そこからは陸路を人力で運ばれました。石鳥居をくぐると、左手の方に五重塔があります。東照宮の最初の門が表門です。左右に仁王像が安置されており、仁王門とも呼ばれます。表門をくぐるとすぐに
三神庫(さんじんこ)があります。この建物の屋根の下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の彫刻があります。左に進むと、神厩舎(しんきゅうしゃ)があります。ここは神馬をつなぐ厩(うまや)です。昔から猿が馬を守るという言い伝えがあり、猿の彫刻が計8面あります。中でも「見ざる言わざる聞かざる」の三猿(さんざる)の彫刻は有名です。「悪いことは見ず、言わず、聞かないほうがよい」という人生の教訓を表現しています。

その辺りから石段の上の陽明門(国宝)が見えてきます。日本で最も美しい門と言われています。いつまでも見ていても飽きない門という意味で「日暮の門」とも呼ばれます。故事逸話、子どもの遊び、聖人賢人などの 508体の彫刻でおおわれています。このきらびやかな陽明門をじっくり見ていたら、前に進めなくなります。
陽明門から左右に延びる回廊(国宝)があり、その壁には国内最大級の花や鳥の彫刻があります。どれもが一枚板の透かし彫りで作製されており、極彩色が施されています。東回廊には、左甚五郎作と伝えられる眠り猫(国宝)の彫刻があります。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたた寝をしているように見える猫です。その猫の彫刻の裏側には、竹林に遊ぶ雀の彫刻があります。猫が寝ているから、雀が楽しく暮らすことができる平和な時代。つまり、徳川政権下での太平の世を表していると言われています。一方で、この「猫」は、実は眠ってないという説があります。両耳を立て、前足を踏ん張っているようにも見えます。家康の墓所への参道を守る猫ですので、寝ていると見せかけ、いつでも攻撃できる体勢をとっているとの見方もあるようです。
陽明門をくぐると御本社です。その入り口に建つのが唐門(からもん)(国宝)です。大名など高い位の人だけが通ることができた重要な門です。全体が胡粉
(ごふん)で白く塗られています。611体もの彫刻が施されて、その数は陽明門を越えています。舜帝(しゅんてい)朝見の儀」や「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」など細かい彫刻が施されています。

時間の都合で、日光東照宮を少し足早に観光しました。でも、予期せぬ展開でここまで来れて、感激しました。それにしても、昔の人の力、匠の技というものはすごい。東照宮の造営にかかわった職人の意気込みが伝わってきます。こういう歴史的建築物は、現代のように「働き方改革」なんて言ってたら造れないでしょう。
これから先、行ったことのない所へ行くか、過去に行って良かった所をもう一度訪れるか。どちらもしてみたいのですが、残り人生が・・。

 
日光東照宮参道、石鳥居   「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿


 
陽明門(国宝)   陽明門の彫刻


 
眠り猫(国宝)   唐門(国宝)



 新潟から日光へ ーその1ー 

令和2年9月 

日光を見ずして結構と言うなかれ」 9月の連休に旅行に行きました。19日(土)仕事が終わってから東京に向かい、一泊して、20日の朝、新潟行きの上越新幹線に乗りました。この時点で、今回の旅行で日光(栃木県)に行くことになるとは全く予想していませんでした。越後湯沢で新幹線を降り、知人の運転する車で上越市の春日山城上杉謙信の居城)に向かいました。けっこう距離がありました。その帰りの車の中で、私が、群馬県の沼田河岸段丘の話をしたら、元タクシードライバーの知人が「よし明日行こう」と話し、そして「せっかくだから日光まで行っちゃおう」ということになりました。

越後湯沢から関越自動車道に入り、日本一長い関越トンネル(約11km)を通り抜け、群馬県に出ました。あちらこちらに広がるこんにゃく畑と、実が色づき始めたりんご園を見ながら、国道120号線を栃木県の日光に向かって車は走りました。南の方向には赤城山が見えていました。河岸段丘もわかりました。片品村の菅沼キャンプ村近くの食堂売店で1回目の休憩を取りました。湖沼としての菅沼は透明度では本州一だそうです。この辺りの標高はすでに1700mを越えています。日本の軽自動車は坂道でもよく走ります。車は群馬と栃木の県境の金精峠を進みました。金精トンネルは標高1843mで、国内のトンネルでは最も高い所にあります。余談ですが、「金精」の由来は面白いです。奈良時代の僧侶 道鏡と関係があります。何かと逸話の多い人物です。

金精トンネルを抜けると、栃木県側に出ます。標高が高いので、湯ノ湖、男体山、戦場ヶ原など奥日光が一望できました。日光国立公園戦場ヶ原で昼休憩を取りました。ここはラムサール条約に登録された湿原です。標高1394mと書かれていました。男体山がすぐ近くに見えました。短い時間でしたが、あたりを散策しました。そこを発ってしばらく行くと、進行方向の右手に中禅寺湖が見えてきました。中禅寺湖の端に華厳の滝があります。人気のスポットで、車が渋滞して見に行くことができませんでした。いろは坂を一気に下って、東照宮に向かいました。紅葉にはまだ早い季節でした。今回は奥日光から入ったので、日光の雄大な自然を満喫することができました。

 
あたり一面、こんにゃく畑(群馬県沼田市)   りんご園(沼田市)


 
ヤマメの炭火塩焼き(群馬県片品村)   金精トンネルを抜けて奥日光へ。戦場ヶ原と男体山が見える。


 
戦場ヶ原と男体山(標高 1394m)   中禅寺湖と男体山



 29年ぶりの山形・山寺

令和2年7月 

    (しずか)さや 岩にしみ入(いる) 蝉の声  『おくのほそ道』芭蕉

俳聖 松尾芭蕉が弟子の曾良と立石寺山寺)を訪れたのは、元禄二年五月二十七日(1689年7月13日)でした。静寂の中に蝉の声だけが響き渡る山寺に感動し、この句を残しました。

この7月に東北の山形に行きました。29年ぶりでした。山形のあるお家とご縁ができましたので、海の日の連休中に挨拶のため訪問しました。当初、6月に伺う予定でしたが、飛行機が取れませんでした。というより、航空便の予約・決済を完了させていても、1週間経つと航空会社が欠航のメールを送ってきました。これが三度続きました。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で国内航空会社も大変なのはわかりますが、こんなことをしていたのでは会社の信用を失うのではと思いました。

29年前の山形訪問は学会に出席するためでした。学会開催中の2日目か3日目の午後、山形駅から各駅停車の列車に乗って、一人で山寺に行きました。それが唯一の観光でした。立石寺はふつうに山寺と呼ばれています。芭蕉が名句「閑(しずか)さや」を詠んだ名刹であることは、当時から知っておりました。ただ、なぜそこに行ったのかが思い出せません。1991年5月22日のことでした。
この時は学会の演者(発表者)だったので、背広にネクタイ、革靴の格好だったと思います。JR山寺駅で降りて、川を渡り、多くの仏さんを見ながら山を登っていきました。若かったので、最後まで登り切りました。五大堂からの展望は素晴らしいものでした。日本の原風景を見た感じでした。もう随分前のことですが、記憶に残っています。

時は流れ、今回の山形訪問でも山寺を訪れました。山形出身の山寺に詳しい方が連れて行ってくれました。7月25日でした。どんよりと曇っていましたが、傘は使わずに済みました。初めに山寺の本堂である根本中堂に参拝しました。根本中堂という文字を見て、ここが天台宗のお寺であることがわかりました。6年前の8月16日に比叡山延暦寺に行った際、根本中堂にお参りをしました。
山寺では根本中堂の中に入れてもらえました。御本尊は薬師如来で、50年に一度だけ御開帳され、そのお姿を拝めるそうです。お寺の人としばらく話ができました。堂内には比叡山延暦寺より移された法灯が1100余年間燃え続けていること。織田信長の延暦寺焼き討ちのあとの再建時には、ここから逆に京都まで1か月かけて分燈したこと。柱にはブナが使われており、ブナ材の建築物としては日本最古であること。東日本大震災の地震により柱などが痛んだこと。四国には天台宗のお寺は10か所くらいしかない(弘法大師が讃岐の生まれ)ことなどをお聞きしました。
根本中堂を出て、少しばかり歩きました。芭蕉と曾良の、「閑さや」の句碑を見ました。懐かしかったです。30年という年月は人間の体力を落とします。残念ながら山には登りませんでした。
そのあと、山寺芭蕉記念館、JR山寺駅に行きました。そこからは巌の上に建つ五大堂開山堂納経堂がよく見えました。何とかあそこまで行けるようにならないものかと、つくづく思いました。

 
山形県の県花:紅花(山寺の駐車場近く)   山寺立石寺の本堂(根本中堂)


 
根本中堂   俳聖 芭蕉像


 
芭蕉句碑   五大堂、開山堂、納経堂



 伊予灘の夕日

令和2年5月 

5月下旬、市内長浜地区にある2つの保育所の内科検診を終えて、松山近郊の眼科医院に向かいました。長浜からですので、行きも帰りも海岸線沿いの道路を通りました。すぐ横に伊予灘が見えていました。色合いが異なりますが、天気が良かったので空も海もきれいな青色でした。松山方面に行くときには、今はほとんど高速道路を利用します。この道を通って中予方面に行くのは久しぶりでした。あとで思い出しましたが、この道路は「夕やけこやけライン」と呼ばれています。

家に帰る途中、景色が良かったので「道の駅 ふたみ」で休憩をとりました。海辺のコンクリートの階段に座って、しばらく夕日と海を眺めていました。夕方6時20分でも、太陽の位置は海面から10度くらい上方にありました。西の空に水平なうすい雲が何層かあるため、太陽が時々雲に隠れ、その間は丸い太陽の形が見えます。雲から出てくると、まぶしい夕焼け空になりました。
ふと思いました。今は皆既日食ではないので肉眼では見れないけど、あの太陽の周りにはコロナがあるんだよな。昔小学生の頃、日食の観察をしました。学校の中庭で同級生らとガヤガヤと、文房具の下敷き越しに太陽を見た記憶があります。
元々コロナとは、太陽の大気の最も外側にあるガス層のことです。それがあの迷惑なウイルスのせいで、単語のイメージが非常に悪くなってしまいました。コロナウイルスというウイルスの種類は以前からよく知られていました。その名称は、電子顕微鏡で見たウイルスの外観が太陽コロナに似ていることに由来します。大方はごくふつうのカゼのウイルスでした。しかし、2003年に流行した重症急性呼吸器症候群のSARSコロナウイルス、2015年に韓国、中国で広がった中東呼吸器症候群のMERSコロナウイルスが特定され、このウイルスの評価が随分変わりました。

突然話が大きく変わりますが、私の世代ならコロナといえば、トヨタ・コロナマークUをイメージする人が多いと思います。人気の車種でした。ちなみに、吉田拓郎のデビューシングルは「イメージの詩」ですが、B面は「マークU」という曲でした。この曲のタイトルは、もちろんコロナマークUからきてます。私は東温市(当時は温泉郡重信町)に住んでいた頃は、マークUの姉妹車のクレスタに乗っていました。この15年くらいはホンダの車に乗っています。やっぱり車はトヨタかな。日産には気の毒だけど、ゴーン元社長は会社内で新型コロナウイルスみたいなものに変異してしまったのかもしれない。
というようなことを考えながら、海岸線を西方向に帰っていきました。太陽に向かって走っているようで、とても眩しかったです。なるほど、夕やけこやけラインでした。コロナマークUに乗ってみたくなりました。

「夕やけこやけライン」から見た夕日



 一等星 カノープス(Canopus)

令和2年1月 

竜骨(りゅうこつ)座α星、カノープス。全天に21ある1等星の一つで、太陽を除くとシリウスに次いで2番目明るい恒星です。グァムに行くまで、この星のことは知りませんでした。カノープスは日本では南の空の低い位置にしか現れず、地平線上にある時間も短いことから、見ることが難しい星です。星は東から昇り、徐々に高度を上げて真南に来ると、夜空の一番高い位置になります(南中)。カノープスの南中高度は、東京で約2度、京都で約3度、高知県の足摺岬で約4度、鹿児島市で約6度、那覇市で約11度です。南の地域ほど高く上がり、観測できるチャンスも高くなります。それでも、南の方角に山や建物があると、カノープスはそれに隠れてしまいます。南方に地平線か水平線が見渡せる所でないと観察できない星です。愛媛では見ることは難しいです。
カノープスは本来は白い恒星ですが、日本や中国では南中時でも地平線に近いため、赤みを帯びて見えます。古代中国の政治文化の中心であった黄河流域(長安など)では、カノープスは南の地平線すれすれに現れる奇妙な赤い星として知られていました。見つけにくく、かつ縁起の良い赤い色に見えることから、中国では「南極老人星」や「寿星」と呼ばれてきました。この星を見ると、長生きできると伝えられています。ちなみに、南極老人は日本の七福神の福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)の元になった神様で、長寿をつかさどるとされています。

2020年1月1日夜10時過ぎ、グァム島の海辺にいました。ガイド兼運転手で日本語が上手なアメリカ人のおじさん(私よりは若い)と、日本人観光客6人がいっしょでした。 このガイドのジムさんは、前日(大晦日、2019年12月31日)にタクシー観光をした時の運転手でした。半日一緒にいたので、すっかり友だちになっていました。この「スター・ウォッチングツアー」がスタートして、すでに3時間経っていました。その日(元日)の夜は、あいにく雲が多く、なかなか星を見ることができませんでした。ジムさんがスマホでグァムの雲の様子を見ながら、星が観察できそうな場所を探して、車で移動していました。
その海辺は、大きいホテルが建ち並ぶタモン湾の街明かりから離れた所で、辺りに民家はなく真っ暗でした。昼間は30℃くらいになるこの島も、夜は肌寒く感じました。私は日本を発つ時と同じ服装でした。車から降りると、波の音が聞こえてきました。懐中電灯の光を頼りに、みんなで波打ち際まで進みました。星が見えるまでの時間つぶしに、ジムさんから海の生き物の説明を受けながら、海岸の貝殻を拾っていました。カニやヤドカリ、クラゲなどがいました。

「ジムさん、星が見えてきましたよ。ほら、あそこ。あれはシリウスじゃないですか」と私が話しかけました。他のツアー客と貝探しに熱中していたジムさんが、ちらっと上を見て「うん、あれね」と言いましたが、この空ではまだダメという感じでした。しばらくして、にわかに夜空が開きました。星がまたたく、きれいな夜空になりました。すかさず、ジムさんが「これがオリオン座、この六角形が『冬のダイアモンド』、この三角形が『冬の大三角形』・・」と説明を始めました。日本ではオリオン座は鼓が立った形をしていますが、グァムでは横になっていました。何より不思議だったのは、さっきシリウスと思ったとても明るい星がシリウスではありませんでした。シリウスは冬のダイアモンドにも冬の大三角にも含まれる星ですが、その明るく輝く星はそれらの星座より下の離れた位置にありました。「あれはシリウスではないのですね」とジムさんに聞くと、彼は「そう、あれはカナパス」。家内に「カナパスって何だ」と言うと、それを聞いたジムさんが「日本から来た星に詳しい人が言ってたけど、日本ではなかなか見れない星みたいです」と話しました。
ホテルの部屋に帰ってから、家内のスマホで「カナパス」を調べましたた。タクシー観光の時、ジムさんは「オリオン座のベテルギウスなど日本語のカタカナの発音が難しい」と語っていたのを思い出しました。多分、英語の発音をしているだろうからスペルはこんなものだろうと思い、入力してみるとCanopus(カノープス)が出てきました。

元日の夜に星空観測。日本にいたら、まずしないことです。晴れ渡った夜空ではなかったですが、ときどき星々が雲間から姿を見せてくれました。緯度の違いによって、日本とは異なる星空を楽しむことができました。そして、愛媛では見ることができない縁起の良いカノープスを見ました。この星を見た者はは長寿になるという伝説があります。北緯13度の南の島に来て見た1等星カノープスではありましたが、正月から良いことがあったと思いました。
日本でも、冬の夜空は明るい星が多く、形がわかりやすい星座が多いです。暖かい服装で冬の星座を見てみませんか。グァムの海岸にいる時、深夜のラジオ番組「ジェットストリーム」の城達也さんの名ナレーションの一節を思い出しました。『満点の星をいただく果てしない光の海を、豊かに流れゆく風に、心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂(しじま)の、なんと饒舌(じょうぜつ)なことでしょうか』 思い出に残る正月でした。

 
2019年大晦日の夜。グァム デュシタニホテルの部屋。
客室係の人たちが持ってきてくれました。
  2020年元日の夜、グァムの海岸で集めた貝殻



 北海道(トマム、十勝)ーその2ー

令和元年9月 

国道38号の狩勝峠をどんどん下って行きました。狩勝峠から新得町までのこの国道沿いはそば畑が続くため、そばロードと呼ばれています。途中、休憩のため寄った所が羊の牧場でした。羊がいっぱいいて、せわしそうに草を食(は)んでいました。ここでちょっとしたトラブルがありました。出発しようとしても、車のエンジンがかからない。困って、近くの何か所かのレンタカー会社の営業所に電話をしましたが、どこも出ない。電話は他の営業所に転送されるが、そこも出ない。羊牧場に3人の若い男性がいたので、声をかけました。うち一人が来てくれて、さっとエンジンをかけました。「この車はブレーキを踏んでおかないと、エンジンがかからないんですよ」と。こういうことは、乗る前に説明してほしかった。
新得町といえば、日本映画の名作『幸せの黄色いハンカチ』の中の一場面を思い出します。監督は山田洋次さん、主な出演者は高倉健、武田鉄矢、桃井かおりさんでした。偶然出会ったその3人が網走から夕張まで車で行きます。途中、様々な人間模様が描かれます。この映画の中で健さんと寅さんの共演がありました。渥美清さんは警察官の役でした。2人は過去に会っており、再開のシーンでした。名優同士の味のある演技でした。その場面がここ新得町でした。映画の中の話はそこから佳境に入っていきます。
国道38号から離れて、十勝地方の鹿追町に入りました。そこの「道の駅」で連続テレビ小説『なつぞら』の大きいポスターを目にしました。それを見て、このドラマが北海道十勝が舞台だったことを初めて知りました。店員さんに聞くと「テレビのロケは隣町の新得町でしたんですよ」と少し残念そうでした。それでも、出演者の誰かが近々その町に来ると、うれしそうに話してくれました。

十勝地方は北海道を代表する畑作地帯で、日本の主要な食糧基地でもあります。 車で走っていると、広大な農村風景のパノラマが広がります。北海道の道は広くてまっすぐで走りやすいので、そこからさらに然別湖(しかりべつこ)まで足を伸ばしてみることにしました。
鹿追町の北部にある然別湖は標高810mに位置し、北海道では最も高い場所にある湖です。天空の湖と呼ばれています。途中、白樺林が続きました。急に霧が出てきて、運転が怖くなり引き返そうとしました。しかし、横に乗っている家内が行こうと言うので、勇気を出して進みました。然別湖周辺はとても寒く感じました。冬は湖が全面氷結して、氷の世界になるようです。これまでに、北海道の湖にはけっこう行きました。サロマ湖、能取湖、網走湖、屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖、オンネトウ、支笏湖、洞爺湖、大沼などなど。サロマ湖、オンネトウはここと同じように8月でも寒かったです。摩周湖は2回とも霧で湖面が見えませんでした。
北海道には、北海道ならではの豊かな自然が残されています。大雪山系、日高山脈をはじめとする雄大な山々と緑なす広大な大地。湖面のきらめき。のどかな丘陵地、放牧。心が癒やされます。
今回の十勝エリアの旅は、当初全く予定していなかったコースでした。旅は分刻みで計画なんかするものではない。風の向くまま、気の向くままが一番いい。これが持論です。

おわりに。9月の末の土曜日、午前の診療がいつもより長引きました。終わって休憩室のテレビを付けると、朝ドラの再放送をしていました。番組が始まって少し経ったところでした。それが『なつぞら』の最終回でした。このドラマを初めて見たのが最終回でした。画面に十勝の風景が写っていました。短い時間でしたが興味深く見ました。それと、草刈正雄さんはいい俳優になったなと思いました。大河ドラマ『真田丸』に出演しているときもそう思いました。年を取ってどんどん良くなる。見習わないといけません。

 
国道38号 狩勝峠   羊牧場(新得町)


 
鹿追町   長くまっすぐ延びる道路


 
然別湖   北海道の海の幸



 北海道(トマム、十勝)ーその1ー

令和元年9月 

NHKの連続テレビ小説『なつぞら』が終わりに近づいています。「朝ドラ」の愛称で親しまれてきたこのテレビドラマは、現在放送中の『なつぞら』でちょうど第100作目になるそうです。ちなみに、大洲市ゆかりの『おはなはん』は第6作目(昭和41年)です。『なつぞら』は、北海道・十勝で広大な大自然と開拓者精神あふれる強く優しい大人たちに囲まれて、たくましく育っていく子の人生を描いています。私は朝ドラを見ていません。実は、これらのことについては、現地北海道十勝(とかち)に行って初めて知りました。
昨年の「海の日」の連休に北海道の富良野・美瑛に旅行に行くことになっていました。ところが、その1週間前にあの西日本豪雨災害(2018年7月7日)が起こり、旅行どころではなくなりました。旅行会社の人がやっとのことで飛行機やホテルの予約を取ってくれたのに(最も混む時期)、とても残念でした。今年8月の「山の日」の連休に北海道に行きました。

今回訪れたのはトマム・十勝地方でした。トマムは宿泊するホテルがある所で、新千歳空港から特急列車で行きました。十勝は今回の旅行の目的地にしていた場所ではありませんでした。レンタカーのナビをうまく使えず、「えーい、もうこっちでええわい」と言って向かったのが十勝地方でした。
トマムには過去3回行ったことがありました。20年以上前です。子どもが小さかった頃のことです。3回ともトマム内の異なる建物(ホテルアルファトマム、ザ・タワー、ガレリア)に泊まりました。現在は 星野リゾートトマムになっています。今回はザ・タワーに宿泊しました。以前とはいろいろ変わっていましたが、一番驚いたのは、中国人が多いことでした。チェックインのとき、人でごった返していましたが、周り全員が中国人かと思うほど中国人が多かった。従業員も中国人が多かったです。彼らは日本語を上手に話すのと、よく教育されていて対応が丁寧なので、すぐには中国人とはわかりません。
到着して少し休憩をとったあと、辺りを散策しました。白樺の林、葉っぱの大きいクマザサとフキなど、北海道に来たことを実感させる景色がありました。施設内のレストランに行くとき、白いあじさいをよく見ました。夜には花火が上がりました。
私の旅行では珍しいことですが、レンタカーを借りました。広い北海道では車がないと、観光ができません。レンタカー会社の事務所での会話です。「どちらに行かれますか」(さあ、決めてないんですが) 職員の人がけげんな顔をするので(富良野、美瑛まではどのくらいかかりますか)と聞くと、「1時間半くらいです。地図を渡します」 このような会話のあと出発したのですが、運転しはじめてそれほど経たないうちに場所、方角がわからなくなりました。そして、全く考えてなかった十勝方面に向かって、車を走らせていきました。続きは次回。

 
北海道には、北海道とすぐわかる特有の景色があります   ザ・タワー(星野リゾート トマム)


 
トマムの遊歩道。白樺の木やクマザサ。  


 
白いあじさい   ホテルの部屋から見えた景色



 アニバーサリー

令和元年8月 

この稿を書こうとして、 今思い出したことがあります。「Anniversary」というKinKi Kids(キンキキッズ)の歌がありました。彼らのファンではありませんが、いい曲だったと思います。サビの部分が良かったです。作曲が織田哲郎さんで、この人らしいきれいなメロディーでした。
まだ重信町に住んでいる頃、土曜日の夜11時台に『LOVE LOVE あいしてる』というテレビ番組がありました。家族が見ていたので、自分も時々見ていました。キンキキッズ、吉田拓郎さん、坂崎幸之助さんらが出演し、歌とトークコーナーがありました。われらが吉田拓郎が何でこんな番組に出ているんだろうと、初めは思いました。しかし、出演者たちが良い持ち味を出し、拓郎さんも乗っていました。たぶん彼がいたからでしょう、一流ミュージシャン(LOVE LOVE オール・スターズ)が揃い、生演奏をしました。歌や演奏がピシッと締まっていました。大物ゲストも来ました。あれから約20年です。

いきなり話が逸れました。今年の8月8日で当院は開院からちょうど10年になりました。10年前の8月8日は土曜日でした。昼間の何時間か、雨が降りました。新型インフルエンザの流行が始まったところでした。母校の西条高校が夏の甲子園の初戦で勝利しました。今年の8月8日は木曜日でした。その夜、月のすぐ近くで木星が輝いていました。昼間は一日中晴れていましたが、恐怖を感じるような暑さでした。この日ちょっとしたニュースがありました。将来の総理候補と言われる小泉進次郎議員(38歳)と、「お・も・て・な・し」の女性フリーアナウンサー(41歳)とが結婚を電撃発表しました。彼女はすでに妊娠中とのことでした。おもてなしに陥落した。失礼。

8年前(2011年)の8月の『歳時記』に、私は次のようなことを書いていました。タイトルは「1969年8月8日の写真」で、ビートルズのレコードアルバム『アビーロード』のジャケット写真についてです。
(前の文は略)【このアルバムのジャケット写真が1969年の8月8日に撮影されたことは、開院して間もない頃、雑誌を読んでいて偶然知りました。すごくラッキーな気分になりました。実は、この私も、自分がこの横断歩道をわたっている姿を写真におさめたいと、何年も前からずっと思ってきました。少し大袈裟ですが、「アビイ・ロードの横断歩道を渡るのと、ピラミッドを見るまでは死ねない」と、いろいろな人に言ってきました。今考えるに、この名所を訪れるのなら、できれば、2019年8月8日にしたい。ジャケット写真が撮影されてからちょうど半世紀、当院がオープンしてからちょうど10周年になる。良い写真が取れたら、院長室にこっそり飾っておきたい。】
しかし、行けませんでした。とても残念です。体調を考え、中止しました。でも、まだあきらめていません。いつの日にか行こうと。

自慢できる話ではありませんが、院長室、ダイニングに読んでない新聞が山積みになっています。先日、それらの古い新聞を処理しようと、片っ端から新聞を読みあさっていたところ、昨年の9月7日の新聞に「寅さん 帰ってくる 22年ぶり新作という小さい見出しを見つけました。映画『男はつらいよ』シリーズは、主人公の寅さん(渥美清)とその周りの人物らによる日本人の心の原風景を描いた作品です。1969年8月に第1作が公開され、今年で50周年です。
この7月、たまたま柴又帝釈天に行きました。このニュースを知らないときでした。最近の記事を読んでみると、その映画の題名は『男はつらいよ お帰り 寅さん』になったようです。前作から22年ぶりの新作で、シリーズ50作目となります。サザンオールスターズの桑田佳祐さんが主題歌を歌い、オープニングに出演するそうです。封切りは年末です。

物心が付いてからの自分の人生を10年ごとの刻みで思い出してみると、この10年は、自分なりに頑張ったと思うのですが、それ以前とは異なり、多くの人々に手伝ってもらい、助けられた期間でした。「人生いろいろ」です。残り人生が少なくなってきたことは確かです。この先、1年1年を大事にしていきたい。10周年開院記念日にそう思いました。

 
2019年8月7日   ありがとうございました(8月8日)


 
私の宝物。右はアポロ11号の記念切手が入った切手帳   柴又帝釈天(7月14日)



 アポロ11号の記念切手

令和元年7月 

50年前のことです。アポロ11号の記念切手の懸賞に応募して当たりました。うれしくて、そこら中走り回って喜びました。そのときの切手を宝物のように大事に大事に持っていました。たぶん『少年マガジン』です。少年サンデー、少年キングも身近な所(散髪屋、銭湯など)にありましたが、マガジンだったと思います。マンガ本の最後の方のページに懸賞コーナーがあり、それを見た当時小学生だった私が、葉書か手紙を出しました。
その頃、世間ではアポロ11号の月面着陸の話題でもちきりでした。家ではテレビにかじりついて、アポロ11号関係の番組を見ていました。学校でも、家庭科室のテレビでその映像を見ました。各教室にテレビがあるような時代ではなかったので、松、竹、梅のクラスごとに順番にテレビ放送を見ました。世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われています。
アポロ11号は3人の宇宙飛行士を乗せ、日本時間の1969年7月16日に打ち上げられました。そして、7月21日に月面に着陸しました。その時のアームストロング船長の言葉は有名です。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍である」アームストロング船長とオルドリン飛行士は2時間15分船外の月面で活動しました。7月25日に太平洋に帰還しました。その後、ニューヨークなどでの祝賀パレードが行われ、その様子がテレビに映し出されていました。ものすごい数の人々が歓声を上げ、大量の紙吹雪が舞っていたのを覚えています。

今年は梅雨が開けるのが遅く、7月になってからもぐずついた天気が続きました。アポロ11号の打ち上げからちょうど50年後にあたる7月16日の夜、丸い月が見えました。次の日が満月でした。医院の駐車場に立って、しばらく月を眺めながら、昔を思い出していました。「50年経ったか」
家に帰って、あの記念切手を探しました。ありました。それを見て感動しました。しかし、何より驚きました。この切手の中にアメリカ合衆国の切手は1枚だけでした。ずっと、全部アメリカの切手と思っていました。これに気づくのに半世紀かかりました。

 
アポロ11号記念切手   アメリカ合衆国の切手



 桶狭間(おけはざま)の戦い  

令和元年6月 

『人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者の あるべきか』

織田信長はこの「敦盛」を舞って、6月の明け方、小姓衆5騎だけを連れて清州城から突如出陣しました。歴史に名高い桶狭間の戦いの始まりです。信長25歳、彼の生涯のほぼ中間地点です。 「本能寺の変」で亡くなるまで、猛スピードでその人生を駆け抜けました。豊臣秀吉、前田利家など多くの武将を育てました。徳川家康、明智光秀らもその中に入るかもしれません。過去の価値観、宗教界とも戦いました。茶の湯を愛好し、茶器・茶道具に大きい価値を付けました。「尾張の大うつけ者」なんかではなく、時代が求めた英傑だったと思います。

4月の終わりに名古屋に行きました。その際、清州城、熱田神宮、桶狭間も訪れました。この稿は6月の「歳時記」です。6月に何でこのタイトルなのか。織田信長の生涯をみると、6月はどうも特別な月のように思えます。信長と言われて、ぱっと思い浮かぶのは桶狭間の戦い長篠の戦い本能寺の変です。これらすべてが今の暦の6月に起こっています。誕生日もそうです。誕生日は天文3年5月12日(1534年6月23日)、桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)、長篠の戦いは天正3年5月21日(1575年6月29日)、本能寺の変は天正10年6月2日(1582年6月21日)です。

敵の今川義元の大軍に、清洲城内では籠城する準備を進めていました。兵の数で大きな差がある状況下で、籠城ではなく城から打って出た。この勝負勘たるや凄いものがあります。「敦盛」を舞うシーンは、大河ドラマなど時代劇でよく出ます。現在、清州城公園には「織田信長公 桶狭間出陣の歌」の石碑が置かれ、「敦盛」の詩が書かれています。その公園のすぐ横を、東海道新幹線がひっきりなしに通って行きます。

信長は戦に向かう途中、熱田神宮に寄っています。慌ててあとから追いかけてきた軍勢が集結し、そこで戦勝祈願を行いました。地図で見ると、清州城から右斜め下方向に進むと桶狭間があります。熱田神宮はその中間あたりです。
信長の行動の特徴の一つとして、比叡山焼き討ち、各地の一向一揆の制圧、石山本願寺との対立など仏教勢力に対する軍事行動が目立ちます。信仰心に乏しいと思われている信長ですが、そうではなかったのかもしれません。勝つ確率の低い、イチかバチかの戦いゆえ、この熱田神宮に参ったのでしょう。熱田神宮は草薙神剣を御神体とし、天照大神を祀る日本有数の神社です。信長は桶狭間の戦いで勝利した後、熱田神宮にお礼として塀(信長塀)を奉納しました。 

おけはざま山は今川義元の本陣があった場所です。山と言っても標高64.9mで、固有の山の名称ではありません。桶狭間の戦いが始まる直前の午後1時頃、視界を妨げるほどの豪雨となりました。『信長公記』には「石水混じり」と書かれており、ヒョウだった可能性があります。が轟き、落雷もあったようです。前線が通過していたのでしょうか。
信長軍はそこに一気に攻め込み、今川義元を討ち取りました。まさかのまさかでした。義元は駿河・遠江・三河の3国を治める大大名で、2万人とも4万5千人とも言われる大軍勢を率いていました。一方の信長は、田舎の尾張一国をやっと統一したような小国の「おやかた様」でした。兵の数は3千ほどでした。桶狭間古戦場公園がある所は古来「田楽坪」と呼ばれ、今川義元最期の地とされています。今そこには、信長と義元の銅像「近世の曙」が立っています。

梅雨はうっとうしいです。今も昔もそうでしょう。ときに大きな災害を引き起こすことがあります。偶然だったのか、それを予想してのことだったのか、信長は梅雨の時期の悪天候を味方につけ、勝利を収めました。桶狭間の戦いは、日本の歴史の中で、いや世界史上でも稀にみる大逆転劇でした。このあと、彼は天下統一への第一歩を踏み出すことになります。ピンチをチャンスに変えました。そればかりでなく、松平元康(のちの徳川家康)が今川氏から独立して大名になる転機となるなど、桶狭間の戦いは中世から近世への幕を開けた歴史の転換点となった戦いでした。
尾張名古屋、清洲、熱田神宮、桶狭間は、以前から一度行ってみたかった所でした。桶狭間ではガイドのおじさんから詳しい説明を聞くことができました。満足して帰りました。

 
清州城   「織田信長公 桶狭間出陣の歌」の石碑(清州城公園)


 
熱田神宮の信長塀   おけはざま山 今川義元本陣跡


 
桶狭間古戦場   「近世の曙」の像



 5月 ー 令和のはじまり ー

令和元年5月 

新緑がまぶしい季節の訪れとともに、令和の時代が動き出しました。平成の天皇陛下が4月30日に退位されて上皇となられ、5月1日皇太子殿下が第126代新天皇に即位されました。国民の一人として、ご即位を心からお祝いしました。それとともに、長年のお勤めを果たされ、このたび上皇・上皇后になられた平成の天皇・皇后両陛下には、これからはどうかごゆるりとお過ごしいただきたいと思いました。
1日午前、皇居では天皇皇后両陛下が即位の儀式に臨まれました。皇位継承に伴う最初の儀式は「剣璽等承継の儀」です。受け継がれた剣璽(けんじ)とは、天皇に伝わる三種の神器ののうちの剣と曲玉を指します。剣は分身で本体は名古屋市の熱田神宮にあります。この日の2日前、4月29日に私は熱田神宮を参拝していました。学会出張のため、3日間名古屋に行っておりました。うち2日間は天気がよく、良い思い出になりました。

日本各地が祝福ムードに包まれ、お祝い一色の一日だった5月1日、当院は喜多・八幡浜・西予地区小児休日当番医が当たっていました。令和の幕開けと、自分にとって最も重労働でストレスがかかる休日当番医が重なりました。看護婦不足の中、129人診ました。全体の9割以上が初診患者さんなので、事務職員も大変でした。患者さんと保護者の方も大変でした。午前中に受付けた患者さんを診終わったのが午後3時。待ち時間が長くて帰られた方がいました。当院の前まで来て、車の多さを見て、帰った人もおられたようです。当院がかかりつけの患者さんの何人かには「明日も診療しますので」とお話をして、翌日の5月2日にまわっていただきました。最後の職員が帰ったときには、あたりは真っ暗でした。
地域の基幹病院である公立病院などが、一斉に、ひと月の3分の1に当たる10日間も外来診療をとめるようなことはしない方がいいと思う。これは市民の大多数の意見です。それと、「お薬手帳」を見ても、病歴を聞いても、いつもは他の診療科にだけかかっている子がけっこういます。「ふだん、あれほど子どもを診ている某診療科も輪番で休日診療をやってよ」と思いました。

5月12日には長女の結婚式が明治神宮でありました。私も長い間生きておりますが、かつてこれほど天気が良かった日を覚えていません。若葉が生い茂り、緑がきれいでした。吹く風も爽やかで、気持ちのいい1日でした。「良い年が続きますように」と祈りました。

5月最後の週末は、全国で記録的な暑さとなりました。大洲は34.5℃まで上がりました。北海道で39.5℃が記録され、5月では観測史上全国1位となりました。本格的な夏になってしまった感がありました。
この5月はいろいろな事で特別な月でした。

 
熱田神宮(名古屋 4月29日)   みかんの花(当院の庭 令和元年5月1日)


 
明治神宮(東京 5月12日)   当院のスタッフ(6月3日)



 10年経った桜の木 

平成31年3月 

わが家の桜には悪いけど、初めの頃はかなり貧相でした。桜(ソメイヨシノ)にある華やかさがなかった。それでも、桜が咲くとうれしいので、毎年記念写真を撮りました。当院の職員の方が華があるくらいでした。一つには、花の数が少なかった。枝にポツンポツンとしか花びらがなかった。もう一つは、開花時期が遅く、花が咲くとすぐ葉っぱが出てきました。
ちょうど10年前の今頃、医院の建前(棟上げ)がありました。私の記憶では、この桜の木を植えたのは、医院がオープンしたあとの、その年の秋だったと思います。ということは、花が初めて咲いたのは翌年2010年の春で、今年で9回目ということになります。2、3年経った頃、「この木は本当にソメイヨシノなんだろうか」と真面目に心配したことがありました。悪気があって言っているのではないとわかっていても、うちに来るお客さんや職員に「ここの桜はまだ咲いてないのですか」「花が少ないのですね」「あれ、もう葉っぱが出よる」とか言われると、胸にぐさっときていました。「先生、それじゃいかんですよ、もっと痩せんと」と言われるより辛かったです。それでも毎年開花を楽しみにしていました。
一昨年くらいから「うちの桜もいっぱしになってきた」と思えるようになりました。枝に花がいっぱい付くようになりました。開花時期も、ニュースで報道される時期と揃うようになりました。十分満足しています。
今は朝に夕に、何回も桜の木の所に行っています。「もうあと10年経つと、この桜はどうなるのだろうか。さぞや立派な木に成長していることだろうな」その一方で、こうも思ってしまいます。あと何年ここで桜を眺めることができるのだろうか。10年後、その頃まだ仕事ができるのか。何より生きているのかどうか・・。 やめとこ。せっかく訪れためでたい春だ。
1年のうちの10日ほどですが、すごく楽しませてくれます。

 
 


 
 


 
 



 平成最後の大晦日、元日 

平成31年1月 

大晦日、夕方5時過ぎ。東京四谷のJRの駅で電車を降りると、あたりはもう真っ暗でした。東京は日が暮れるのが早い。駅前の道路を警察車両が何台も走って行きました。そこから乗ったタクシーの運転手が「(警察は)渋谷へ行くのではないか」と言っていました。毎年、若者がカウントダウンで騒ぐ所です。ハロウィンの時もそうですが、近くの店はみんな迷惑していると話していました。

宿泊したホテルニューオータニの部屋でNHK紅白歌合戦を見ました。ここ10年くらい、この番組を見ることはあまりありませんでした。何年ぶりでしょうか。大晦日のこの時間帯はたいてい何か用事をしていました。医院・診療に関する仕事、院長室の片付け、年賀状書きなどです。NHKホールにユーミンが来て歌い、サザンがトリを務めました。最後は2人が一緒に歌っていました。これはすごいと思いました。また、北島三郎が「まつり」を歌い、松田聖子が4曲をメドレーで歌いました。YOSHIKIも出演してピアノを弾いていました。布袋寅泰は石川さゆりの「天城越え」でギターを演奏していました。民放の番組との比較では、NHKが圧勝したと感じました。


翌朝すなわち元旦、部屋のカーテンを開けると、快晴でした。正面に富士山が見えました。美しい姿でした。しばし見とれていました。ホテルの中では様々な正月の催しが行われていました。寿獅子舞、祝い太鼓、初釜、餅つき、津軽三味線等々。
昼前からタクシーで観光に出かけました。予め、予約をしていました。ふだんは人が多い丸の内、東京駅、銀座、有楽町あたりはがらがらでした。車の中から見えた人はもっぱら外国人でした。都心を走っている車の数も少なかったです。翌2日は箱根駅伝があるので、場所によっては全く異なった光景になったと思います。一方、神社お寺はどこも混雑していました。浅草、スカイツリー、東京タワー周辺は人がいっぱいいました。オリンピック会場となる国立競技場は工事が進み、建物のだいたいの形ができ上がっていました。
午後3時過ぎには羽田に着きました。例によって(いつも)、飛行機の出発が遅れました。元日ですので、空港は混んではいませんでした。近頃、JALもANAも出発が遅れることが多いです。定刻に飛ばす気がないのではないかと思ってしまいます。多くの人が怒っています。JRを見習えと。これについてはまたいつか述べます。
本来の出発時間が過ぎ、ロビーで待っているうちに日が暮れてしまいました。でも、下の写真のような夕焼け空に浮かび上がった富士山を見ることができました。今年はいい年であってほしい。心からそう思います。

 
元日の朝、都心のホテルの窓から見えた富士山   ホテルの日本庭園では和太鼓の演奏をしていました。


 
増上寺。都心の神社、お寺には人がいっぱいいました。   日が落ちた後の富士山(羽田空港にて)





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