「片男波」と「潟を無み」(かたをなみ) |
平成23年12月 |
隣接する市の西予市野村町で160年の伝統を誇る「野村乙亥(おとい)大相撲」が先月29日、30日に行われました。この乙亥相撲は、大相撲九州場所が終わったあとに2日間にわたって開かれ、毎年野村町の人たちはこの相撲大会を楽しみにしています。以前、私は5年間非常勤医師として野村町の病院に行っていましたので、この乙亥相撲のことはよく知っていました。今年は横綱白鵬、大関琴欧州が参加するということで、開催前から話題になり、当日は町が大変にぎわったそうです。曜日が火、水でしたので、自分は仕事で行けず残念でした。当院に来てくれている子どもさんの中には、白鵬関や琴欧州関が幼い子を抱きかかえて四股を踏む「稚児土俵入り」に出た子もいました。
こういう大物力士が本場所終了直後に遠路はるばる来てくれるのは、長年この相撲大会を続けていることが大きな理由でしょうが、それと、地元出身の元関脇玉春日、現在の片男波(かたおなみ)親方や後援会の方々のご尽力もあったのだろうと思います。
話は山から海に変わります。子どもの頃近くの海でよく遊んだ記憶があります。河口付近の海岸は遠浅になっており、あさりなどの貝がバケツ一杯獲れました。柄の短い網を使って魚を獲ることもできました。当時は入漁料なんてものはなく全く自由でした。大洲みたいな盆地に住んでいると、時々何か物足りないものを感じることがあります。海の景色です。休みの日には、肱川沿いの道路を下って長浜方面に車を走らせることがあります。河口が近くになるにつれて川幅が広くなり、川岸の干潟にいろいろな種類の鳥を見ることができます。大洲に来て8年目になりまするが、鳥の数は年々増えてきているように感じます。つい先日、鴨(かも)の親子が列を作って泳いでいるのを見つけました。それから、鷺(さぎ)も何羽か見ました。小さめの鳥が多いため、鷺は大きく見え、羽を広げてゆっくり飛ぶ姿は華麗でした。有名な万葉集の歌を思い出しました。
『若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み(かたをなみ) 葦辺(あしべ)をさして 鶴(たず)鳴き渡る』 山部赤人
赤人は柿本人麻呂とともに歌聖と称えられている歌人です。美しい若の浦(今の和歌山市南部の和歌の浦)に潮が満ちてくると、干潟がなくなって、葦(あし)のはえている川のほとりに向かって、鶴(この時代 鶴と言えば丹頂鶴)があの独特の鳴き声を響かせながら、翼を広げてふんわりと飛んでいく姿を想像します。潮が満ちてくるという時空の推移、鶴が渡るという優雅でダイナミックな動き、鶴の鳴き声、潮騒の音など自然を見事に歌い上げています。昔から最高の句と思ってきました。
この二つの話は全く別の話ですが、“潟を無み” “片男波”(かたをなみ)でつながります。現在も、和歌山には和歌の浦、片男波(公園)という地名、観光スポットがあります。「片男波」という地名はこの万葉集の句の「潟を無み」から生まれたとされています。このことは20年くらい前、ある学会で和歌山市を訪れた時に知りました。乙亥相撲、肱川下流の風景、和歌の浦、いずれも後世に残したい伝統文化、風景です。
ボーナス |
平成23年12月 |
ボーナスの明細を受け取った後の職員のうれしそうな顔を見ていると、こちらもハッピーな気分になります。自分も23年間勤務医をしていたので、ボーナスが入るとうれしかったことをよく覚えています。
しかし、現在の彼女らの給料控除額を見ると、気の毒になります(自分はもっと高い率でひかれますが)。主婦として家庭の仕事をしながら、母親として子を育て学校の行事にも参加し、正職員としてフルに働いている女性から、こんなに税金や社会保障費を取ってよいのだろうかと思ってしまいます。この国の今の財政事情からすれば仕方ないことかもしれませんが、払わないでよい人はずっと払わなくて済んで、払える人からはどんどん取る額を上げていく今の状況が続けば、労働意欲が湧かないのではないかと心配になります。
ボーナス支給日、当院の銀行残高を見て、夕食はインスタントのごま味ラーメンとカレーを家内と半分ずつ食べました。
プレ忘年会 |
平成23年11月19日 |
これから寒くなり医院での仕事が忙しくなる前に、“しっかり食べて飲んでみんなでがんばろう会”みたいな宴会を当院主催で行いました。1か月前から企画していました。自由参加にしていましたが、当院のスタッフ、隣の調剤薬局さん、開院前からお世話になっている2社のメンバーら18名が参加してくれました。
当院では、院長をはじめスタッフがくたくたに疲れる12月に忘年会をすることはありません。例年、インフルエンザの予防接種のピークが来る11月後半から12月上旬にかけては、来院者数が最も多くなる時期です。病気で受診される患者さんは、その後から年末にかけて多くなります。ところが、今年はインフルエンザワクチンが不足することや、インフルエンザの流行が早まることが報道されたためか、ワクチンで来られる方の出足が早く、11月末までには3/4くらいが終了する状況です。
小児科という診療科はふつう7月から10月はじめ頃までは暇な時期になるのですが、今年は手足口病、ヘルパンギーナ、マイコプラズマ肺炎の大流行で忙しい夏、秋になりました。これを書いている11月25日現在、感染症等で受診される子どもさんは例年に比べると、かならずしも多くありません。ただ、市内でインフルエンザが流行するきざしがあります。今年もあと1か月ちょっと、スタッフとともに頑張りたいと思います。
女性陣の職場での働きには頭が下がります
童謡、唱歌 |
平成23年11月 |
昔、音楽の授業と言えば、あーあという顔をして時間を過ごしていました。なぜか、音楽の先生は、メガネをかけたきつい女の先生が多かった記憶があります(すみません)。今日ゴルフに行く予定でしたが、朝から雨が降っていたので取りやめにしました。暇にまかせてインターネットを開けて、とくに目的もなくマウスをカチカチやっていると、『童謡 里の秋』が出てきました。どんな歌だったかなと思ってクリックすると、メロディーが流れてきました。 「静かな 静かな 里の秋」この短いフレーズだけで懐かしくなりました。続く「ああ 母さんとただ二人 栗の実 煮てます いろり端」というフレーズには、何とも言えずジーンと来てしまいました。同じページに、『文部省唱歌 紅葉』があったので、それもクリックしてみました。「秋の夕日に 照る山もみじ (略) 赤や黄色の色さまざまに 水の上にも織る錦」 この時期夕映えの紅葉は切なく美しい。
今になってこれらの詩を聴き、読み返してみると、すばらしい詩だと思います。余計な言葉は一つも入ってない。心の中にある、まだ発展していない頃のいなかの秋の風景が目に浮かんできます。
今日は午前中は雨でしたが、午後からは雨が上がり、ときどき薄日が差す天気になりました。これらの音楽を聴き終わった頃、柿色の西日が部屋に差し込んで来ました。西の山に晩秋の夕陽がちょうど沈むところでした。「日が短くなったな」 秋の終わりを実感しました。
さまざまなところで季節感が失われている現代社会において、童謡、唱歌はみごとに季節感をよみがえらせてくれます。将来に引き継いでいきたい宝の一つだと思います。
家から見た晩秋の夕日
根室のさんま |
平成23年10月 |
殿様「このさんま、いずれでもとめてまいった?」 家臣「日本橋 魚河岸(うおがし)にござります」 殿様「あっ、それはいかん。さんまは目黒に限る。」 お馴染みの江戸落語『目黒のさんま』の下げの部分です。テレビの娯楽時代劇では、この噺を題材にしているシーンを見かけることがあります。
秋分の日、私は札幌にいました。今年2回目の北海道でした。その夜、知人と札幌のすし屋さんに行く途中、タクシーの運転手さんから、前日に大雪山で初冠雪があったことを聞きました。外は11℃でした。すし屋に着いて、最初に食べたのがさんまの刺身でした。さんまは焼き魚の印象が強く、これまで刺身で食べた記憶はなく、生臭いイメージがありました。ところが、このさんまの刺身は、高級魚よりずっとおいしくて、大げさではなく、とても感激しました。店の女性に聞くと、「根室で獲れたさんまです」ということでした。黒潮に乗って北上し、餌をいっぱい食べて、脂ののりきった頃のさんまなのでしょうか、軟らかく口の中でとろけるような感じでした。『目黒のさんま』に出てくる殿様ではないけれど、「さんまは根室に限る」と言いたくなりました。
さんま以外にも、鮮やかな赤い色をした魚“きんき”の煮付けや海の幸がいっぱい乗った海鮮丼もよかった。北海道産の新鮮なじゃがいもとイカの塩辛がよく合うことも知った。体重、コレステロールのことなんか気にせず食べて、実に幸せなひとときでした。
翌日、高速道路を通って旭川に行き、そこで昼食をとった後、大雪山系最高峰の旭岳に向かいました。ロープウェーで何合目までか行きました。愛媛では見れない晩秋の景色でした。下りのロープウェーの中で若い男性職員に話を聞くと、「6月はまだ雪がいっぱいあります。雪がないのは1か月そこそこ。もうすぐこの辺りは真っ白になります。」
それからちょうど10日後(10月4日)、夜食事をしていると、旭川で初雪が降ったというニュースがテレビで流れていました。観測史上2番目、113年ぶりの早さということでした。かなりまとまった量の雪が積もっており、店の前に積もった雪をシャベルで取り除いている映像が映っていました。ほんの10日前、同じ旭川市内の「道の駅」のベンチに座って、青空を見ながらサンドウィッチを食べた時の景色とは別世界です。そこの人々はこれから長い寒い時期を過ごすことになります。「北海道は、広々として景色が良く、食べ物もおいしくて・・・」なんて言うような甘っちょろい所ではなさそうです。
「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」 |
平成23年9月 |
今年は、“十五夜”前後の天気がわりと良くて、きれいな大きなお月さんを毎晩見ることができました。十五夜当日は、昼間は雲の多い天気でしたが、月が出てくる頃には雲がみごとに去り、神南山の頂上から明るく黄色に輝く月がゆっくりと現れました。その晩は何度か月を眺めましたが、まさに“中秋の名月”でした。
これから秋本番というところでしたが、十六夜(いざよい)を過ぎると、一転して全国各地で厳しい残暑となり、35℃を越える猛暑日になった市が何か所もありました。運動会の練習中に熱中症にかかり、病院に搬送された児童が多かったことが報道されていました。一方、われわれが住むこの地域では寒い時期に流行(はや)るRSウイルス感染症が真夏に出たり、近くの市ではインフルエンザがもうこの時期から発症しているようです。季節性が失われております。
「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」 松尾 芭蕉
名月に誘われて、月影が水面にうつる池のあたりを、時が経つのを忘れて、ひとり黙然と歩いている、風雅人芭蕉の姿を思い浮かべます。この夜、彼は何を考えていたのだろうか。
『奥の細道』の旅に出る数年前の、芭蕉43歳の時の句です。ちなみに、この“池”は、「ふる池や 蛙(かわず)飛びこむ 水のおと」の“池”だそうです。当時、芭蕉は、江戸のはずれの深川 芭蕉庵で極貧の生活をしながら、蕉風俳諧の確立をめざしていました。
にゅうどう雲 |
平成23年8月 |
夏の風物にはいろいろなものがあります。風鈴、海水パンツ姿の子ども、かき氷、浮き輪、スイカ、セミの鳴き声など。なかでも、絵の中に書き入れても、いっしょに写真に写しても、夏らしさを最大限に演出するものは入道雲だと思います。
木にとまったクマゼミの絵だけでも夏を思い浮かべますが、背景に真っ青な空と白い入道雲を書き入れると、シャーシャーシャーという鳴き声が聞こえてきそうになります。海辺で遊ぶ海パン姿の子どもの写真で季節はわかりますが、バックにむくむくとわき上がった入道雲が写っていると、夏休みのじりじりとした暑さと楽しさが伝わってきます。ビールの宣伝映像などで使われますが、夏の青空と入道雲といっしょに、水滴のついた缶ビールあるいはかごに入れた水洗いしたばかりの新鮮なトマト、きゅうり、なすびなどの野菜を映すと、より一層おいしそうに見えます。
7月の終わり頃だったと思いますが、このホームページの1ページ目に、“ここ何日かは真夏らしい入道雲を見てない気がします”と書いたのを覚えています。8月に入ってからも、すかっとした青空と白い大きな入道雲が見える景色があまりありませんでした。先週は、すじ雲やうろこ雲が出ていました。早い秋を感じさせましたが、何か物足りない気がしていました。それが、8月の終わりになって、昨日、今日、きれいな入道雲を見つけました。昼ごろは西の高山の上に真っ白な色で、夕方は東の神南山の上に赤い夕日を浴びて、むくむくと立ちのぼっていました。「こうでなくっちゃ」と満足しました。
暑い日の入道雲(積乱雲)はゲリラ豪雨、落雷を起こすやっかいな雲でもあります。今年の夏も、各地で被害が出ました。しかし、昔と比べて生活の中で季節感がなくなってきたこの頃、夏の白いシンボル、入道雲を見つけると、うきうきします。あと数日で9月になります。残暑で暑さは続いても、夏は終わりです。休憩時間にインターネットのYou
Tubeで、フランシス・レイの名曲、映画“さらば夏の日”のテーマ曲を聞きながら、「来年の夏こそはあれをして、これをして」と考えました。
1969年8月8日の写真 |
平成23年8月 |
当院は2009年8月8日に開院しました。ちょうどその40年前の1969年8月8日に撮られた写真の話です。時間もわかっており、昼前の11時半頃だそうです。世界一有名な横断歩道と言えば、それだけでピンとくる人も多いと思います。ビートルズの事実上のラストアルバム『アビイ・ロード (Abbey Road)』のジャケット写真は、ファンでない人でも一度はどこかで見たことがあるかと思います。ビートルズのメンバー4人が、ロンドン北部にある「アビイ・ロード・スタジオ」前の横断歩道を縦一列になって渡っているところを撮影した写真です。昨年12月、イギリス政府はこの横断歩道を“文化的歴史的遺産”に指定しました。建物以外が指定されたのは初めての事例だそうです。この場所は、今でも、ジャケット写真をまねて観光客らが記念撮影する名所になっています。日本の旅行業者が出している“イギリス○日間の旅”のパンフレットの中にも、訪問先としてこの横断歩道が入っているのをよく見かけます。
アルバム「アビイ・ロード」は、発売当時イギリス、アメリカの音楽誌でそれぞれ17週間と11週間 1位を記録し、その後世界で数千万枚以上のセールスを記録しています。録音に使用されたEMIレコーディング・スタジオは、このアルバムを制作したビートルズに敬意を表して、「アビイ・ロード・スタジオ」と改称されました。アルバムは20世紀を代表する名盤と評価されています。そして昨年、そのスタジオ前の横断歩道が英国の歴史遺産に指定されたわけです。私は、若い頃から「アビイ・ロード」はレコード盤の溝がすり減るほど聴いてきました。
このアルバムのジャケット写真が1969年の8月8日に撮影されたことは、開院して間もない頃、雑誌を読んでいて偶然知りました。すごくラッキーな気分になりました。実は、この私も、自分がこの横断歩道をわたっている姿を写真におさめたいと、何年も前からずっと思ってきました。少し大袈裟ですが、「アビイ・ロードの横断歩道を渡るのと、ピラミッドを見るまでは死ねない」と、いろいろな人に言ってきました。今考えるに、この“名所”を訪れるのなら、できれば、2019年8月8日にしたい。ジャケット写真が撮影されてからちょうど半世紀、当院がオープンしてからちょうど10周年になる。良い写真が取れたら、院長室にこっそり飾っておきたい。
アルバム 「アビイ・ロード」
花火大会 |
平成23年8月 |
私の故郷では、旧暦の6月17日の日に年1回だけ花火大会が開催されていました。子どもの頃、家族でドライブ、レジャー、旅行に行くようなことがまだ稀だった時代で、みんなが質素に暮らしていた頃です。この花火大会は子どもから老人までとても楽しみにしていた町の最大の行事でした。打ち上げ会場の河口、港あたりは毎年大勢の人でごった返していました。良い場所を取ろうと明るいうちから出かけていました。開催日が旧暦で決まっているので、年によって早かったり遅かったりしますが、花火大会の途中で遅く姿を現す月の上がってくる場所、形、大きさはいつも同じでした。花火が終わって家路につくとき、十七夜の月を見ながら何か無性にさみしくなっていた記憶があります。
大洲に住んでいると、花火を何度も観ることができます。それぞれの花火大会の関係者の方々が地域の人たちのため維持すべく努力されているのでしょう。夏は短いと感じます。暑さだけで言えばその期間は長くなりますが、日の長さ、空の色や雲の種類、海の色や冷たさ、虫の鳴き声、朝晩の温度などで人は季節を感じます。本当の夏はじつに短く、いつも名残惜しくなります。花火大会は最も夏らしい風物詩です。
昨日、大洲川まつり花火大会に行きました。橋の近くの河原に降りて、間近で花火を観ました。これほど近くで花火を観たのは子どもの時以来で、花火が頭の真上でひらく感じでした。西の空にきれいな形の三日月が出ていました。座った場所からは、その三日月と大洲城と美しく光を発する花火の3つが同時に視界に入り、幻想的な感じがしました。それと同時に、妙になつかしい感じがしました。30年以上観てない故郷の花火大会は今も昔のままなのだろうか。
「なでしこジャパン」優勝 ーサッカー女子ワールドカップー |
平成23年7月 |
奇跡の連続だった。奇跡と言うと彼女らに失礼かもしれない。練習に練習を重ねて身につけた技術、精神力、チームワークなどすべてひっくるめた彼女たちの実力の成果だったのだろう。それにしても、すごい勝ち方だった。「何事もあきらめてはいけないよ」と彼女らにプレーを通して教えられたような気がする。
今回の女子ワールドカップでは、「なでしこジャパン」は数々の名シーンを残したが、決勝戦延長残り3分、コーナーキックのボールに沢選手が飛び出して同点にしたあのゴールは神業のようなものだった。鳥肌が立った。
この決勝戦の日、私は朝まで起きていた。にもかかわらず、日本チームの得点シーンは2点ともリアルタイムでは見れなかった。日本時間未明の3時45分に試合が始まった。無得点で試合は進んだが、アメリカに押されている感じだった。負けそうな気がしたので、風呂に入った。出てきたら、外はもう明るかった。その直後に、アメリカに先制点を入れられた。試合後半で残り時間が少なかったので、だめかなと思ってトイレに行くと、その間に宮間選手が同点ゴールを決めていた。延長戦に入り、再びアメリカに1点リードされた。いよいよ負けかと思い、見るのが辛かったので寝に行った。布団に入っても寝つけず、またテレビのある部屋に戻ってスイッチを入れると、沢選手が起死回生のゴールを決めてチームが喜びかえっているところだった。得点のシーンはVTRで何度も流されるので目に焼きついているが、何のために朝まで起きていたのかと反省した。
この歴史的快挙を決めた後、日本サッカー協会会長がコメントの中で、「みんなお金もない中で努力して」と述べている。「なでしこ」の選手たちは経済的には決して恵まれていない。景気の悪化でなかなかスポンサーがつかず、企業クラブが相次いで休部や廃部になった時期もあった。選手たちは、昼間、会社勤めをしたりスーパーのレジ打ちなどのアルバイトをして生活費を稼ぎながら、夕方や夜に懸命に練習をしてきた。一方、今の政府・与党は、支持率アップの切り札として始めた事業仕分けで、スポーツ振興のための補助金を削減した。仕分けの女王、蓮舫議員のツイッターでの発言に対し、批判意見が多数書き込まれて大炎上してしまった。
なでしこは秋の七草の一つである。「大和なでしこ」は清楚な日本の女性をほめる時の言葉である。彼女らの練習で日焼けした顔と筋肉質の体型は、失礼ながらこのイメージとはかけ離れているかもしれない。しかし、なでしこは暑い時期から花を咲かせる。暑さに堪えて可憐な花を咲かせる姿とこの花の花言葉の一つ「快活」は、彼女らとよくマッチしている。
つばめの巣 |
平成23年6月 |
今年もつばめが帰ってきました。目下、子育ての最中です。もっとも、今見るつばめが去年のつばめと同じだという証拠はないのですが、そう思いたいし、そうだと信じています。
2年前の今頃、この医院がまだ完成していない時に、診察室近くの出口(インフルエンザなどの感染症の患者さんの出入り口)の所につばめが巣を作り始めました。換気口のすぐ上でそこを詰まらせてはいけないし、巣をねらって猫がやって来るとか、ヘビが来るとかおどす人がいるので、初めは巣を壊して落としていました。しかし、つばめが何度もけなげに巣作りを続けるので、根負けしたのと、しだいにかわいそうな気がしてきて、巣作りを容認しました。何日か後、子どもの頃よく見たつばめの巣が完成しました。そして、ピーピーという鳴き声が聞こえるようになり、大きな口を開けて親鳥にえさをもらう姿を見るようになりました。私らがここに住むようになったのはその年の7月上旬でしたが、つばめの子らも随分大きくなっていました。そして、間もなく巣立って行きました。開院間際で、医院の中やまわりを見る機会が多かったのでよく覚えています。このつばめの巣は当院の歴史と同じということになります。
今日、巣を眺めていると、中にうぶ毛をつけたつばめの子が何匹か見えました。ときどき、親鳥があのかっこいい飛び方で雨の中戻ってきます。子つばめの鳴き声が大きくなる。いい眺めで、『家族に乾杯』という気分になりました。
ご両親の実家がこの南予にあり、以前ここで仕事、子育てをしていた方が、何らかの都合で松山市周辺や県外に引っ越して行かれることがあります。そういうケースがここ何年かで増えたように思います。休暇やプライベートな用事でこちらに帰って来られた際に、少し大きくなった子どもさんを連れて当院に来てくれることがあります。そういう時は、いつもとてもうれしい気持ちになります。
北国の春 |
平成23年5月 |
部屋のカレンダーを見ると、5月2日が八十八夜で、5月6日が立夏となっています。大洲ではすでに日中の最高気温が30℃を越えた真夏日もありました。
北国の春は遅く、4日前に訪れた札幌大通り公園では5月半ばを過ぎているのに桜の花が残っていました。白いコブシの花や紅色のモクレンの花がたくさん咲いており、つつじも花を付けていました。スキーのジャンプ競技場がある大倉山の道端にはタンポポが列を作って咲き、遠くに見える山の頂には雪が残っていました。タクシーの運転手さんの話では、札幌近郊に有名な梅園があり、今、梅の花がきれいに咲いているとのことでした。春の花が短い期間に一斉に咲くようです。四国愛媛とは異なる花の咲き方で、何か少しもったいない気がしました。
余談になりますが、札幌 羊ヶ岡展望台には、「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名な北海道開拓の父 クラーク博士の銅像があります。その横に石碑があり、その言葉に続く全文を紹介していました。「少年よ、大志を抱け。お金のためでなく、自己顕示のためでなく、名誉という空しいもののためでなく、本来、人間があるべき姿のために大志を抱け。」というような内容でした。この全文については異説もあるようですが、感銘を受ける言葉でした。
「こどもの日」を前に −わが国の少子化ー |
平成23年5月 |
明日は国民の祝日「こどもの日」です。端午の節句はもともと旧暦の5月5日に祝われていましたが、新暦になってからも5月5日に祝われ、子どもの健やかな成長を祈願し各種の行事が行われています。このあたりでは、『五十崎 大凧合戦』が有名です。
さて、「こどもの日」を前に総務省が発表した推計人口によると、日本の15歳未満の子どもの人口は1693万人で、30年連続で減少しています。全人口(1億2797万人)に占める子どもの割合は13.2%で、この率は37年連続で低下しており、諸外国の子どもの割合と比較すると、日本は最低水準となっています。将来の社会福祉に必要な税負担、労働力の減少等を考えると、暗澹(あんたん)たる気分になってしまいます。
大洲市でも少子化は進んでいます。児童数の減少に伴い小学校の統廃合がすすめられ、市内の小学校の数が半分以下になるそうです。この春もいくつかの学校で閉校式がとり行われたことを新聞や公報でみました。今回廃校になった小学校は100年以上の長い歴史のある学校で、近年は児童数がめっきり減っていましたが、古くはかなり多い数の児童が通っていたそうです。在校生、保護者の方々のみならず、その学校を卒業して今は遠く離れた地に住んでいる人達もとても寂しい思いをしたのではないでしょうか。母校である小学校は、多くの人々にとって故郷のシンボルであり、古い小学校の姿は深く心の中に残っています。
子ども達の笑顔、声、遊ぶ姿は、われわれ大人に希望と元気を与えてくれます。少子化の背景には、わが国の景気、地域の雇用問題などが複雑に絡んでいます。簡単なことではないとわかっていますが、何とか今の少子化をくいとめることができないものかとまじめに思った次第です。
キャンディーズの「スーちゃん」 乳がんで逝く |
平成23年4月 |
女性アイドルグループの元祖ともいえるキャンディーズの「スーちゃん」田中好子さんが乳がんのため55歳で亡くなりました。がんで治療を受けていたことを知らなかったので、大変驚きました。。
キャンディーズは昭和47年に結成され、人気絶頂だった昭和53年にあの有名な「普通の女の子に戻りたい」という名文句を残して解散しました。彼女らが活躍した時代に青春を送ったわれわれ“おじさん”達の多くが好感を持って見ていたグループでした。その中の「スーちゃん」には日本的な愛らしさがありました(音楽評論家 湯川れい子さんの弁)。解散後、女優田中好子として活躍し、その演技も評価されていました。早過ぎる死を悼みます。
キャンディーズの最後の曲となった『微笑みがえし』を久しぶりに聴きました。“・・・机、本箱運び出された荷物のあとは 畳の色がそこだけ若いわ お引っ越しのお祝い返しも 済まないうちに またですね・・・ 1 2 3 軽く手を振り 私たち お別れなんですよ” 懐かしい歌詞でした。大学生でちょうど引っ越しをしていた時によく聴いていました。彼女らには清潔感があり、歌・コーラスもうまかったし、ドリフターズの番組でのコントも上手でした。
キャンディーズの絶頂期に、「スーちゃーん」「ランちゃーん」「ミキちゃーん」と叫んでいたファンも今は、髪に白いものが交じり、かなり薄くなっている人もいる年齢です。社長さんになっている人、先生と呼ばれている人、孫がいる人もいるでしょう。また、おそらく以前よりずっと涙もろくなっていると思います。彼女の告別式で、亡くなる直前に録音された最後の肉声が流されました。「・・・病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。そのときは必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。・・・」 そのか細い声に堪え切れずに涙した人も多かったのではないでしょうか。
乳がんは、日本人女性では20-30人に1人がかかるといわれています。近年、女性の多い職場や遠い親戚まで入れた身内の中など、身近なところにわりと患者さんがいます。日本人女性の罹患リスクは今後もっと高くなることが予想されています。田中好子さんはまだ30歳代の1992年に乳がんが見つかっていたそうです。
当院職員には乳がん検診を受けてもらっています。当院に来られるお母様方にも乳がん検診をお勧めします。
「私のサッカー人生は美しく素晴らしかった」ーロナウド引退会見ー |
平成23年2月 |
2月16日付新聞のスポーツ欄で見つけた記事です。サッカーの名選手(FW)ロナウドが現役引退を発表しました (2011.2.14)。「その通り、君のサッカーは美しく素晴らしかった。と同時に、度重なるケガと戦いながら、よく頑張った。」と思いました。
彼は、長年、インテル・ミラノ(イタリア)、レアル・マドリード(スペイン)などヨーロッパの強豪クラブで活躍しました。また、FIFAワールドカップ(W杯)ではブラジル代表のエースとして3大会に出場し、1998年フランス大会の準優勝、2002年日韓大会の優勝に大きく貢献しました。個人タイトルとしては、W杯フランス大会ではMVPに選ばれ、日韓大会では得点王、W杯通算15得点は史上最多記録です。FIFA最優秀選手賞を3度、バロンドールを2度受賞しています。
私はサッカー通ではありませんが、サッカー選手ではこのロナウドと、私が高校・大学頃に活躍していたベッケンバウアー(ドイツ)が好きです。全盛期のロナウドは、敵陣でボールを捕ってゴールに向かっていくときの瞬発力、スピードがすばらしく、ゴール前での冷静さ、シュートの正確さが並はずれていました。まちがいなく世界を代表する名ストライカーでした。「こんな選手が日本にもいたらなあ」といつも思いながらテレビで試合を見ていました。彼については、横浜で行われた日韓W杯決勝戦での奇抜な髪型(当時“大五郎カット”と呼ばれた)が記憶によく残っています。
しかし、スポーツ選手の常ではありますが、この選手もケガには泣かされました。また、輝かしい実績を持った選手だけに、晩年(まだ若いが)、試合での貢献度が落ちてくると、メディアや評論家から非難されました。引退会見では、4年前から甲状腺機能低下症を患っていたこと、度重なる膝の故障で階段の昇り降りでも痛みを感じていたことを涙ながらに語ったそうです。
この文章のタイトルの彼の言葉“私のサッカー人生・・・”に戻りますが、できれば、自分が引退する際もこういう言葉で締めくくりたい。
学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子 |
平成23年1月 |
二十四節気の大寒を過ぎて10日が経ち、あと5日で立春をむかえますが、ここ数日大変寒い日が続いています。今日も、風が強く雪が舞っています。読売新聞の“お天気博士”の記事によりますと、実際に気温が最も低くなるのは、大寒から立春までの間であることが多いそうです。日本各地の観測史上の最低気温は、この時期に記録されています。
ほんの4、5か月前まで、記録的猛暑という言葉が新聞やテレビ番組でよく使われていました。それが一転して、「全国で記録的低温」「統計開始以来最大の積雪量」となっています。ラニーニャ現象が主要な原因のように言われていますが、気象のことはよくわかりません。ただ、年をとってくると、暑さも寒さもこたえるようになり、夏と冬がやたら長く、春と秋が異常に短い気がします。
『学問のさびしさに堪へ炭をつぐ』 有名な山口誓子の俳句です。
筆者らの世代までが、ぎりぎり“炭をつぐ”という光景を見ているのではないかと思います。子どもの頃、冬、部屋は寒く、吐く息が白く見えて、鉛筆を持つ手がかじかんでいました。大して勉強はしませんでしたが、中学高校頃、学問は味気ないもので、寒い夜が更けてくると、なんとも言えない寂しい気分になっていました。
今受験生は最後の追い込みをしているところでしょう。さみしさ、むなしさを感じることも多いと思います。私は今になって強く思いますが、若い頃の学問は絶対必要です。知識を増やすためだけではなく、堪えるということが身につきます。世界で、偉人と言われる人たちは、その人その人なりの仕方で学問をしています。スポーツで頑張る人ばかりが美化されて、地味な学問をするのは“ださい”という風潮に違和感を覚えます。
さて、今週、大洲の保育園・幼稚園・小学校でもインフルエンザがポツポツ出てきました。この寒さで急速に広がっていくものと思います。
第2回新年会 |
平成23年1月29日 |
昨年に続いて、当院主催の新年会を開きました。当院全職員12名と、調剤薬局(よつば薬局)の薬剤師・事務員さん、日頃お世話になっている製薬会社・卸さん・医療コンサルタント会社の顔見知りの方々、合わせて26人が参加しました。この日はとても寒い日でしたが、若い人からベテランまで幅広い年齢層が集まり、中は大変盛り上がっていました。
来年も楽しく盛大にこの会が開催できるように、今年1年間頑張ります。
男女同じ人数で、若い人・ベテラン、太った人・やせた人、髪の多い人・少ない人、
良さそうな人・怖そうな人。 うまく調和していました。
あっぱれ“はやぶさ” −イトカワからの生還− |
平成22年11月 |
小惑星探査機“はやぶさ”が、7年間宇宙での航海を続けて今年6月に地球に戻ってきました。11月16日には回収されたカプセル内に小惑星イトカワの岩石質微粒子が入っていたことが発表されました。これで以って、“はやぶさ”の任務が完結しました。先月亡くなられた元日本ハム監督の大沢啓二氏(近頃は“大沢親分”の呼称の方が有名)のまねをして、「あっぱれをやってくれ」と言いたい。いや、それよりNHKの大河ドラマのごとく「見事であった。はやぶさ。」と重々しく言った方がいいのかもしれない。
その詳しい関連記事を読むと、帰還までにはやぶさは数々のトラブルに見舞われています。姿勢制御装置の故障、化学エンジンの燃料漏れによる全損、イオンエンジンの停止、通信途絶などなど。プロジェクトチームの責任者の言葉通り、まさに「根性を見せた」ドラマでした。
ただ、もしこれが失敗していたら、政治的ショーのあの事業仕分けの場所に関係者が引っ張り出されて、研究予算を大幅に削減されたかもしれません。科学というものを理解しないあの白い服を着た怖いおば様に、「税金を使ったむだ遣い」「一番じゃないといけないんですか」と責め立てられたことでしょう。
後日、“はやぶさ”プロジェクトを率いた川口教授の講演を聞く機会がありました。その中で、教授はこう話していました。「やっぱり、一番を目指さないといけないんですよ。」 当然だと思います。
FIFAワールドカップ −スペイン優勝− |
平成22年7月 |
4年に一度世界中が盛り上がるサッカー・ワールドカップが今月南アフリカ共和国で開催され、華麗なパスサッカーを見せてくれたスペインの優勝で終わりました。優勝が決まったあとのスペイン国内の悦び様は、この国の民族性も相まって大変なものでした。
私が初めて海外に行った国がスペインでした。1985年、昭和60年の9月下旬のことで、当時大学院生の4年でした。渡航の主たる目的は国際学会への出席でとてもうれしかったのですが、上司の教授、助教授と大病院の院長と一緒でしたので、緊張し少し窮屈な旅でもありました。当時スペインまでは、北極回りでアラスカのアンカレッジ、オランダのアムステルダムで給油をするので、かなり時間がかかりました。それと、首都マドリードに着いたとたん、通貨政策史上有名な“プラザ合意”が発表され、持って行ったドルの価値がガクンと落ちてしまい、為替レートの重大さが初めてわかりました。
学会は、マドリードから少し北に行った街にある何世紀も前に建てられた神学校で開催されました。食事が毎回外国人医師、研究者達と一緒だったので、食べた気がしなかったのを覚えています。学会が終わってスペインを発つ前に、スペインの古都トレドに行きました。トレドはマドリードから70km南にあり、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の文化が混じりあった地で、現在は世界文化遺産に登録されています。
トレドから帰る途中、バスの窓から夕日に照らされた広々としたレンガ色の大地が見えました。9月の終わり頃でしたが、ひまわりがたくさん咲いているのを見た記憶があります。もう一つ強く印象に残っているのは、夕暮れにサッカーをしている子どもたちの姿です。きれいに整地された練習場で試合をしているのではなく、ふつうの空き地で何人かの子どもが集まって、一生懸命ボールを追いかけ蹴っていました。一人でボールを壁に向かって蹴って練習している子もいました。進んでいくバスの中から、同じような子どもの風景が次々と目に入りました。まるで昭和30、40年代の日本の野球少年たちを見ているようでした。スペインはサッカーが本当に盛んな国なんだと思いました。
今回スペインの試合を見ていて、その時のことが懐かしく思い出された次第です。
あじさい |
平成22年6月 |
3年前のちょうど今の季節。都内での会議が終わって、新橋の駅で時刻表を見ていると、鎌倉まで行くのにそれほど時間がかからないことがわかった。もう昼をとっくに過ぎているのにふらりと電車に乗ってしまった。シーズンオフですいているかなと思っていたところが、鎌倉駅から鶴岡八幡宮への道はすごい混雑でなかなか前に進めない状態だった。駅前の観光案内所で聞いてみたが、もう拝観終了時間が迫っているので、今からではどこへ行ってもゆっくりは回れないだろうと言われた。仕方ないので、北鎌倉の通称あじさい寺と呼ばれている有名なお寺に行った。あじさい寺というだけあって境内に広々と咲くあじさいとお寺の感じがうまく調和しており、心をなごませてくれた。とても品のある花に見えた。あじさいはやはり鎌倉だなと勝手に思いながら、そのお寺だけ見て帰った。ちなみに、あじさいの花びらに見えるものはガクだそうです。
先日、梅雨の晴れ間に、車のあまり通らない自宅近くの道を自転車に乗ってぶらぶらしていると、民家の隅や日の当りにくい土手の一角、道路端に咲くあじさいを見かけた。まわりが雨でぬれていたので、花がしっとりとして美しかった。あじさいは、たくさんの花が咲き誇っているのを見渡すのもきれいだが、こういう地味な場所にちょこっと遠慮がちに咲いているのも趣(おもむき)があると感じた。医院もこういう感じでいいのではないかと思った。
咲いた 咲いた 桜が咲いた |
平成22年4月8日 |
昔の小学校1年生の国語の教科書は、この文で始まりました。ありふれた短い単語の繰り返しですが、桜の花をその日まで待ちこがれていた気持ち、今、花を見た喜び、うれしさがしっかり表れています。あしたから楽しい日々が待っているよ、と言っているようにも聞こえます。桜の花は日本人の心の中に入っています。
うちの桜も、このあたりの桜より少し遅れて先月の20日ごろに開花しました。植えてまだ半年くらいの木だからでしょうか、一つの枝についている花の数が少なく、花びらのピンクの色がソメイヨシノにしてはやや薄い感じがします。でも、じっと見ていると、「この地へ来てよかった。」「何かいいことがありそうだ」と思わせてくれます。
余談になりますが、小児科の医院はこの頃から外来患者さんが減ってきます。子どもさんの予防接種や健診に、是非いらしてください。
我が家の庭の桜
もう一つ余談。今年は平城遷都1300年祭がとり行われています。私も、時間があれば、ぜひ訪れてみたいと思っています。
あをによし 奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり (万葉集)
梅一輪一輪ほどのあたたかさ |
平成22年2月2日 |
昨年の秋に植えたばかりの、自宅玄関の横の小さな紅梅の木に、二輪の花が咲きました。
大寒の頃を過ぎて、つぼみがどんどん大きくなり、卵の殻が割れるように、つぼみの先っぽから赤い花弁が見えていました。暦の上ではもう春になりますが、まだ2月。まだまだ寒い日がやってくるでしょう。この色鮮やかな紅梅の花は、「もう少しの辛抱だ」と励ましてくれているようで、ありがたい。
『梅一輪 一輪ほどの あたたかさ』 江戸時代の服部嵐雪の名句です。私はこれまで、この句を、梅の花が一輪、一輪咲くごとに暖かくなっていき、春が近づいてくるという意味ととらえていました。先日、インターネットをいろいろさわっていると、金剛寺というお寺(前橋市)の住職話法集にこの句のことが載っていました。その住職さんは長年、間違って解釈していたと述べられた上で、ある書物にこの句の意味は「きびしい寒さの中で梅が一輪咲き、それを見るとほんのわずかではあるが、一輪ほどの暖かさが感じられる」であると書かれていたことを紹介していました。そして、梅の花が厳しい寒さの中で開花するさまは、人生にたとえられると述べられていました。
厳寒の中の「梅一輪」はけなげですが、力強さも感じます。受験生は今まさに花を咲かそうと、頑張っています。もうひと踏ん張り。
新年会 |
平成22年1月30日 |
開院してから、今日で、ちょうど半年が経ちました。
下の写真は、新年会の際の集合写真です。
年末は、外来患者さんが多く、何かと気ぜわしいので忘年会は取止めにして、1月に新年会をすることにしていました。当院の前の調剤薬局の方々や、これまでいろいろな事でお世話になった医療関連の会社の方々にも参加いただきました。とても盛大で楽しい新年会になりました。
祝 新成人 |
平成22年1月 |
成人の日の前日、東京は雲ひとつない快晴でした。冬にはめずらしい、抜けるような青空で、宿泊していた紀尾井町のホテルからくっきり富士山が見えました。<紀尾井町は、江戸時代に紀州徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があった所で、この3家の1文字を取って町名としています。それぞれの場所は、現在のグランドプリンスホテル赤坂、上智大学、ホテルニューオータニ付近に当たっています。>
天気がいいので、ホテルから出て、周辺を散策しました。紀尾井坂から四谷の駅に向かって歩くと、桜の木がたくさん植えられている土手がありました。葉がすっかり落ちてしまった裸の桜の木ですが、枝先にはかたいつぼみがいっぱいついていました。
田舎者なのであちらこちら見ながら歩いていると、不意に『すみません。写真を撮ってくれませんか。』と若い女性の声が聞こえました。声の方を向くと、振り袖姿の娘さん二人が携帯電話を持って道路わきに立っていました。そうか成人式か。「写メールをしたことなく、携帯で写真を撮ったことがないんだけど」と話すと、『ここを押してくだされば、撮れます』と教えてくれたので、緊張しながらボタンを押して、携帯を返しました。自分としては親切な事をしたと満足していたところ、『撮れてないようです。もう少し強く押してくれますか』と言われました。再度挑戦するとカチャッと大きな音がして、今度は確実に撮れた様子だったので、「もう一枚」と自分から言って2枚目を撮りました。もう一人の娘さんから、『私のもお願いします』と頼まれました。今度は自信ありげに「いいですよ」と、その方の携帯を受け取りました。「撮りますよ」、カチャ。ところが、携帯の前と後ろが逆になっていたようで、思いっきり私の顔が映っていました。また、まずいことを。
最後に、私が「おめでとうございます」と言って携帯を返すと、お二人がにっこり笑って『ありがとうございます。頑張ります。』と答えてくれました。この娘さんたちは、(近頃あまり見かけない)品があって、振り袖姿がよく似合っていました。これから見聞を広げて教養も身につけて、将来良い母親になってくれればいいな・・・、自分はもっと携帯を使いこなせないといけないな・・・などと思いながら、ホテルに帰りました。
こういう文を書くと、成人式で振り袖が似合ってない女性が多いのかと、言われそうですが、これに対しては私は、川平慈英調に「そーなんです!」と答えます。しゃべり方、しぐさ、表情が、振り袖と合っていないと見える人がわりと多いです。もちろん、中には、高価な振り袖に負けない知性、理性、清潔感、高級感を持った二十歳の女性もいます。また、将来が楽しみなやる気のある二十歳の青年もいると、付け加えておきます。
今日は冬至で、中風にならないようにと、かぼちゃを食べました。この風習がどのあたりの地域で行われているのか知りません。ただ、私の場合、こんなことをするより、まずはダイエットが大切であることは十分わかっております。
冬至は1年で最も夜が長い日です。しかし、古代から、人々は、冬至は太陽が最も衰える日であると同時に、この日を境に太陽の力が再び蘇ってくると考えたようです。世界各地でさまざまな民族が冬至祭を祝っています。クリスマスの起源も冬至祭であるとされています。
また余談ですが、太陽が出ている時間が最も短いのは冬至ですが、日の入りが最も早いのはそれより少し前の12月10日頃です。新聞で日の入りの時間を見てみますと、12月10日は17:00で12月22日は17:05となっていました。すでに日の入りは5分遅くなっているわけです。ただ、これに対し、日の出の方が7分遅くなっています。トータルでは、昼間が2分短くなっているわけです。私の場合、日の出の時間はあまり気になりません。日の入りが遅くなってくれば、春が近づいていると感じて嬉しくなります。
冬は子どもの頃から嫌いでした。寒いのもさることながら、何より日暮れが早いのがいやでした。外で遊んでいても早めに切りあげないといけないので、「もっと日が長ければいいのに」と思いながら、家に帰っておりました。中年になると、今度は、日が短くなってくると、自分が衰えていくように感じることがあり、やはり好きにはなれません。
東京は愛媛よりずっと東(経度が違う)にあるため、ほぼ30分早く日の入りをむかえます。12月は、4時半過ぎには空は暗くなります。若い頃、この時期に東京に行くと、こんなに早く日暮れがくる所はいやだなとよく思いました。
10数年前、国際学会に出席するためフィンランドのヘルシンキに行きました。7月の末で、夏至を1か月くらい過ぎていましたが、午後10時でも十分明るかったのを覚えています(緯度が違う)。こりゃいいと、うれしくなりました。ヘルシンキでは、約1週間ホテルと学会会場との往復だったので、そこを発つ前日、ホテルのフロントで、「この近くに、フィンランドらしい、湖がある景色の良い場所はないか」と聞いてみました。すると、その人の友人で暇なのがいるので、頼んでみましょうか、という返事でした。少し危ないかなという気はしましたが、そのフロントの人がとても親切そうな方だったので、お願いしました。若い男性がすぐにやってきて、車で30分くらい走って山あいの湖に連れて行ってくれました。大変きれいな所で感激しました。
その行き帰りの車の中で、いろいろ話をしました。一番印象に残ったのは、「冬は10時過ぎにならないと、明るくならない。午後2時にはライトをつけて車を運転している。」 「本当の夏は10日くらいの感じで、私たちは長い冬を耐えて、この短い夏をとても大事にしている。」 中緯度にあって年間の日の入りの時間差が2時間半くらいで、四季がほぼ等間隔にある日本の方がやはりいいと思いました。
余談ですが、フィンランドの人々はふだんスオミ語(フィン語)を使っています。感心したことに、少なくとも私が行った場所ではどこでも、彼らの言語ではない英語が通じました。若い世代でなくても、街のふつうのおじさん、おばさんでも、バス乗り場にいた中学生くらいの子に道を聞いても、私より上手に英語で答えていました。外国語教育の差でしょうか。
12月に入り、今年もあと1か月となりました。師走と言われるように、何かとあわただしくなってきます。
世間では、新型インフルエンザの流行が続き、不況、就職難、凶悪事件などが連日報道されています。
これとは対照的に、診察室では、クリスマスを楽しみにしている子どもたちの明るい話を聞くようになりました。クリスマスの飾りを見て喜び、サンタさんが来るのを心待ちにしております。
12月1日は旧暦の10月15日で、今宵は空に明るい満月が光っています。寒々とした感じはありますが、暑い時期の月より明るいような気がします。うさぎの模様もくっきり浮き出ているように見えます。
日暮れが随分早くなり、夕方5時で暗くなっています。何か損をしているような気分になっているところでした。さきの子どもさんらの話とこの明るい満月を見て、少し元気が出ました。明日もがんばろう。
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