コラム(2014〜2021年)



 光陰矢の如し

令和3年10月 

私が大学生の時でした。同級生と石川県の金沢へ旅行に行きました。何日目かに金沢から足を延ばして、日帰りで能登輪島に行きました。
「おばちゃん、この甘エビを下さい」(どこから来たんだい)「愛媛です」(じゃ、おまけだ)というような会話があったと思います。輪島の朝市でのことです。露店のお婆さんが甘エビを新聞紙に包んで、ハイよと渡してくれました。自分よりずっと年上に見えたその女性は、もしかしたら今の自分より若かったかもしれません。何百円か払いました。そのあとすぐ、近くのコンクリートの岸壁から能登の海を見ながら、甘エビを全部食べました。洗わず、醤油もかけず、新聞紙の中の甘エビを手でつまんで食べました。その美味しかったこと。よく覚えています。当時の輪島の朝市の風景はかすかに記憶に残っています。しかし、季節がいつだったか、誰と行ったか、何人で行ったかなどは思い出せません。今回、40年ぶりに能登に向いました。

のと里山空港に降りて、観光タクシーで真っ先に輪島の朝市に向いました。到着して、あたりを見渡すと、その景色が昔のそれとは随分変わって見えました。同じ場所に来たという感じがしませんでした。露店のおばさんたちの格好、様子も違っていました。あとで、移動する車の中で運転手さんと話をしました。運転手「40年経つと変わっているでしょうね」 私「確かにね。でも自分の中ではそう昔のことのように思えないのだけど」

40年前はまだ社会で仕事をする前でした。そして今は、じわじわとフィニッシュが近づきつつあります。光陰矢の如しです。ただひたすら走り続けてきたけど、「なんだかな」と思うことがしばしばあります。なにより、「少年老い易く学成り難し」でした。でも、これから先、一日一日をもっと大切に過ごしていこうと思います。新しい知識が頭の中に入りにくくなっていますが、もっともっと勉強していきたいと考えています。

 
輪島の朝市(2021年7月22日)  




 新型コロナウイルス禍の陰で(その3 はしかの流行)

令和2年12月 

前回の原稿を書き終わった後、『国境なき医師団』から手紙が届きました。毎年送られてきます。主たる目的は寄付の依頼ですが、毎回手紙が入っています。今回の手紙に書かれていた内容は、「コンゴはしかが大流行しています。コンゴのように、食糧が不足し、子どもたちの栄養状態が悪い地域では、はしかが何千人もの子どもたちの命を奪ってしまうのです」「はしかの流行はすさまじく、子どもたちの命を救うために、支援をお願いします」というものでした。この団体には日本人医師らも入っており、りっぱな活動をしています。
医学雑誌を除けば、今日麻疹はしか)に関する報道や記事を目にすることはまずありません。それは、先進国では麻疹ワクチンの接種がきちんと行われており、感染がある程度抑えられているからです。しかし、麻疹は今なお世界で流行している感染症で、かつ怖いウイルスです。非常に伝染力が強く(基本再生産数は新型コロナよりはるかに高い)、重症化する例も多いです。
麻疹ワクチンの接種が広く行われるようになる1963年以前には、推定で毎年260万人もの患者さんが麻疹で死亡していました。日本では、第二次世界大戦前には麻疹で年間1万人の子どもが亡くなっていました。今年の新型コロナウイルス感染症による国内の死亡者数よりはるかに多い数です。麻疹は決して軽くみてはいけない病気です。ちなみに戦前の日本では、百日咳でも1万人ジフテリアでも3000人以上が亡くなっていました。私が医師になって5年くらい経った頃でも、「はしかで毎年愛媛県の人口くらい(当時150万人)の人が、世界で亡くなるんですよ」と説明していたのを覚えています。

麻疹はいつか撲滅できるだろうと考えていました。ところが、そうはなっていません。予防接種を受けていない子どもが、世界にたくさんいるからです。紛争や治安の悪化、インフラの不足・輸送上の問題、ワクチン不足等で、子どもたちに対する予防接種の実施が困難になっている地域があります。2018年に世界で推定1900万人以上の子どもが、2歳までに初回の麻疹のワクチンを受けることができなかったとユニセフは報告しています。

今なお世界各地で麻疹が大流行しています。ワクチン接種率が高い国や、過去に「はしか撲滅宣言」をした国でも発生しています。2019年には世界で20万人以上が亡くなったと報道されています。麻疹で亡くなる人は2016年には過去最少の約9万人まで減っていました。ところが、2018年には患者数が1000万人に急増し、死亡者数は14万人になっていました。そのうちの大部分を5歳未満の子どもが占めていました。
現在でも、栄養状態の悪い人々が多く、また適切な医療を受けることができない発展途上国では、麻疹患者の3〜6%が死亡します。移住を余儀なくされた人々の死亡率は30%まで上がります。コンゴでは2019年に25万人以上が麻疹に感染しました。これは2018年の麻疹患者数の3倍以上です。エボラ出血熱の患者数と死亡者数よりも多くなっています。報告された5000人の死者のほとんどが5歳未満の子どもでした。流行はその後も続いています。それに加え、今年この国では新型コロナウイルスに対する感染予防措置により、多くの子どもが麻疹の予防接種を遅らせざるを得なくなりました。さらなる感染拡大が懸念されています。

新型コロナウイルスの流行により、先進国でも予防接種率の低下が報告されています。米国では、国家非常事態宣言のあと、麻疹を含むワクチンの接種が著しく減少しました。そして、日本でも予防接種率が下がっていることが指摘されています。麻疹、それ以外の感染症も、いつ突発的に大流行が起きても不思議でない状況です。



 新型コロナウイルス禍の陰で(その2 暖冬、雪不足)

令和2年6月 

今年になって、中国発の新型コロナウイルス感染症が世界に広がりました。上半期はこのニュース一色となりました。その結果、いくつかの重要な事柄が表にあまり出ませんでした。暖冬雪不足もその中の一つです。
今年の冬は歴史的暖冬でした。気象の分野では12月から2月までの3か月間を冬としています。気象庁によると、この冬の平均気温は全国で平年を大幅に上回り、西日本・東日本では1946年からの観測史上最も高くなりました。また、降雪量の平年比は北日本、東日本、西日本でそれぞれ44%、13%、6%といずれも統計史上(1961年から)最も少なくなりました。
これによって生じたのが深刻な雪不足でした。スキー場が早々に営業を取りやめました。ワカサギの穴釣りの名所として人気のある湖に十分な氷が張らず、氷上での穴釣りができませんでした。東北地方に暮らすお年寄りが「生まれてこの方、市内に雪がない冬は初めて」と話していました。
外国でも同様の現象がみられました。ウインタースポーツの観光収入に依存するヨーロッパのアルプス山脈のリゾート地では、深刻な雪不足が影響し、観光産業に多額の損害が出ました。雪の貯蔵や夏季観光へのシフトなど様々な生き残り策を模索しています。そこよりさらに北にある北欧のスキー場でも雪が足りず、人口の雪で営業していました。モスクワでは例年1月には川が氷や雪で覆われますが、今年は氷が張らず、街の雪もかなり少なくなっていました。

これを書いている今、日本は梅雨で水不足を心配する状況ではなさそうですが、実は春までは、異例の雪不足の結果起こる雪解け水不足が大きな問題になっていました。気象庁も、春先の雪解け水が少なくなり、各地で水不足の懸念があると注意を促していました。
雪解け水不足で、今年の水田農業に影響が出る恐れも出ていました。何か月か前、夜遅くにテレビを点けると、農業用水不足を心配している農家の様子がうつっていました。その地区ではもともと雪が少なかったうえに、早い時期から雪解けが始まりました。雪解け水が用水路を速いスピードで下流に流れていく様子を、農家の方が呆然と見ていました。長野県のある農家の人は、過去92年間で最も積雪が少なかったと語っていました。田んぼに水が引けず、田んぼの土が乾いてしまいました。「この雪不足は災害級」と悲鳴を上げるコメ農家の方々がいました。
暖冬・雪不足の影響は生態系にも影響を及ぼします。暖冬によって虫が出てくるのが早まるため、苗の時期に虫害が起きます。雪の下で越冬させる醸造用のブドウや干し草が枯れたり、野ウサギによる食害に会っています。標高が高いところにも雪がないため、山の広い範囲にわたって鹿が木の若芽を食べてしまう被害も発生しました。熊が冬眠しなかったり早く目覚めたりして、餌を求めて人の生活圏内に現れる危険性も高まります。

日本の川はヨーロッパの川などとは異なり、勾配が強く流れが速いのが特徴です。国土も広くないので、短い期間で海に流れ出てしまいます。日本の降水は梅雨期、台風期、降雪期に集中しおり、それ以外の時期の降水量は多くありません。1964年には「東京オリンピック渇水」がありました。この年の8月は都市部で1日のおよそ半分に当たる45%の給水制限がありました。可能性の話ですが、もし今年東京オリンピックが開催されていたら、給水制限が起きたかもしれません。世界中からの多くの来客が訪れれば、当然多くの水が必要になります。選手やスタッフらの暑さ対策にも水が必要です。

コロナ禍の陰で実は深刻だった「雪不足」。 多すぎても少なすぎても困るのが水です。地域によっては「コロナだけじゃない」というより「コロナどころじゃない」かもしれません。一人一人の危機は住む地域、職業によって大きく異なります。



 新型コロナウイルス禍の陰で(その1 バッタ被害)

令和2年5月 

ここに2枚の写真があります。空を覆うほどのバッタ大群が飛んでいます。そして、そのバッタの大群があたりの植物を根こそぎ食べつくしながら、進んでいます。まるでホラー映画の1シーンのような情景です。
東アフリカ(エチオピア、ソマリア、ケニアなど)、中東(サウジアラビア、イエメン、イランなど)、南西アジア(パキスタン、インドなど)でバッタが大量発生し、農作物を食い荒らす深刻な被害が出ています。新型コロナウイルスの世界的流行が起こった今年前半、これらの国々ではウイルスよりもっと厄介な「蝗害(こうがい)」が猛威を振るっていました。
バッタによる被害報道を見るようになったのは、去年の終わり頃からでした。しかし、危機はもっと前から広がっていました。バッタの大発生は、2018年の2度のサイクロンによる大雨が、アラビア半島南部を襲ったときに始まったと言われています。雨でバッタのエサとなる草が増えて、バッタが大量発生しました。一つの群れのバッタの数は数億匹から数十億匹と言われ、1日に100キロ以上移動します。バッタの大群が移動した後は農作物だけでなく、家畜のエサなども根こそぎ食べられてしまいます。
アフリカのケニアでは、もともと天候不順で農業が振るわず、加えて「過去70年で最悪」と言われるバッタの大量発生が住民を苦しめています。ソマリアでは食糧供給が壊滅状態にあるとして、政府が国家非常事態を宣言しました。農業がGDPの3〜4割を占めるエチオピアでも、20万ヘクタールの農地が食い荒らされました。政府は食料の確保や避難民への対応、バッタ駆除などに追われ、財政的負担が大きくなっています。(この部分は2020年4月24日の読売新聞の記事を参考にしています)
中東のイランにはサウジアラビアやアラブ首長国連邦、オマーンからペルシャ湾を越えて、バッタの大群が飛来しています。政府が殺虫剤を使って駆除に乗り出したところ、広範囲に死骸の山ができました。南西アジアのパキスタンでは、過去30年で最悪の作物被害が出ました。政府はすでに2月に、農家と農作物の保護に向け非常事態宣言を出しました。食糧となる小麦などのほか、主要輸出作物の綿花が被害を受けています。インドでは、空前のバッタの大群が旅客機の運航の脅威となっています。農作物にはすでに甚大な被害が出ています。この国では新型コロナウイルス対策のため全土で1か月にわたり封鎖措置がとられ、農家はさらに苦しくなりました。

国連の食糧農業機関(FAO)は、今年1月に「バッタの大群は6月には500倍に増える」と予測していました。4月上旬には「今回のバッタの大発生は、食糧安全保障や生活への予期せぬ脅威に相当する」と報告しています。
特に被害が深刻なのは「アフリカの角」と呼ばれるアフリカ大陸の東端の国々です。天候不順による不作で、すでに食糧不足に苦しんでいる人々が多かった所です。食欲旺盛なバッタが好む穀物は、アフリカ大陸の農民の主要な生活の糧です。新型コロナウイルスの恐怖どころではないのかもしれません。バッタの繁殖・移動力が高いのに対し、これらの国々では、資金や人材の不足などにより駆除が追いつかないのが実情です。

農家の作付けが始まりましたが、バッタの大群は勢いを増しています。しかし、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によって、専門家の派遣や資材の輸送が難しくなっています。このことがバッタの災厄にさらに追い打ちをかけています。
多くの国で食糧危機を招き、経済に打撃を与えていますが、各国政府や国際機関による駆除や予防策は追いついておらず、終息の見通しは立っていません。バッタ襲来の被害をいかに食い止めるか。コロナ感染拡大阻止以上に難しい問題かもしれません。



 自己責任

令和元年6月 

寒い2月の休日に、都心のホテルの日本庭園の中にある料亭(写真A、B)に、家族で食事に行きました。何年かぶりでした。ロビーから下に降りて、池を横切り、敷石を踏んで少し登った所にあります。席についてしばらくすると、初老の料理人が前に来ました。その方に「今日は寒いけど雪がないですね。雪が降ると、ここへはちょっと来にくいと思うのですが、雪の日でも営業はされるのですか」と聞きました。彼は穏やかな表情で「今の日本では、自己責任というものの範囲がとても狭うございまして」。プロの料理人ですので、それ以上のことは語りませんでしたが、推して知るべしの重い言葉でした。
写真C、Dは、ハワイ・ワイキキの有名ホテルのプールと、その近くに置いてあった掲示板です。『警告 ライフガードはおりません。水泳は自己責任です』と、日本語で書かれていました。

ここに述べた2つの例。想像すれば、雪で滑って客が転倒しケガでもすれば、中には「手すりをつけてないからだ」とか「もっと安全な道にしておけ」、「なんで石を滑りにくいものに変えないんだ」というような人間がいると思います。今の日本なら。プールで事故が起こっても「ライフガードがいれば、助かったはず」という者がいるでしょう。

昔は「人のせいにするな。お前が悪いんだろ」と、親が子を叱った。一方で、「うちのバカ息子がご迷惑をおかけして」と、謝りに行った。今頃はこういうことは少ない。自分は悪くない。自分の子は悪くない。悪い事は他人のせい。日本のマスコミのように、何でも自分らが正しいと思って、人を非難する癖がついてしまっている。こういう輩が最もタチが悪い。何か事が起きると、学校のせい、保育所のせい、警察のせい、役所のせい、病院のせい、政治のせい。国会でも、ろくに対案も出さず、責任追及だけしている。人を批判することを仕事にしている連中は、自らには甘い。本当に教育上よろしくない。
最後に、自分のこと。この年になれば、いろいろ病気が出てきますが、大部分は自己責任のような気がしております。

 
A. 日本庭園の中にある料亭   B. 鉄板焼き


 
C. ハワイ・ワイキキにある有名なホテルのプール   D. プールの近くにある掲示板




 住まいは夏向きに  

平成30年11月 

「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住居は耐へ難きことなり。」
こう書いたのは兼好法師(吉田兼好)です。我が国の代表的古典文学(随筆)の一つ『徒然草』の第五十五段の冒頭に出てきます。徒然草は鎌倉時代末期の成立とされていますので、今から約700年前に書かれたものです。現代の言葉にしますと、「家づくりは夏を中心に考えるのがよい。冬は住もうと思えばどんな場所にでも住める。暑い頃、住み心地の悪い住居は耐え難いものだ。」
この文章を初めて読んだのがいつだったか、はっきりとは覚えていません。ずいぶん昔、高校生の頃だったと思います。当時とても不思議に感じました。早い話、逆ではないかと。兼好が住んでいた京都は盆地なので、当時から夏は暑かったことはわかるのですが、冬の寒さもかなり厳しかったはずです。

人と住まいの関係では、冬の寒さから身をまもることの方が大事であり、その手段・方法の開発こそが文明の進歩ではないかと思っていました。日本の半分は寒冷地で、雪もかなり降ります。昔は、人生は寒さとの戦いだったでしょう。何百年も前までさかのぼらなくても、昭和30、40年代頃の家は寒かった。この愛媛でもそうでした。われわれが子どもの頃は、家にはホームごたつと小さい石油ストーブくらいしかありませんでした。風呂から出たら湯冷めをするので、あまりに寒いときは布団の中で宿題をしました。祖父母の家に行くと、もっと寒かった。家の中でも息が白くなっていました。
近年の日本の家づくりは、兼好法師が書いたこととは全く逆です。寒い冬をいかに暖かく快適に過ごすかが大切で、冬でも薄着で暮らせるような家が理想となっています。さらに、カゼをひかず健康でいるためという名分も加えられて、近年は「冬をむねとすべし」が家の主流となっています。自分自身、冬の暖かい家は幸せの象徴のように長年思っていました。

当院は、今年の7月の豪雨災害で3日間エアコンが使えませんでした。室内は蒸し風呂のように暑くなりました。網戸のある窓を開けても、気温、湿度は変わりませんでした。水も出なくなっていましたので、シャワーで汗を流すこともできませんでした。とても不快な期間でした。「これではやっていけない」と思いました。
兼好の時代には、クーラーなどというものは想像すらできなかったでしょう。夏、暑い京都。家の建築を夏に合わせよ、暑さ対策をせよと述べたのは当然だったのかもしれません。

この水害の時に思い出しました。子どもの頃の家は、裏の戸や窓を少し開けると、すーと涼しい風が入ってきました。うちわと扇風機、打ち水などでだいたい夏の生活ができていました。爺さん婆さんの家はもっと涼しかった。窓や戸は開けっ放しで、裏の田んぼのまだ青い稲の上を流れてくる涼やかな風がありました。古びた家に見えましたが、とても長持ちしていました。

現代の建物は気密性と断熱性をどんどんアップし、住宅は温かい空間になりました。しかし、湿気の害を招くことになり、冬暖かくは「夏も暑く」になってしまいました。カビやダニの大量発生は、子どもの喘息などアレルギー疾患の増加をもたらしているように思います。各部屋にクーラーの設備が必要で、その費用や毎月の電気代は莫大な金額になっています。また、結露により短期間で建物が傷んできます。
殺人的暑さ」と呼ばれる近年の日本の夏の猛暑。がんがん力任せにエアコンを回すことだけで対応するのではなく、家の建て方やまわりの環境整備も考慮していくべきと思います。家造りは『夏をむねとすべし』は、今重要な課題だと考えます。



 2つの時代

平成30年6月 

私たちが子どもの頃、『巨人・大鵬・卵焼き』という言葉(流行語)がありました。大衆とくに子どもに人気のあるものの代名詞として用いられました。元号でいうと昭和30年台の終わりから40年代半ば頃です。その頃の日本は高度経済成長期にありました。子どもはいつの時代でも、強い人、おいしい物が好きです。
当時、巨人軍(読売ジャイアンツ)は日本シリーズ9連覇(V9)を成し遂げ、史上最強のチームでした。野手・バッターでは長島、王、柴田、高田、黒江、土井、森など、投手では堀内、金田、城之内などなど、今でも名前がすらすら出てきます。
横綱大鵬。この人は本当に強かった。子どもの頃、年寄りがいる友達の家に行くと、必ずテレビの相撲中継がついていました。子どもらも時々相撲を見ていました。この横綱はいつも勝ってた気がします。体(からだ)のきれいなお相撲さんでした。私が知る限りでは、大鵬こそ「横綱の中の横綱」だったと思います。多くは言いませんが、白鵬なんかとはモノが違います。品格、相撲の取り口においても明らかに差があります。八幡浜出身のスポーツジャーナリストの二宮清純さんは、相撲道にこれだけ忠実だった人を私は他に知らない、と語っています。
巨人軍、大鵬には王者としての風格がありました。これはアンチ巨人、柏戸ファンだった方も認めると思います。
最後に卵焼き。確かに好きでした。これだけでご飯が食べれました。その頃、おつかいに行って卵を買うと、1個15円くらいだった記憶があります。当時の物価としてはわりと高かった。銭湯がたぶん30円くらいでした。こういう話はどんどん長くなるので、このあたりでやめます。

その「巨人・大鵬・卵焼き」を、現代に置きかえるとどうなるか、私なりに考えてみました。それに相当する言葉は『武豊、羽生善治、にぎり寿司』になるのではないかと(勝手に)思いました。ただ、子どもは競馬、将棋はあまり見ません。「巨人・大鵬・卵焼き」時代の子どもが、おじさんになってから好きになったものと言ったほうが正確かもしれません。
まずは競馬の武豊(たけゆたか)騎手。長きに渡って競馬界を盛り上げてきた人です。去年の年末の有馬記念、キタサンブラックでの勝利が記憶に新しいと思います。 スタートから一度も先頭を譲ることなく、ゴールを駆け抜けました。「横綱相撲」と言う表現がふさわしいキタサンブラックの完勝でした。キタサンブラックはG1レース7勝という好成績で、競走馬としての「役割」を終えました。感動的でした。翌日の新聞各紙には「キタサン 有終V」というような見出しが出ました。実質的なオーナーの歌手の北島三郎さんが感極まった表情でインタビューに答えていました。武騎手は、名馬オグリキャップ、ディープインパクトをも引退レースの有馬記念で勝利に導いています。
昨年12月、将棋界のスーパースター羽生善治氏が「永世七冠」を達成しました。今年2月には国民栄誉賞を受賞しました。このことは本ホームページの『歳時記』でも触れました。羽生さんは現在47歳ですが、30年近くにわたりトップ棋士として活躍し続けてきました。おごることなく将棋道を追求した結果だと思います。その姿には敬服します。
最期ににぎり寿司。昔からずっと好きでした。憧れていました。今では、寿司屋に入ってお金のことをそう気にせず食べられるようになりました。でも、近頃の「くるくる寿司」、スーパーのにぎり寿司はけっこうおいしいです。

上記は2つの時代の明るい側面です。しかし、「巨人・大鵬・卵焼き」の時代の後、1970年代(昭和40年代半ば)に入ると、各地で起こった公害が社会問題化しました。金とドルの交換を停止した「ニクソンショック」、石油危機「オイルショック」、狂乱物価など様々な問題に見舞われました。さらにその後も、日本は「狂乱のバブル期」、「失われた20年」と時代は流れていきました。
「武豊、羽生善治、にぎり寿司」の今の時代は、素人集団のような能力のない前の政権が倒れ、経済も復活してきたように見えます。ただ、さまざまなスキャンダル報道で現政権は揺れています。それでも、世界を見渡すと、今の日本はまだうまく行っている方でしょう。しかし、あの時代と同じように、このあといろいろな苦難が待ち構えているような気がします。その原因となる最も大きい問題は少子高齢化人口減少労働力不足だと思います。すでに地方の疲弊は極まっています。人生にも社会にも波があります。いい時は長く続かないです。常にその心構えが必要と思う今日この頃です。



母親の看病

平成30年6月 

医学、医療の進歩はめざましいものがあります。小児科の分野でもそうです。私がこの道に入った頃と比べても、随分差があります。その当時は、CTスキャンが開発され、基幹病院での設置が徐々に広がっている頃でした。断層エコーも今ほどは使われていませんでした。小児白血病など重い病気の生存率が上がって行く頃でした。
それよりさらに数十年さかのぼると、今利用されている診断技術、治療薬のほとんどがまだ開発されていませんでした。今の時代から見れば、いわゆる「よく効く薬」「確実に治る治療法」はあまりなかったのではないかと思います。当時の人は病気を自力で治した、あるいは、まわりの人の献身的な看病で病気が治った。そういう例が多かったのではないかと推察します。

今も昔も、病気の子が元気になるには、お母さんの看病と笑顔が一番です。病気本体の治療は医療が担うとしても、病児の食欲、機嫌、全身状態の改善には母親の看病が欠かせないものだと思います。子どもに薬をきちんと飲ませることも看病のひとつです。
保育所や託児所に入り、集団生活を始めてしばらくの間は、小さい子どもは体調を崩すことが多く、母親は不安になりがちです。一方で、仕事に就いておられるお母さん方は、職場や社会で責任を負っているいるので、そう簡単には休めません。子どものことが心配な一方で、仕事のことも気にかかります。働き方改革の一環として、子どもが病気になったとき、その母親が仕事を休みやすい職場環境にぜひしてほしいものです。
母親の過剰な不安は子どもにも悪影響を与えます。ゆったりした気持ちで、元気になるよう看病して上げて下さい。母親の笑顔があれば、子どもも安心でき、心身の回復につながります。いつの時代でも、母親の看病というものはありがたいものです。なくしてはならないものだと思います。



休日当番医 あれこれ

平成30年4月 

公立学校共済 11人、地方公務員共済(県、市町村) 10人、警察共済 2人、国家公務員共済 1人、社会保険(全国健康保険協会) 65人、国民健康保険 10人、組合(各企業の健康保険組合) 5人、保険証忘れ 1人。2月の小児休日当番医に当院を受診した患者さん、105名の保険証の種類です。その日に来た患児の保護者の方のご職業とも言えるかと思います。

今年の冬を象徴するものは「」でした。皆さんもそうでしょうが、我々もうんざりしていました。しかし一度だけ、朝の積もった雪を見て「今日は少ないかな」と少し喜んだ日がありました。今年最後の積雪となった2月12日(振替休日)の朝のことです。雪が積もったのは4度目でした。その日は、喜多・八幡浜・西予地区小児休日当番医が当たっていました。雪が降る日は、皆さん、受診を控えます。今年積雪があった前の3回とも、医院はガラガラでした。それはそれで困ることがあるのですが、冬季の小児科の休日当番は地獄です。冗談ではなく、命を縮めます。
朝、診療開始前に職員に「今日は患者さんはあまり来ないと思うけど、車が3台くらいは止めれるように雪かきをしておこう」と話しました。彼女らは、その前の週の雪かきで疲れていました。2月6日、7日はこの冬一番の積雪でした。職員の中には、腰を痛めたり、腕に痛みを訴える人がいました。「今日は来れんやろね」と話しながら、医院の入り口に近い部分だけ、雪を除きました。

ところが、結果から言いますが、その日は105名もの患者さんが来られました。しかも、インフルエンザだらけというか、その検査だらけ。待合室も駐車場もいっぱい。遠い所から来られている人もおられるので、なるべく早く診るようスタッフが一丸となって頑張りましたが、大混雑でした。診療が終わった後は放心状態でした。

県や市の職員の方々が小児科医の負担を減らそうと、いろいろと考えてくれているようですが、上の数字を見れば、何をか言わんやです。4,5人に一人が地方公務員と呼ばれる方々です。警察、消防関係はいつも少ないです。休日や夜も働く人たちで、苦労がわかっているのだと思います。




歯科医院に学ぶ

平成30年3月 

私が言うのは少し変かもしれませんが、今や、いろいろなお医者さんにお世話になっています。ありがたいことと思っています。ほんの5年くらい前までは、自分の病気で病院に行くことなどほとんどありませんでした。しかし、その元気な頃でも、歯科医院にはちょくちょく行っていました。勤務先の愛媛大学附属病院がある重信町に住んでいた25年余り、大洲に来てからの約14年。歯科医院に行った回数の方が間違いなく多いと思います。

近頃の歯科医院はとてもきれいです。いつ行っても胡蝶蘭などの花を飾ってある所、診察台の前にビデオを置いて世界の美しい風景を映している所、診察室内に懐かしい良いメロディーが流れている所などなど。診察台や待合室の椅子もりっぱです。そして、清潔感があります。高そうな医療機器も備えています。昔の歯医者さんとはずいぶん違っています。何より、歯科医の説明が丁寧です。画像や図で歯の病変部分を示しながら、病気の程度や治療法について説明してくれます。
われわれが子どもの頃は、歯の治療は痛かった。歯を削る時のキーンというあの音が大嫌いでした。ここ10から20年くらいの間に、歯科医院の中も歯科治療そのものも変わってきたように思います。どんどん進化していきました。
歯科医師は比較的若いときに開業します。このため、開業したあとも、新しい知識、技術を身につけていかなければなりません。講習会などに参加し、よく勉強をしていることと思います。診断や治療に使う新しい機器も積極的に購入しています。
歯科医院にはいい意味で競争原理が働いているようにみえます。「歯医者さんはコンビニの数より多い」と言われます。おそらく、これはほとんど診療をしていない高齢の歯科医を含めてのことで、バリバリ仕事をしている実際の歯科医院の数とは異なっているはずです。ただ確かに多いです。数が多いだけに、知識、技術、経験だけでなく親切さや丁寧さなどが大事になってくるのでしょう。
この1-2年の間も歯科医院で治療をしてもらいました。的確で丁寧な説明を受けました。いつも「見習わんといかん」と思いながら帰るしだいです。



次世代へのツケ

平成29年11月 

今回の話の中にはいろいろな数字が出てきますが、話の内容は簡単です。「上の世代のツケを払わないといけない今の若者、子どもたちの方が大変なのでは」です。
平成27年(2015年)の国勢調査では、65歳以上の高齢者人口の総人口に占める割合(高齢化率)は26.7%でした。その時点ですでに、国民の4人に1人が65歳以上でした。その後も高齢化は進んでいますので、現在高齢化率は28%になっているようです。8年後の2025年には65歳以上の高齢者人口は3500万人を越えています。もっと「怖い」のは75歳以上2000万人以上になり、人口の5人に1人75歳以上になっています。一方で、出生数は今では年間100万人を切っています。一体、どんな社会になるのか。想像したくないです。

この9月、10月は新聞や雑誌(世に多いバカな週刊誌ではないです)で社会保障関係の統計記事をよく目にしました。まずは、厚生労働省は、2015年度に保険診療にかかった医療費の総額いわゆる国民医療費が42兆3644億円だったと発表しました。1人当たりでは33万3300円になります。どちらの数字も9年連続で過去最高を更新しました。年齢別では、65歳以上が25兆1276億円と全体の6割近くを占めています。
次に介護給付費。2015年度の介護給付費は9兆円を初めて突破しました。利用者の自己負担(原則1割)を除く、公費と介護保険料でまかなわれた介護サービス費を、65歳以上の全ての高齢者で平均すると、1人当たり25万3000円だそうです。介護を必要としない元気なお年寄りも大勢おられるので、利用している人の費用は年間相当の額になっていると想像できます。
公的年金。2017年度は55兆円が公的年金として、国からお年寄りなどに支払われる見通しです。55兆円のうち約7割は働く世代の人が治める保険料で、約2割は国の税金から、残り約1割は年金のために積み立てているお金が充てられています。公的年金には、老齢年金以外にも障害年金、遺族年金があります。保険料を治めていないと、原則受け取れない決まりになってはいますが・・。
社会保障の国民負担率について。日本の国民負担率は42.2%で、ヨーロッパ諸国と比べるとかなり低いです。日本の高齢化率が高いことは先に述べた通りですが、世界に目を向けてみると、主要先進国でも高齢化率は20%を切っているところが多いです。ちなみに、フランスは、高齢化率が19.1%とそう高くないのに、国民負担率は68.2%と高い。一般に、高福祉の国は高負担の国であります。米国はあのお国柄(自己責任、自助努力)なので、国民負担率は32.7%と低いです。しかし、高齢化率は14.8%で日本の半分の数値です。日本は高齢者の割合が高く、医療や介護などの社会保障にかかるお金がどんどん増えている割に、負担は低いという見方ができます。

現在、社会保障の給付総額118兆円のうち、保険料では約6割しかまかなえていません。残りの4割は国と地方自治体による公費ですが、税収は十分ではないです。これが財政赤字を拡大させています。人口減少と少子高齢化は、国や自治体の財政や経済社会に大きな打撃を与えていきます。
平成28年度の一般会計予算は96.7兆円ですが、歳出をみてみると、国債費と地方交付税交付金と社会保障関係費で、歳出全体の7割超を占めています。一方、歳入のうち税収は58兆円であり、一般会計予算の歳入のうち、税収でまかなわれているのは6割弱です。残り4割弱は将来世代の負担となる借金に依存しています。一方で、子ども、労働人口はどんどん減っています。

先月、衆議院選挙がありました。いつの選挙でも、介護や医療などの充実を公約に掲げる政党があります。しかし、言葉は悪いですが、猫が糞を隠すように、増え続ける社会保障費に必要な負担の話はしません。財源論なしに、実現不可能は話ばかり出してくる。「増税反対」、反対反対何でも反対、国会議員の数を減らして給料を下げるとか、庶民の胸がすっとするような話ばかりして、票を稼ごうとする政党が多い。今の状況で税負担の増大は避けられないと思わないのなら、国会議員ではなく、詐欺師かペテン師、あるいはかなり無責任な政治家だと思います。
「負担は嫌だけど、福祉や年金は手厚くしてほしい」というような理屈が通らないことは、大方の国民は理解しています。打ち出の小づちはないです。痛みの話を避けて通ってきて、そのツケが借金というかたちで、次の世代に回っています。マスコミは例外を強調して報道しますが、今のお年寄りはけっこういい目をしていると思います。仕事柄、20代30代の若いご夫婦、子どもさんと会って話す機会が多いので、余計に、この人らの将来が気になるしだいです。



お婆ちゃん、お爺ちゃんの協力、援助

平成29年2月 

職業柄、子どもをもつ若いお母さんと話をする機会が多いです。お父さん方とも話をすることがあります。話す時間は長くはありませんが、その人らの苦労がひしひしと伝わってくることがあります。「今の若い者は・・」なんて言葉がありますが、今は、お年寄りの方が楽な生活をしているかもしれません。子育て世代の若いご夫婦、とくにお母様方は、家計の面、子育て等で苦労をしています。
近頃は、子どもを保育所等に預けて働いている女性が多いです。当院を受診する子のお母さん方で、専業主婦の人の割合は2割以下だと思います。理由として、まずは、社会が女性の労働力を必要としている現状があります。この南予のような少子高齢化が進み、労働力が不足している所ではとくにそうです。もう一つは、子育て世代の経済的理由、すなわち生活・家計が苦しいという事実があります。20代、30代の世代の人たちにとって、現在の地方においては、いわゆる「いい職、いい職場」があまりないです。常勤として採用してくれる会社・企業は少なく、昔のような終身雇用制ではなくなっています。ぼーとしていても年々給料が上がり、位も徐々に上がっていく。極端な例ですが、朝出かけて行ってお茶を飲んでいたら仕事したことになるというような職業はないです(少しはあるようです)。われわれの世代の人間なら、子どもの頃、父親が国鉄、電電公社、郵便局、農協、役場に勤めている家の子が、クラスに必ず何人かはいました。従業員が何百人もいる工場に勤めているおうちの子もいました。しかし、これらの職種は民営化・合理化、さらには平成に入ってからの不況等で、職員・社員の数が減り、新規採用の人数も少なくなってしまいました。倒産も多く、会社自体が減ってしまいました。経済的に苦しい理由には、夫婦両方が倹約をしないということもあるかもしれません。昔の人のように、身の丈に合った生活ができない人らがいます。

母親が子どもを預けて働き始めると、家族の生活は一変します。最も大きな影響は子どもに及びます。子どもが保育所に入ると、はじめの1年くらいは、病気によくかかります。寒い時期はとくに病気が多く、ずっと病気にかかっているような状況になります。近頃は、0歳、1歳頃から保育所に入る子が多いので、園内ではやっている病気が児にすぐうつってしまいます。わが子が小さいうちから女性が仕事に出るのは、ご本人の意思とは限りません。先にも述べた通り、地方だと労働力・人材不足で、女性に早く働いてもらわないと、職場が立ち行かない所がたくさんあります。
子どもを保育所に入れると、身近に協力者がいないと、母親も子どももやっていけません。とりわけお婆ちゃんの協力が必要になります。お婆ちゃんもお仕事をしていて、忙しい人もおられるのですが、極力助けてあげてほしいと思います。あくまで一般的な話で、例外はいくらでもあることは承知していますが、ズバリ申し上げて、今のお年寄りはお金を持っています。そして、お金を使いません。お金に困っているのは子育てをしている若い夫婦の方です。子育てに口は出しても、援助、協力をしないのはよくないです。そういう話をよく耳にします。年をとるまで苦労して稼いで貯めたお金でしょうが、孫のため、働きながら育児をしている娘、嫁(母親)のため、息子(父親)のため、ときには援助をしてあげてほしいものです。
お婆ちゃんらの、やれ、「私も忙しい」「腰が痛いし、しんどい」「病気の子を看よるとこっちが病気になる」この手の話もよく聞きます。しかし、日々の診療をしていると、祖父母がもう少し孫を看てあげればいいのにと、思うことがしばしばあります。病気の孫、その子の母親と一緒にやってきて、婆ちゃんが目を三角にして「治らんのじゃけど」とこっちを睨んでも、孫の病気は良くならないです。病気の子を保育所に行かせ続けているから治らないのであって、「あなたが家で看てやらんからよ」と言いたくなる時があります。事実として、できないことであれば、それは仕方のないことですが。

今や、日本の子どもは、「小さいうちから、こんなにたびたび病気になっても大丈夫なんだろうか
」と小児科医が思うくらいよく病気になっています。母親に協力者がいなくて孤立すると、虐待につながりはしないかと心配します。行政もいくらかは対策をとっているのかもしれませんが、何だかなあ、という感じです。
若いお母さんらの困った状況を見たり聞いたりするにつれ、こういうことを、時おり考える次第です。最後に、いろいろ申しましたが、この南予には、良いお爺ちゃん、お婆ちゃんがまだ大勢残っている方だと、私は思っています。



 吐く

平成28年12月 

子どもはよく吐きます。「嘔吐」という言葉のイメージは、感染性胃腸炎(皆さんが言うところの“おうとげり”)にかかった子どもが繰り返し吐く姿だと思いますが、その病気以外でも、とにかくよく吐きます。とくに小さい子はそうです。
多いのは、咳をしたときです。夜中に咳込んで何度も吐くことがあります。翌朝、病院に行って「吐いた、吐いた」とあまりに強調するものだから、吐き気もないのにお爺さん先生に点滴をされる子がいます。子どもは鼻がつまっても吐きます。便秘でお腹が張っているときや、ゲップをしても口から物が出ます。大泣きしている最中にも出ます。 熱が上がりかけたときにも、嘔吐がみられます。車酔いでも吐きます。嫌な匂いでもよく吐きます。「トイレで吐いた」と言うから子どもに話を聞いてみると、「学校のトイレが臭くて気持ち悪くなった」とか「(自分の)ウンコが臭くてもどした」なんてこともあります。思春期の子になると、頭痛でも吐きます。

嘔吐は小児科を受診する主訴の中でわりと多いものです。 「子どもが吐いた」と病院を受診する一番の理由は、保護者の恐怖だと思います。子どもが吐く姿は、見た目に異常で、はたで見ていると怖いです。口は、本来は食べ物が入る所で、それが反対に、一度に大量にいろんな物があの臭いとともに出てくると、誰でもうろたえます。たとえは悪いのですが、尻から物がどんどん入っていったら、これも怖いでしょう。とにかく、ふだんと変わったことが起こると人間は恐怖を感じます。また、嘔吐は突然起こります。たいていは1回では終わらずに、何回か繰り返します。場所に関係なく起こるので、服やふとん、部屋を汚してしまいます。そのショックも大きいです。

咳込んで吐く場合のことですが、これは胃の内容物や気道の分泌物が咳とともに出ているのであって、吐き気を伴う嘔吐とは違います。吐き気止めなんか使っても、意味がないです。子どもは、痰を口の中で丸めて、洗面所に行って、チュッと上手に出すなんてことはできません。「咳で吐く」のは、嘔吐というより「口からものが出た」と言った方が正確な表現でしょう。咳込んで吐くと、胃の中の食べ物も一緒に出てしまいますが、痰が出るので呼吸が楽になります。咳込んで吐いたら、たいてい、寝てくれます。咳をしている、しかも痰が多いということが病気なのであって、吐いていることが病気ではないです。むしろ、かぜがこじれて重い気管支炎、肺炎になっていることを恐れないといけません。吐く病気にかかっているわけではないです。

お腹をこわして吐く場合ですが、体に入ったらいけない菌やウイルスが入って、外に放り出しているわけです。そういう意味では、嘔吐も下痢も有意義なことです。当然、程度の問題があります。自分も小さい時から何度となく嘔吐をする病気にかかりました。そのときはとても苦しくしんどかったです。しかし、いつも、何か知らん間に治っていたような気がします。いわゆる「放っておいても自然に治った」というものです。昔のことですから、我々の親の世代は「吐いた。それ病院へ。」とは動かなかったです。それを勧めるのではないのですが、それで済んできました。ある父親から医院に電話がかかってきて、「子どもが吐いた」と言うので話を聞いてみると、吐いたのは1回で今は元気にしていると言う。「1回だけでしたら経過をみられたらどうでしょうか」とお答えすると、その父親が「お前のところは1回だけじゃ診んちゅんか」。近頃、こういう物言いをする親が本当に多いです。南予はまだ少ない方です。

嘔吐は重症感染症の髄膜炎や腸重積などの病気の症状でもあります。インターネットをみると、だいたいこういうのを書いています。怖い病気を考えたらキリがないです。実際、日常の子どもの「吐く」に対して、保護者の過剰な反応が目につきます。この症状に重きを置きすぎるきらいがあります。ただし、嘔吐をしている全身状態の悪い子どもさんは、早く病院にかかった方がよいことは言うまでもありません。



 日本のサービス

 平成28年6月 

ニューヨークに行った時、現地の女性ガイドさんに大変お世話になりました。神奈川県出身のしっかりした30歳代の女性でした。ニューヨークに住んで8年になると話していました。到着日と出発日のドライバーを連れての空港、ホテルへの送迎、滞在2日目と4日目の市内観光では詳しく丁寧に案内をしてくれました。トータルで4日間、われわれ夫婦をよくサポートをしてくれました。彼女はニューヨークのことをよく勉強していました。学生時代スポーツをしていたそうで体格がよく、何より英語が上手なので、若いのに頼り甲斐のある人でした。日本に帰る前日に、「お礼に夕食でも」とお誘いしたところ、とても喜んでくれました。誘ったと言っても結局は、彼女が超有名レストランを予約してくれて、ホテルまで迎えに来て、レストランまでタクシーで連れて行ってくれました。食事をしながらいろいろな話をし、楽しい時間を過ごしました。
会話の中で、私が「来てみたらニューヨークは遠いです。日本から離れたこの街で仕事をするのは大変ではないですか」と聞くと、彼女は「そんなことはないですよ。あの、お客様の言う事は何でも聞く、聞いて当たり前という日本でのサービスはしんどいですから。その点、アメリカの方が楽ですよ。」と話しました。そのあと、しばらく、その話題で盛り上がりました。

日本人や日本企業のサービス精神、気配り、礼儀正しさ、もてなしは、広く世界で評価されています。しかし、それは一体どこまですべきなのか、どこまでしないといけないのか、一方で、サービスを受ける立場の人の要求はどこまで行くのか、止めどなくエスカレートするのではないか。不安になります。自分が客の側のときはいいけれど、自分が職業人として客を迎える側、あるいは客の要求を聞く側になった場合は、随分苦労するのではないか。事実、すでに苦労している人は多い。会社の方はいつもペコペコ、客の方はこっちが何でもハイと従うのが当然と思っている。
私達がニューヨークで宿泊したホテルは、セントラルパークのすぐ南で、隣にかの有名なカーネギーホールがあるSクラスのホテルでした。そういう高級ホテルでしたが、洗面所に歯ブラシや歯磨き粉、櫛などは用意されていませんでした。旅行するならそれくらい持ってきて当たり前、ということなのでしょう。当然かも知れません。洗面所、浴槽に置かれた石鹸は、子どもの時に見た洗濯石鹸のような質素なものでした。それで十分です。浴槽の底に滑り止めの ギザギザはありませんでした。浴槽の横に手すりもありませんでした。転けないように、自分で気をつけろ、ということでしょう。

日本の空港の出発ロビーでは、航空会社の女性職員がいつも“遅刻者”を探しまわっています。マイクで搭乗口にやってこない客を何度も呼び、何人かの職員が大きな声で遅れている乗客の名前に様を付けて、探しまわっています。見つけたら、搭乗口まで一緒に走って連れて行きます。いつ見ても嫌な景色ですが、そこらまわり至る所で見かけます。こういう輩は放っておいて、時間が来たらゲートを閉めて、淡々と飛び立ったらいいと思う。そうしないから出発が遅れるのです。外国の空港の出発ロビーでは、遅れている客の名前を連呼することなどまずありません。掲示板にfinal(ファイナル)と出たら、それが最後の知らせです。遅れたら、自己責任です。たとえ、やむをえぬ事情があったとしてもそうです。外国の駅では、ベルもブザーも何も鳴らさず、列車は時間が来たら静かに出発します。ダイヤはよく遅れますが、それは職員の能力と管理の問題です。決して、客を待っているわけではありません。

ニューヨーク滞在中、彼女には世話になりましたが、こちらも無茶を言う訳でなく、自分らですべきことは拙い英語を駆使しながら何とかやっていきました。ガイドさんにべったりくっついた旅行ではありませんでした。帰国する際、ジョン・F・ケネディー空港で、彼女が搭乗手続きを手伝ってくれ、セキュリティチェックの前まで来てくれました。「ぜひ、また、おいでください」彼女が短くハキハキした声で話しました。わりと厳しいセキュリティーチェックを通り抜けて、振り返ったら向こうで笑顔で手を振っていました。
この話の続きは、いつかまた。

 
自由の女神   ロックフェラーセンターの展望台「トップ 
オブ ザ ロック」から眺めたセントラルパーク




「松山の方の病院へ」 

 平成28年1月 

「松山の方の病院を紹介してほしい」年に何回か聞く言葉です。子どもさんの病気が重いため、小児科の入院施設のある病院への転院(転医)を勧めた際、あるいは、稀な病気であるため、その分野の専門医に診てもらうよう説明した時などに、保護者からの返答として聞く言葉です。その意図するところは、松山に行ったら良い医療が受けられる、ということのようです。大事な子どもさんのことですから、いろいろ考えるのは当然だと思います。
ただ、私が気になっているのは、これらの方が「人口の少ない地域の医療のレベルは低い。中核病院でも地方の病院は、都市部の大病院より劣っている。」と考えている節があることです。もちろん、マンパワー、設備面で差があることは事実ですが、そのことが直接的に、治療の成否の鍵になることはごくまれです。極めて重症のケースだけです。病気を治しているのは病院ではなく、担当の医師をはじめ医療スタッフです。医師の場合、勤務医の多くは2-3年ごとに、医局の人事で異動しています。南予にいるわれわれの仲間の小児科の勤務医は全員、以前は「松山の方の病院」にいた先生方です。そして、またいつか「松山の方の病院」に行って働く人らです。ちなみに、大学の医局が勤務医の人事を行うことに、あれこれ言う人がいますが、この制度がないと田舎に行く医者は激減してしまいます。南予のような所では、地域医療が成り立たなくなります。事実、新しい研修制度になってから、そうなってきました。
私が当地に来て間もないころ、会合で会ったベテランの先生がこう語ったことを覚えています。「○○○の人らが地元の病院を悪く言うは、一種の風土病のようなものです。」あれから何年も経ちましたが、確かにそうだ、と思うことがあります。実力のある小児科医のいる南予の病院に紹介状を書いたところ、一緒に付いて来ていたお婆ちゃんが「あそこの病院には行かない。私が気に入った病院でないと行かない。」と言い張ったことがありました。半年くらい前に、○○○から家に帰るため、タクシーに乗った時のことです。その運転手が、乗ってからずーっとそこの市の病院の悪口をしゃべり続けました。話の内容は、ヤの付く人らのイチャモンに近く、あまりにひどいので、聞いていると気分が悪くなりました。話を変えようと別の話を持ち出しても、そこに話を戻してしまう。「これじゃ、医者も辞めるし、医局も医者を引き揚げるわ。」と思いました。付け加えておきますが、もちろん、感じのいい運転手さんもたくさんいます。

私は東予の出身で、中予(東温市重信町)でこれまでの人生の半分くらいを過ごし、ここ10年あまり大洲に住んでいます。近頃、お世辞抜きで、南予は良い所と思うようになりました。今回のタイトルの言葉は、この地域の人のある種のコンプレックスの現れなのかもしれません。「県庁行き」という言葉を使う人がいます。よそ行き、一張羅のことみたいです。昔は松山、御城下の格が高かったのでしょう。でも、今は大した差はないですよ。八幡浜のみかんは最高です。梨は大洲のものがおいしいです。うちは、毎年、ぶどうの巨峰を内子の農家から買っています。ふぐは下関が有名ですが、長浜のふぐがそこへ行っているんだと、料亭の大将から聞きました。かつをといえば高知と思われがちですが、愛南町の水揚げ量が多いし、そこのかつをのたたきは新鮮でうまい。
田舎だと医療のレベルが低いと、卑下して誤解している方がいるかもしれません。そんなことはないですよ。松山、いや東予からでもこちらに来て、子どもさんの病気を診てもらったらいいと思う良い先生がいます。



貧困と肥満

平成27年7月 

今の世の中、貧しい→やせ、裕福→肥満という関係には必ずしもなっていないようです。アメリカの自動車工場などで働く労働者が、仕事が終わってタイムカードを押してあわただしく帰宅していく光景をテレビや映画で見ますが、男性も女性も多くが肥満です。一方、高層ビルの眺めの良い広い部屋にいる会社の重役はたいていスリムです。この国の場合、肥満は出世の妨げになります。肥満者は自分をコントロールできない人間とみなされるからです。自分自身を制御できない者、不健康な人間が、会社を健全に経営していけるだろうか、という考え方です。耳の痛い話です。高額の年収をとる管理職の多くは、仕事が終わってからジムに通って体を鍛えています。昼休みに運動をする人もいます。食事にも大変気を使っています。カロリーだけでなく、栄養のバランスも考えています。アメリカほど顕著でなくとも、ヨーロッパや日本などの先進国では、これに似た傾向がみられています。

中南米の国々には太った人が多い。国別にみると、国民一人当たりの国内総生産(GDP)が低い、貧しい国に肥満者が多いという調査結果が出ています。地域の太りやすい食習慣も原因の一つですが、それらの国の貧しい人たちは、炭水化物と油物など安い食べ物で空腹を満たしています。タンパク質の豊富な食事ではお金がかかってしまいます。また、貧困家庭ほど甘い炭酸飲料をよく飲むというデータもあります。貧しいが故に、食事の質のことまで気が回らない。貧しい家庭のお母さん方 は、栄養のことを考えて食事を作る余裕はないのだろうと思います。子どもらも食べ物を選べる状況ではないでしょう。手っ取り早く空腹感だけ満たそうとすると、どうしても甘いものを飲んだり、炭水化物主体の食事になってしまいます。

貧困のため十分な食事が摂れない人々が今なお世界中にいますが、昔に比べると随分減って来ました。むしろ、糖尿病などの生活習慣病の増加の方が問題になっています。子どもの栄養についても、小児肥満の方が話題として取り上げられる機会が多くなりました。
わが国でも、小児思春期の肥満に家庭の貧困が関係しているケースが一部にみられます。肥満に関しては、本人や保護者に栄養指導をすれば改善するというような簡単なものではなく、難しい問題をはらんでいることがあります。



紹介状 

 平成27年5月 

一つの病院から他の病院に患者さんを紹介する際、受け入れる側の病院にとっては、間違いなく紹介状があった方が便利だと思います。来院した患者さんから直接お話しを聞いても、主観が入りすぎていたり、検査結果、治療経過などの情報が不確かだったりして、実状がつかめないことがあります。一方、紹介する側としては、患者さんをお願いするのですから、礼儀としても書くべきでしょうし、その症例についての要点、お願いすることの趣旨を伝えておいた方が、患者さんにとっても送る側の医師にとってもメリットがあります。ただ、その方法、手段が、何か旧式で非能率的です。それと今の時代、医療の分野で、何でもかんでも、紹介状をはじめとする書類が要り過ぎるのではないかと感じています。また、大病院、基幹病院に行く軽症患者を減らす手段として、「紹介状が必要です」が用いられています。大枠では理解するのですが、紹介状を書く側の人間としては、もう少し簡便にできないのかなと思うことがあります。
私は長い間、大学病院にいたので、紹介状を受け取る側の人間でした。診断をつけたり治療をはじめたあとで、診療結果報告書や紹介状の返事を出すのが仕事でした。これらの書類は、あまり急ぐ必要はないので、時間がある時に書きました。それでも、きちっとした書類を書くというのはいつもたいへんでした。

正直なところ、紹介状を書かずに済むならそうしたいと思うことがあります。経過の短い、軽症の症例の紹介状でも、文章を書くとなると、それなりの時間がかかります。それが、経過の長い症例、あちらこちらの病院を転々として自分のところに来た症例、様々な合併症があったり、複数の病気が重なっている患者さんの紹介状となると、書くのに苦労し時間がかかります。夜、眠たくしんどいのを我慢しながら、診察室でひとりカルテや資料を見ながら、紹介状を書くのは辛いときがあります。
診療が終わってから書けばいい紹介状は、まだ気分的には楽です。小児科の場合、日常診療の大半は急性疾患です。患者さんを診てすぐに、紹介状を書かなければいけないケースが多いです。なかなか止まらないけいれんやひどい喘息発作などの時には、複雑な緊急の処置を必要とします。こんな時に悠長に手紙を書いている暇なんかないやろ、と心の中で叫んでいます。
また、子どもの病気は、初めは大したことがなくても、親が薬を飲ませてなかったりすると、病気がこじれて、どんどん悪くなることがあります。紹介状には、こういった背景を書くことは本来とても大切なのですが、文章が長くなると書き終えるのに時間がかかり、ひいては患児が紹介先の病院に行くのが遅くなります。急ぐ時は、症状や検査データだけしか紹介状には書けないことがあります。
乳児のRSウイルス感染症などでは、初診で来院した時点ですでに重症になっていることがあります。急を要する場合、その時点で、外来診療をとめて、親に入院治療が必要なことを説明します。その直後から受け入れてくれる病院を探し、そこの医師に状況を話します。すぐ「入院OK」が出る場合と、「しばらくしてこちらから連絡します」となる場合があります。そして、再度、親を呼んで、経緯を説明をします。同意が得られたら、そこから急ぎ紹介状を書き始めます。こういう状況では、われわれは物書きではないので、うまくまとまった文章なんか書けません。急ぐ場合、手が震えることがあります。この間、優に30分くらいかかることがあります。
紹介状を書き始めると、診療は完全にストップします。診察室の外では、待ち時間が長いと苦情が出てくることもあります。こんな最中に、診察室のドアをノックして、母親が「今主人と相談したんだけどー、あの病院より○○病院の方がいいんじゃないかって、言うんだけどー」と言ってきたり、紹介しようとしている病院から「ベッドの都合がつかないから無理」と連絡が入ることがあります。患児の状態が悪いときは救急車を要請しますが、ここも電話だけでは動いてくれません。決められた用紙に必要事項を書いてFAXを送らないといけません。1秒でも惜しいときに。こちらに患者を運び込む時は電話1本なのに・・。意識のない子や、息が止まりそうな呼吸状態の悪い子の横で、書類を書くのは怖いですよ。うちのようなクリニックではないことですが、極端な話として、心マッサージをしていても紹介状を書かないことには、患者を送れません。私が紹介状を書くケースの半分は、緊急入院のためものです。口頭で要点を伝えて、書類はあとで送るのではいけないのか、としばしば思います。
上にも述べましたが、今の時代、とにかく「文書」を要求されます。診断書、証明書、登園許可書、医療意見書、アレルギー除去食に関する連絡書、行政機関に出す書類などなど。書類はすぐには書けないです。この忙しい日々、文書、文書、と、医者に一体何枚書類を書かすのだろうか、と思います。 忙しい最中に、どんな職種の人が面倒な書類、手紙を書いてくれますか。通勤通学でごった返している改札口で、駅員に領収証、乗車証明書を書いてくれと言うようなものです。ある機関の人らは、何かにつけ、「カルテに明記のこと」 「詳細に記載すること」 「カルテに書かれてなければ算定できない」 「文書が必要」と言います。完全週休2日で、祝日休みの、年休いっぱい、昼休みはきっちり取って、1日の仕事が夕方5時までのおじさんらじゃないの、座ってゆっくり書類を書いている暇なんかないのよって。
様々な分野で技術が進歩し、コミュニケーションの手段も携帯電話、インターネットなど格段に進歩しているのに、医療機関での情報連絡は時代劇みたいなことをやっているように思います。もう少し融通をきかせて、簡便なシステムに変えていくべきでしょう。医師は主に診療と勉強をする。なるべく書類書きには時間を取られないようにしてもらいたいと考えます。



さっちに、この時期にやらんといかんの

平成27年2月 

冬来たりなば春遠からじ」と言えば美しいのですが、いつの時代も大学入試はそう甘いものではないです。極端に易しい所は別ですが(今頃、そういう大学も多いです)。そもそも競争に打ち勝つことが大変なのですが、入試の時期に問題があるのではないかと。大学入試センター試験の時期になると、いつも今回のタイトルのように思ってしまいます。われわれの世代にはこの試験はありませんでした。少し下の世代から「共通1次試験」という受験生の基礎学力を試すテストが始まり、これが11年間続き、1990年から現在の大学入試センター試験になりました。共通の試験問題で、全国の各会場で一斉に実施され、毎年、1月の10日〜25日の間で行われてきました。二十四節気の大寒の頃で、1年で最も寒い時期です。
医学部教官時代には、実際に、松山の愛媛大学城北キャンパスに試験監督に行きました。大学病院の医師は、研修医、非常勤の医員の時代を経て、常勤になると、文部(科学)教官という立場になります。入試のときの監督業務は大事な仕事の一つでした。20年余り、医学部、附属病院に在籍しましたので、センター試験の監督にはかなりの回数行きました。大学勤務の終わり頃は、受験生が多く入る広い教室の監督責任者を任されていました。
いつも寒かったです。雪がちらついていることもよくありました。暖かかった記憶はありません。試験会場には暖房をいれなかったので、監督をしながら「寒いだろうな」と、よそ様の子のことが気になりました。一方、窓際の席で試験を受けている子の中には、日光が当たってのぼせて鼻血を出す子がいました。解答用紙(マークシート)が鼻血で汚れて、交換することもありました。あと、腹痛を訴える子がいました。寒さと緊張、女子では月経痛と思われる腹痛で、真っ青な顔をして、われわれ教官に向って手を挙げる受験生がいました。腸炎のための下痢で、トイレに駆け込む子もいました。日暮れの早い時期で、1日目の試験が終わった時刻は、あたりは真っ暗です。その日の試験の出来が悪いと、寒さと暗さと次の日の試験(数学、理科)に対する自信のなさで、気分が落ち込んだことでしょう。
また、必ず、全国のどこかでは、雪で交通機関が乱れ、入試開始時間を遅らせる所が出ます。地域によっては、インフルエンザが大流行している時期でもあります。寒さにやられることなく、かぜにじゃまされることなく、受験生一人ひとりが持てる力を出し切れるといい、と思うのですが、このセンター試験には困難がつきものです。最も実力が出しにくい時期ではないかと思います。わが家でも、3人の子が5年から10年くらい前に、このセンター試験を受けました。天気予報で当日の天気が悪いと、伊予鉄、JRの電車は止まらないだろうかと心配したものです。昼食は、少しくらいは暖かい場所で食べれるのだろうか、などなど。
4月初めの入学式から逆算して行けば、3月に合格発表、下宿探し。とすれば、各大学独自の2次試験は2月中に行わなければいけない。そうなると、センター試験は1月となります。現行のこの流れはわかっておりますが、それでもやはり、「わざわざこの時期に、全国一斉の入試をする必要があるのか」と思うのです。

余談になりますが、子どもの数はどんどん減り続け、出生数はわれわれの時代の半分になっています。受験生の数も、ここ何年かに限ってみても、減ってきています。一方、大学はそれこそ腐るほどあります。ピンからキリまであります。いろいろと批判があるかもしれませんが、レベルの高い大学にはセンター試験は不要だと思います。レベルの低い大学にはセンター試験をする意味がないと思います。選ばなければ、日本では、どこかの大学には入れます。そこで得意分野を伸ばし、楽しく、その子なりの大学生活を送れればよいと思います。
ついでに述べますが、合否を決める際に、面接、小論文を重視することには反対です。あの程度の時間の会話とあれくらいの長さの文章で、受験生の人となり、能力がわかるはずがないです。だいたい、大学教官の中には、わりとエキセントリックな方が多いです。AOや推薦、地域枠での入学は、それを導入した意図はわかりますが、学生のレベルを下げ、ひいては大学のレベルを下げるという負の作用があるように思います。



紅白歌合戦

平成27年1月 

昔は大晦日と言えば、NHK紅白歌合戦でした。今でもそういう方は大勢おられます。自分としては、実に久しぶりに、この番組を最初から最後まで見ました。テレビ画面を見ながら途中でふと思いました。「もう何年ぶりかな、この番組をこうやって見ているのは」と。 とはいっても、新聞を読んだり、年越し蕎麦を食べたりしながらではありましたが。何回か、チャンネルを替えて、ダウンタウンの番組もちらちら見ていました。
それにしても、最後まで全部見たのは、実に20年ぶりくらいではないか。いや、もしかしたら、もっとかもしれない。大みそかのこの時間帯に、テレビの前にゆっくり座っていたこと自体がめずらしい。ここ何年かは、書き終えてない年賀状を書いたり、院長室の片づけをしたり、たまっている書類をチェックしたり、自宅の方に届く新聞、雑誌等を読んだりしていました。“紅白”については、子どもらがつけていたのをちらりと見るか、晩ご飯を食べているときに見るくらいでした。

何より、知らない歌手、聞いたことのない曲が年々増えていき、興味も薄れていました。むしろ、その年の審査員のほうが気になったときもありました。今どきの家では、チャンネル権を握っているのはだいたい子どもさんだと思います。その子らが大きくなって紅白を見なくなると、家では紅白を見なくなります。それと、気持ちに余裕がないと、こういう長時間の番組をゆっくり見る気分にはなれないのではないかと思います。年末になっても大きな心配事があると、紅白どころではなくなります。良い例が受験です。大学受験生がいると、センター試験がすぐそこに迫って来ているので、家族で紅白を見るような心の余裕がなくなります。ずっと前のことになりますが、自分の受験の時もそうだった気がします。もう一つ自分のことを言うと、今なら、正月三が日に小児科の休日当番医が当たっていると、なかなか落ちついては見ることができません。この休日当番医というのは、それくらいストレスになります。幸い、今回の年末年始の休日当番は12月29日でした。嫌なことといっては語弊がありますが、その役目が早めに終わり、年賀状も書けていたので、ゆとりがあったのかもしれません。もっとも、12月29日は来院患者さんが120人来られたので、その日はかなり疲れました。保護者の中には、待ち時間が長くなり、いらいらしていた人もいました。わからないこともありませんが、年末年始の小児科の当番医とはそんなものです。

今回の紅白に出場した歌手についての感想を少し。中島みゆきさんの「麦の唄」は初めて聞きました。歌も上手ですが、歌う姿、声に貫禄がありました。朝の連続テレビ小説の主人公夫婦役のお二人がジーンと来ているのを見て、こちらも胸に迫るものがありました。美輪明宏さん。ちょっと気持ち・・・と言えばそれまでなんですが、この独特の歌い方も良いのでしょう。AKB、HKT、SKE、NMBはよくわかりません。SMAP、嵐、V6などのジャニーズ系のグループは、メンバーそれぞれがよく成長してきたと思いました。歌手ではありませんが、紅組初司会の吉高由里子さんは、言葉のキレがあまり良くなかったですが、あれはあれで良かったのでは。総合司会のNHKアナウンサー有働由美子さんは、ご本人は騒がしているつもりはないのでしょうが、彼女の言動は同業者のマスコミや視聴者に何かと言われることがあります。しかし、有働さんは、やはり、こういう大舞台では落ち着きがあり、安心して見ていられます。私らにとっては、歌手よりも華があり、若い歌手、AKBにはない大人の色気があります。いろいろな衣装をもっと着たら良かったのに。桑田佳佑さんは“軽い”桑田さんの方がいい。時代批判、政治色、社会性を持つメッセージソングはあまり出して欲しくないです。私はボブ・デュラン、ジョン・レノン、忌野清志郎さんらも嫌いではないのですが、彼にはそっち系には行って欲しくない。晩年の芭蕉ではないが、「かるみ」こそが良い。福山雅治さん。これほどかっこいい男は少ないですね。ただ、桑田、福山このアミューズのお二人には、たまには他の出場歌手と同じようなかたちで出てもらいたいと思うのですが、無理ですかね。最後に、大トリですごく緊張して歌った松田聖子さん。司会の吉高さんが「松田聖子さんでも緊張するんだなって。すごく震えて・・・」と言っていましたが、映像を見ていたわれわれにもそれは伝わりました。これまで数えきれいない回数のステージ、コンサートをやってきた、今や大ベテランの彼女がこれほど緊張するとは。紅白の大トリとはやはり特別なんでしょうか。逆に、彼女のこの様子で、他の番組にはない紅白の権威が証明されたと言えるかもしれません。また、松田聖子さんは、紅白の番組の中で、娘さんがアメリカからの中継で歌っている時に泣いていました。わが子の晴れ姿を見てのうれし涙で、感動のシーンでした。

NHK紅白歌合戦は、今回が65回の長寿番組で、大型音楽番組です。その視聴率の高さ、視聴者の年齢層の広さから国民的番組と言われることがあります。例によって、この番組をけなす人もいます。しかし、紅白をゆっくり見ていられる年の方が、精神心理的に落ち着いていて良いのかもしれない。近年は、年末の大みそかまであくせく働いていたわけではないので、むしろ気持ちの上で余裕がなかったのかもしれません。なにはともあれ、この番組が続いていれば、また見ることがあるでしょう。この番組を全放送時間見れるような大晦日なら、おそらく、その1年は、仕事も家庭も落ち着いていたはずです。



会話になりません

平成26年11月 

診察室での保護者との会話で困惑、往生することがあります。近年増えてきた気がします。その中のいくつかです。
その1) ある母親「この子は薬が飲めないんですけど」。これを聞いて、そのあと、薬の必要性をいろいろと説明しました。ところが、「どうしても飲まないんですよっ、この子は」。それではと、飲ませるときの工夫を話しました。でも、母親は「絶対、飲みませんから」と強い口調でした。小生(そうですか。仕方ないですね。今は入院しないといけないほど状態は悪くないので、安静にして、様子をみてみますか)と言うと、今度は怒ったように、「それじゃ、薬は飲まさなくていいんですか」と来ました。(どうしても飲まないと言うから、そう言ったんだけど・・・)。そして、追い打ちをかけるように「薬は飲まなくて、本当にいいんですかっ」 

その2) 診察後、母親が「ただのかぜですか」と聞くので、小生(肺の音がゼロゼロいってるし、咳も多いので、ふつうのかぜよりは重いですよ)と説明。「えっ、肺炎ですか?」と驚くので、(そこまでは悪くはないですよ)と答えました。母親が再び「ただのかぜじゃないんですか?」と聞くので、(咳や鼻水が出ているのでかぜはひいています。しかし、炎症の程度、部位が・・・)と慎重に話しました。すると、最後に、「じゃあ、ただのかぜなんですね」。
この方が聞いてくる質問、知りたいことは、「ただのかぜか」「ただのかぜじゃないか」のどっちかということです。しかし、こちらとしては、親がその二つをどこで分けているのかがわからない。「かぜ」のような範囲の広い病名が、「ただのかぜ」か「ただのかぜじゃない」の2つに分類できるはずもないです。今頃、保護者が聞いてくる事柄が、極端な二者択一の質問であることが多いです。悪人か善人か、賢いかバカか、みたいなものです。近頃の若い人らは小説を読まない。長編のドラマ、映画も見ない。スイッチ オンかオフのゲームの影響かもしれません。

その3) まだ小さい乳児が病気にかかり、親が心配そうにしているので、診察後、小生(悪い病気じゃないですよ)と話しました。母親「髄膜炎にはなっていないんですか」、(今はなっていません)。 「今は、ということは、後でなる可能性があるんですか」 (今は、大泉門は腫れてないし、機嫌もそれほど悪くはなさそうですからね。・・・・これくらいの子どもの病気で絶対大丈夫ということはありませんが)。 「それじゃ、やっぱり髄膜炎になるかもしれないんですね」  これはエンドレスに続きます。

その4) いつの診察のときも、「あせも」としか言わない人。母親「ここにあせもができてしまって」 小生(これはあせもではないですよ)。「あせもじゃないんですか」、(一目見て、あせもとは違いますし、あせもはこんな所にはできないでしょ)。 「うちの子はよくできるんですよ。あせもが。」 ですから、これはあせもじゃないと・・・。

古き良き時代の南予の人がこの地から去って行ってる感じがします。東予で診療をしているような錯覚を覚えることがあります(怒られそうですが、うちの夫婦は両方とも東予の人間です)。ひょっとしたら、東予に行ったら、南予の人みたいな親が増えていて、やりやすくなっているのでは。先日、東予で診療をしている先生と話をしたら、「そんな生やさしいものではない。東予をなめたらあかん。」 そうか、やっぱり。ここで働こう。

振り返ると、自分自身も、患者さんが多くて忙しい時に説明が不十分だったり、心に余裕がなくなり多少口調がきつくなったこともあったと思います。反省、反省。



「民のかまど」と「米百俵の精神」

平成26年6月 

国にも地方にも大借金がある。これを一気に返す手立てなどあろうはずもない。昭和の時代にみられたような高度経済成長はもはや現れないであろう。いつの時代も、誰しもが増税には反対する。議員、首長をめざす人たちは、選挙の票を取りたいがために、たいてい増税反対の旗を掲げる。また、労働人口の減少、少子化問題がある。収入(歳入)が持続的に増える状況は、もう訪れることはないと思われる。一方で、高齢化社会はすごいスピードで進んでおり、社会保障費等で支出(歳出)は確実にどんどん増えていく。

本題に入ります。時代をずっと遡って、はるか昔の古墳時代の逸話から。あの巨大な前方後円墳で、よく知られている第16代天皇、仁徳天皇の御世(みよ)のことです。小中学校の社会の授業で必ず出てくるお名前なので、大方の人がご存じのことと思います。この天皇については『民のかまど』という話が語り継がれています。ある日、天皇が宮殿から周囲をご覧になられたときに、民家から少しも煙が上がってないことに気付かれた。そして、その事で「民がかまどで煮炊きできないほど、生活に困っているのではないか」とお考えになられた。天皇は民の窮乏を憂いて、それから3年間税を免除された。3年の月日が経って、天皇が宮殿の高い所から村を眺めると、今度は、人々の家から炊煙が盛んにたなびくのを目にしました。その時に詠まれた歌が『高き屋に のぼりて見れば 煙り立つ 民のかまどは にぎはひにけり』。しかし一方で、税を免除したため、朝廷の収入はなくなりました。天皇自らが倹約のために、宮殿の屋根の茅をふき替えなかったので、あちこちから雨漏りがするようになっていました。何はさておいても領民を飢えさせない。時の為政者が備えるべき心がけとして、最も大切なことだったと思われます。
次に、時代は進み、幕末・明治維新の長岡藩(今の新潟県の中にあった)の話。小泉元首相が所信表明演説で引用し、有名になった『米百俵の精神』であります。戊辰戦争が勃発し、新政府軍との激戦で、長岡は焼け野原になりました。困窮する長岡藩に届いたのが、支藩からの百俵の米でした。藩士らは「これで飢えをしのげる」と喜びました。同藩の重鎮、小林虎三郎はそれを制し、「食えないからこそ学校を建てる」。彼は、多くの人材を戦争で失ったことを何より深刻にとらえ、「人づくりこそ国づくりの根幹である」と、猛反対する周囲の者をを命がけで説き伏せました。結果、米は換金され、文字だけでなく武術、洋学、医学も学べる学校が建設されました。その米百俵の精神はのちの世まで郷土で受け継がれ、多くの偉人が輩出しました。

今の世に目を移してみる。選挙のたびに、立候補者が「お爺ちゃん、お婆ちゃんの幸せ」を訴えて、出き上がったのが老人への厚い福祉と、子や孫どころかひ孫、玄孫(やしゃご)まで続く国と地方の借金の山。その一つのシンボルとして田舎でよく見かけるのが、お年寄りが使用するきれいな集会所などの施設と古ぼけた保育園、幼稚園。本県、当地域では、公立学校の耐震改修工事も遅れ、現在の耐震化率は全国で最低ラインにある。当院開設前に、病児保育施設について行政担当部署に相談に行ったが、けんもほろろに断られた。このセンスの無さ。もう今さらする気はないが、この御時世、誰がやってくれるのか。国でも地方でも、政治、行政に携わる方々は少ないお金(財源)をやり繰りして苦労していることと思う。ただし、優先順位がおかしい。子どものことは後回し後回しにされてきた感がある。それと、お年寄りを一律に社会的弱者と呼んでいいはずはない。確かに、一部の人はそうだろう。しかし、まわりでは、お金を持っているのは老人ばかりで、収入が少なく貯金もなく困っているのは子育てをしている若い夫婦の世代である。残念なことに、この世代はあまり選挙に行かないから、議員や自治体首長に軽んじられているのではないか。

誰か、あるいはどこかに善をなそうとすれば、もう一方では、誰かが我慢しなければならない。がまんしてもらわなければならない。重大な局面では、指導者の英断が必要となる。今年からは、消費税の増税で、子育て支援、少子化対策の予算がそれ相当につき、地方財源にも回りはじめたはずである。少しは良くなるだろうか。



アラブの春

平成26年4月 

“白樺、青空、南風、コブシ咲くあの丘北国の・・” は千昌夫の「北国の春」。さびの部分の “あの故郷(ふるさと)へ 帰ろかな 帰ろかな” が人の心を打つ。手元に、気に入った写真がある。題が「信濃の春」。長い冬のあとの待ち望まれた春の風景である。千曲川、桜、遠くには雪が残る山々が写っている。島崎藤村の文が出てきそうである。春は四季の中で人々に最も愛される季節だろう。言葉の響きもよい。 
春は春でも、「プラハの春」は、1968年、チェコスロバキアで起こった一連の自由化政策とその政治状況のことを言う。言葉通り、その変革は春に始まったが、8月にソ連・東欧軍の介入によって弾圧され、「春」は長く続かなかった。ここ数年、新聞の紙面でよく見るのが「アラブの春」である。これらの「春」はイコール民主化である。

アラブの春」 このおいさんやおにいさんらは筋金入りだ。今なお、戦うことをやめてない。デモや敵対する勢力との小競り合いは頻繁に起きている。国によっては、まだ銃を手にしている者がたくさんいる。果たして、彼らに目的地とすべき所が見えているのだろうかと思うことがある。
「アラブの春」は、2010年12月のチュニジアの民主化運動から始まった民衆蜂起である。中心となったのは20歳から35歳くらいまで人たちだった。はじめは、長期独裁に反抗する若い世代の異議申し立て程度だった。その後、事態は大きく動いて、「アラブの春」はチュニジア、エジプト、リビア、イエメンで政権を崩壊させ、一旦は政治的自由を獲得した。

その「アラブの春」から3年が過ぎた。しかし、かつて街頭デモに飛び出した若者たちは、手に入れたと思った自由をいまだ実感できずにいる。経済・社会状況も改善していない。民主化の道はテロや内戦にほんろうされながら、迷走を続けている。
自由を求めた人々は結集せずに分散してしまい、「春」以後の選挙で権力を得たのはイスラム主義勢力だった。皮肉なことに、今、旧秩序が復活する動きがじわじわと広がっている。

世界は絶えず動いている。かつて一強といわれた超大国アメリカは、イラク、アフガニスタンでの二つの戦争と金融危機で疲弊し、そのパワーが低下した。ヨーロッパは、「統合」神話を大きく揺るがせる欧州危機に見舞われている。中国は、世界第2の経済大国に成長し、海洋に覇権を求めだした。全部ではないにしろ、民衆も困ったものであるが、政治家のモラルが低いので、あちこちでむちゃくちゃをやっている。ロシアは、旧ソ連の時代の血が騒ぎ出したのか、昔やっていたあこぎな事を今またウクライナでし始めた。それにしても、このロシアと中国が、拒否権を持つ国連安全保障理事会の常任理事国になっているとは。犯罪者が警察をやっているようなものである。さまざまな国で、「春」は遠く、なかなかやって来ない。到来しても、桜が散るようにすぐ過ぎ去ってしまう。そのくせ、「冬」にはすぐなる。そして、長い。

アラブに「春」はまだ来ていない。本当に春は巡ってくるのか。今の世代は無駄に終わるかもしれない。しかし、インターネットによって、瞬時に情報を共有することができ、ライフスタイル、宗教は違っても人類の普遍的価値や豊かな生活の存在を知ることができる。そして、自分たちの声で個人の尊厳と権利を求めることができる。「アラブの春」の原動力となったこの若い世代の巨大なエネルギーの波動は、いずれわが国の近くの “遅れた” 国々にも到達するだろう。



若者は英語力を付けて、世界へ 

平成26年2月 

先月初め、サッカーの本田圭佑選手が、イタリアの1部リーグ(セリエA)の名門ACミランに入団することが決まり、記者会見をしている姿をテレビでみました。地元イタリアの記者らの質問に対して、英語で答えていました。英語ペラペラの通訳の人やバイリンガルの女性アナウンサーのように流暢な英語ではありませんが、落ち着いて、ときにはユーモアを交えながら、話していました。堂々とした見事なマスコミへのデビューを飾ったと感心しました。何年か前には、ゴルフの石川遼君が、イギリスのBBC(英国放送協会)の記者からインタビューを受けて、通訳なしに受け答えしていました。この2人は、日本人スポーツ選手としてはむしろ例外に属すると思います。
選手だけではなく、コーチ、監督らにも英語を話せる人が少ない。各競技連盟の偉い人たちの多くもそうです。以前、オリンピックの柔道の試合で明らかにおかしな(誤った)判定がありました。場外にいるコーチらは、日本語でワーワー言っているだけで抗議ができない。選手自身もポカンとしているだけでした。スキーのジャンプ競技では、外国の長身の選手ほど長い板が使えるという日本人選手には不利になるルール変更がなされました。日本にはこういう苦い経験がいくつかあります。国際的な各競技連盟で理事の地位を取れてないので、理不尽なルール変更にも強く細かく抗議、反論ができないことが多いです。

一般に、外国のスポーツ選手やミュージシャン、政治家、芸術家の人々は、母国語が英語でなくても、ふつうに英語を話すことができます。私の経験では、ドイツの片田舎のホテル従業員、ヘルシンキ(フィンランド)のタクシー運転手、バス停にいる中学生、マドリード(スペイン)のデパートのおばちゃん店員でも、英語が通じます。台湾、シンガポール、フィリピン、タイの人たちはなまってはいますが、多くの人が英語を使いこなしています。気分が悪いですが、中国、韓国の語学力は日本人のそれを上回っています。今も昔も、英語は公用語のように広く世界で使われています。
一方で、日本は先進国家でありながら、英語を使える人が少ないめずらしい民族です。教育水準も高く、中学、高校、大学と英語を学んでいるにも関わらず、語学力のなさは世界中でよく知られています。国際会議で、通訳が必要なのは日本人くらいです。この時代、外務大臣、財務大臣、農林水産大臣、防衛大臣などの閣僚には、英語をしゃべれない人物がなってはいけないと思うのですが。国際組織の中核に語学力のある人材を送り込まなければ、日本の利益を運営に反映させるのは困難です。重要な情報を正確かつ迅速に入手することもできません。国際会議ではなるべくシンポジストになって、自分たちの言いたい事を世界にアピールしなければなりません。
日本人のまじめさ、ていねいさ、高度な技術力、親切で信頼できる国民性は、世界から十分評価されています。しかし、古くからつつましさが美徳とされ、恥じらいの文化が定着しており、日本人はともすれば内向的になります。体格的にも劣り、敗戦によるコンプレックスもあります。何より、英語が苦手な人が多いため、外国人と積極的にコミュニケーションをとることをあまりしません。それがひとつの民族性となっています。
今や、国内でものを生産し、それを国内だけで販売して経営が成り立つような産業はほとんどありません。医学の世界でも、最先端の医療や研究に携わっている者にとっては、職務を遂行し成果を発表する上で、語学力は必須の条件となっています。これからの時代は、様々な分野で国際化がさらに進み、職業上ますます英語力が必要になっていくだろうと思います。

将来、この国を支えて行く今の子どもたちには、英語をふつうにしゃべれるようになってほしいと思います。昨年、政府は世界に勝てる真のグローバル人材を育てるため、2020年までに日本人の留学生を12万人に倍増させる方針を決定しました。自らの反省も込めて、まずは、臆することなく、外国人と会話ができるようになることが大切と思います。そのためには海外留学は貴重な経験となります。島国日本の、四国の、伊予の南予の、となると卑屈になる人がいますが、次の世代には堂々と世界を渡り歩いてほしいものです。



猫も杓子もアレルギー

 平成26年2月 

昔に比べ、アレルギー疾患を持つ子どもの数は増えています。近年、メディアに取り上げられる機会も多くなり、保育所や学校におけるアレルギー対応ガイドラインも作られました。今や、小児アレルギー疾患は小児科の臨床のなかで重きをなし、研究の分野でもその成果が注目されています。
しかし一方で、昨今、なんでもかんでもアレルギーに結び付ける風潮があるように思います。それがどんどんエスカレートしているので、危惧しております。母親「アレルギーじゃないかと思って・・・」 保育所職員「アレルギーがあったらいかんけん、検査をしてもらって・・・」 この手の話を日々の診療の中でたびたび聞きます。また、あちらこちらにアレルギー疾患を診る先生が存在しています。病気を無理やりアレルギー疾患にしてしまう方がいます。ふつうの湿疹がアトピー性皮膚炎となり、鼻かぜがアレルギー性鼻炎、かぜが喘息に化けています。猫も杓子もアレルギーです。

まずは保護者の方。(少数ではありますが)思い込みが強すぎて、会話が成立しないことがあります。検査をするのは、一般に、アレルギーを疑う何らかの症状を有する子どもさんが対象になります。「気になるから・・・」 「知り合いの子が卵アレルギーだったから・・・」で検査をされたのでは、子どもが気の毒です。次に、保育所、学校の関係者の方々。一昔前は、児のアレルギーに関して医療の側がお願いしてもほとんど協力してもらえませんでした。答えはたいていこうでした。「そんなことはできません」と。とくに、小学校の対応は不親切でした。今や「検査をしてもらって」 「書類を出してもらって」のオンパレードとなりました。そこで一言。子どもの採血は難しいんよ。そう簡単に血は取れんのよ。針で突かれたら、子は痛いんよ。気になるからと言って、何でも母親に言ってよいというものではないんよ。[アレルギー除去食に関する連絡書(主治医意見書)]は、診療中にはすぐ簡単には書けんのよ。医師が問診・診察をして「検査は必要ない」と判断したのに、施設側が「どうしても検査が必要だ」と言うのであれば、その検査費用は本来その施設が負担すべきではないでしょうか。

今日、「アレルギーの患者さんを診ます」と掲げている医院や病院は多いです。しかし、どんな疾患分野でも、おのずとその実力には差があります
。医師の世界でその道のプロと呼ばれるようになるには、最低15年はかかります。権威となると、めったになれるものではありません。専門医と呼ばれるためには、それなりの勉強、研究、臨床経験が必要です。近頃、毎週のようにどこかのホテルで製薬メーカー主催の講演会が開かれています。こういう会にちょこっと出たからといって、専門医になれるわけではありません。ただ、我々の職業は(他の多くの業種でもそうでしょうが)、生涯勉強していくことが必要です。時間があれば、これらの会にも出席して、診療・研究の最前線で仕事をしている先生の話を聞くことは有意義なことではあります。
専門医といっても、自分の主義・思想に凝り固まった変わり者の先生もいます。怒られそうですが、もともと医局では傍流だった、パッとしない、エクセントリックな人たちがアレルギーをやっていたところもありました。「○○を食わすな」と言ってただけの人たちもいたような気がします。一方で、若い時からこの道一筋に真面目に診療、研究に打ち込んで来られたりっぱな先生方がおられます。
私はアレルギー疾患のプロとは考えていませんので、症状がひどく、当院で診るべきではないと判断した子どもさんについては、信頼できる専門医の先生を紹介しています。



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