あいさつ





令和8年7月中旬〜下旬 記   梅雨明けのあとの猛暑

7月12日、気象庁は「四国地方が梅雨明けしたとみられる」と発表しました。今年、梅雨入りが発表された6月2日から7月11日までの松山の降水量は、平年のそれを大きく上回っています。
夏至前後の、1年で最も日の長い時期に、青空を見る日が少なく、夕方仕事を終えたあとの明るい時間帯が有効に使えません。うっとうしい雨の日が長々と続くと、気分も滅入ります。当院の職員と「早く梅雨明けしてほしい」と日々話していました。日本の農業、とくに稲作にはなくてはならない季節であり、我慢するしかないのでしょうが、以前から「引退したら、この時期は梅雨のないヨーロッパかハワイに行って楽しみたい」と言っていました。
ところが物事はそう簡単にはいきません。 梅雨が明けたら猛暑です。ずっと続いています。わかってはいたことですが、異常な暑さです。国内でも40℃を超える酷暑日が出ています。家の庭や医院の駐車場でも、夕方6時を過ぎてもかなり暑い。草木に水をやろうとしても、ホースから湯が出てきます。まさに危険な暑さです。子ども、老人、体調の悪い人には本当に注意が必要です。甘くみてはいけません。
ヨーロッパは熱波に襲われています。熱波が関連する死者も多数出ています。スペイン、フランスでは山火事が猛威を振るい、北海道より緯度が高いイギリス、ドイツ、オランダ、スイス、オーストリア、ポーランドなどの国々でも記録的な高温になっています。

 猪苗代湖畔の天鏡閣(福島県 2017年7月16日)
明治41年有栖川宮威仁
(たけひと)親王殿下のご別邸として建てられました。現在、国の重要文化財になっています。


上の涼しげな風景は9年前に猪苗代湖畔を訪れたときの写真です(一息ついてください)。この時期(7月中旬)にまだあじさいがきれいに咲いていました。梅雨前線が北上して梅雨が明けますので、東北地方は梅雨明けが遅れます。この時もそうでした。

現在の当院での診療状況です。夏かぜの代表格である手足口病、ヘルパンギーナが増えています。全国的な傾向です。この地域では新型コロナもけっこう出ています。小児科の一般診療で最も難渋するのはヒトメタニューモウイルス感染症とRSウイルス感染症ですが、一部の地区でまだ小規模の流行があります。



令和7年5月21日 記   「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」 芭蕉

俳人 松尾芭蕉が門弟の河合曾良を伴って旅に出たのは、元禄2年の今頃でした(西暦に改めると1689年5月16日)。その旅が『奥の細道』でした。単なる紀行文ではなく、5か月にわたる旅のあと、生涯を閉じるまで推敲を重ね続けて完成させた文学作品です。

陰暦の三月もいよいよおしつまった二十七日(陰暦の春は一月から三月)、芭蕉庵がある江戸深川から舟に乗り、隅田川をのぼって千住で舟から上がりました。千住は奥州街道の出発地です。上記の句は、矢立てはじめとして詠んだ句です。まさに過ぎ去ろうとする春と、旅立ち・別れの情景が思い浮かびます。詳しい説明は解説書を読んで下さい。

私は春が好きです。日が長く、次々と花が咲く今の時期は格別です。天気が良い日は診療が終わったあとに、必ず外に出ています。この時期、夕方6時、7時はまだまだ明るいです。当院の駐車場から見る神南山(かんなんさん)は最高です。月もきれいに見えます。医院と家の庭にはいろいろな花が咲いています。自宅の縁側に腰を掛け、緑の葉が生い茂った桜の木を見ながらアイスコーヒーを飲みます。ついつい、一緒に甘い物(ポップコーン、芋菓子、団子など)も。晴れた日は、上空を飛ぶ飛行機を3-4機見ることができます。日によって違いますが、細長い飛行機雲が残ります。とても幸せな時間帯です。

すでに夏みたいな暑い日がありました。あと何週間か経てば梅雨入りでしょう。年々、春と秋が短く、夏と冬が長くなるような気がします。良い季節が過ぎ去っていくのは、何となくつらいです。
下の写真は2022年6月に撮ったものです。


 
芭蕉庵跡と書かれた石碑(芭蕉稲荷神社)   芭蕉翁像(芭蕉庵史跡展望庭園)


 
芭蕉像のすぐ前は隅田川、向こうの橋は清洲橋   矢立て初めの地(千住)




令和7年5月19日 記     

今日、ある女性に「先生、ホームページが滞っていますね」と言われました。気にしていたので、少しドキッとしました。
今年に入ってから寒い日が多く、また義母(3月に永眠)の状態が悪かったので、半年くらいどこにも行くことができませんでした。気分も盛り上がらず、書く題材も不足していました。
もう一つ、去年の秋に先輩医師から「これやってみたら。ボケ防止にもなるよ」とNISA(ニーサ)を勧められました。メールを見ず、携帯もほとんど使わない、面倒くさがり屋の人間(私)がするものではないのですが、家内と2人でよくわからないまま、あーでもない、こうでもないと話しながら続けています。本も買いました。これにまあまあ時間が取られました。

当院の診療については、年末にインフルエンザAが大流行し、週に50人の患児が受診するような状況でしたが、年が明けると早々に流行は収まりました。春先に、インフルエンザBがぱらぱらと出ましたが、流行とまではいきませんでした。百日咳、マイコプラズマ感染症、リンゴ病(伝染性紅斑)の小規模の流行がみられています。これは全国的な傾向でもあります。

せっかく、ご指摘いただいたので、このコーナーを含めてボチボチ進めてまいります。



令和6年11月末 記     「秋もいいな」

子どもの頃から秋という季節あまり好きではなかった。日がだんだん短くなっていくのが、一番嫌でした。広場で遊んでいても、友だちの家に行っても、早く帰らなくてはといけなくなる。9月中頃から10月は、日暮れが早くなるスピードが早いです(まさにつるべ落とし)。家に帰る途中目にした西の空の夕やけは何となくもの悲しかった。「実りの秋」と言いますが、稲刈りのあとの田んぼや、実をとったあとの柿の木の姿は侘しかった。お祭りはとても楽しかったけど、「祭りのあと」は寂しかった(吉田拓郎さんの歌を思い出す)。
そういう感情を一気に振り払ってくれたのが、11月初めの軽井沢での紅葉の風景でした(写真)。実に見事でした。1日半くらい紅葉の中にいました。南国愛媛ではこういう鮮やかな紅葉を見ることはほとんどないです。とくに南予はそうです。

今年、梅雨の真っ只中の6月下旬にも軽井沢に行きました。東京駅までは土砂降りの雨でしたが、新幹線が北に進むにつれて雨が止んで、軽井沢に着いた時には青空が見えました。新緑がきれいでした。夕方、ホテルのレストランで食事をしているときに、若いウエイトレスに「春に来れば、このあたりは桜できれいなの」と聞くと、「この周りの木は楓が多いです。秋は真っ赤になります。きれいですよ。ぜひ紅葉のシーズンに来てみてください」と話してくれました。昼間の女性ドライバーも同じようなことを言っていました。それならと、チェックアウトの際に予約をしました。予約が取りにくい紅葉の時期でしたが、何とか入れてもらいました。

11月初めの連休で、道路はどこも混んでいました。裏道を知っている地元のタクシー運転手でないと、渋滞に巻き込まれて車が進まなくなります。有名な観光地の雲場池(くもばいけ)にはたくさんの外国人がいました。日本人の数より多かったです。また、近くで建設中のマンションをいくつか見ました。すぐ売れるそうです。なるべく、のどかで美しいままの風景であってほしいと思いました。


 
軽井沢 雲場池(11月3日)   紅葉を反射した水面とカモ


 
旧碓氷峠(うすいとうげ)見晴台   赤や黄色の絨毯(ホテルの庭、4日)



令和6年8月8日 記    開院15周年です

猛暑が続いています。2009年8月8日(開院日)は小雨が降っていました。年々暑さが堪えます。短時間の軽い雨なら毎日欲しいです。
今日で開院から丸15年が経ちました。いろいろな人からお祝いをいただきました。また、うれしい言葉をかけてもらいました。開業が遅かったので、早々に体力が低下し、病気にもなりました。ローンを15年返済にされたので、ひと月の返済額が多かったです。それを返しながら、子ども3人を大学にやるのもしんどかったです。
もうしばらく仕事をします。辞める時は、老醜をさらす前に、スパっと辞めたいです。


 
職員からのお祝いのケーキ   職員から


 
よつば薬局さんから   卸さんから




令和6年7月初め  記    「父の日のプレゼント」に思う

「父の日」のプレゼントを一番下(3番目)の子からもらいました。一番下と言っても30歳を過ぎています。「お金もあまりないだろうに」と思いつつも、うれしかったです。近年、「父の日」という日があること自体、気が付かずに過ごしていました。
翻って、自分はどうだったか。何十年と、父の日のプレゼントなどしたことがなかった。親父おやじとはいろいろあったけど、子どもの頃は間違いなく世話になった。今となっては、生きているうちに父の日のプレゼントを送ったらよかったと思う。まさに「親孝行したいときに親はなし」です。

父親は去年の12月26日に亡くなりました。年の瀬が押し迫り、葬儀関係の人らの都合と「友引」を避けると、葬儀は翌日(27日)の朝に行うことになりました。実は、その2日後の29日からオーストラリアのシドニーに家内と二人で旅行に行くことになっていました。何か月も前から楽しみにしていた旅行でした。その年末年始は、当番医が当たってない年末年始でした。5年に1回とないです。地域の小児科医7人で休日の当番医を回しているので、年末年始やゴールデンウィークは、どこかの日が当番医に当たります。他の診療科がうらやましいです。
急遽、旅行は中止にしました。時期が時期なので、知人らにはすぐには連絡はしませんでした。皆さん年賀状を出した頃で、自分自身もかなりの年賀状を書いて出していました。その海外旅行はドタキャンになったので、すでに支払っているホテル代やタクシー観光等の料金はほとんど返ってこず、50万円以上の損失が出ました。
その時は「こんな時にどうして」と思いました。しかし、帰りの飛行機の羽田到着予定時刻が、1月2日の日航機と海保機の衝突事故が起こった時間帯でした。羽田空港に着陸できなかった可能性がありました。もしそうなると、1月3日には家に帰れず、4日の仕事始めに間に合わなかった可能性があります。7日には当番医も当たっていました。もしかしたら、親父が「今回はやめとけ」ととめたのかもしれません。

前回、「めったにない年始」(令和6年4月 記)という文を書きましたが、本当は「めったにない年末年始」でした。

 
次男の「父の日」のプレゼント   私は大の果物好き




令和6年4月24日  記    「めったにない年始」

今年(令和6年)になってから4か月が経ちました。日が長くなり、春爛漫の季節になりました。気持ちの上でも何か明るくなった気がします。それでこの文を書いています。


能登半島地震と日航機海保機の衝突事故を報じる1月3日の全国紙の朝刊

年明け早々の元日午後4時過ぎに能登半島地震が起こりました。私は東京にいました。東京は震度3でしたが、ホテルの34階の部屋にいたので大きく揺れました。建物のきしむ音が怖かったです。家内に「(柱が)折れたりせんよな」と話したくらいです。テレビを付けていましたが、一斉に番組が変更されました。
1月1日、早起きが苦手なこの私が5時前に起きて、夜が明ける前にホテルを出ました。新幹線に乗って静岡に行きました。朝8時には静岡市に着いていました。三保の松原、日本平から見た富士山は最高でした。昨年8月以来4度目の挑戦で、やっと、雲のかからない美しい富士の全景を見ることができました。この時、今年はきっと良い年になると思いました。午後2時過ぎに東京に戻り、ホテル内の日本庭園を散策して、ベッドの上に横になった矢先でした。よりによって、こんな日に大地震が起こるとは。元日の一家団らんの時間だったと思います。

翌2日、レイトチェックアウトでホテルを15時に出て、羽田空港に向いました。全日空(ANA)の最終便を予約していました。空港に着いて、吉野家で牛丼を食べて時間をつぶしましたが、出発までまだ3時間くらいありました。出発ロビーの人の数が多かったので、時間は早いけれど、保安検査場を通って中に入りました。
そのあと、日本航空の旅客機と海上保安庁の航空機が衝突した事故現場に遭遇しました。事故は、私がいた第2ターミナルのすぐ近くのC滑走路で起こりました。18時少し前でした。右斜め前方で小さい飛行機が燃えているのが見えました。炎が高い所まで上がっていました。空港では説明がなかったので、何が起こったかわかりませんでした。あとでニュースを見て、炎上していたのが海保機で、5人の方々が亡くなったと知りました。
飛行機は全便欠航となりました。搭乗ゲート前にいた係員に尋ねると、「帰りの便は各自が予約を取り直してください。ホテルの手配はしません。」との返答でした。「とほほ」状態になりました。カード会社に電話をして、ホテルを探してもらいました。浜松町に2人で8800円で泊まれるホテルがありました。都心でこの値段。逆に安すぎて不安になりました。モノレールで再び浜松町まで戻り、冬の寒い夜に荷物を持って、トイレを我慢しながら、ホテルの場所を探しました。交番でも聞きましたが、なかなかたどり着けませんでした。「何ちゅう年や」
帰りの飛行機は、家内が翌日(3日)の朝1便を新たに予約しました。
午前4時半に起きて、モノレールで羽田空港に向いました。運よく朝1便は運航が決まりましたが、そのあとの便は欠航になりました。滑走路を進む飛行機の中から日航機の残骸が見えました。事故の大きさがわかりました。
松山空港に着いて、近くの駐車場に止めてあった車に乗り、午前10時には大洲に着きました。やれやれと思ったら、車のドアにこすられた傷が付いていました。 



令和5年7月末  記

小児科では6月は本来外来患者の少ない月です。過去には、この月に休暇を取って、ハワイに行ったことがあります。世間一般の人のようにはゴールデンウィークに休みが取れなかったスタッフに、祝日のない6月に連休を与えることも多かったです。
ところが、先月(2023年6月)は、2014年以降で最も患者数の多い6月になりました。7月になってもその傾向は続き、2017年以来の多さとなっています。

発熱児の受診が多いです。ヘルパンギーナ、アデノウイルス、RSウイルス、ヒトメタニューモウイルス、溶連菌などいろいろな感染症が同時流行しました。検査をしたほとんどの園児でRSウイルスが陽性に出た保育所・子ども園がありました。RSウイルス感染症と症状が似ているヒトメタニューモウイルス感染症が多数の園児に広がった所もありました。
これに加え、新型コロナ、インフルエンザAもまだ出ています。7月に入って、大洲市内の小中学校で新型コロナ感染者が出る所が増えてきました。数日の間に20人以上のインフルエンザA患者が出た学校もありました。

感染症の季節性が完全に崩れています。冬の感染症だったインフルエンザやRSウイルスが、この季節に流行することは、以前は考えられなかったことです。RSウイルスは今年でもう3年連続、夏に流行しています。新型コロナは他の感染症の流行、季節性にも影響を及ぼしたように思えます。



令和5年5月末  記

愛媛県には周桑郡(しゅうそうぐん)と言う地名がありました。南予の人、とくに若い世代の人は知らないかもしれません。周桑郡とは壬生川(にゅうがわ)町、三芳町、丹原町、小松町の4町から成っていました。周桑郡は西条市と今治市の間にある、広い平野が広がる地域でした。東に燧灘(ひうちなだ)があります。遠浅海岸になっており、昔は貝がたくさん獲れました。南には霊峰石鎚山がそびえています。周桑平野から眺める石鎚の姿が最も美しいと確信しています。
私が中学生の頃、壬生川町と三芳町が合併して東予市になりました。当時、何かしっくりしない市名だと感じました。さらに、その後の平成の市町村合併で、この地域は全て西条市となりました。高校が西条なので、西条が嫌いではないのですが、周桑と西条は違います。
同年輩の人と話をしていて思うのですが、自分が通った小学校があった所がふるさとである。これはほぼ共通の認識です。私は小学生の頃、住所欄には周桑郡壬生川町と書いていたので、出身地は今でも周桑郡だと思っています。
子どもの頃、周桑平野の田畑では多くが二毛作をしていました。稲作の後に、田んぼを畑にして麦を作っていました。4月、5月は黄金色に染まる麦畑が広がっていました。大人から「この穂が黒い麦は病気だから抜いてもよい」と言われた麦の茎の部分で笛を作っていました。なつかしい。

4月9日(日)。この日は朝からきれいに晴れていたので、東温市(重信町)の家の空気の入れ替えと布団干しに行こうと、家内と出かけました。しかし、あまりに天気が良かったので、高速道路の川内インターで降りずに、山を越えて東予まで行きました。小松インターで降りました。
周桑平野には麦畑が広がっていました。畑の隅にえんどう豆やそら豆を植えている所がありました。たくさんのチューリップや咲き始めたばかりのアヤメの花も見ました。南にそびえる石鎚山はいつ見ても最高です。子どもの頃、家からも広場からも小学校の窓からも見えていました。
車を進めて旧の西条市に入ると、ほとんどの田んぼで田植えが終わっていました。周桑と西条で田畑の景色がずいぶん違う。ここまで来ると、やはり母校に行かないとと思い、西条高校まで足を延ばしました。不思議なことに、過去15年くらいでこの正門の所で写真を撮っているのは、ほとんど今の時期です。何かに惹かれるような感じです。

昔の周桑郡が私のふるさとで、旧温泉郡重信町には26年間住んでいたので第2の故郷です。大洲も徐々にその年数に近づいており、第3の故郷になりつつあります。ちなみに、4月9日は私の誕生日でした。

 
A. 周桑平野の麦畑(旧東予市壬生川 4月9日)   B. 石鎚山


 
C. 田植え(西条市禎瑞)   D. 西条高校正門前

 
E. 誕生日ケーキ  




令和5年2月4日  記

今日は立春でした。土曜日の半日の通常診療のあと、13時半から新型コロナワクチンおよび他のワクチン接種をしました。1時間ちょっとで終わり、15時には職員全員が帰りました。服を1枚余分に着て、敷地内を少しぶらぶら歩きました。
暦の上では春ですが、天気が良くても外はひんやりしていました。気温から言えば、まだ冬です。しかし、医院の南側や西側にある花や木、東に見える神南山は、太陽の光を受けて暖かそうでした。
庭の紅梅は先月3輪咲きましたが、大寒の後の寒波で開花の進行が遅れていました。でも、長く見られるので、楽しみが増えたとも言えます。去年はある理由で1輪も花が咲きませんでした。昨年秋に新しいシルバーさんに「大手術」をしてもらいました。枝が少なくなりましたが、蕾がしっかり付いているので、少しずつ咲いていくでしょう。
休眠打破。桜の開花に関する用語です。桜の開花には冬の寒さも関係しています。桜が早く咲く条件は「冬がしっかり寒く、春先に温かいこと」です。年末にはクリスマス寒波がありましたし、大寒のあとには「10年に一度の大寒波」(この地域ではそれほどでもなかった)もありました。今年は桜の開花が早いかもしれません。

院内に戻り院長室でうたた寝をしていたら、3人の方からそれぞれ大事な用件で電話があり、その都度目を覚ましました。3人目の電話が終わり、ブラインドカーテンを開けると、18時過ぎでも外に明るさが残っていました。この陽の長さで、春が来ていることを実感しました。

日没後、丸い月が東の空に見えました。この時期の月はかなり北寄りの位置から現れ、上に進んでいきます。夜半には頭のほぼ真上を通っていきます。カレンダーを見ると旧暦の1月14日でした。ちなみに、今度の満月は2月6日で、2023年で最も遠い満月だそうです。

夜7時、天頂付近に赤い火星が見えました。西の空には2つの明るい星が輝いていました。斜め上にあるのが木星、山の少し上にあるのが金星です。金星はマイナス3.9等なのでかなり明るいです。東から月、火、木、金の順に並んでいます。くしくも当院が1日診療をする曜日です。
立春でも、夜の初めの主役はまだ冬の星座です。オリオン座は冬の星座のシンボルですが、この時期が最も良い位置に見えます。夜9時になってもそうです。南の空の正面をどーんと占めています。「冬の大三角」(シリウス、ベテルギウス、プロキオン)もよくわかります。

今日は何か良い1日だったようなような気がしました。月初はレセプトで気が滅入るときです。今から深夜、未明まで頑張ります。

 
家の紅梅(2023年2月4日)   医院の上の金星(ふつうのデジカメで撮影)




令和5年2月1日
  記

昨年の12月が111人、先月の1月が106人。当院でそれぞれの1か月間に新型コロナウイルス感染症(以下コロナと略します)と診断した患者さんの数です。小児科医院ですので、その9割以上が小児例です。他院で診断され、「熱が長く続く」「咳がひどくなった」「休日に行ったが、検査はせずにみなし陽性と言われ、坐薬を2個しかくれなかった」とかで、後日当院を受診した患者さんらについては、それらの数の中には入っていません。あくまで当院でコロナと診断し、当院が保健所に報告した新規感染者数です。

このコーナーの3つ下に令和3年10月16日付けの手記があります。これを読むと、あれからまだ1年3か月しか経っていないのに、随分状況が変わっています。その後、当院でのコロナ第1例目が出ました。そこから100例目に達するまでには6か月半かかりました。ほぼ同じ人数の感染者を12月と1月は1か月で診たことになります。それらの月は休日当番医が1回ずつ当たっていましたが、年末や年始の休診日があり、さらには当院の職員がコロナにかかったり、自分自身が抗原検査で陽性になって休診にした日がありました。ふだんの月より5〜6日診療日数が少なかったはずなのに、このような患者数になりました。
この地域は、日本全体から見れば、四国の小さな市町で、子どもの数は多くないです。「うちではコロナの検査をしています」と大々的にアピールしていたわけではなく、また、来る人来る人に些細な症状でもコロナの検査をしていたわけでもなかったです。はっきりしていたことは、子どもに関わる行事ごとがあるたびに、新規感染者が増えました。結果、地域でのウイルス量が増え、隅々までウイルスが広がりました。

去年1年間の新型コロナウイルス感染症は変異株のオミクロン株によるものでした。大きく分ければ、去年の前半はオミクロン株のBA.1、BA.2が主流で、夏以降はBA.5が主流でした。冬になってからの当地での流行はBA.5によるものだったと考えられます。現在、コロナウイルスはちょっとやり過ぎではと思うほど、細かく分類されています。派生株、変異株、亜系統、新系統と言われるものが次々出てきます。しかし、コロナはコロナであって、ハエがハチになるような大変身を遂げているわけではないです。

それにしても、やはり異常な数でした。背景に慣れ、withコロナがあったことはいなめません。withコロナが間違っているとは思ってない。コロナが出た当初から、むしろ「(種々の制限について)これはやりすぎ」と考えていました。withコロナで良いとしても、学校などではある程度の配慮があって然るべきです。極端から極端に変わるのをやめよと。この病気のせいで、多くの職場が人員不足になり、大勢の高齢者が亡くなっているのも事実ですから。ここから先はいつか「コラム」の項で書きます。(いつになることやら)

 
令和4年12月23日(朝8時半)、大雪。この日もコロナにかかった子が来院していました。   令和5年元日(11時)の写真。翌2日は当番医でした。56人の子に抗原検査をし、32人がコロナ陽性でした。2人がインフルエンザAでした。




令和4年10月12日  記

今宵、久しぶりにきれいな夜空を見ました。今、夜10時を過ぎたところです。東の神南山の左斜め上に、右上が少し欠けた十七夜の月があります。南の空の真ん中に木星が明るく輝いています。右下の少し離れた所に土星があります。夜空を見上げると、頭上には「秋の四辺形」があり、西方にはまだ「夏の大三角」が良い位置に陣取っています。一等星デネブを含むはくちょう座の形がはっきりわかります。振り返って北の空に目を転ずると、カシオペア座が見えます。
これから先、寒くなるにつれて空気が澄んで、美しく輝く満天の星が観察できるようになります。楽しみです。

先週の土曜日、10月8日は二十四節気の寒露でした。夜が長くなり、随分寒くなったと感じました。そして、その日は十三夜(旧暦の九月十三日の夜)でもありました。何気にテレビを見ていたら、「十五夜の月を見たら、十三夜の月も見ないと縁起が良くないと言われています」と、ニュース番組の中で女性アナウンサーが話していました。
私はその日は越後湯沢のホテルに泊まっていました。急いで部屋のカーテンを開けて外を見ましたが、月は見えませんでした。夜中に目が覚めた時に、もう一度夜空を見ると、うすく雲がかかった十三夜の月がぼんやりと見えました。何となく、良かったと思いました。
しかし、あとでよく考えたら、今年の十五夜(9月10日)は曇っていて、中秋の名月をはっきりとは見ていませんでした。十五夜の前日と翌日の夜はよく晴れて、きれいな満月を写真に収めました。十五夜と十三夜どちらか一方の月しか見ないことを「片月見かたつきみ」または「片見月かたみづき」と言い、災いが来ると忌まれていたそうです。また、昔は十五夜と十三夜は同じ庭で眺める風習があったようです。かくして、今年の「二夜の月ふたよのつき」は、私の場合、不完全な形となりましたが、その頃の秋の風情を感じることができました。

10月9日、2年ぶりに越後湯沢の知人に再開し、今回は越後湯沢から会津若松まで連れて行ってもらいました。魚沼市から入広瀬、六十里越峠を越えて福島県に入り、田子倉ダム、只見町、昭和村と進みました。道すがら日本の秋の原風景をたっぷり見ることができました。帰りは高速道路で会津若松、新潟、長岡、越後湯沢。行き帰りで10時間、すごい距離です。良い秋の休日になりました。

 
満月(十五夜の翌日、2022年9月11日)   すすき(福島県只見町 10月9日)




令和4年1月3日  記

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

今年の正月は穏やかに明けました。今日も昼からは快晴で、気持ちのいい天気でした。ゆったりした気分で年始を過ごすことができました。天気もさることながら、何よりこの年末年始(12月29日から1月3日まで)は休日当番医の日がありませんでした。気持ちの上でとても楽でした。

1年前は大晦日に当番医が当たっていました。世の中が、今以上に新型コロナウイルスに対して神経質になっているときで、当院でもコロナの患者さんが受診するのでは、と心配しました。どこかの基幹病院のように「発熱患者お断り、県外の人もお断り」さらに「県外に行って帰ってきた人も診ません」などとは言えないですから。大晦日の当番医の仕事が終わってほっとしましたが、その緊張、精神的ストレスはすぐには取れなかったです。新年の喜びも今一つでした。ちなみに、来年は1月2日が当番医に当たっています。それを考えると、元気がなくなりますので、極力考えないことにします。

日暮れも大分延びてきました。今日、西に涼む夕日を見ながら、「明日から仕事」と気を引き締めました。北海道や東北、北陸では大雪になっている所があります。そこに住む人たちのことを考えれば、随分恵まれているのかもしれません。

うれしいことがもう一つ。このホームページへのアクセス数が大晦日に300,000回に達しました。家内がたまたま開いて見た時が299,999でした。当初、考えてなかった膨大な数です。有難く思っています。
このホームページは見る方への情報提供を主たる目的としておりますが、一部は自分のためでもあります。あの頃はこんなことを考えていた、この年にここに行った、こんな病気が流行っていた等々、あとでホームページに載せた記事や写真を見て、たどった人生を思い出せるようにと考えて、作ってきました。
年齢とともにいろいろな事で、時間がかかるようになりました。文章を書くスピードも落ちてきました。まあ、ボチボチやっていきます。



令和3年10月16日  記

(当院で行った新型コロナウイルスの検査)
当院では、2021年1月1日から10月16日までに、新型コロナウイルスの抗原検査を68名に、またPCR検査のための検体採取を30名に対し行いました。

PCR検査は、今年1月と4月に大洲市内の2か所の子ども園で新型コロナウイルス感染症の患者さんが出た際に、八幡浜保健所から濃厚接触者(園児)のPCR検査の検体採取を計29名分依頼されました。全員陰性でした。PCR検査の残り1名は、5月に当院で行った抗原検査で陽性に出た例で、八幡浜保健所に報告したところ、PCR検査で感染の有無を確認することになりました。当院でPCR検査の検体を採取し、同保健所に提出しました。結果は陰性でした。
抗原検査は、上記の1例を除き、67名が陰性でした。

すなわち、幸いなことに、当院で新型コロナウイルス感染症と診断した患者さんはまだ一人も出ていません。当院がかかりつけ医になっている子の親御さんが、新型コロナウイルスにかかったケースがありましたが、子どもさんは罹(かか)らずに済みました。



令和3年5月29日  記

今年は、鯉のぼりが青空を泳ぐ姿をあまり見なかった気がします。5月15日に四国が梅雨入りしました。1951年の統計開始以来最も早い梅雨入りだそうです。この年になって、最も早い梅雨入りを経験するとは。いろんなことがあるものです。そう言えば、自宅の玄関の外にあるツバメの巣にいた子ツバメが5月13日に巣立っていきました。今年の巣立ちは、例年より半月以上早いです。昨年までは、「お別れ」の前に、子ツバメが玄関先の石段や庭に降りて、跳ねるように歩くかわいらしい姿をよく見かけました。そして、何日か、家の近くで飛ぶ練習をして、巣立って行ったものです。今年は6羽いた子ツバメが突然いなくなってしまいました。その日、私は日暮れまで何度か巣を見に行きましたが、ツバメは戻っていませんでした。
庭のモッコウバラ、スズラン、シバザクラなどの花も、例年より2、3週間くらい早い4月初めに咲きました。人間の社会が新型コロナウイルスにずっと振り回されています。人々の心に余裕がなくなってきてます。そういう中で、自然界も何か急いでいるように見えます。
自分のことですが、年々、変化に対応する能力が落ちてきているように感じます。日々の仕事の量も減らしていきたいと思うことがあります。今も第一線でバリバリ仕事をされている同年輩や先輩方に、まだ早いと叱られそうです。いずれにしても、『平穏無事』これが一番、と考える今日この頃です。

 
巣の中の子ツバメ(昨年の6月5日)   巣の下に降りた子ツバメ




令和3年5月15日  記

このページの最下段に「業績」「所属学会、役職及び社会における活動」を載せました。



令和2年5月24日
  記

このページのあいさつ文を書く時期についてはとくに決めておりませんが、今見ると4月、5月が多くなっています。文章というものは、その時の気分にある程度影響されます。気分が乗ってないと、まずは机に向かわないです。4月初めには桜が満開になります。暖かく、日もずいぶん長くなります。5月は新緑が映え、風もすがすがしい良い季節です。
今年、気候はいつもの年とそう変わりませんでした。しかし、新型コロナウイルスの問題がありました。3月以降、学校の休みが長く続いた子どもらは、さぞや退屈だったと思います。外で遊ぶのもダメ、友だちの家に行くのもダメでは、気が晴れる時がなかったでしょう。そういう時に、宿題がドサッと来ても、「さあ勉強しよう」なんて気分にはふつうならないです。
思えば、年が明けてからずっと「コロナ、コロナ」でした。さまざまな職種の人たちが大なり小なり影響を受けてきました。これからも続くと思います。とは言え、現在、感染者数は減少傾向にあります。政府の緊急事態宣言も全面解除される方向で進んでいます。学校もまもなく正常化しそうです。
一方、多くの国民がそろそろコロナ疲れ、コロナ飽きしてきたようにも見えます。しかし、こうなって始めて、冷静な議論ができるようになります。日本という国はわりとそうです。東日本大震災、原発事故などでもみられましたが、マスコミ報道には、かき回すだけで事の本質をついてない、政治・行政・現場の足を引っ張る、科学的でなく感情的、誰かをつるし上げたいだけ、プライバシーへの配慮がないなど負の面が多々あります。
新型コロナウイルス感染症は南米、アフリカ大陸を含む全世界に広がっています。そう簡単に鎮静化することはないと考えられます。この先、国の将来を見据えた冷静で有意義な議論を重ねていってほしいものです。
幸いなことに、このウイルス感染症の小児例は少なく、重症化することは極めてまれです。この地域でも、小児の患者はまだ一人も出ておりません。小児の治療法、ワクチンについては、慌てず、安全性・有効性を十分検討してもらいたいです。私自身も情報を集めて、勉強していきます。



令和元年5月末  記

この1年間に自分のまわりで起こった出来事をいろいろ思い出すと、実に多くの事が起こっています。1年は長いです。一方で、「あれからもうそんなに経ったか」と思うこともあります。月日があっという間に過ぎるように感じることもあります。

もうしばらくすると、 梅雨入りです。去年の梅雨の終わりに起こった西日本豪雨(平成30年7月豪雨)による災害からあと1か月ちょっとで1年が経ちます。浸水や土砂災害。この南予地方は大きな被害を受けました。水害当日の大洲市を写した航空写真を見ると、市全体が水に浸かっています。悲惨な光景です。今では、道路や建物の復旧が進み、何事もなかったかのように見えます。しかし、多くの人々の心に大きい傷跡が残っていると思います。
私事ですが、この水害に際し、皆様方からお心遣いいただきました。愛媛県小児科医会、愛媛大学医学部小児科同門会の先生方には改めて御礼申し上げます。中国地方や熊本県など他県の小児科医会様からも義援金をいただきました。ご厚情、誠にありがとうございます。

近頃、働き手不足(人手不足)の問題が新聞やテレビの報道でよく取り上げられます。この問題は地方ほど深刻です。この南予もそうです。今、職員不足で困っている医療機関は多いです。
当院も例外ではありませんでした。当院は開院以来、看護師5〜6人、事務職員2〜3人体制で診療を行ってきました。今年に入って、結婚退職、妊娠継続のための安静の指示、病気による休職等が重なり、一気に人手不足に陥りました。これまでで最も困難な状況になりました。残った職員がよく頑張ってくれました。幸い、今月になって、病気から復帰する職員、新規に採用できる人が複数現れ、来月から何とか元の職員数に戻せそうです。診療は中身が大切です。医療レベルが落ちないよう、これから努力していきたいと考えています。

この5月1日に元号が変わりました。その日を挟んで、平成の終わりと令和の初めに、有名な2つの神社に行く機会がありました。これらは1年前には決まってなかったことでした。4月の終わりに名古屋で開催された日本医学会総会に参加した際に、熱田神宮を参拝しました。熱田大神は、三種の神器の一つ草薙剣(くさなぎのつるぎ)を神体とする天照大神とされています。令和になった5月12日には長女の結婚式が明治神宮でありました。ともに格式の高い神社です。新緑の時期で、気持ちのいいさわやかな気候でした。同時に、辺りには身が清められるような空気が漂っていました。
「良い年が続きますように」と、心から祈ったしだいです。

 
熱田神宮(名古屋 平成31年4月29日)   明治神宮(東京 令和元年5月12日)




平成30年5月19日  記

  「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」
石川啄木が詠んだ歌です。彼のはじめての歌集『一握の砂』の中に収められています。この「ふるさとの山」は岩手山です。
5月の連休に岩手・秋田に行きました。岩手には3日から5日までいました。写真Aは、5月4日に花巻から盛岡に向かう東北本線の普通列車の中から岩手山を撮影したものです。あいにくの天気で雲が多く、その山が見えたり隠れたりしていました。盛岡に近づくにつれ、山は大きく、そして「岩手富士」「表岩手」と呼ばれるきれいな形になっていきました。写真Bは、翌日盛岡から秋田に向かう秋田新幹線こまちから撮ったものです。岩手県雫石町あたりから見た「裏岩手」の姿です。
岩手県は日本一広い県で、愛媛県の2.7倍の広さがあります。多くの偉人が出ています。有名な詩「雨ニモマケズ」で知られる詩人・童話作家の宮沢賢治、5千円札の肖像になった教育者・思想家・農学者の新渡戸稲造、政治家では原敬、後藤新平、言語学者の金田一京助。彫刻家・画家そして詩人でもあった高村光太郎は、東京のアトリエが空襲で焼け、花巻で7年間生活しました。

  「かにかくに 渋谷村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川」
故郷を出て各地を漂泊した啄木ですが、彼は心の中にいつもふるさとの山や川をもつ、望郷の人でした。

私にとってのふるさとの山は、西日本最高峰の石鎚山です。標高は1982mあります。この数字はすぐ言えます。私が医学部を卒業して医師免許を取得したのが西暦1982年だからです。岩手山(2037m)と同じくらいの高さです。広い周桑平野の中で育ちました。家からも学校からも、広っぱで遊んでいても、いつも石鎚山が見えていました。子どもながらに畏敬の念を抱いて見ていました。冬はとくに険しい姿でした。それを見ながら、白い息を吐きながら、学校に行きました。
今治からこちらに帰ってくるとき、周越トンネルを抜けると正面に石鎚山が見えてきます。高速道路なら国民休暇村を過ぎた辺りから見えます。この山の頂の姿(写真C、D)には自然と頭が下がります。この姿は西条市内からは見えません。小松町からは手前の山が邪魔して見えません。丹原町でもちょっと近すぎて、ありがた味が少ないように思います。旧東予市とくに壬生川(にゅうがわ)から見た石鎚が最も美しい。これ、全て私個人の意見です。

重信町には26年間住んでいました。かなり長い期間で、第2の故郷と言えると思います。重信町内から望む皿ヶ嶺(さらがみね 1271m)の姿も印象的でした。町内で5回以上引っ越しをしました。下宿していた頃、結婚後の平屋の借家、2階建ての中古住宅、新築した家、どこに住んでも南側のカーテンを開けると、皿ヶ嶺の平らな頂が見えました。大学病院の病棟、医局の窓からもいつも見えていました。思い起こせば、あの頃は、仕事がもっとはやかった。

この5月で、大洲に来て14年が過ぎました。夏は暑く、冬は霧で午前中お日様を見る日が少ないのですが、大洲は住みやすい街だと思えるようになってきました。ここでの山と言えば、家・医院の真東にある神南山(かんなんさん 654m)です。自宅と医院の短い距離の行き来の際に、毎日見ます。満月はだいたいこの山から上がってきます。漫画家の松本零士さんも、子どものときにこの山を見ていました。両親が大洲市の出身で、太平洋戦争末期にお母様の実家があった新谷に疎開していました。その頃の神南山、近くの田畑、列車が走る風景の記憶が、のちの『銀河鉄道999』などの作品につながっています。
体力が下降線をたどっていますが、あの霊峰石鎚、皿ヶ嶺、そしてこの神南山に叱られないような人生にしたいものです。

 
A. 東北本線の列車から見た岩手山(平成30年5月4日)   B. 秋田新幹線「こまち」から見えた岩手山(5月5日)


 
C.周桑平野から見る石鎚山の頂(平成30年3月)   D.東予国民休暇村の海岸から見る石鎚山(同)




平成29年9月30日  記

7月に福島県の猪苗代町に行きました。まだ、梅雨が開けていないときで、雨が降ったりやんだりしていました。JR猪苗代駅に向かう帰りのタクシーの中で、運転手に「少し時間があるのだけど、どこかもう1か所観光する所はないですか」と尋ねてみました。「それでしたら」と、駅から少し離れた所にある由緒ある神社に連れて行ってくれました。その神社の境内のどこで見たのか覚えてないのですが、ある説明文の中に「加藤嘉明」という文字を見つけました。「そうだ、加藤嘉明は会津に行ったんだ」愛媛の人ならご存じの方も多いと思いますが、この人は伊予松山藩の初代藩主です。松山城を築城し、地名を松山と命名しました。その名をここ会津(福島県)で見て、何かうれしい気分になりました。しかし、あの時代にこんな遠くまで「転勤」させられるとは。松山から会津、半端な距離ではないです。気候も全然違います。(これが場面1)

それから25日後、お盆の少し前に、某病院の病室の窓からこの景色(写真A,B)を眺めていました。「加藤嘉明はさぞや無念だったろう」松山城を正面に見ながら、つくづくそう思いました。多少、自分の心理状態も影響していたかもしれません。担当医から「ここの景色は最高でしょ」と言われましたが、実はこのロケーションは3年ぶり、3度目でした。いずれも3~4日の短い「滞在」です。確かに、ここは松山城と松山市内の主だった建物が一望できる一等地かもしれません。松山城は、現存12天守の一つとして愛媛・松山の観光名所になっています。完成度の高い城として評価されています。この窓からから見る松山城はとくにきれいです。このコーナーは『おじさんの病気日誌』ではないので、そういつもいつも病気の話をしてもと思うので、今回は書かないことにしました。今年の8月は、一言で言えば「おもしろくなかった夏休み」でした。(場面2)

話を加藤嘉明に戻します。彼は、西暦の1563年、三河国(現在の愛知県)の出身です。 のちに尾張国で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に見出され家臣となりました。同じ加藤でも、熊本の加藤清正に比べて知名度は低いのですが、1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍し、清正と同じ『賤ヶ岳七本槍』の一人に数えられています。1595年、朝鮮出兵の論功により伊予国正木(今の松前町)の6万石の城主に封じられました。
嘉明は関が原の戦いののち、1602年松山城の築城に着手しました。普請奉行は足立重信でした(重信川の名の由来)。石手川や重信川(現在の名)の河川工事、城下町の整備にも力を入れました。築城の途中でしたが、大坂冬の陣(1614)、夏の陣(1615)にも出陣しています。そして、1627年、普請開始から20年以上経って、もう少しで完成というところで、徳川幕府に会津への転封(国替え)を命ぜられました。石高が20万石から40万石の倍に増えるといっても、さぞ残念だったろうと思います。伊予に領を得て30年が過ぎていました。年齢も65歳になっていました。
今回、私は改めて「松山城は美しい」と感じました。嘉明もそう思っていたでしょう。コツコツと造り続けて、毎日この城を見ながら、完成を楽しみにしていたさなかの異動でしょうから、悔しかったと思います。「何が悲しゅうて、寒い会津くんだりまで」と言ったかどうか知りませんが、結局、嘉明は松山を離れて4年後に亡くなりました。(場面3)

 

(写真A)
病室からの眺め。松山の街が一望できます。



 

(写真B)
松山城。この位置から眺めると、実にいい城だと思いました。


私は東予、中予、南予とうつってきました。これまで無念、残念も多かったような気がします。しかし、年とともに、望むものや競う人、気になることがどんどん減ってきました。随分、落ちついてきたように自分では思っています。

8月12日、その病院を出たあと、市内のホテルで一泊して、翌13日に大洲に帰りました。しばらくぶりの塩分がふつうに入った食事が何よりうれしかったです。お盆の混雑を避けるため、朝7時にホテルを出ましたが、高速道路の下り線はすでに多くの車が列をつくって走っていました。(場面4)




平成29年4月23日  記

今回はめまいです。不本意ながら、また病気の話から始まります。それより先に、まずお詫びを。4月6日(木)の朝、診療を開始して3人の患者さんを診た後、臨時休診にしました。木曜日は1日診療をする日でしたので、多くの方にご迷惑をおかけしました。すみませんでした。
起床時からめまいと吐き気があったのですが、何とか診察室までは行きました。しかし、やはり無理でした。職員の話によると、朝現れた時点で、仕事ができる顔色ではなかったそうです。動くとくらくらして気持ち悪くなるので、午前中は点滴をしながら院内で休んでいました。心拍、血圧は正常でした。まわりから「早く病院へ行った方が良いのでは」と言われました。ふだんお世話になっている地元の病院の院長先生に「明日も調子が悪くて仕事ができないようでしたら、そちらを受診しますのでよろしくお願いします」と電話をしました。
前の日曜日の4月2日が小児休日当番医でした。年を取ってくると、この当番医というのは命がけです。大げさかもしれませんが、それくらいこたえます。年上のある先生も同じことを言われていました。3月の終わりは、診療以外のことでスケジュールがたくさん入っていました。いろいろな方と会わなければなりませんでした。また、診療後、会議のため出かけた日も何度かありました。それらの疲れが影響していたのかもしれません。もう若くはない、無理が利かないということでしょうか。
休診にしたその日は、昼過ぎに家に戻り、ソファーに横たわってうとうとしていました。少しずつ具合も良くなってきて、夕方からはビデオに録画している『ブラタモリ』を6、7本見ました。別府温泉、讃岐うどん、金毘羅さん、奄美大島、水戸などの放送分です。最後に見た水戸編の途中、先月訪れた『小石川後楽園』のことを思い出しました。
水戸は徳川御三家の一つ水戸藩があったところです。水戸黄門こと徳川光圀は、水戸藩の第二代藩主です。小石川後楽園は水戸徳川家の江戸上屋敷につくられた日本庭園です。初代藩主が築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、完成させました。中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と命名しました。なお、東京ドームの前身の「後楽園球場」は小石川後楽園にちなんで名づけられました。

子どもらも20歳を越えると、そうたびたび家に帰ってくることはありません。盆や正月でも家族が全員揃うことはあまりありません。我が家の場合、各自が住んでいる場所の関係で、全員が集まるには今は東京が一番都合がいいのです。今回は、「春分の日」の前日の3月19日(日)夕方にホテルニューオータニに集合することにしていました。昼間時間があり、天気が良かったので、私と家内はまだ行ったことがない小石川後楽園に行ってみることにしました。JR中央線「飯田橋」駅で降りて、地図を見ながら探して行きました。その日は春のぽかぽかした良い天気でした。小石川後楽園に入ると、まず「都心にこんな大きな庭園がよく残っていたものだ」と感心しました。広い庭、多くの種類の木々や草花、池、橋など見どころがたくさんありました。

 

小石川後楽園内の「丸屋」という萱葺(かやぶき)屋根の東屋。かつて水戸光圀もこの景色を眺めたのでしょうか。
(平成29年3月19日)



 

カモが春の日差しを浴びながら、「大泉水」(池)で気持ち良さそうに泳いでいました。



 

遅咲きの梅の花がきれいに咲いていました。
小石川後楽園では、この3日後の3月22日にソメイヨシノが開花しました。


この日の2日後(3月21日)に東京でソメイヨシノが開花しました。四国や九州より早い開花宣言でした。一番桜を見れなかったのは残念でしたが、久しぶりに家族全員が顔をそろえて話ができてよかったです。何か時別なことを話したわけではなく、特別な料理を食べたわけでもないのですが、良いひと時を過ごすことができました。
いろいろな人から聞く話ですが、「年が進むと、病気もさることながら、身近な人とのもめ事が一番しんどい」。私はうちの職員や親切にしてもらっている各業者の方も、自分の「家族」のように思っております。もう少し自分の健康に気を付けて、身近な人と良い関係を長く続けたいと思う今日この頃です。



平成28年10月23日  記

今月の連休を利用して、青森、秋田を旅行しました。この旅行で以って、日本全国すべての都道府県に行ったことになりました。
4年前、長男が東京から仙台に移ったときに、ちょうど日本内分泌学会が仙台で開催されました。それに合わせて、私も仙台に行きました。その際、岩手の平泉まで足をのばし、半日ほど観光をしました。その時点で、国内で行ってない県は、青森と秋田だけになっていました。
学生時代の6年間に、県外から来ている同級生の家に遊びに行ったり、友人と一緒にいろいろな所を旅行しました。職についてからは、年1回の医局旅行や、自分が所属している学会に出席するため、年に数回は県外に行っていました(この学会出張の効果が最も大きかったと思います)。また、子どもが小さかった頃は、年1回は家族で旅行に行っていました。何度も行っている都道府県もありますが、青森、秋田だけが残っていました。

一般のサラリーマン、公務員(職種によって違います)とは違って、われわれには連休というものがあまりありません。土曜日が診療日だということもありますが、「休日当番医がいつも連休に当たる」うちのスタッフの言葉です。確かにそうで、先月9月の「敬老の日」のところの連休、その前の7月の「海の日」の連休も、あの忙しい小児休日当番医が当たっていました。5月は当たらずに済みましたが、3月の「春分の日」の連休も当番医が当たっていました。臨時の休診日をつくって連休にするという手もありますが、医院としては臨時休診は出しにくいものです。お店をされている方ならよくわかると思います。わざわざ来てくれる人がいるわけですから。
10月8日(土)診療が終わったあと、松山空港に向かい、松山→羽田、羽田→青森と空路で行きました。その日は、大方の飛行機が遅れており、青森空港に着いたのは夜の10時前でした。強い雨が降っているのに、空港にタクシーがいなかったのには参りました。ホテルに付いたとき、ホテルのレストランはすでに営業終了になっていました。フロントの人が、近くの居酒屋やラーメン屋を教えてくれました。このとき、家内と食べた青森の煮干しラーメンとしじみラーメンがとてもおいしかったです。
翌9日(日)は大安でした。レンタカーで秋田県の大館まで行きました。ここで全都道府県訪問となりました。偶然見つけた同じ系列のレンターカー営業所の女性スタッフから、大館市ではその日『きりたんぽまつり』が開かれていることを聞きました。勧められた通り、駅からシャトルバスに乗って会場の「大館樹海ドーム」に向かいました。バスも会場も満員でした。国内最大の木造ドームの中は、たくさんのお店が出ていました。そこで、本場のきりたんぽ(正確には、たんぽ)を食べてきました。大館から引き返し、その日の宿泊地、青森県大鰐温泉の「星野リゾート界 津軽」に向かいました。その豪華なホテルで、まだ明るいうちにリンゴ湯に入りました。夜は大間のマグロをいただき、そのあと津軽蛇味線「津軽じょんがら節」の生演奏を見ました。充実した1日でした。


近いうちに『歳時記』に、この時の事をもう少し書きたいと思います。徐々に年を取ってきます。リフレッシュしながら、仕事をやっていきたいと思っています。

 


秋田県大館市のJR大館駅前の「秋田犬の像」
(平成28年10月9日)



 


愛媛生まれの愛媛育ちですので、真っ赤なりんごがたわわに実った景色は見たことありませんでした。(青森県大鰐温泉)



 


夕食「特別会席」で大間のマグロづくしの料理を堪能しました。食事が終わりに近づいた頃、ロビーで津軽蛇味線の演奏が始まりました。最後の曲の「津軽じょんがら節」の迫力に圧倒されました。
(星野リゾート界 津軽)




平成28年5月30日  記

今度は足の痛みです。「左踵骨骨端炎」。先月、知り合いの整形外科の先生に診てもらい、こういう診断名を告げられました。左足の踵(かかと)の骨から、バラの棘のような小さい突起が出ており、これが痛みの原因になっていました。それにしても、近年は、毎年のように体のあちこちに欠陥が見つかります。その先生からは「私が知っている限りでは、1年以上痛みが続いた人はいない」と言われました。今もまだ、左足を引きずって歩いています。仕事中も、時おり強く痛みます。

そのふた月前の2月に、かかりつけの腎臓内科の先生から「10kg痩せたら、必ずデータは良くなりますよ」と言われ、冬場やめてしまっていた散歩を、少し暖かくなった3月から再開しました。「ジャパネットたかた」でわりと高いウォーキングシューズを買い、それを履いて歩いていました。休みの日や午後が休診の日に、時間にして40-50分、家からそう遠くないところを何回か散歩しました。ある日の朝、布団から起き上がるときに、左の足の裏がひどく痛みました。「そのうち、治るだろう」と高をくくっていたのですが、一向に良くならず、むしろどんどん痛みが増し、まともに歩けなくなりました。4月半ば、学会に参加するため、痛みを押して京都まで行ったのですが、これは悲惨でした。重い荷物を肩から下げて、地下鉄の構内などを長いこと歩かないといけないのと、靴底が固い慣れない革靴を履いているため、歩くたびに激痛が走りました。何歩か歩いては立ち止まり、階段は一段ずつよろよろしながら登り降りしました。通行人がじろじろ見ていました。
「もうダメ、これはいかん」と思い、上記の整形外科の先生の所に行った次第です。本当にいろんな病名をもらいます。まだ50代で、地元の医師会のメンバーのなかでは、かなり若い方なのですが。まわりのお爺さん先生らは、皆さんお元気そうに見えます。

もう一つ、別の話題です。先日、全国の小中学校が減り続けているという新聞記事を見ました。少子化による統廃合などで、1980年から昨年までの35年間に、約5000校減少したそうです。しかし、実際は、学校数よりも児童・生徒数の減少幅の方が大きく、約半数が適正な標準学級数の12学級を下回っているそうです。1980年(昭和55年)当時、約1170万人だった小学生、約490万人だった中学生が、昨年、それぞれ約640万人、約320万人になっています。南予のこのあたりでも、すごいスピードで少子化が進んでいます。小学校の統廃合も進み、半分くらいに減りました。人口ピラミッドの形を見ると、ぞっとします。ただ、こういう状況になることは、何十年も前からわかっていたことではあります。
「子育て支援」は今では、はやり文句のようになっています。しかし、付け焼き刃みたいなものがポロッと出てくるだけで、どうもパッとしません。この地域にある、たくさんの、あのボロボロの保育所、幼稚園(どこばりではめったにお目にかかれない)を見ていたら、何をか言わんやです。ある種のシンボルです。熊本地震のような地震が起きた時、大丈夫なのでしょうか。

最後に、今日、このホームページのアクセス数をみたら、12万5千台の数になっています。初めの頃、確か、1500くらいになった時に、業者の方から「(読者が)増えていますね」と言われて、喜んだ記憶があります。徐々に、カウントが増えるペースが早まっているような気がします。どんな方が見てくれているのか、こちらではわかりかねますが、ありがたいことと思っております。
私は、他院のホームページは見ないことにしています。ただ、これを立ち上げる際に、開業医としての先輩になるI小児科、M小児科のそれは参考にさせてもらいました。他院(他の医師)の記事、文章を読んだら、それとそっくりになってしまうことを恐れます。独創性を大事にしたいと考えております。たまにネチこい性格の先生がいて、あれこれ言われることがありますが、気にしないようにしています。いずれにしても、大勢の方に気楽に読んでもらえたらと思っています。

 

戒能 幸一 (かいのう ゆきかず)
 愛媛県東予市(現 西条市) 出身

昭和57年4月愛媛大学医学部小児科入局後、平成15年6月までの21年3か月間愛媛大学医学部で勤務しました(昭和57年4月から昭和61年3月までは大学院)。その間、附属病院、医学部での診療、研究、学生教育に従事しました。
大洲に住んで12年が経ちました。写真は今年の4月9日にいただいたバースデイケーキです。ビートルズの4人のメンバーの似顔絵がケーキの上に描かれていました。感激ものでした。




平成27年4月29日   記

1年ぶりのあいさつです。開院から5年9か月が経ちました。この度、診療日を変更しましたので、その件について説明いたします。
当院は、開院(平成21年8月)当時は木曜日を1日休診とし、土曜日を午後5時までの診療としていました。しかし、平成23年からヒブ、肺炎球菌ワクチンの開始、日本脳炎ワクチンの再開など予防接種の種類、回数が倍以上に増え、木曜日を丸1日休むと、予防接種の時間枠が不足するようになりました。予防接種で混雑すると、一般の外来患者さんの待ち時間も長くなりました。一方、患者さんの保護者の方からは、「うちの子が熱を出すのはたいてい木曜日。お宅があいてない時。」という話をよく聞きました。週明けの月曜日に保育園や学校に行って病気をうつされると、数日の潜伏期間を経て、水曜日の夜から木曜日に熱が出る子どもさんが実際多いです。このため、平成24年10月から土曜日の診療を午後4時までとし、木曜日を半日診療するようにしました。平成25年12月からは、職員の減少と残りの職員の週休2日確保のため、土曜日の診療を午前だけにしました。ここから、木曜日と土曜日が午前半日の診療体制になりました。ただし、インフルエンザの予防接種の時期や子どもの病気が多い時期は、臨時で、土曜日に午後3時半まで診療したり、木曜日の午後にも診療しました。

年齢が増すにつれて、名声や(従業員を含めた)所得が上がることが望ましいのですが、そう簡単にはいきません。年とともに確実に上がっていったのは、血圧とLDLコレステロール(悪玉コレステロール)の数値でした。血糖だけは上がらずに済んでいますが、新たに尿検査の異常が出てきました。高血圧については、平成25年の2月から地元の医師会病院の院長先生に診てもらうようになりました。腎臓の方はこの先生の紹介で、県立中央病院に通うようになりました。これらの受診は、当院が休みの木曜日の午後に行っていました。ところが、今年の2月から県立中央病院の担当医が変わりました。新しいの先生の診察日は水曜日でした。2月、3月と水曜日の午後を1日ずつ休診にしましたが、やはり少し混乱が出ました。
これ以降も、水曜日の午後を臨時に休診にしないといけない日が必ず出る状況です。当院としては、極力、患者さんや保護者の方にご迷惑がかからないようにしたいと考えました。そして、休診日が不定期に生じることによる混乱を避けるため、年度の変わる平成27年4月から次のように変更しました。 水曜日の午後を休診とし、木曜日は1日診療するようにしました。

 


この写真は平成27年4月26日宇和島城の天守閣近くで撮影したものです。後ろには宇和島港が写っています。
東予で生まれで、中予(重信町)に26年住みました。近頃、「南予もいいな」と思うようになりました。




平成26年4月23日  記 
          

 


戒能 幸一(かいのう ゆきかず)
 愛媛県東予市(現 西条市) 出身
昭和57年4月愛媛大学医学部小児科入局後、平成15年6月までの21年3か月間愛媛大学医学部で勤務しました。その間、附属病院小児科での診療、医学部の学生の教育、専門分野の研究に従事しました。

・日本小児科学会専門医

・日本内分泌学会専門医・指導医、評議員

・日本糖尿病学会専門医・指導医、評議員
もう少しで大洲に来てから10年になります。左の写真は、平成26年3月27日の大洲城で、ほぼ満開の桜をバックに撮ったものです。


生まれてから高校卒業までの18年間故郷の東予市に住み、2年間の松山市在住を経て、その後25年間重信町(現 東温市)で暮らしました。大洲に来たのは平成16(2004)年4月30日でした。まもなくちょうど10年を迎えます。東予→中予→南予と生活の拠点が移りました。「住めば都」と申しますが、その通りです。どこも良かったように思います。
大洲市内、近郊の市や町の地名、実際の場所もだいたいわかるようになりました。住んでいる方々の人柄、地域の経済状況、子どもに関する諸問題なども、少しずつわかってきた気がします。 これからも、この地域の小児医療に貢献していきたいと思っています。(平成26年4月23日 記) 


『ななほし』の由来

開院当初、『ななほし』の名について、いろいろな人から聞かれました。
由来は以下の通りです。

平成21(2009)年3月某日、神戸牛で有名な兵庫県三田市のしゃれた焼肉レストランで昼食をとりながらの会話です。 この日は、当院の建て前(棟上げ)という大事な日でしたが、朝ちょこっと車で建築現場の横を通って、あとは家内と職員にまかせて、飛行機に乗ってここまで来ていました。


F氏 「先生、もう病院の名前は決めたんですか。」

小生 「まだ、決まらんのよ。今月がタイムリミットと言われとんのに。しょうがなかったら、自分の名前でも付けるけど。そうはしたくないんよね。電車やバスの中・そと、駅や道路端に自分の名字を病院の名前につけた看板をよく見かけるけど、昔からそれがいやでね・・・・(省略)」

F氏 「病院のロゴマークから決めたらどうですか。」

小生 「えー年して、ロゴマークなんか、いらんよ。」

F氏 「そうはいかんでしょ。小児科らしい、かわいらしい動物なんかどうですか。たとえば、リスなんか。著作権に触れないように、少し物を付け足して。」

小生 「子どもの頃、よくてんとう虫を見よった。」

F氏 「それじゃあ、ななほしクリニックはどうです。」

小生 「それ、ええなあ。」 ・・・これでほとんど決まりました。


そのほかに

1)自分の子どもの名前に、<明> <陽> <光>という漢字を用いており、この医院を4人目の子として考えれば、きらきらシリーズとして、<星>という文字を前々から使いたかった。

2)ナナホシテントウムシは子どもの頃から益虫と聞いていて、印象が良かった。

3)てんとう虫のことは、英語では a ladybird (米国では a ladybug)と言いますが、このladyは聖母マリア(Our Lady)が語源になっており、神聖な虫と考えられているようです。日本語の『天道虫』は、16世紀に来日した宣教師が、「天への道を教えてくれる神の虫」と説明したことが始まりとされています。インターネットで知りました。

4)家内は、<ななほし>で北斗七星をイメージしました。この時期(平成21年3月)、NHKの大河ドラマでは上杉家の忠臣、直江兼続(なおえ かねつぐ)(その役は、かっこいい妻夫木聡 君が演じていました)を主人公にした『天地人』が放映されていました。その番組の最後には、夜空の北斗七星が映し出されていました。
「北極星は主君(上杉景勝)であり、北斗の七星はそれを守るために存在している。兼続はその星の一つになれ。」というようなことが、その時期の放送の中で語られていました。

当院は、私を含めて職員7名でオープンする予定になっていました。それらの人が北斗の七星で、子どもが北極星と考えればいいのでは・・・。

かくして、てんとう虫のような、北斗七星のような「大洲ななほしクリニック」に決まった次第です。


慢性疾患で通院する中学生、高校生、大学生らのことを考慮して、医院名に『小児科』をつけませんでした。中学生以上になると、「小児科に行く」ということにちょっと抵抗があるようですので。


(追加  平成26年4月27日 記)  開院から4年8か月が経って 
・『ななほし』 に似た名前の病院がわりとあることがわかりました。市内にも医療法人 北斗会という大きな病院がありました。知りませんでした。
・お母様方から、ななほし先生と言われると、若干抵抗があります。
・今人気のJR九州の豪華旅客列車の名前が「ななつ星 in 九州」です。「ななつ星 クリニック in 四国」と呼ばれるようになりたいものです。
・先週水曜日、4月23日にアメリカのオバマ大統領が国賓として来日しました。到着後、ただちに向かったのが、安倍総理と夕食を共にする銀座のすし屋さんでした。名前は、有名な『すきやばし 次郎』です。かっこいい名前だと感心し、ここもそのうち『とよがはし 空海』(地元では有名な(不名誉?)伝説があります)にしたらどうか、なんて思いました。(冗談です。畏れ多い。)





 

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