歳時記(2012年、2013年、2014年)



 野村乙亥(おとい)大相撲 観戦

平成26年12月 

西予市の野村町とは多少縁があります。町内の公立病院に、5年ちょっと非常勤医師として週2回午後半日、外来診療に行っていた時期がありました。このため、この町で相撲が盛んであることはよく知っておりました。乙亥相撲の時期が近づいてくると、小児科の外来に来る子や親御さんから相撲の練習の話を聞いていました。今もそうですが。
野村乙亥大相撲を観戦したのは、今年が初めてでした。去年、一昨年と過去2回この相撲大会を見に行った家内から「すごくおもしろかった」と聞かされていました。百聞は一見に如かず。思っていたよりずっと良かったです。今年の第163回野村乙亥大相撲の初日が11月24日の振替休日であったため、家内と2人で見に行くことができました。その名が付いた乙亥会館で、熱のこもった一番一番とそれに匹敵するくらい熱い統制のとれた応援を土俵近くの桝席でしっかり見てきました。いや、これは本当に感動しました。外人なら “very exciting” と言うところでしょうか。変な話ですが、私はトイレが近い方で、「糖尿か前立腺が悪いんじゃないの」と言われるくらい仕事中もよくトイレにいきます。しかし、この相撲大会の時は、7時間近く乙亥会館の中にいて、1回しかトイレに行きませんでした。熱中して観戦していました。

乙亥会館はちょっと小ぶりの両国国技館のようです。今どき、山の中の小さな町で、こんなりっぱな公共施設がある所はめずらしいのではないでしょうか。観戦した座席は、大会関係者のご配慮で、桝席番号4番という東側土俵すぐ下の最高の場所をいただきました。選手、力士の背中が50cmくらい前にあり、汗が滴り落ちているのが見えました。負けた力士に付いた砂の粒が見えました。おじさんの体臭もじかに来ました(失礼)。立ち合いのときのドーンという音、力が入って「うおっ」と思わず出る声、土俵下で出番を待つ団体戦の選手同士のひそひそ話も聞こえてきました。
将来角界を担う力士になるかもしれない南予の中学・高校の相撲部の生徒、大学の相撲部の学生、相撲部OBの社会人、町内各地区の代表選手団と、消防、警察、市役所、JAなどの職域チーム、それに加えて、実際の相撲部屋に所属している若い幕下の力士たちらが、真剣にかつ楽しんで相撲を取っていました。相撲は、当日になって急に土俵に上がって取れるものではないです。この競技はすぐけがをします。アマの成人選手の人らは、仕事が終わった後や休みを利用して、稽古をしていたのだと思います。皆さん一生懸命やってたので、こちらも力が入りました。また、選手の家族や地区の応援団の人々たちが整然と力いっぱい応援をしているのも印象に残りました。大会関係者らも協力し合ってよく動き、町を挙げての催しであることが見てとれました。

今回の乙亥相撲の前日まで、福岡で大相撲九州場所が行われていました。一晩寝ただけだというのに、人気力士の遠藤関と隠岐の海関もこんな所までと言っては何ですが、よく来てくれました。これも伝統ある行事だからなのでしょう。過去には大横綱 大鵬も来ています。男児の健やかな成長を祈願する「稚児土俵入り」の際に、招聘力士の遠藤関と隠岐の海関はともに東の花道から入場してきたので、私の座っている席のすぐ前から土俵に上がりました。当日の夜のNHK、民放の地方版ニュースには、何度も自分の顔が写っていました。両関取ともに九州場所は勝ち越していましたので、気分も良さそうでした。稚児にとっても縁起が良かったと思います。遠藤関が土俵の上でのインタビューで、「昨日の千秋楽の熱気が、そのまま残っているみたいで、すばらしいです」と、乙亥相撲に賛辞を呈していました。その通りだと思いました。今年は24日が月曜日でしたが振替休日でしたので、観客席も埋まっていました。大会関係者の方々も喜ばれたのでは。少子高齢化が進む人口の少ない町でこれだけ大会を盛り上げるのは大したものです。遠藤、隠岐の海両関取には、彼らの控室で私たち夫婦と一緒に写真を撮らせてもらい、握手もしました。

昨今、やれ、サッカーだ、ゴルフだ、テニスだ、と高額の年俸、賞金がもらえるプロのスポーツ選手をめざして、たくさんの親子が頑張っています。「相撲をしませんか」なんて聞くと、ダサーイと言われてしまうような時代です。相撲は日本の国技であるにもかかわらず、今や、外国人力士だらけになっています。中でも、白鵬、日馬富士、鶴竜の3横綱をはじめとしてモンゴル勢が一大勢力となっています。辛抱、厳しい稽古、古いしきたりの残る相撲部屋。日本の子どもはもう相撲には振りむかないかもしれない。
改革、変革と、声高に叫ばれる今日この頃ですが、その土地その土地の良き伝統、文化を守り、維持し、後世に伝えていくことは大切です。野村乙亥相撲は良い例かと思います。

 
遠藤関   隠岐の海関



 秋の終わり

平成26年11月 

 啄木鳥(きつつき)や 落葉をいそぐ 牧の木々   水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)

水原秋桜子は、中学や高校の国語の教科書によく出ている日本の俳人で、名前がユニークなので覚えておられる方も多いかと思います。明治25年生まれで、昭和56年に没しています。秋桜子は、東京 神田で代々産婦人科の病院を開業していた家に生まれ、自身も東京帝国大学医学部を卒業し、10年後には昭和医学専門学校の初代産婦人科学の教授になっています。その後、家業の病院を継いで、多くの皇族の子どもの出産に立ち会ったそうです。私は、彼の俳人としての活躍や作品については以前から少しは知っておりましたが、彼が医師であったことは最近知りました。

文頭の俳句に戻ります。作者、秋桜子が、実際に訪れた群馬県赤木山の晩秋の風景を回想して詠んだ句です。昭和2年、彼が35歳頃の作品です。季語は啄木鳥で秋ですが、落ち葉という冬の季語も使われています。木の葉がはらはらと落ちていく光景が目に浮かびますが、「いそぐ」なので、多くの木の葉はまだ落ちてないことになります。それで、主になっているのは、冬の季語である落ち葉ではなく、秋の季語である啄木鳥の方なのだろう、と考えたりします。初めの「啄木鳥や」で、牧場に響き渡っている啄木鳥が木をつつく音が想像できます。芭蕉の閑さや 岩にしみいる 蝉の声」などの句と同様に、「音」が強調される状況は、逆に、静かな空間であるということを強く示す効果があります。「落ち葉をいそぐ」という擬人法は、いそがないでほしい、散ってほしくないという心情が表現されているのでしょう。「いそぐ」という語の裏に、惜秋の心情が読みとれます。広い空間に響く啄木鳥の木を打つ音もまた寂しい感じです。

「麓よりも一足早く訪れる高原の牧場で、木々の色づいた葉がみずから急ぐがごとく散っている中で、啄木鳥が音を立てている晩秋のうらさびしい情景」という解説があります。ただ、この句を読んで、その情景を思い浮かべるとき、「秋が終わる、寂しい」という感じはあっても、晩秋の「暗さ」はないように思います。実際、秋桜子自身が「明るい外光を取り入れた句」と語っています。また、「印象派風の油絵が好きで、展覧会を見ては勉強していた効果が現れた」とも述べています。

今、うちの医院の院長室の机に向って座ると、すぐ横の窓のブラインドの隙間から夕陽が射しこんで来ます。11月終わりの夕陽は眩しいけれど、何か勢いがなくなっています。毎年、この夕陽を見ていますが、これで気持ちが落ちついているのか、元気がなくなっているのか、どうもはっきりしない。世の中は、大半がつらいこと、悲しいことで、楽しいことはそんなにはない。年をとっても腹が立つこと、心配なことは多い。これからやって来る長い寒い冬のことを考えると、やはり晩秋の夕暮れは憂鬱です。行動力が鈍り、精神的な活動性も落ちます。けれども、これで良いのかもしれない。パソコンではないが、たまにはシャット・ダウンしないといけない。パワーセーブの状態でしばし過ごすのもいいだろう。いきり立って、いらいら、あくせく、動き、考えるのは、しばらくあっちに置いとこう。

 晩秋の風景 (鬼北町川上)



 満月とドイツ フライブルグ

平成26年9月 

今年は十五夜が例年より一足早くやって来ました。9月8日でした。ふだんの年だったら、まだ厳しい残暑でフーフー言っている時期で、月を愛でる気分にはならなかったと思います。しかし、今年は梅雨が明けてからも雨の日が多く、さほど高温にはなかったものの、雨だらけの夏はもうたくさんという思いでした。幸いなことに、9月8日の十五夜中秋の名月)と翌9月9日の満月(今年3回目のスーパームーン)は晴天に恵まれ、じっくり眺めることができました。十五夜の月は、長浜の料理屋さんの駐車場で見ました。さすがは中秋の名月、貫禄がありました。空気が澄んでいたせいか、月の中のうさぎの模様がよく見えました。次の日のスーパームーンは当院の庭から見ました。神南山の山の端(は)からゆっくりと姿を現しました。いつもの月より大きく感じました。

「どこで見ても満月は同じなんだなあ」 昔、遠く離れたドイツの都市フライブルグでそう思ったことを想い出しました。
ドイツへは、スペインのマドリードから空路でフランクフルトに入りました。スペインで開かれた国際学会の帰りで、助教授(当時)との二人旅でした。出発するマドリード空港では、空港職員の仕事が雑なのと遅いのにはうんざりしたことを覚えています。飛行機の中でも驚いたことがありました。イベリア航空の中型の飛行機でしたが、客室とコックピットを隔てるドアがなく、カーテンで仕切られているだけでした。しかもそのカーテンはほとんど開いていました。スチュワーデスが脚を組んで座って、機長か副機長とずっと楽しそうに話していました。その光景が座席から丸見えになっていました。時おり、クルー全員が大笑いをしていました。日本の飛行機では考えられないことです。ラテン系は実におおらかですが、ちょっと心配になるときがあります。
当時、ドイツにはまだベルリンの壁が残っており、西ドイツと東ドイツに分かれていました。西ドイツの首都はボンでしたが、フランクフルトは西ドイツ中央部にある主要都市で、交通の要になっている所でもありました。フライブルグに行く前日に1泊しました。駅の近くでカレーとラーメンが食べられるレストランを見つけ、突進するように入り、すごい勢いでそれらを平らげた記憶があります。その時に身に付けた知識ですが、日本人の腹にはカレーとラーメンがよく合っています。海外で現地の料理を食べ続けると、腹の調子が弱ってきます。そんな時、これら2つとうどん、梅干しは最良の整腸剤となります。
翌日、列車で目的地フライブルグに向かいました。列車の座席は、日本では見かけることのないコンパートメントタイプでした。車両の片側が通路で、その通路から個室に出入りする 、洋画や外国のテレビドラマで観るあの様式です。感激しながら乗っていました。座席から外の景色を食い入るように見ていました。ドイツ ロマンチック街道の西方をほぼ平行に走っている鉄道路線で、広大な大地の中を列車は走って行きました。一面じゃがいも畑のように見えましたが定かではありません。ところどころに小さい村があって、あっという間に通り過ぎて行きますが、その村の中心には必ず教会が建っていました。

フライブルグを訪問する目的は、上司の助教授(のちに教授に就任)の共同研究の打ち合わせのためでした。当時、大学病院の小児科で診ていた先天代謝異常症の遺伝子レベルでの病因解明を依頼する旅でした。今でこそ遺伝子解析は比較的簡単にできるようになりましたが、その頃は世界の中でも数えるほどの研究室でしか行えなかった技術でした。現在、フライブルグは松山市と姉妹都市になっていて、フライブルグ通りなんていう所があるようです。私が訪れたのはそれより前でしたので、旅行前にはこの市のことはほとんど知りませんでした。
フライブルグに到着してすぐ、大学の研究室に向いました。相手の研究者は、40歳前後の口ひげを生やした、いかにもドイツ人というような実直な感じの方でした。おそらくかなり有名な方だったのでしょうが、私の方がまだペーペーだったので、彼の偉大さがよく理解できていませんでした。会談のあと、その先生がフライブルグの街を案内してくれました。大聖堂にも行き、その塔の上まで長い階段を登りました。そこからの景色はすばらしかったです。

ホテルでチェックインして、少し休憩をとったあと、食事に行きました。市内のこじんまりしたレストランでした。フライブルグ大学の優れた研究者と医局の助教授といっしょに食事ができたことは、当時はあまり気がつきませんでしたが、名誉なことでした。われわれが夕食を終えて外に出ると、あたりを照らすきれいな満月が出ていました。雲は全くありませんでした。まわりはブドウ畑だったと思います。海外で見る初めての満月でした。9月の下旬のことで、日本で言えば中秋の名月です。もともとヨーロッパの夏は短いですが、スペインのマドリードと違い、フランス、スイスとの国境に近いこの市では、夜の気温はぐっと下がっている感じでした。そこで、月を見ながら、文頭の「どこで見ても満月は同じなんだなあ」と私が英語でつぶやくと、ドイツ人の先生が何かウイットに富んだ言葉を話されました。それが想い出せない。「何と話されたかなー」と考えるうちに、それ以外の記憶は次々と蘇りました。今年の中秋の名月、スーパームーンを見ながら、当時の遥かかなたの地に想いを馳せた次第であります。

 十五夜 (平成26年9月8日)
東方の神南山から姿を現した中秋の名月



 京都 五山送り火

平成26年8月 

点火は夜8時と聞いていました。見学者はその30分前にホテルのロビーに集まりました。そこから職員の指示に従って、エレベーターで順に屋上に向いました。1階のロビーですでに行列ができていました。屋上に着くと、たくさんの人たちが待っていました。その数がどんどん増えて行きました。開始直前にはすごい人数になっていました。宿泊客で、かつ、ホテルのレストランでその夜食事をする人たちだけが行ける“場所”だったのですが、そこらの通行人が紛れ込んでいるのではないか、と思ってしまいました。「隣の国のビルなら床が抜けるぞ」とも。何より、雨が心配でした。後で述べますが、昼間、京都は豪雨でした。「杓子定規に、8時まで待たなくても、雨が降ってないうちに、火を付けたらいいのに」と思っていたら、近くにいたおばさん同士が同じことを話していました。

(その8時間前) 昼前に、観光タクシーで比叡山・延暦寺に向いました。ホテルを出発した時は雨は降っていませんでした。京都市の東の方の白川通りを走っている頃から小雨が降り出しました。その後、急に雨足が速まり、比叡山の道路を登り始めると、大粒の雨がフロントガラスを激しく叩き、前が見えないくらいになりました。車のワイパーはあまり役に立っていませんでした。雷も大きく鳴っていました。道路の横の山肌から滝のように水が流れ出していました。危険を感じました。延暦寺の国宝殿の近くのバスセンターに着いて売店の中に入ると、雨宿りする観光客でごったがえしていました。国宝殿の展示物を1時間くらいかけて見て回り、外へ出ると、雨は小降りになっていました。そのあと、大講堂、根本中堂(総本堂)などを見学しました。
比叡山を降りて行く途中、雲の切れ間から琵琶湖が見えました。霧で見えなくなったかと思うと、さっと霧が流れ去り、琵琶湖と周辺の大津市や草津市も見えました。水墨画のような幻想的な風景でした。タクシーは同じ道を京都市内に向って下っていきましたが、何か所かで道路に土砂が流れ出ていました。大きめの石も道路に転がっていました。鴨川は、これが鴨川かと思うくらい水かさが増していました。夕方、ホテルの部屋でテレビを見ていると、京都市に記録的短時間大雨情報が出されていました。滞在していた中京区あたりにも時間100 mmの雨量があったようでした。テレビの画面には、京都市内の道路のアスファルトがめくれ上がって、そこから噴水のように水が噴き出しているところが写っていました。「あー最悪。大文字焼きももう中止じゃないか」と家内に言いました。

(夜8時前) 雨を心配していました。8時少し前にぱらぱらと来たので、渡されていたカッパを着ましたが、すぐやみました。8時が来ました。あたりの電灯が消されて、初めに「大文字」に点火されました。あとでわかりましたが、この右手(東)に見える大文字が、5つの文字、形の中で最も高い所にあり、そしてはっきり大きく見えました。この「大文字」が五山送り火のシンボルになっています。しばらくして、「妙法」→「船形」→「左大文字」→「鳥居形」の順に右(東)から左(西)へ点火されて行きました。この屋上からは「妙」の文字だけは、前のビルが障害になって見えませんでした。これらの文字、形にはそれぞれ意味があります。これについてはまた別の機会で述べることにします。
五山の送り火は約1時間静かに燃え続けていました。人はたくさんいましたが、なんとはなしに、しんみりした雰囲気でした。外人さんもわりといましたが、彼らにはどうも理解できてないようでした。昼間はひどい天気でしたが、無事最後まで、古都の夜に浮かぶ送り火を鑑賞することができました。長年の望みがかなった時でした。そのあと、ホテルの日本食レストランで食事をし、満足してホテルの部屋に戻りました。テレビを付けると、その日京都市内のいろいろな所で道路や店が冠水したことが報道されていました。翌朝のニュースでは、京都府福知山市の市街地が広い範囲で水没している映像が写っていました。大洲に住んでいる者にとって、水害はひと事とは思えません。痛ましい光景でした。

午後、松山空港に着くと、快晴でした。久しぶりに聞く蝉の声でした。ちなみに、京都で泊まったANAクラウン プラザ ホテルの部屋に置かれていた歯みがきセットも、『製造 愛媛県大洲市新谷』と書かれておりました。不思議と、うれしいものです。

 
比叡山から望む琵琶湖と大津、草津   ホテルから見た「左大文字」



 桔梗(ききょう)と蓮(はす)

平成26年8月 

今の時代、日本航空(JAL)や全日空(ANA)のマイレージカードを持っている方は多いかと思います。わが家では家族全員が持っています。先月、貯めたマイレージで特典航空券を購入し、「海の日」の連休に、家内と2人で東京に行ってきました。夏休みに入って初めての休日で、しかもそこが連休になっていたため、人気がある所はどこも人がいっぱいみたいでした。それならと、あまりうろうろせず、久しぶりに家族で食事でもしようということになりました。イギリスにいる娘を除いて、仙台から長男、就活の終わった東京在住の次男が、ホテルにやってきました。7月20日(日)夜の都心は、雷が激しく鳴り、ゲリラ豪雨のような雨が降っていました。

その日の午前、四国地方の梅雨明けが発表されました。今年の梅雨は長かったです。東京は昼間は晴れていました。行く当てもなかったのですが、上野方面に向かってみました。
地下鉄銀座線 上野広小路駅で降りて少し行くと、年末のにぎやかな風景で有名なアメ横(アメヤ横町)があります。夏でも、通りは人だらけで、店員の大きな声も加わり、相変わらず活気がありました。円安効果なのか、外国人が多いという印象を持ちました。そのあと、池之端の旧岩崎邸庭園、横山大観記念館、上野公園の不忍池と歩いて行きました。


 
旧岩崎邸庭園の桔梗   不忍池の
(平成26年7月20日 夕方撮影)

上の2枚の花の写真は同じ日に撮ったものです。桔梗(ききょう)と蓮(はす)。様々な点で対照的で、趣がありました。
桔梗は、旧岩崎邸庭園の入り口(料金所)に向かう通路の端にポツンと一輪だけ咲いていました。桔梗は秋の七草のひとつで、「あれ、もう咲いている。早いな。」と思いました。花の色がうす紫色で、楚々たる姿でした。旧岩崎邸庭園は、三菱財閥岩崎家の本邸だった建物とその庭園からなります。邸地は三菱財閥初代総帥の岩崎弥太郎が購入し、洋館、和館など建物は3代岩崎久弥によって建てられました。
一方の鮮やかな紅色の蓮の花は不忍池(しのばずのいけ)で見ました。行った頃がちょうど蓮の花期に当たります。早朝に開いて昼には閉じるので、われわれが到着した時間にはほとんどの花が写真のようになっていました。あの広い不忍池全体が蓮の葉に埋め尽くされ、花も無数と言っていいくらい咲いていました。圧倒されるスケールで、ちょっとだけ極楽浄土にいる気分でした。多くの外国人が写真を撮っていました。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」を実感しました。

また余談です。桔梗と言えば、明智光秀の家紋(桔梗紋)を思い起こします。今年のNHK 大河ドラマ 「軍師 官兵衛」では、ちょうど1週間前とその日の放送で『本能寺の変』をやっていました。視聴者にわかりやすいように、森蘭丸に「桔梗の紋。明智にござりまする。」と言わせていましたが、あの有名なシーンは、やはり 蘭丸「惟任日向守(これとう ひゅうがのかみ)、謀反。」 信長「是非に及ばず。」とやってほしかったなあ。大河ドラマは、秀吉が絡む時代すなわち戦国時代から関ヶ原の戦いくらいまでと、幕末が一番面白い。前者の時代で主人公にする人物はもう蜂須賀小六くらいしか残っていないのではないかと心配しています。



 ほおずき市、あさがお市

平成26年7月 

会社の独身男性寮の一室を借りて、約2か月そこの社員と一緒に食事をしたり、風呂に入ったりしていると、年齢も近いためか、いつからとはなく打ち解けて、友人になっていきました。その会社は臨床検査を請け負う検査会社でしたが、当時その業種では国内最大手の企業で、設備、検査機器は地方の大学病院よりはるかに充実していました。その会社の偉い方の説明では、「今、このラボの規模は日本一かつ東洋一です」とのことでした。
医学部を卒業したあと大学院に入り、その大学院最後の年(4年)だったと思います。寮は東京の拝島という所にありました。東京と言っても中心部から随分離れている場所でした。中央線で立川まで行き、青梅線に乗り換えて5つ目くらいの駅でした。ラボに行くときは、この駅から八高線(はちこうせん)に乗って八王子まで行き、そこで中央線に乗り換えて日野まで行っていました。この八高線には驚きました。わが四国の予讃線と同じ気動車が走っていました。当時、まだ電化されていなかったのです。八高線は東京の八王子から群馬県高崎を結ぶ鉄道路線です。東京にもまだこんな列車が走っている、と愛媛の友人に話したことを想い出します。


「そろそろ愛媛に帰るんですよね。今週ちょっと車で行ってみませんか。」 親しくしていた若い社員のひとりに、風呂上がりに寮の食堂で声をかけてもらいました。ほおずき市あさがお市のことでした。随分前のことなので、どちらが先でどちらが後に行ったのか覚えていませんが、それぞれ別の日に行きました。3-4人で行ったと思います。今、インターネットで調べると、ほおずき市は、「四万六千日」の縁日にちなんで、7月9、10日に浅草寺で開かれています。もう一方のあさがお市は、7月6〜8日まで入谷の鬼子母神周辺で開催されているそうです。ともに夏の初めの浅草の風物詩となっています。
その当時は、東京の地理のことはあまり知らなかったので、どの道をどう行ったのかわかりませんでした。今になって考えてみると、拝島から浅草まではかなり距離があり、さっと行ける所ではありません。しかも、ほおずき市、あさがお市の両方が休みの日の開催ではなかったはずで、仕事から帰って出かけたのだと思います。みんな若さゆえにできたことでしょう。研究室の想い出の写真集の中に、ほおずき一鉢を買って、浴衣姿の売り子のお姉さん二人(その時はこちらも若い)と撮った写真がありました。今はその写真がどこにいったかわからなくなっており、残念です。それと、もうすぐ愛媛に戻るというのに、買ってしまったあの鉢植えのほおずきをどうしたのか、想い出せず、もやもやしています。
寮の若い社員の方がもうひとつ想い出になった所に連れて行ってくれました。プロ野球のオールスターゲームです。神宮球場でした。チケット代をいくら払ったのか覚えていませんが、社員の方が取ってくれていました。よく取れたものだと思います。大勢のプロ野球選手を目の前でみるのは初めてでした。今なお記憶に残っているのは、あの伝説の投手 江川卓選手の投球です。内野席から観ていましたが、ストレートは本当に速かったです。
オールスターゲームを観戦した数日後に、愛媛に帰りました。5月20日頃に東京にやって来て、この時も2週間くらいの仕事という上司の指示でしたが、梅雨に入り、梅雨が明け、完全に夏になっていました。愛媛に帰るときの服装は、恰好悪いことに、5月の服装の長袖のシャツでした。
貴重な経験をさせてくださった独身寮の皆さんは、私より少しだけ年上の方が多かったと記憶しています。今なら還暦あたりかと思います。その会社を退職されたか、在職していればかなり上の位の方になっているでしょう。もう会う機会はないと存じますが、深く感謝しております。それから、当時はそうは思いませんでしたが、マウス数百匹といっしょに重信の田舎から東京に送り込んでくださった愛媛大学医学部小児科教授 故貴田嘉一先生にも深謝いたします。


 宮崎

平成26年6月 

そこに着いた日の夜、宿舎の風呂から出てテレビのスイッチを入れると、どのチャンネルも同じ映像を映し出していました。1989年(平成元年)6月3日の夜11時過ぎだったと思います。恐ろしい光景でした。中国 天安門事件が起きた日でした。北京の天安門広場に民主化を求めて集まっていた一般市民に対して、中国人民解放軍が徹底した武力弾圧をし、学生らに多数の死傷者が出た事件です。愛媛から出て来ていきなりでしたので、インパクトがありました。この事件を含めその頃の世相と、宮崎に行った時のことはよく覚えています。

宮崎は、温暖な気候で、かつては新婚旅行のメッカとして名を馳せ、今でも読売巨人軍をはじめプロ野球球団がキャンプ地として利用しているところであります。また、天孫降臨、海幸彦と山幸彦、神武東征等の神話の国としても有名です。仕事(医学研究)でこの宮崎に6週間ほど滞在したことがあります。文頭の天安門事件の頃ですので、随分前です。時期は、ちょうど今頃の梅雨入りから梅雨明けくらいまででした。目的は、宮崎医科大学(今は宮崎大学医学部)の基礎医学系の教室で、ある病気の患者さん達の血液中の自己抗体を高感度で測定することでした。宮崎医大は宮崎市の隣の清武町という所にあって、宮崎市の中心からはバスで40-50分かかりました。当時、医大の周辺にはまだ農村の景色が広がっていました。宿舎は、医大の敷地内にあったゲストハウスを利用させてもらいました。

当時は松山ー宮崎便の飛行機がありました。初日、昼頃に宮崎医大に着き、これから世話になる研究室にあいさつに行きました。その日はそれで終わりだろうと思っていました。ところが、教室に着くなり、教授にあるホルモンを測って検量線を書くよう命じられました。噂には聞いていましたが、大変厳しい教授でした。教室員は、教授がいるとピリピリして、みんな怖がっていました。しかし、数日後、彼らから「君はとても気に入られている。めずらしい。」と言われました。初日の実験で検量線がうまく引けたことと、初対面で「ところで、君は消費税について、どう思う」と聞かれ、「反対してません」と答えたのが良かったそうです。(直接税に偏り過ぎの税制。自営業者の所得が補足されてない。“たかり放題”で、この当時から、財政が立ち行かなくなるのは明らかでした。) しばらくして、指導教官から聞いた話ですが、教授は「彼は院も出ているし、実験はできるようだ。それに、あの年で消費税賛成とは大したものだ。ちゃんと見てやれ。」と言われたそうです。

その年は、新年早々、元号が平成に変わった年でした。前年に発覚したリクルート事件竹下内閣の支持率は下がり続け、最後に、内閣総辞職とひきかえに消費税法案を通しました。私が宮崎に行った日は、竹下内閣総辞職、宇野内閣発足の日でもありました。そして、その日の夜に、天安門事件が起こりました。今月の4日で25年になったと、報道各紙がこの事件に触れていました。この野蛮な国は、今も、昔と何ら変わらない気がします。宮崎での滞在は当初2週間の予定でしたが、測定する検体数が増え、6週間となりました。この間、世の中では様々な事が起こっていました。昭和の歌謡界を代表する歌手 美空ひばりさんが52歳でなくなりました。医大の宿舎は、規則で日曜日だけは利用できなかったので、日曜の朝にバスで宮崎市内まで行って、安いビジネスホテルに泊まっていました。昼間街を歩いていると、消費税反対の署名を度々頼まれました。世間は反消費税ですごく盛り上がっていました。発足間もない宇野内閣は、いきなり総理の女性スキャンダルにみまわれました。それと、以前から引きずっていた「リクルート事件」の影響、消費税導入のいわゆる3点セットにより、7月に行われた参議院選挙で与党自民党はかつてない逆風にさらされ、結党以来の惨敗を喫しました。宇野総理は選挙翌日には退陣を表明しました。

医大の周辺の穏やかな風景は、当時のぎすぎすした国内の政治情勢、強権統治の象徴のような中国での事件とは無縁のようでした。まだ田んぼが多く、ゲコゲコとカエルが鳴いていました。「毎晩、カエルがうるさくて眠れない」と不機嫌そうに話す都会育ちの教官もおられました。庭の広い、昔ながらの農家があり、牛や鶏を飼っている家もありました。舗装してない道端や農家の庭に咲いているあじさいが、その「村」の雰囲気とよくマッチしていました。
私は水色のあじさいが好きです。先日、当院の庭にあじさいを植えてもらいました。今日は静かに雨が降っています。あの天安門事件から25年が経ち、その報道から、宮崎医大周辺の梅雨入りから梅雨明けまでの平和な風景、1型糖尿病の研究、若き研究者の頑張っている姿、熱の入った参議院選挙などを想い出しました。





 春の海 終日(ひねもす) のたりのたりかな

平成26年4月 

いつか、このホームページのどこかで触れたことがありますが、大学病院に在籍していた頃、瀬戸内海を渡って広島県の某病院に非常勤医師として週1回診療に行っていました。昭和61年から実に10年間です。今考えると、よくもまあそんな遠い所まで長いこと行ったもんだと思います。

朝5時台に起床、6時過ぎに重信町(現 東温市)の家を出て、今治港に向かい、さらにそこから1時間ほど高速艇に乗らなければならず、まずそれが大変でした。朝が弱く、車酔い・船酔いをしやすい起立性調節障害のような体質の私は、当初は、その病院に着いても診療どころではありませんでした。へろへろになっていました。しかし、不思議なもので、長年、常に揺れている高速艇に乗り続けていると徐々に慣れてきます。乗船すると、揺りかごに乗ったみたいな感覚で、すぐ寝てしまうようになりました。

とは言っても、高速艇は小さく、スピードが速いので、時には大きく揺れることがありました。何度か怖い思いをしました。とくに、冬が大変でした。瀬戸内海でも、冬はけっこう荒れます。行きの便は、今治港を出たのち、高縄半島と大島の間をしばらく進みます。そのあと、北東方向(進行方向の右)に舵を切って、伯方島と大三島を結ぶアーチ橋の大三島橋をめざしていきます。このあたりで、船は強い西風をもろに受け、大きく揺れ始めます。船がジェットコースターのように激しく上下することがありました。船内で悲鳴が出ることもありました。一度、私が乗る予定だった高速艇の前方のガラスが波の衝撃で割れて、港に曳航されてきたことがありました。
仕事が終わって帰るとき、冬の間は、すでに三原港で辺りが暗くなっていました。それが徐々に日の入りが延びていき、生口島(瀬戸田)まで明るく、続いて大三島、伯方島、大島までとなっていきます。これが楽しみでもありました。今治港に着いても日があるようになるのが、春の彼岸の頃で、日没が夕方の6時半でした。

春になると、穏やかな瀬戸の海になりました。船の中から島々に咲く黄色い菜の花が見える頃が一番のどかだった気がします。春は紫外線が強く、海面がきらきら光っていたことも思い出します。 

     春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな    蕪村

有名な与謝蕪村の句です。須磨の浦(神戸市)で詠んだものといわれています。須磨浦公園に句碑があります。自分が長年見てきた瀬戸内海の春の風景と同じです。しかし一方で、丹後の与謝の海を詠んだともいわれています。そこだと、若狭湾つまり日本海の海ということになります。やはりこの歌は瀬戸内海でないと合わないと思うのですが。

いつもの余談です。歌人 与謝野晶子、鉄幹を祖父母に持つ政治家 与謝野馨氏は政策の職人と呼ばれましたが、彼が読売新聞の中で「我が家のルーツは、天橋立の近くの与謝(現京都府与謝野町)にある」と語っていました。蕪村は39歳の時京都から丹後の宮津というところにおもむきます。そこで3年間滞在します。宮津の近くに与謝があり母親の出身地だと言われています。蕪村ははじめ谷口という姓だったのですが、宮津から京都に戻ってしばらくして、与謝姓にに改めています。ということは、これらのりっぱな人々は一つの地名でつながるのかなと思いました。

帰りの高速艇の右の窓から、ひょっこりひょうたん島のような形の小さな無人島が見えました。大三島の少し手前で、左に生口島があるあたりです。ヤギがけっこう住みついていました。あのヤギはどうなっただろうか。気になっています。春でももっと暖かくなってくると、早朝、霧がよく出て、朝の何便かが欠航することがありました。10時頃には霧は晴れてきます。今治港で船が動き出すまで待って、遅れて行っていました。そういうときでも患者さんは待っていてくれました。今でも、有難いことだったと思っています。

 穏やかな瀬戸内海(今治側から望む来島海峡大橋)



 ハロー・グッドバイ

平成26年3月 

子どもの頃、食い入るように見ていたテレビ番組がありました。1965年(昭和40年)にイギリスで制作された人形劇『サンダーバード』です。これまで、何度か再放送されたので、我々より若い世代の方もご覧になったことがあるかもしれません。私は、去年の秋、ケーブルテレビでこの番組を放送していることを知り、以後毎週見ています。と言っても、放映時間が土曜の夜から日付が変わった日曜の午前2時、最近は午前4時から始まるので、ビデオで撮って後日見るようにしています。待ち切れずに、リアルタイムで見ることが何度かありました。「これは人形劇ではなく、もはや絶賛すべき映画だ」と、この年になって思います。
今月初めの放送分では、印象的なラストシーンがありました。サンダーバード2号担当のバージルとともに救助にやってきたアラン(本来は3号担当)と、困難な任務を無事終えた若い女性隊員ミンミンが、スイスの豪華ホテルのバルコニーで話すシーンです。アラン「彼ら(知りあったバンドのメンバー)と別れて、基地に戻るのはつらいんじゃないのか」  ミンミン「(この仕事をするようになって)ハロー・グッドバイの繰り返しには慣れてきたわ」と答える。これだけじゃ、わからないとは思いますが、しんみりとした良いシーンでした。

話は変わって、3月23日の日曜日、天気が良かったので大洲城に行きました。2年ぶりかと思います。桜が開花していました。24日には松山地方気象台が、桜の開花を発表しました。翌25日はわが家の桜が咲きました。東京でも開花宣言がありました。桜はハローとグッバイの象徴のような花です。我々が子どもの時分は、桜が咲く中、入学式、始業式があったように思います。うきうきばかりではなく、内心、次は誰と一緒の組になるだろうか、あの先生が担任だったら嫌だな、などと思いながら、学校に行ったものです。近年、このあたりでは、桜は入学式より卒業式のイメージの方が強いです。地球温暖化による暖冬の年が多いせいか、春分の頃に開花し始め、3月末までに満開を迎えます。入学式がある4月8日頃には、桜は散っています。
今年も春分の日が過ぎ、気候はすっかり春になりました。しかし、毎年のことながら、この時期は良いことばかりではありません。別れの季節でもあります。何年かおつきあいしてきたかかりつけの子どもさんとその親御さんが、先週、今週と大洲を去って行きました。長い医師生活で、この種の別れには大分慣れてきましたが、やはり寂しいです。今年は、それに加え、当院の職員との別れもありました。2月末から結婚退職、産休、転居などで当院を去る職員が続き、春が近づいて来ても暗い気分でした。彼女らはいずれも感じの良い有能な女性陣でした。偶然重なったことですが、これまで退職者の少ない職場でしたので、さすがの私も精神的に落ち込みました。しかし、不思議なもので、桜の花が咲いて行くのを見ていると、少しずつ元気が出てきました。そう言えば、タモリさんの「笑っていいとも」が今日で終わりました。私が医師になった年から続いていた番組でした。この間いろんな事がありました。最終回も、「明日もまた見てくれるかな」 「いいとも」で終わったようです。

また余談になりますが、ビートルズ好きの私としては、「ハロー・グッドバイ」と聞くと、アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』のB面の最初の曲、その言葉通りのタイトル「ハロー・グッドバイ」を思い起こします。イエスとノー、ストップとゴー、ハイとローなど “対(つい)になるもの” をモチーフにしたポールの曲です。シングルとしてはビートルズ16枚目のレコードで、1967年11月にリリースされました。文頭で触れた『サンダーバード』とは、同じイギリスで、制作された年も近いです。もうしばらくは春の日差しの中の桜を眺めて、そして桜が散ってしまったら、サンダーバードの中の国際救助隊の活躍を見たり、ビートルズを聴いて、元気を出して行こうかな。


 大洲城と桜 (平成26年3月27日)



 子どもが通った学校

平成26年1月 

うちには20代の子どもが3人います。今は仙台、イギリス(コルチェスタ)、東京に住んでいる大学生、大学院生です。3人それぞれが幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と進んで行きましたが、私自身は入学(園)式、卒業式ばかりか、授業参観、個人懇談などにも一度も行ったことがありません。お遊戯会、学芸会、発表会、文化祭の類(たぐい)にも参加していません。子どもや家内から、「来てほしい」と言われたこともなかったように思います。小学校の運動会には数回行きました。当直明けで大学病院から家に帰って来て、昼ご飯の弁当を食べるために、小学校に行ったという感じでした。運動会の午後のプログラムを一つ二つ観て、帰った記憶があります。
今になって思います。一体、何をしていたのだろうか。かなり忙しかったことは確かですが、これほどまでに、子どもの学校に行かず、子どもの学校での生活を見ていないとは。もう少しふつうの父親らしくしておけば良かった、幼児期・学童期の子どもの姿を見ておけばよかった、と後悔しています。

先日、以前、一番下の子が通っていた学校の近くを自転車で通りました。このあたりの小学生や中学生はよく挨拶をしてくれます。先生方の指導が良いのか、南予の人たちの気質なのか、うれしいです。すぐ近くに校舎が見えるのですが、その場所に入ってないので思い出というものがない。生活習慣病を年々抱えてくるこの年になると、自分の母校を見ると、なぜかぐっと来るものがあるのですが、それと対照的です。
それぞれの子の学校での生活は、彼らの貴重な思い出になっていると思います。しかし、本当は、私自身にとっても、人生の中での大事な一時期だったはずです。あとではめぐって来ない、かけがえのない何ページかをきっと見落としているでしょう。子どもの学校に関する思い出がないのは、今となってはとても寂しい。

懐かしいラジオ番組「小沢昭一的こころ」風に、「世のお父さん方、子どもの学校には行っておきましょう。あとで後悔しますよ。」 まあ、今の時代、こういう父親はあまりいないと思います。卒業(園)式や発表会にはお父さん、お母さんが一緒に参加し、運動会にはお爺ちゃん、お婆ちゃんも行くことが多いそうです。良いことだと思います。ただ、近頃は、ビデオを持って子と一緒に運動場を走る父親がいたり、卒業式の風景を撮影するため室内をうろうろする親御さんもいるようです。

また、余談ですが、そう言えば、自分は子どもを病院に連れて行ったことがありません。近頃のお父さん方は偉いと思います。お父さんが子どもさんをよく連れてきます。お母さんよりお父さんの方が、子どもの病状をよく把握していることがあります。抱っこもおむつ替えも上手な方が多いです。お父さんと来た方が泣かない子がいます。お父さんと一緒だったら、口を上手に開ける子もいます。




「ゆく河のながれは絶えずしてしかももとの水にあらず」

平成25年12月 

その1
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」 (訳:(初めの文 略) 川のよどんだ所に浮かぶ水の泡は、一方で消えたかと思うと、他方では新たにできて、泡が長く同じ状態を保つという例はない。)

鎌倉時代の『方丈記』の書き出しです。この作品が書かれたのは西暦では1212年で、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた20年後です。昨年は、そのちょうど800年後に当たっていたので、新聞や雑誌で取り上げられる機会が多かったように思います。漢字と仮名の混ざった和漢混交文で書かれている中世文学の代表的な随筆とされ、清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』と併せて日本三大随筆と呼ばれています。
作者は鴨長明かもの ちょうめい1155〜1216年)で、平安末期から鎌倉初期の人です。彼は晩年俗世を逃れて、京の都から少し離れた山あいに(今の伏見区日野船尾)、一丈四方(
方丈:約5畳半)の狭い庵を結び隠棲しました。その庵内でこの作品を書き記したことから、方丈記と自らが名付けました。彼の生きた時代は、武士の台頭、皇室、公家を含めての骨肉の争い、源平の抗争など大動乱期でした。長明の生まれた年に平清盛が平家の棟梁となり、4歳の年に保元の乱が、7歳の年には平治の乱が起こりました。また、15歳の年には清盛が太政大臣となり、初めて武士が政権を握りました。そして、長明33歳の年に、壇の浦の合戦で平家が滅亡し、40歳の年には源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いています。

こうした争乱に加え、天変地異も相次いだ時代でもありました。長明はこの書の冒頭で、一切は生滅を繰り返し変わらずに在ることはないこと、移り行くもののはかなさを語った後は、その時代の天災、飢饉について記述しています。都の3分の1が焼失した火災(安元の火災)。竜巻で、家具や屋根、門までもが木の葉のように宙を舞い、通ったあとには破壊され桁や柱だけになった家が残った治承の竜巻)。その直後の福原(今の神戸)への遷都。干ばつ、大風、洪水が続いて作物が実らず、翌年には疫病が人々を襲い、無数の餓死者が出た(養和の飢饉)。養和2年4月、5月に左京だけで42,300人余りに達したという。都を襲った大地震。書の中に「一つとして無事なものはない」とあります(元暦の地震)。マグニチュード 7.9と推定されていて、余震はは3か月に渡って続いたようです。その年に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しました。去年のNHK大河ドラマの「平清盛」は、大河ドラマ史上、最低視聴率を記録したそうですが、時代背景がとても暗く、スカッとする場面があまりありませんでした。長明はその時代を生きていたわけで、この作品全編が無常観厭世思想で貫かれています。


その2
現代に目を移してみると、夏の猛暑、局地的豪雨などの異常気象が近年は確かに多く、竜巻の発生頻度も高い。何より、2年前にはあの東日本大震災がありました。今年は、10月に大型で強い台風26号に伴う豪雨により、伊豆大島で大規模な土石流が発生し、多くの方が亡くなりました。11月には猛烈な台風30号がフィリピンを襲い、レイテ島では壊滅的被害が出ました。ロシアでは隕石が爆発し、多くの負傷者と建物が壊れるなどの被害が出ました。自然災害だけではありません。ボストンマラソンでイスラム教徒によるテロがあり、ゴール付近での爆発で死者と多くの負傷者が出ました。今も世界の至る所でテロ事件と内戦が起こっています。日本の隣国は、相変わらず敵意むき出しで、わが国に向かってきています。教育現場での理不尽な体罰、陰湿ないじめも後を絶ちません。
ふーとため息が出ますが 、最後くらいは明るく行きたいと思います。2020年の夏季オリンピックの開催都市に東京が選ばれました。滝川クリステルさんのスピーチのごとく、日本人はきめ細やかな「おもてなしの心」をアピールしていきましょう。日本の誇り、富士山が世界文化遺産に登録されることが決まりました。プロ野球の楽天が日本一になりました。このチームは仙台市を本拠地としており、東北の被災者を勇気づけました。球団創設当初の弱小イメージとは全く異なった強いチームに成長しました。昨年までのあっちへふらふら、こっちへふらふらの、何も決められない政治が、少しは安定してきたように見えます。今日、大みそかの我が家の新聞1面トップは、株価がこの1年で57%も上昇した記事でした。株式市場の大納会(12月30日)で1年の最高値を付けるのは2年連続だそうです。私は株はやりませんが、今年明るかった人々、会社も多かったでしょう。

方丈記』は無常観の文学で、人生論として参考になる文芸作品でもあります。けれども、来年はもっといっぱい良いことがあって、無常観など「お呼びでない」1年であってほしいと心より思います。



 ポール・マッカートニー コンサート

平成25年12月 

昔のまんまだ。立ち姿が20代のビートルズ時代のそれと全く同じでした。歌う時の背中のライン、足の開き具合、膝の曲げ方、ギターの持ち方。今年で71歳だという。今も現役のロック界最高のスター ポール・マッカートニーが先月、11年ぶり4度目の来日をしました。大阪を皮切りに福岡、東京で計6公演を行い、26万人を動員したそうです。ツアーは大成功でした。

ポールが来ることはかなり早くにキャッチしていました。しかし、また行けませんでした。前回、彼が来日した時は、大学病院の仕事が忙しくて、休みが取れませんでした。「次回こそは」と心に決めていたのですが。ただ、今回は、代わりにうちの家族3人がコンサートに行きました。11月18日(月)の東京ドームの初日のコンサートには家内と仙台にいる長男、11月21日(木)のラスト コンサートには東京にいる次男が見にいきました。もともと、今回のコンサートのチケットは、私が行くために、家族、職員に入手を依頼したものでした。抽選で当たったのがこの3つのチケットでした。夏には手元には届いていました。しかし、インフルエンザの予防接種だけでも1日50人くらいが来る最盛期の11月中〜下旬の月曜日と木曜日なので、休診にすることができませんでした。あれこれといろいろと考えぬいたのですが、断腸の思いで断念しました。

コンサートに行った3人はみんな「何と言ってもポール・マッカートニーがすごかった」と言っております。コンサート会場の人の数も半端じゃなく、グッズ販売に並んでいる人の数もめちゃめちゃ多かったけど、ポールの存在感がそのスケールを上回っていたようです。コンサートは3時間弱に及びましたが、初めの2時間は休憩も取らず、水も飲まず、歌い演奏し続けたそうです。途中、「(乳がんで亡くなった最初の奥さん)リンダのために」 「ジョンのために」 「ジョージのために」 「東日本大震災で被災された方々へ」と言って、1曲1曲歌っていった際には、胸にジーンと来るものがあったらしい。

ポール・マッカートニーは、いろいろな世代のファンやミュージシャンに計り知れない影響を与えています。彼は歌手ですが、評価の高いベーシストでもあります。コンサートではピアノも弾くし、レコーディングではリードギターやドラムも担当しています。私にとっては、ロック歌手というより、バラード調の曲をあの特徴的な少し高めの声で歌い上げる名ボーカリストというイメージが強いです。それから、ベートーベンやモーツァルトに匹敵する大作曲家だと思います。才能のかたまりみたいな人です。今回のコンサートで披露したビートルズ時代の「ヘイ ジュード」 「レット イット ビー」「ロング アンド ワインディング ロード」はしっとりと聴かせます。解散後、彼が作ったバンド ウイングス時代の「バンド オン ザ ラン」なんかは、交響曲のようです。彼はもう十分なお金は持っているでしょうが、ライブが好きなんだろうと思います。

私は、ビートルズとウイングスの曲なら、イントロ当てクイズに出て、いいところまで行ける自信があります。中学・高校時代は、LPレコードの中の聞きたい曲の上に針を手で持っていってたので、曲がアルバムの何番目に入っているかも知りつくしています。
今年7月には、家内と英国の大学院に留学中の長女に、あの名アルバム「アビーロード」に写っている“世界一有名な横断歩道”を先に渡られてしまいました。もうポールは日本ではコンサートをしないかもしれない。あの味わいのある声、完璧な演奏、高い音楽性、意表を突く演出を鑑賞するには、イギリスに行ってライブに参加するしかないのかなと思っています。そして、家族に自慢したいのですが、果たしてうまくいくかどうか。

 東京ドーム公演 初日 (11月18日 家内が撮影)



 鶴丸マーク

平成25年11月 

1980年代、まだ若き医師・研究者時代に国際学会への参加、新婚旅行・家族での海外旅行に出かけた時は、いつも日本航空(JAL)を利用しました。値段が安い他の航空便があったはずなのですが、旅慣れていない身としては、当時、JALはナショナル・フラッグ・キャリアであり、安心できました。外国の空港でこの鶴丸マークを見ると、何かほっとしたものでした。海外に在っては、この鶴丸は日本のシンボルであり、誇らしくもありました。余談ですが、当時の機内食は豪華で良かったです。キャビン・アテンダントも若くてきれいでした。何より、私のようないなか者は鶴丸マークのJALに乗るのが、子どもの頃からの憧れでした。
JALの飛行機の中では数ある番組の中からジェット・ストリームを選んで聞いていました。“夜間飛行”には、ジェット・ストリームがよく合いました。大学の医局に入ってからは、夜の研究室では、深夜0時から始まる東京FMのジェット・ストリームをほぼ毎日聞いていました。この番組のエンディング・テーマソングがかかる頃から実験の片づけを始めたものです。また、子どもが飛行機のおもちゃが好きで、JALのおもちゃを何機か買って、家に大事そうに飾っていた記憶があります。JALの鶴丸は思い入れの深いロゴマークでした。

ところが、この鶴丸マークは2008にはすべての機体から姿を消してしまいました。新しいマークは、センスのない、ただ赤だけが目立つ、嫌いなどこかの国の国旗みたいに見え、「なんちゅうことをするねん」と思っていました。周りの人も、「前の鶴のマークの方が良かった」と言っておりました。当時、JALは経営再建中でさまざまな非難を浴びていました。それ以前から、会社組織としては問題点も多かったと思います。同じ航空会社の全日空 (ANA)は、本来格下の会社だったはずなのですが、評価は大きく差を付けられていました。2003年1月から放送が始まったキムタクと柴咲コウ主演のTBS系列の番組グッド ラック」は、ANAが撮影に全面協力し、平均視聴率が30%を越える人気番組となりました。この番組で、完全に勝負がついたように見えました。

今の羽田空港は、昔と違い、広くなっており、第1ターミナル、第2ターミナルに分かれています。JALとANAの飛行機の停まる場所がはっきり分かれています。先日、仕事で東京に出張した際、羽田空港で鶴丸マークを付けたJALの飛行機が横1列に並んでいるのを見ました。「これじゃなきゃ」と思いました。昔、飛行機に乗るのが憧れだった頃の懐かしさがよみがえってきました。JALは2011年に会社更生手続きを終え、原点からの再出発をアピールするため、その年の4月に鶴丸マークを復活させました。

最後に、また余談ですが、「改革だ」「変革が必要だ」といろいろ制度をいじり、そのたびに物事がうまく行かなくなっていることが多いように思います。医学部改革をはじめ、卒後研修制度、医局制度、救急医療、医師不足対策、医療制度の改革が叫ばれ、過去の制度が変えられてきました。いじりたおされて、どれもうまくいっていない。主たる原因の一つに、会議のメンバーに、すでに現場から離れている「オジン」と、第3者委員とか有識者とかと言われる「口先だけのトウシロウ」が、多すぎることが挙げられます。鶴丸マークではないけれど、「良いものは良いもので、何も変えることなく昔のまま続けた方が良かった」と、思う事例が実に多いです。





 名月

 平成25年9月 

3日連続の澄みきった夜空となり、待宵の月、中秋の名月、十六夜(いざよい)の月の見事な名月シリーズを見ることができました。英語では、中秋の名月は the harvest moon と言います。harvestは収穫を意味します。夏の暑さが過ぎ、収穫も終わり、やれやれというところでしょうか。大昔から人々は、秋の夜空に浮かび上がったこの月を眺めながら、いろんなことを思い描いたことでしょう。

急に年老いたわけではないのですが、7年後の2020年の東京オリンピックは健康な状態で観戦することができるかどうか、14年後の2027年完成予定のリニア新幹線に人の支えなしに乗れるかどうか、気になります。今年は、20年に1度の伊勢神宮の式年遷宮の年です。間もなく、クライマックスとなる「遷御せんぎょの儀」が行われます。次回はぜひ出かけて行きたいと思うのですが、生きているかどうか。

平和で幸せの象徴のようなこの輝く月を、あと何回見られるか。健康でいても、雨が降ったり雲が多いと見ることができません。忙し過ぎると見逃します。不幸のどん底にあると、月を愛でる心の余裕は出てきません。目が悪くなると美しくは見えません。あと15回くらいは見たいものだと思うのですが、さて・・・。

散歩をすれば、うろこ雲が見え、トンボが飛びかっています。柿の実が大きくなり、色づいてきました。私は色としての柿色が大好きです。すすきも絵になるそれらしい姿になってきました。さんまにも脂が乗ってきました。秋たけなわです。ただ一つ残念なことが。日の入りがあっという間に、夕方6時より早くなってしまいました。



 残暑と少し涼しい宵の風

 平成25年8月 

3日前が立秋で、3日後が旧暦の七夕である8月10日、家内と昼から松山に出かけていました。この日は本当に暑かった。あとで知ったのですが、国内の観測地点4か所で40℃を越えたそうです。
夕方、食事が終わって外に出ると、人がたくさん出ており、街の中心部では交通規制が行われていました。この日は8月の第2土曜日で、松山まつりの最中でした。むっとする暑さの中、いろいろなグループが踊りを披露していました。スピーカーからは、若いお兄さんの掛け声や音楽がにぎやかに響いていました。それぞれの連が特徴を出そうと、カラフルな衣装を着て、髪型を整え、速い動きの踊りを見せていました。みんな、張り切って踊っていました。ただ、失礼かもしれませんが、私のような素人からはどれも同じように見えます。今や、どこの祭りでもこんな風になってしまって、かえって個性がなくなっているように感じます。どこの国の、どの地方の祭りなのかがわからなくなっています。昔の盆踊りの方が風情というものがあった気がします。

午後7時半過ぎの宇和島行き特急宇和海に乗るため、7時20頃JR松山駅の1番プラットホームに立ちました。列車はまだ到着しておらず、プラットホーム正面にはきれいな形の三日月が見えました。8月も10日くらいになると、日暮れが早くなった、とはっきり分かります。7月のこの時間ならまだ明るかった。そんなことを考えながら列車を待っている間、プラットホームを通り抜けていく風は随分涼しく感じました。古(いにしえ)の人はこの風で秋の到来を感じたのだと思います。特急に乗ってから気づいたのですが、航空会社のタッグが付いた大きな手荷物をもった乗客が多く、「やっぱり愛媛は遠いねえ」という話し声も聞こえました。お盆の帰省が始まっているのでしょう。

このホームページで何度か書きましたが、日本の季節、日本人の季節感は旧暦と実によく合っています。今年の旧暦の七夕は8月13日です。季語としての七夕は初秋を表します。新暦の7月7日を七夕にすると、ふつうの年は梅雨が明ける前で雨の日が多く、天の川、彦星、織姫星を見られないことの方が多い。全然ロマンチックじゃない。桃の節句などもそうですが、古代から続く祝い事の日は旧暦にしないと、うまくマッチしません。
七夕の恋人同士の年1回の逢瀬の物語は、いかにも西洋から入ったように思えますが、万葉集にはこの恋の物語を題材にした歌が多く載せられています。かの柿本人麻呂も詠んでいます。今宵プラットホームで見たのは三日月でしたが、3日後の旧暦の七夕には半月になっているでしょう。旧暦は月の満ち欠けを基準にしていますので、古来七夕の日は必ず上弦の月だったことになります。日没には天上にあり、夜半に沈んでいました。古の人は、天の川、彦星、織姫星を見るとき、上弦の月も目に入っていたはずです。

立秋すぎての残暑は年々ひどくなっているように思います。年のせいだけではなさそうです。しかし、夜は夏から秋への移り変わりを感じさせてくれます。立秋、残暑、祭り、お盆の帰省、七夕、それと少し涼しげな宵の風と虫の音。何とはなしに、この国に生まれてよかったと思いました。



 鱧(ハモ)と床(ゆか)

 平成25年7月 

京都の夏の風物詩の一つに鴨川納涼床(かもがわ のうりょうゆか)があります。京都の人は「(ゆか)」とだけ呼ぶことが多いです。今から15年くらい前、私が医学部の講師をしていた時分に、京都に近いある大学の薬学部の先生に一度連れて行ってもらったことがあります。その先生には、それに遡ること5年ほど前に、九州にある医科大学の生化学教室で、研究の指導をしていただきました。それ以後、懇意にしてもらっていました。「床」に行った当時、先生は薬学部助教授で、研究にも教育にも熱心な先生でした。今はりっぱな薬学部教授になられています。

今日は7月に入って初めての日曜日で、二十四節季の一つ小暑でした。小暑は、季節としては梅雨明けが近づき、暑さが本格的になる頃です。昨日、今日は、もう梅雨明けしたのではないかと思うような天気です。ただ湿度が異常に高く、むしむししています。休みの日で職員は誰もおらず、家内もイギリスの大学院に行く長女に付いて行ったので3日前から不在でした。前日にお手伝いさんが作ってくれたおかずを、昨夜と今日の午前中に食べてしまったので、食糧は冷蔵庫内のご飯だけになっていました。仕方なく、めったに行くことのない買い物に出かけ、湯びきハモ(鱧)、ヤズの刺身、トマトを買ってきました。夕刻、そのハモを食べている時に、京都鴨川の納涼床のことを思い出しました。

「床」に行った時期はちょうど今ごろだったと思います。その1か月半くらい前に、お世話になったその先生から「学生が夏休みに入る前に、講義をしてもらえないだろうか」と電話をいただきました。訪問した大学では、薬学部の学生さんに80分の講義と、放課後に大学院生と1時間くらいディスカッションをしました。「うちの医学部の学生より薬学部の学生さんの方が熱心に話を聞くなあ」という印象を持ちました。学外の講師の特別講義なので、たまたまそうだったのかしれませんが。「良かったら食事をご一緒に」とお誘いを受け、連れて行ってもらった所が鴨川の「床」でした。
着いたのは、あたりが少し暗くなった頃でした。「こんなところで食事をしたらお金がかかるのでは」と心配しながら、若輩の自分にお気づかい頂いたことを有難く感じました。京都の街、鴨川、周囲の山々を眺めながら、京料理を食べました。その中で、京都の夏の高級食材であるハモの料理が最も印象に残りました。梅肉を付けて食べるハモの湯引き、ハモシャブ、お造りやお吸い物の具にもハモがあったと思います。京都の料理は見た目にきれいですが質素でもあります。京都のものは何かにつけ、そうであります。きらびやかな美しさと質素がうまく調和し、お互いを引き立てています。

今日は蒸し暑い一日で、質素な夕食をひとりで食べましたが、バリバリ仕事をしていた当時のことを思い出しました。午後7時過ぎ、日が陰って少し涼しそうになったので、外に出てみると、西の空の雲が鮮やかなだいだい色に染まっていました。来週京都は祇園祭です。



 松井秀喜選手

 平成25年5月 

「三歩下がって師の影踏まず」 
巨人軍終身名誉監督 長嶋茂雄氏(77歳)と、昨年末に現役引退を表明した松井秀喜選手(38歳)が国民栄誉賞を受賞し、5月5日東京ドームで表彰式が行われました。その時の松井選手の態度を見て浮かんだ言葉です。後で、中継で徳光さんも使っていました。
その日東京にいた私は、チケットを持っていないのに、何とかその場面、有名人を見れないかと思い、表彰式が始まる3時間前にホテルから東京ドームに向かいました。地下鉄の中では、おじさんやお爺さんたちが長嶋さんの話をしきりにしていました。東京ドームに着くと、あまりの人の多さに圧倒され、頭痛がし出しました。東京ドーム内にある野球殿堂博物館に入り、展示物を見学し、早々にホテルに帰りました。松井選手の引退セレモニー、お二人の国民栄誉賞表彰式はホテルの部屋のテレビで見ました。

実は、松井選手については、以前にもこのコーナーで書きかけたことがあります。引退表明をした去年の年末です。しかし、書き終わる前に日がどんどん過ぎていき、『歳時記』にはならなくなったため、文章は出さず仕舞いになっていました。書きかけていた文章はこんな感じでした。
偶然とはいえ、不思議なものです。年末年始の休みになったので、部屋の片づけをしないといけないと思い、古い新聞を次々に斜め読みしていました。私は、新聞を読まずには捨てない、捨てられないので、かなり前の古新聞が自宅、医院にたまっています。昨年12月27日、偶然、松井選手が長島氏のホームラン記録を上回る通算445本の本塁打を打った記事が載っている新聞を、医院の休憩室で見つけました。当院を開院する4か月前の平成21年(2009)年4月8日の新聞でした。この時の試合で、彼はヤンキースの「開幕4番」で先発出場し、2ラン・ホームランを打っています。試合後すぐに長島氏に電話をかけて、「とても喜んでもらった」と述べています。この古新聞を見つけた次の日(平成24年12月28日)、その年の最後の最後になって、松井秀喜選手の引退のニュースが飛び込んできました。翌日の新聞には、涙をこらえ、口を真一文字に結んだ彼の凛々しい顔写真が載っていました。あとで引退会見をテレビで見ましたが、「命がけでプレーして、力を発揮する気持ちでやってきたが、結果が出なくなった。」 「野球人生で一番記憶に残っているのは、長島監督とした夜の素振り。」と語っていましたた。彼は若い頃からりっぱな人物でした。・・・というような内容でした。

今回、長嶋監督と松井選手を同時に表彰したことは、日本政府の粋な計らいだったと思います。「アンチ巨人だった」と表彰式で述べた安倍総理も、華やかな式典で第3のヒーローとなって目立っていました。何より、文頭で述べたごとく、松井選手の態度がすばらしかったと感じました。長嶋さんが表彰状を不自由な手で受け取る際、絶妙のタイミングで手を差し伸べていました。絶妙の間合いで師である長嶋さんの後を歩いていました。彼は、巨人軍の現役時代、スーパースターでしたが実に謙虚な選手でした。ゴジラというニックネームとは裏腹に気遣いができるスポーツマンでした。高校生時代、甲子園での有名な5回連続敬遠のフォアボールの際も、嫌な顔を見せませんでした。
このたびの松井選手の引退セレモニーと、長嶋さんとの栄誉賞表彰の映像は、道徳の授業を見ているようでもありました。松井選手の挨拶の言葉、仕草には、真心、師を敬う様子が出ていました。強いて言えば、ひとつ残念なことが。始球式で松井選手がもっといい球を投げて、長嶋さんに打ってほしかったなあ。

 
国民栄誉賞表彰式当日、野球殿堂博物館に展示されていたユニフォーム



 岩手・平泉

 平成25年5月 

4月の終りでした。俳聖松尾芭蕉がかの名句を詠んだ場所に立つと、辺りの桜はまだ3分咲きくらいでした。
   夏草や 兵共(つわものども)が 夢の跡   「奥の細道」
その日の朝、仙台から岩手・一関まで新幹線で行き、在来線に乗り換えて平泉に着きました。1時間半かからなかったと思います。出発地の仙台の桜はおおかた散っていました。仙台と平泉は大して離れていないように感じましたが、桜の花の状況は違っていました。

仙台での学会が終了した翌日、以前から一度訪れたかった世界遺産・平泉まで足をのばしました。晴れていましたが、風が強く、ずいぶん寒いと感じました。まわりを見ても、私のようにシャツの上にブレザーなんて格好の者はいませんでした。JR平泉駅からは観光スポットを回っていくバスが出ていて、400円でどこでも自由に乗り降りができました。寒さに耐えながら、行った所は時間をかけて見て回りました。気が付いたら100枚以上写真を撮っていました。
広大な境内、大泉が池を中心とする浄土庭園のある毛越寺(もうつうじ)。初めにこの寺院に行きましたが、そこで奥州藤原氏の権力と栄華をすぐさま理解できました。近くにいたガイドさんの話が聞こえました。「ここには僧侶が500人いました」 
次に、有名な中尊寺。中尊寺は天台宗の一山寺院で、多くのお堂や塔があった所です。一番奥の国宝 金色堂までは入口から800mほど坂をのぼって行きます。金色堂は小堂ながら工芸、仏教彫刻の粋を集めたもので、その美しさを言葉で表すことは困難です。
   五月雨(さみだれ)の 降のこしてや 光堂(ひかりどう)  「奥の細道」
芭蕉は金色堂でこの句を残しています。元禄2年5月13日に詠んだそうです。今の暦にすると、1689年6月29日になります。梅雨のさなかです。あたりの建物が長い年月の雨風によって朽ちていく中、金色堂だけが昔のまま輝いている、まるで金色堂だけは、梅雨の雨も降り残しているかのようである、と感じたのでしょう。

歌聖 西行も東大寺大仏殿再建の勧進のため、芭蕉の奥の細道にさかのぼること500年前にこの平泉を訪れれています。西行は束稲山(たばしねやま)の山一面に咲いた桜に感激して歌を詠んでいます。「聞きもせず 束稲山の桜花 吉野のほかに かかるべしとは」(山家集)。中尊寺にこの歌碑がありました。束稲山は当時の桜の名所で、そこから北上川を挟んで正面に見えます。


最後に、源義経終焉の地である高館義経堂(たかだち ぎけいどう)まで歩いて行きました。途中、芭蕉とともに旅をした弟子・曽良の「卯の花に 兼房みゆる 白毛(しらが)かな」の句碑がありました。義経自害の地 高館から見下ろすと、弁慶が立ち往生した衣川古戦場、ゆるやかに流れる北上川があり、真向かいには束稲山が見えます。ここで、芭蕉は冒頭の「夏草や」の句を詠みました。また、彼は、「奥の細道」の中で、杜甫の“国破れて山河あり、城春にして草青見たり”の詩を思い浮かべ、笠を置いて腰をおろし、いつまでも涙した、と書いています。そこには濃厚な歴史のセットがありました。

昔は学会出張で行った先から、観光のため他県に向かうことなどありませんでした。まじめだったのか、時間がなかったのか、お金がなかったのか(今も大して変わりませんが)、それとも気持ちの上で余裕がなかったのか。その前日、夕刻1時間だけですが松島にも行きました。今回の旅は、私にとってささやかな「奥の細道」でした。very very shortですが、満足しました。
 源義経終焉の地にある芭蕉の句碑



 ソメイヨシノ

 平成25年4月 

桜の季節はすぐ終わる。今年は4月の初めには散ってしまいました。正確に言うと、四国の愛媛のこのあたりのソメイヨシノが例年より早く散ってしまったということです。今年、東京から仙台に移った長男の話では、4月20日現在、桜は満開だそうです。大洲でも、桜の花のトリともいえる八重桜はまだ咲いています。
ソメイヨシノは今や桜の代名詞ですが、この品種の花の時期はとても短いです。さっと咲いて、パッと散るところが良いとする人もいますが、花が咲き始めて散るまでの進み方があまりに速すぎて、私なんかは、日々ゆったりとした気分で花を愛でるということができません。心待ちにしていた花が咲き始めると、今度はいつ散るのか気になってしまいます。気ぜわしいです。もう少し長く、うっとりと桜を眺めていることができないものかと、年をとるごとに思います。「そんな殺生な」浪花のドラマの台詞(せりふ)を声に出してしまいそうになります。

今やさまざまな分野で技術が進歩しています。ソメイヨシノの花をもう少し長く咲いているように品種改良できないものか。くだらんことを言うなと叱られるかもしれませんが、もともとソメイヨシノは日本原産のエドヒガンオオシマザクラを交配して作った新種の桜です。江戸末期に、今の東京豊島区駒込に染井村という所があり、花卉(かき)・植木が盛んで、そこの造園師や植木職人によって作り出されました。はじめ「吉野桜」の名称で売り出されましたが、奈良の吉野山のヤマザクラが古来「吉野桜」と呼ばれていたので、混同を避けるため「染井吉野」としたそうです。ソメイヨシノは接ぎ木(つぎき)によってふやしており、全国のソメイヨシノはほぼすべて同じ性質を持つクローンということができます。
ソメイヨシノは、葉が出る前に花だけが密集して木を覆うように咲くので、見栄えが良く花見に適し、たちまち人気となりました。また、木の成長もはやいことから、明治以降とくに第二次世界大戦後はすごい勢いで全国に植樹され、日本中のあちこちに桜の名所ができました。つまり、今の花見の風景は近代のものであって、昔の人が見ていた桜の花の風景とは異なっています。もし、彼らが葉が全くない満開の桜を見たら、どのような感慨を抱いたでしょうか。昔の歌人が詠んだ桜の歌と同じように美しいと感じたかどうか。

    敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花   (本居宣長 もとおりのりなが) 

桜と言えばこの歌というくらい有名な本居宣長の歌です。彼は江戸時代の国学者・文献学者で、『古事記伝』を著したことでよく知られています。彼は医師でもありました。地元 伊勢国(今の三重県)松坂で、昼間は医師としての仕事に専念し、自分の研究や門人の指導は夜に行ったそうです。内科一般を診ていましたが、小児科医としても名が知れていたそうです。彼の歌の中の山桜は花と若葉が同時に開き、花の色はソメイヨシノに比べて淡く白い。この歌については戦前戦後いろいろなことが語られてきましたが、作者 宣長が詠った時期を考えて素直に読めば、この歌の本来の意味と軍国主義とは何ら関係がないはずです。私の大好きな歌の一つです。



 菜の花や 月は東に 日は西に

 平成25年3月 

今年2月の検診で、血圧が上も下も(拡張期と収縮期)自分も驚くほど上がってしまった。加えて、悪玉コレステロール(LDLコレステロール)も基準値を越えてしまった。今の生活習慣、この体型なら当然とも思えるのですが、やはりがっくりしました。まわりの者からは、非難はされても弁護してくれる者はおらず、言いわけのしようもないので、観念して治療を受けることにしました。そして、1日に30分以上は歩こうと決意しました。今のところ、雨の日以外はだいたい守れています。

きれいな川ではありませんが、畑や田んぼの間を東西にまっすぐ延びる川があります。人工的につくられたものだと思います。人目につかず、自動車もあまり通らない道を散歩コースにしていますが、この川の横の道路はコースの一部にしています。行きは西に向かって歩き、帰りは東に向かって歩きます。この川の土手には、野生の菜の花が何百メールに渡って群生しています。ここの菜の花は、丈が高く茎が太く葉っぱも大きく、黄色の花をいっぱい付けており、見栄えがします。春彼岸を過ぎると、夕方6時半でもまだ明るさが残っています。仕事が終ってすぐ家を出ると、この道のまっすぐ前方に山の端(は)に沈んでいくきれいな夕陽が見えます。今年の3月は例年に比べて子どもの病気が少なく、仕事が早く終わることが多かった気がします。
日が暮れてあたりが薄暗くなった頃、この道を今度は東に向かって帰ります。彼岸を過ぎて何日か経った日には、そこから真東に見える神南山の上に少しだけ欠けた月が出ていました。カレンダーで調べると、満月は3月26日でしたが、あいにく見ることができませんでした。

    菜の花や 月は東に 日は西に          与謝蕪村(よさ ぶそん)

江戸時代の三大俳人と言えば、芭蕉蕪村一茶というのが一般的な評価です。ただ、蕪村は生前、むしろ絵師として知られていました。池大雅とともに文人画、俳画というものを大成させました。銀閣寺の方丈の襖絵も描いています。明治になっても絵師としての知名度の方がはるかに高かったようです。俳人としてはほぼ無名の存在だったという説もあります。彼を発見し、評価したのは、他ならぬ正岡子規でした。絵師の眼を持った俳諧師、それが蕪村です。有名なこの蕪村の句は、安永3年(1774)旧暦の3月の作だそうです。したがって、彼が詠んだ“満月かそれに近い頃の月”は次の4月の月です。
「春のうららの隅田川・・・」で始まる「花」は、滝廉太郎の曲に詩人で国文学者の武島羽衣が詞を付けたものです。その曲の3番に「暮るれば昇るおぼろ月」の歌詞がありますが、これは上の蕪村の句から来ています。

また余談になりますが、この句の太陽と月の位置関係が真逆になっているのが、柿本人麻呂の万葉集の歌です。
 (ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ  柿本人麻呂

この歌は、軽皇子(のちの文武天皇)が狩りに行かれたときに、お供をした柿本人麻呂が詠んだ歌です。季節は冬です。陰暦の11月で今の暦では12月の終わりになります。ちなみに月は下弦の月です。作者も歌も超が付くほど有名ですが、この歌は単純な情景歌ではありません。人麻呂は持統天皇・草壁皇子・文武天皇の三代に仕えた歌人、宮廷人・官吏です。今まさに沈もうとしている月を若くして亡くなられた父親である草壁皇子(天武天皇と持統天皇の皇太子)、昇る朝日をその子である軽皇子に喩えています。歴史的ドラマがあり、回顧、追慕の念、輪廻転生を感じさせます。この話は長くなるのでここらで止めます。

さて、この散歩いつまで続くか。果たして、血圧、悪玉コレステロールはどれくらいまで下がるか。自分としては、今度こそは何とか頑張ってみようと思っています。
 
東の神南山の中腹から現れた旧暦3月15日(4月24日)の満月



 紅梅、ミツバチ、インフルエンザ  −節分ー

 平成25年2月 

下の写真Aは、去年の節分の日に撮ったものです。この日は、年に一度あるかないかの大雪でした。当院の入り口は少し坂になっており、そこで車がスリップしないように職員が雪をのけているところです。その日のメモによると、RSウイルス感染症がはやっていたようです。
 A. 去年の節分の日。大雪でした。

今年の節分は、去年とは対照的に、早春を感じさせる穏やかな日でした。写真Bはその節分の日に、自宅の縁側の紅梅を撮ったものです。先月の18日に開花しました。節分には8割くらいが花を付けていました。去年3月、この『歳時記』に“卒業式”というタイトルで文章を書いていますが、その中に次のような一文があります。「2月最後の木曜日(当院休診日)に宇和島市津島にある南楽園に梅を見に行きました。梅祭りの期間中ということを何かで読んだので行ってみましたが、梅の花はあまり咲いておらず、人もほとんどいませんでした。」 そこで、南楽園の中の植木市で、すでに花を付けている紅梅を二鉢買って帰りました。なんとか枯らさないよう世話をして、今年再び咲かせることができました。私は昔から梅の花、とくに紅梅が好きでした。梅は別名、春告草(はるつげぐさ)と呼ばれます。この花を見ると、春が近づいてきていると実感します。

写真Cは写真Bを拡大した写真ですが、梅の花にミツバチが寄って来ています。鉢のまわりにもぶんぶん羽音をたてて何匹か飛んでいました。花の少ない時期なので、ミツバチも一生懸命に働いているようでした。
5年くらい前だったでしょうか、ミツバチが激減していることが大きく報道されました。ミツバチの群れが突然消えてしまう蜂群崩壊症候群(ほうぐんほうかいしょうこうぐん)と言われた現象で、初めアメリカで問題にされました。その後、ヨーロッパ各国や日本でも起こりました。人間の食糧の1/3は、昆虫による受粉でできた農作物に頼っており、そのうちの8割はミツバチが関わっているそうです。イチゴ、メロン、スイカ、サクランボ、リンゴなどの果物、ニンジン、トマト、かぼちゃなどの野菜、実に多くの作物の生産に貢献しています。ミツバチが減っていることに関して、私も心配していましたが、元気よく飛ぶミツバチたちを目の前で見て、「ここでこれだけのミツバチがいるのだから」と何かほっとしました。

 
B. 今年の節分の日。
昨年買った紅梅の鉢植え。
  C. ミツバチが10匹くらい寄って来ていました。


今年の節分の日、当院は喜多・八幡浜・西予地区小児休日当番医に当たっていました。実は、早春の1日を楽しむような悠長な日ではありませんでした。午前の患者さんを診終ったのが、午後1時半過ぎでした。しんどくて、昼食は弁当の中の巻きずし二切れしか食べれませんでした。外を眺めると天気が良かったので、少し気分転換にと、医院と家の間の庭に出てみました。その時に、写真Bと写真Cの紅梅とミツバチを見ました。その間、3分くらいでした。写真は家内が撮りました。そのあと、院長室の椅子で10分かいや5分くらい仮眠を取ったら午後1時55分で、午後の診療に向かいました。
その日、インフルエンザと診断したのは44名(A型 40名、B型 4名)でした。インフルエンザの検査は60人くらいにしました。発病から検査までの時間が短くて、検査結果が陰性と出た患児も何名かはいたと思います。それを入れれば、受診した小児の半分がインフルエンザだったことになります。この日、天気が悪ければ、もっと患者さんが多かったと想像します。天気が良いと、少々病気でも遊びに連れていくので、患者数は少なくなります。同じ症状でも天気の悪い日の方が深刻に見えます。外が暗い夜になると、さらに不安が強くなります。

節分の日の日の出時刻は7時4分で、これはまだ12月10日頃の時刻と同じです。一方、日の入り時刻の方は17時42分で、最も日没が早い頃より40分以上遅くなっており、10月の「体育の日」頃のそれと同じになっています。日脚は確実に延びています。その夜、二人で質素に豆まきをして一日を終えました。



 新年会 (4期目)

 平成25年1月 

仕事が忙しく、終わるのも遅く、何かと気ぜわしい12月の宴会を避けて、例年、新年会を開いて来ました。私はお酒が強くなく、あまり宴会には行きませんが、今年は都合で4回になりました。

1)1月10日(木 休診日 宇和島の有名な居酒屋さんで、同郷の友人であるJR宇和島駅の駅長さんを迎えて、4名での新年会。宇和海の新鮮な魚料理をたくさんいただきました。知らない分野の興味ある話が聞けました。(写真なし)  

2)1月19日(土) 松山の料亭。同年輩の小児科医4名とその奥様が参加し、8名の新年会。私以外の先生方は、すでに“功成り名声を得た” 方々です。料理は私の希望でしゃぶしゃぶになりました。昔話に花が咲き、また有意義なお話もたくさん聞くことができました。



3)1月24日(木 午後休診 当院の前のよつば薬局の薬局長さんと4名での新年会。ここでは富山の氷見港に水揚げされた“寒ブリ”を食べさせてもらいました。これは本当においしかったです。ふきのとう、わかさぎなど早春の食材もいただきました。
   寒ブリとまぐろ


4)1月30日(水) 当院と調剤薬局さんの若手?女性スタッフの新年会に、終わり頃になって参加。楽しい話題でいっぱいでした。




 降る雪や 明治は 遠くなりにけり

 平成25年1月 

毎年、大寒から節分の間が一番寒い。日本全体から見れば、このあたりは暖かい地方でしょうが、この時期には雪が降ります。今日は寒い1日でした。風も強く、時折、少し前が見えなくなるくらい雪が強く舞っていました。隣の町の宇和や野村から来られた方々は、「けっこう積っています」と話されていました。

     降る雪や 明治は 遠くなりにけり          中村 草田男

明治生まれの草田男が昭和6年、彼が31歳の時に、東京赤坂にある母校の小学校を訪れた際にできた句です。彼はこの年齢でまだ大学生でした。この日は大雪で、降りしきる雪の中で小学校の建物を見た時の感慨を詠んでいます。往時のさまざまなことが思い浮かんだことと思います。その時がそのまま明治時代であるかのような錯覚と、明治時代が永久に消えてしまったとの思いが同時に強まったそうです。昭和6年は、明治が終わってから20年が経過している時期です。
中村草田男は中国(当時は清国)の福建省で、清国領事の長男として生まれています。4歳の時、中村家の本籍地 伊予郡松前町に帰国しました。2年後に松山に転居しました。そののち、東京に移り小学生時代の大半はそこで過ごし、中学時代に再び松山に戻りました。松山中学、松山高等学校を経て、東京大学文学部に入学しています。松山出身の高浜虚子に師事し俳句を学び、現代俳句の中心的存在として長く活躍しました。
余談
ですが、彼は大学卒業後、成蹊(せいけい)学園というところに就職しました。成蹊高校教諭、成蹊大学教授として長く教職に携わりました。この成蹊大学については、知らない人の方が多いと思いますが、実はこの大学は今の総理の出身大学です。成蹊学園の初代理事長は三菱財閥4代目総帥 岩崎小弥太(三菱創始者 岩崎弥太郎の弟の長男)で、理事長職はその後もずっと三菱グループの中から出ており、今も三菱が経営に深く関わっています。

さて、平成という元号も今年で25年になりました。四半世紀が経ちました。平成の時代になってから生まれた子どももこの厳しい社会の中で働いています。昭和が終わり平成になったのは、1989年(昭和64年)1月7日でした。この日、昭和天皇が朝まだ暗い午前6時30分過ぎに崩御されました。当時、私は広島県三原市にある病院に週1回非常勤で診療に行っていました。今治港7時50分発の三原行き高速艇に乗るため、行く日はいつも重信町の家を6時25分頃に出ていました。その日は車の中のラジオからずっとそのニュースが流れていました。今治港に着いたとき、高速艇は半旗を掲げていました。のちに総理大臣にもなった当時の小渕恵三官房長官が、新しい元号「平成」と書かれた額に入った色紙を掲げ持った姿が懐かしく思い出されます。
また、余談ですが、今の皇太子殿下と皇太子妃雅子様のご成婚パレード(平成5年6月9日)は、松山の三津浜港と山口県の柳井港を結ぶフェリーの中で観ました。その頃は、月に1回山口県光市の病院に非常勤医師として行っていました。思い出すと、本当に、いろいろな所に行っていたと言うか、行かされていました。大学病院にいる医師とはこんなものでした。

私が今までの人生の半分ちょっとを過ごした“良き昭和”という時代も、いつの間にか遠くになりました。つい先日、昭和の大横綱 大鵬さんが亡くなられました。この医院のまわりに降る雪を見ながら草田男の句を思い出し、「昭和は 遠くなりにけり」 何とはなしにそう感じました。



 諸行無常

 平成24年12月 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
『平家物語』の冒頭の部分です。
NHK大河ドラマ『平清盛』が終わりに近づいています。今年は視聴率がかなり悪かったそうです。去年までの3年間は、『坂の上の雲』のため大河ドラマは11月末で終了していました。放送回数が元に戻って増えたのに、視聴率が悪い年になってしまいました。私も、今年はそれほど興味を持っては見てなかったような気がします。過去には、大河ドラマだけが1週間の楽しみだった年もありました。とはいっても、松山ケンイチ君ら出演者、脚本家、演出家などのスタッフは必死で頑張ったものと思います。
今回の主人公は平家の棟梁 平清盛で、日本人ならほとんどの人が、平家は最後には源氏に負けて悲惨な末路を辿ったことを知っています。視聴率が高かった番組が必ずしも良い作品とは限りませんが、今のこの暗いムードの御時世では、主人公が最後に悲しく没落していく内容の番組は、初めからあまり好かれることはなかったのかもしれません。
保元の乱、平治の乱での武家、公家、皇室も含めての骨肉の争い。清盛が出世していく中で、源氏、 藤原摂関家や朝廷の公卿、僧侶などが次々に失脚していきました。政権の頂点に長く留まれた者がいない。現代よりはるかに生き残りが厳しかった時代でした。ここ何週間かの放送の中では、主人公 清盛には良い所がありません。世の中の頂点に立ちながら、ボロボロになっています。
その一方で、伊豆に流されていた源頼朝がついに挙兵しました。先週は、源頼朝と奥州平泉から駆け付けた弟 九郎義経との対面のシーンが放映されていました。この後、義経は兄頼朝のため、平家打倒で大活躍をします。しかし、この兄弟の蜜月時代もそう長くは続きませんでした。ご存じの通り、義経は頼朝に滅ぼされます。

先日、歌舞伎俳優の中村勘三郎さんが亡くなりました。57歳でした。私は一度、勘三郎さんの芝居を観たことがあります。東銀座の歌舞伎座は現在建て替え工事中ですが、その工事が始まる前の一昨年の正月に、『歌舞伎座さよなら公演 初春大歌舞伎』が行われ、それを観に行きました。昼の部の三番目の演目が、歌舞伎十八番の、屈指の名作、『勧進帳』でした。弁慶を団十郎さん、義経を勘三郎さんが演じていました。『勧進帳』の中では、義経一行は身分を隠して都を落ち、奥州へと向かっている途中であり、義経は控えめな役どころです。勘三郎さんが演じた義経は、きれいな品のある義経でした。団十郎さんの成田屋の“にらみ”、飛び六法もすばらしかったです。勘三郎さんは、歌舞伎界はもとより他の分野でも人気と実力のあった方で、やり残したことも多かっただろうと思います。十八代勘三郎は彼一代のものです。その“若き”名優の芝居が観られなくなったことは、誠に残念です。



 小春日和

 平成24年12月 

小春とは陰暦の10月のことで、初冬の、春のように温和で暖かい天気小春日和(こはるびより)と呼ばれます。先日、11月の最後の日曜日は旧暦の10月12日で、まさに小春日和でした。家内とぶらり南予の旅に出かけました。
前日の天気予報では、午前中は降水確率0パーセント、午後3時くらいから雲が出てくるという予想でした。休日にからっと晴れることがその時期あまりなかったので、期待をして寝ました。時間はわかりませんが、明るくなって目を覚ますたびに、カーテンをちょっとめくって外をのぞきましたが、太陽は出ていないようでした。何回目かで気が付きました。「そうだ、霧だ。大洲のいつもの午前中の霧で曇っているように見えるだけで、本当は晴れているんだ。」

10時過ぎに家を出ました。わりと有名な家電量販店がオープンしたため、近くの道路は混んでいました。こんな所から早く離れようと、高速道路に乗り、南の方に行くことにしました。宇和までは曇というか霧が残っていましたが、家を出て30分近く走ると、青空が開けてきました。三間町のインターで降りたら、近くにりっぱな『道の駅』がありました。広い駐車場に車がたくさん止まっていました。建物の中も人が多く、活気がありました。ビートルズの音楽が聞こえてきました。“通”の者が聞くとわかるのですが、ビートルズの一つのアルバムを流しているのではなく、初期から解散までのいろいろな時代の曲が流れていました。誰かマニアの人がいるのかなと思いました。弁当やお惣菜、果物をそこで買いました。同じ道を帰ると、20-30分で家に着いてしまうので、地図とカーナビを頼りに遠回りして帰ることにしました。ここから小春日和の“南予の休日”を味わうことができました。

道は三間から広見町に入りました。見覚えのある道路と風景でした。25年くらい前に、非常勤医師として大学病院から県立北宇和病院に行くため月に1、2回通っていた道でした。近づくにつれてどんどん昔の記憶がよみがえってきました。しかし、もう20年以上訪れたことがなかったその場所に到着すると驚きました。病院が建て替わり、昔の面影は全くありませんでした。名前も町立北宇和病院になっていました。何年か前に、県立病院廃止の話を耳にしましたが、どういう形であれ病院が存続したのは良かったと思います。
そこを後にして車をどんどん進めました。この町は広く、車でかなりの距離を走っても、次の日吉村には入りませんでした。途中、田園風景の中に小さな保育所を見つけ、そこに行ってみました。古そうな診療所と小学校の廃校跡らしき場所が横にありました。空き地の一角にあるゲートボール場のベンチに座って、さっきの道の駅で買った弁当とお惣菜で昼食をとりました。あたりに少しは家があるのですが、人気がしない。暖かい日差しと静けさのなか、赤や黄色に色づいた山がきれいでした。そこからさらに何キロか進んで、もっと山あいに入った道路端にスーパーがありました。鮮魚コーナーまであり、夕食のおかずの刺身と柿を買いました。
日吉村あたりが峠になっていて、次の城川町に入ると、高野子、川津南、土居といった知っている地名が目にはいるようになりました。「こんな遠い所からうちの医院まで来てくれているのか、有難いもんだ」と改めて思いました。野村町の乙亥会館にも行きました。城川町、野村町は私の好きな所で、いつか触れたいと思います。

この日の走行距離は測ってはいませんが、150kmくらいにはなったと思います。信号で止まることがあまりなく、渋滞することはないので、運転が嫌いな私でも気分よくドライブができました。この日の旅は、旧の地名で言うと、大洲市→宇和町→三間町→広見町→日吉村→城川町→野村町→肱川町→大洲市と南予の中央部の山あいを反時計回りに一周したことになります。ひとことで南予と言っても、南予は広いです。場所によって風景が大きく異なり、天気まで違うことがあります。遠くまで行かなくても、すばらしい紅葉が楽しめます。
小春日和の良い日でした。



 秋の夕暮れ

平成24年11月 

実りの秋。天高く馬肥ゆる秋。読書の秋。秋を賞賛する言葉はいくつもあります。空気が澄んで、気候の良い時期です。祭りもあります。西条や新居浜の人々の中には、この祭りのために一年を生きているような人たちが大勢います。
私は季節の中で秋はあまり好きではありません。同じように良い季節と言われる春との比較では、春の方がずっと好きです。子どもの頃からそうだった気がします。その傾向が年々強まっているように思えます。速いスピードでどんどん日暮れが早くなっていく。青々と茂っていた葉っぱが色づき、枯れて落ちていく。もっと嫌いな冬が近づいてくる。何か物悲しい。『祭りのあと』という同じ題名の曲を、吉田拓郎さんと桑田佳佑さんが出しています。どちらも良い曲です。吉田拓郎さんの曲はわれわれの年代もしくは年上の人でないと知らないと思いますが、曲の出だしの“祭りのあとの 淋しさが いやでもやってくるのなら・・・”とあの低い声でしんみりと歌うのを聞くと、心の底に応えたものでした。
気候は良くても、精神的には良くない時期かと思います。ピークを越えた感じがあり、パワーが衰えていく感じがします。昔、大学病院の医局にいた頃を思い出すと、研修医が「ここを辞めたい」と言ってくるのはこの時期でした。我々の時代もそうでしたが、研修医は牛、馬のごとく使われました。今は給料もよくなり、人権も守られ、世間で医師不足とか言われ、大事にされていると思います。こんなのではなかった。しんどい(眠たい)、ひもじい、寒い、この3つが同時に重なると、仕事を辞めたくなります。一人暮らしなので、夜帰ってきても、真っ暗な寒い部屋が待っているだけです。この3つのうちの空腹だけは満たせと、部屋にはせめてカップラーメン・うどんは置いておくようにしていました。
大学入試に失敗しても、不本意な人事異動で転勤を命じられても、桜が咲いて、つつじが咲いて、日がどんどん長くなっていくから堪えられるのではないかと思います。新入生として学校に入り、新しい先生や同級生らと楽しくやっていこうと思えるのも春だからでしょう。大学の入学を秋にすることには、意図は理解できますが、心情的には反対です。

・さびしさは その色としも なかりけり まき立つ山の 秋の夕暮れ       寂蓮
・心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)たつ沢の 秋の夕暮れ      西行
・見わたせば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ  藤原定家

新古今和歌集』の中にある、世に“三夕(さんせき)の歌”と称される名歌です。三首ともに、新古今調の特色である三句切れ体言止めになっています(分かる人だけでいいです)。これらの歌については、いろいろな方が説明、注釈を書いています。参考にして下さい。本当にすばらしい歌だと思います。「秋」に「夕暮れ」がつくとさらに寂しい感じがします。ただ、歌がこのレベルになると、日本の秋の美、良さというものを感じます。
小学生の頃、家の近くの原っぱで遊んでいて、鳥が巣に帰っていく夕焼けの空を、ちょっと寂しくぼんやり見ていた記憶があります。“鳥巣に帰る 秋の夕暮れ” 上の五七五は思い浮かばない。



 ジャカランダの花の想い出

平成24年11月 

めずらしく何の予定も入っていない11月のある休みの日に、家でコーヒーを飲みながら雑誌をみていたら、南米アルゼンチンのブエノスアイレスの公園を撮った写真がありました。その中に、満開の花をつけたジャカランダの木が目に入りました。とても懐かしく感じました。
この木は日本でも見ることができるようですが、馴染みが薄いと思います。私はオーストラリアで見ました。これまでオーストラリアには4回行ったことがありますが、そのうちの1回はちょうどこの時期で約10日間滞在しました。南半球と北半球では季節が反対になりますので、今頃はオーストラリアは春から夏に向かう頃です。

その時、現地のガイドさんに教えてもらったのですが、ジャカランダの花が咲き始めて街が薄紫に染まると、人々は春が来たと感じるそうです。その薄紫が紫、さらに濃い紫に変化し、そして散った花であたり一面が紫色で埋め尽くされたとき、夏を予感し胸がときめくそうです。日本人にとっての桜のイメージに近いのかなと当時思いましたが、ジャカランダの花の時期は桜よりずっと長いです。ブリスベーンでもシドニーでも、この華やかで上品な感じのする花をいっぱい見た記憶があります。オーストラリアのサンクチュアリ(鳥獣の保護地区)で見た鳥や虫、爬虫類の体の色は、濃い派手な原色が多かったのですが、この花は控えめで上品な色と感じました。そして、そのイメージが残りました。
繁華街に入ると、まだ11月だというのに、歩道には飾りを付けた大きなクリスマスツリーがあり、店にはクリスマスセールの大きな看板が掛けられていました。季節は春と夏の間くらいで、Tシャツに短パンの人が多いのですが、サンタクロースはいつもの服装だったと記憶しています。

今、日本は日の入りがどんどん早くなり、このあたりの日の入り時刻は17時10分になっています。日の入りが最も早い頃と比べても、その差は10分くらいです。気温も下がってきて、今週中頃には14℃くらいになる日があると、今しがたテレビの天気予報で言っていました。この先、暗くて寒い、そして長い冬がやって来る、仕事も半端でなく忙しくなると、一番気分が落ち込む頃です。今日はきれいな紫色のジャカランダの花の写真を見つけて、懐かしいオーストラリアの記憶がいろいろとよみがえり、ちょっとばかりハッピーな気分の午後になりました。
 シドニーのジャカランダの花



 オリオン座

平成24年11月 

10日ほど前、夜遅く、タクシーに乗って松山から大洲に帰る途中、オリオン座を見つけました。もう日付が変わる時刻だったと思います。トンネルが続く中山町あたりで、後部座席の左の窓からまっすぐ正面に見えました。

少し話が逸れますが、私は東予出身でそのあと重信町(今の東温市)に長く住んでいたためか、大洲など南予方面に行くときは、南に行くというより西方向に向かうような感じがいつもしていました。今でもその感覚が残っています。ただ地図を見ると、松山を過ぎれば国道56号線も高速道路もほぼ真下に延びており、すなわち南下しているわけで、やはり南の伊予、南予なんだと理解できます。

その夜、オリオン座は車の進行方向の左真横に見えたので、その遅い時刻に東の空に姿を現したところだったのでしょう。この星座は鼓(つづみ)の形に似ていると思うのですが、その時は、見慣れた“鼓”の形がかなり左に傾いたようになっており、まるで大きな鼓を横にして山の上に置いたような格好でした。冬が近いなと思いました。

その後、夜自宅に帰る際に東の空を見ているのですが、まだオリオン座は見ていません。この時期、大洲では夜が更けてくると、夜霧が出てきます。肱川およびその支流と盆地、放射冷却現象のためでしょうか。ここから見ていると、神南山と東の空が下から霧に覆われていきます。今夜あたり、その霧の向こうにはオリオン座が出ているのかもしれません。

数ある星座の中で、オリオン座は冬の王者という感じです。子どもの頃から何度も見てきました。銭湯からの帰り、塾からの帰り、仕事からの帰り。この星座が南の空の高い位置に見え出すと、本格的な冬になります。



 秋分の日(追加)

 平成24年10月 

前回の『彼岸』に追加する文です。
今年は、1896年以来、実に116年ぶりに、9月22日秋分の日になりました。9月23日でなかったのは、1979年の9月24日以来33年ぶりだそうです。
秋分の日は昼と夜の長さが同じと思われていますが、昼の方が長いようです。実際、9月22日は昼と夜とで、18分の差がありました。
彼岸を過ぎると、日暮れがぐっと早くなりました。いわゆる秋の夜長を感じる季節になりました。気温も20度くらいで過ごしやすく、この時期にしっかり読書・・・だけでなく、「夜に散歩をして、内臓脂肪を燃やして、体重を少し減らさないと」と思う今日この頃です。



 彼岸

 平成24年9月 

「暑さ寒さも彼岸まで」 今年は、彼岸の入りが9月19日で、彼岸の明けが9月25日になっています。秋分の日の9月22日が土曜日のため土日の連休となりました。学校、職場での週休2日制が定着したせいでしょうか、多くの人でふだんの土曜日と祝日の土曜日との区別が付かなくなっているようです。
近年は、この時期に運動会が開かれることが多く、実際、この辺りのいくつかの幼稚園や学校でこの連休中に運動会が行われました。ただ、連休初日と2日目では天気が異なりました。2日目の方が秋日和のよい天気でした。こちらの日に開催した所はさぞや良い運動会になったことでしょう。

その日、あまりに気持ちの良さそうな天気でしたので、昼から車でぶらり出かけてみました。山あいで、偶然、万国旗が張られた小学校が目に入り、車の速度をゆるめてよく見ると、大人と子どもが混ざった運動会が行われていました。車から降りてそこに行ってみました。皆さん、楽しそうでした。小学校と横の幼稚園のまわりの畑や田んぼの畦には、彼岸花コスモスが咲いていました。小川のふちにはすすきが茂っていました。風が涼しく暑さは感じませんでしたが、山の方ではツクツクボウシが鳴いていました。空の高い所に薄く光る半月が見えました。あと1週間で中秋の名月です。 

ところで、彼岸花のことです。根っこの部分の鱗茎には有毒な物質を含み、曼珠沙華という名は別として、それ以外の異名には不吉なものが多く、日本では忌み嫌われることがあります。私は、昔からこの花が咲く時期の正確さに大変興味をもっていました。かなり正確です。ここ何年かも気を付けて見てきましたが、同じ場所では彼岸花の咲く日は5日とずれることはないようです。春彼岸の頃の花のシンボルは桜ですが、桜は年によって開花日が大きく変わります。
学生時代の講義の中の話を思い出しました。大学の教養課程で文化人類学という文系の授業をとっていました。講義をする助教授の先生は人気があり、受講者が多かった記憶があります。その先生が若い頃の話ですから、もう50年くらい前の事になろうかと思います。南米のある国で、帰る飛行機の出発日、出発時間がはっきりしないので困ったそうです。空港まで行って、「飛行機は、次はいつ飛ぶのか」と問うと、その職員は「○○の花が咲く日」と答えたそうです。現地の人の多くがカレンダーのない生活をしており、行事をとり行う日はさまざまな自然現象と結び付けて決められていたようです。そして、それが毎年不思議なくらい正確だった、という面白い話でした。
“△△神社のまわりに彼岸花が咲いたあとの、晴れの日に運動会を行う”  今の社会、それくらいの感覚で生きていけたらいいだろうに。

 



 秋きぬと・・・

 平成24年8月 

  秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
    (藤原敏行  『古今和歌集』)

この和歌の前に「秋立つ日 よめる」とあり、
立秋に詠ったものです。「秋来ぬ」の“ぬ”は、『風と共に去りぬ』の“ぬ”と同じで、完了の意味です。「さやかに」ははっきりと、「おどろく」は気づくに近い意味で、直訳すれば「秋が来たと、目にははっきり見えないけれども、風の音で(秋が来たことに)ふと気付いた」のようになります。立秋とは言え、まだ暑い日に秋の到来のしるしを探して詠んだ歌で、目(視覚)に見える景色より先に、耳(聴覚)にした風の音に秋の気配を感じたという趣のあるものです。
格調が違いますが、私もつい先日の立秋の日にちょっと似た経験をしました。夜遅くに医院の冷蔵庫の中のジュースを取りだして、「あーおいし」と飲んだ時、部屋の外の庭から
虫の鳴き声(おそらくコオロギ)が聞こえました。秋の始まりを感じました。エアコンの効いてない廊下は、夜になってもかなりの暑さでした。当院の開院記念日は8月8日ですが、例年この日あたりが立秋(今年は8月7日)になります。毎年すごく暑いです。今年も昼間は、“秋”なんかどこにもなさそうな日でした。夜になって、「秋来ぬと・・・虫の音にぞおどろかれぬる」。完全なパクリですが、わりといいなあと勝手に満足しました。
前述の有名な古今和歌集の歌は平安初期の今から1100年くらい前につくられたものです。かなり前ではありますが、これくらいの期間では日本人のDNAは変化しませんし、季節の感じ方も平安の昔と今ではあまり変わらないと思います。四季を大切にして、季節のわずかな移ろいをとらえるのはわれわれ日本人の感性です。

今日で
お盆が終わりました。例年のごとく、テレビでは「高速道路が何km の渋滞」と報道しています。毎年毎年、混むとわかっている時期にわざわざ動かなくても、とも思いますが、日本古来の風習でこの現象はこれからも長く続く風物詩の一つでしょう。先週が立秋で、今週がお盆。1週間ほどの差ではありますが、この差は大きいです。お盆を過ぎると、気温は高いままでも、多くの人が夏の終わりを感じるようになります。子どもの頃、お盆を過ぎると夏休みが残り少なくなって、寂しい気分になっていました。毎日のように海に泳ぎに行っていましたが、この時期になると海の色が変わることに気がついていました。冷たそうな濃い青になっていました。

日の入りも明らかに早くなってきました。7時で暗くなってきました。気が早いですが、あと4か月すれば、冬至でちまたではジングルベルとなっています。「夏、何かもったいないなあ」道端の
あさがおをしばし見ていました。



 ロンドンオリンピック

 平成24年8月 

ヨーロッパでオリンピックやサッカーのワールドカップが開かれると、競技を行う時間帯が時差のため日本時間の夜から明け方になります。ライブで観ようとすると、眠たい日が続くことになります。今まさに、ロンドンオリンピックが開催されている最中です。「明日しんどいからもう寝んといかん」と思いながら、深夜にテレビをつけたり消したりしています。オリンピックは4年に1回のスポーツの祭典であり、出場する選手はもちろんのこと、テレビで観ているだけのわれわれにとっても特別な大会です。どきどきしながら気合を入れて応援をしています。

4年という年月は長いです。前回の北京オリンピックの頃に生まれた子は今4歳になっています。生まれたばかりの赤ちゃんの平均身長は50cmですが、4歳0か月でちょうど倍の1メートルになります。小児科は小学生くらいまでを担当する診療科ですが、実際には3歳未満の子が2/3くらいを占めます。われわれの感覚からすれば、4歳児は“大きい子”です。いっちょまえの口もききます。

子どもの頃からこの大会に出ることを夢見て努力してきた若者たち、あるいは前回の大会で予期せぬ失敗をしたり、まさかの敗北を喫したりして、捲土重来を期して頑張ってきた人たち。長い年月だったと思います。彼らの4年間の苦労は計り知れないものだったと思います。しかし、競技はあっという間に終わります。うれし涙より悔し涙を流すアスリートの方が多いでしょう。競技に向かう前、あるいは試合後の彼らのインタビューを聞いていると、みんなその道を極めた人たちなので、礼儀正しく人徳があります。一言一言、言葉に重みがあります。

ロンドンオリンピックも今半ばを過ぎたところです。体操の個人総合で金メダルを取った内村航平選手の演技は美しかった。今日、女子サッカーチーム “なでしこジャパン”が決勝にまで進みました。競泳チームは本当によく頑張りました。なかでも、北島康介選手は個人でのメダルは逃しましたが、実に立派でした。彼は私よりはるかに若いのですが、彼の生き方には頭が下がります。4回連続でオリンピックに出ること自体が容易ではないと思いますが、アテネ、北京の2大会連続で2冠に輝いた業績はすごいものでした。彼も一旦はこれで終わりにしようと考えたはずです。彼が今大会の競技終了後に話した「金メダル以上のものを(オリンピックに備えた)この3年間でつかんだと思う」というコメントは、とても重いものですが、何かほっとするものがありました。



 暑中(残暑)お見舞い

 平成24年8月 

この夏、当ホームページのトップページに載せた『暑中(残暑)見舞い』の写真とコメントです。


No.1 長浜 須沢。平成24年7月26日撮影)
エメラルドグリーンの海。白砂青松の美しい海辺の風景です。

No.2 懐かしいかき氷機)
昔は、シロップはいちご、レモン、みぞれでした。
宇治金時はめったに食べることのできない高価なものでした。

No.3 市内某所でのブライダルショー 7月29日)
涼しい色がよく似合っています。当院の“なっちゃん”です。
                 
No.4 夕焼け 冨士山(とみすやま)の方角
昼間はまだまだ厳しい暑さですが、立秋を過ぎて
夕刻は少し秋の気配がします。



 ディズニーランド

 平成24年7月 

7月の「海の日」の連休を利用して、当院の職員と2泊3日の旅行に出かけました。出発する日は雨が強く降っていましたが、東京に着いてから帰るまでは一度も雨に会うことはありませんでした。初日は、全員で東京有楽町、銀座でショッピングをし、夕方にディズニーランドに入りました。翌日は朝からディズニーシーに行きました。午後になってかなり気温が上がり、暑くてたまらなくなったのでそこを出て、再び都心に向かいました。夕方7時ころにまたディズニーシーに戻り、涼しい海風に吹かれながら壮大なスケールのステージ、ショーを楽しみました。

いい旅でした。若い人は流行りの服が買え、とてもうれしかったようです。孫にディズニーのお土産をいっぱい持って帰り、喜んだ孫の顔が見れた人がいます。高級ブランドの買い物をして満足した人もいます。それにも増して、年齢に関係なく、ディズニーランド・ディズニーシーではみんな幸せな顔をしていました。私はディズニーシーは初めてで、ディズニーランドは7年ぶり5回目くらいでしたが、歳はとってきても十分幸せな気分になれました。
Where dreams come true(夢がかなう場所)” “そこは、家族が、仲間が、恋人たちが、とびきりの笑顔で過ごす場所。ここに来れば、みんなの幸せが輝き出す。”  東京ディズニーリゾートのキャッチフレーズです。冒険、ファンタジー、ノスタルジー、ロマンチック、笑いと驚き、ここの雰囲気は特別です。

何歳の人間でもいろいろ厄介なものを背負っています。友人とのトラブル、家庭内の不和、自身・身内の病気、受験の失敗、失業、貧困などなど。しかし、一旦、ディズニーランドのゲートの中に入ると、これら嫌なこと、煩わしいことをしばし忘れることができます。そして、元気が出ます。人人人、人だらけで混雑していますが、複雑な現代社会に生きる者は年1回くらいはここに来た方が良いのではないかと思いました。誰にも心のシェルターが必要ではないかと。
それにしても、大津のいじめ事件はあまりにもひどすぎる。被害者の少年にもこういう場所やすがる所があったらよかったのにと思いました。

 ディズニーシーにて



 国内初の幼児からの脳死臓器移植           平成24年7月

1968年8月8日、札幌医大で日本初の心臓移植手術が行われました。いわゆる和田移植です。その後、日本では長く心臓移植が行われることはなく、臓器移植法が成立したのは29年後の1997年でした。ただ、この移植法は臓器提供者の年齢が15歳以上に限定されていました。成人と小児では臓器のサイズが異なるため、大人から子どもへの移植には制約がありました。とくに心臓は、大人から子どもへの移植は行えず、心臓移植以外に有効な治療法のない難病の子どもはアメリカやヨーロッパに渡航して手術を受けてきました。


2010年7月に施行された改正臓器移植法で、15歳未満の子どもからの脳死移植が可能になりました。昨年4月には10代前半の少年からの脳死移植が初めて行われました。そして、先月、富山大学付属病院で6歳未満の男児が改正臓器移植法に基づいて脳死と判定され、両親と親族8人が臓器提供を承諾しました。脳死判定基準がより厳しい6歳未満の幼児としては、国内初の臓器提供例となりました。この男の子の心臓と肝臓は10歳未満の女の子2人に移植されました。「息子が誰かのからだの一部となって、長く生きてくれるのではないかと」 ご両親のコメントです。さまざまな葛藤があり、つらい決断だったと思います。と同時に、崇高な心に胸を打たれました。改正臓器移植法が成立して3年、施行から2年経っても、渡航するしか他に選択肢がなかった国内の小児待機患者にとっては少し明るい展望が開けたかも知れません。

日本人の「渡航移植」に対しては、ときに海外から批判の目が向けられることがありました。多額の費用をかけて他の国の子どもから臓器提供をしてもらっている現状に対する国際的な非難や、また日本人が移植で渡航してくるために、自分たちの国の子どもが移植を受ける機会を失っているとの声も上がっていました。国内法で禁じている小児の移植を海外で行うことの是非についても議論されていました。近年は、諸外国で自国民同士の移植を優先する傾向が強まり、国際移植学会は2008年に国外での移植自粛を求めるイスタンブール宣言を採択し、世界保健機関(WHO)も2010年5月に移植を自国内で完結するよう求める指針を決めました。

米国では、1988年から今年3月末までに18歳未満で6755件の脳死心移植が行われ、うち6歳未満は3626件と報告されています。すでに世界の常識になっていても、この国で何か新しい医療を始めようとすると、必ずじゃまをする者、不必要に騒ぐ者、デマを流す者が現れます。主には一部のマスコミです。今回の話とは比較にならないかもしれませんが、ヒブワクチン、肺炎球菌ワクチンについても、しない方が正しい選択だといまだに思っている人たちがこの地域にもけっこういます。世界で億単位の回数の接種が行われ、来年から定期接種になることが決まったにも関わらず。



 金星の太陽面通過

 平成24年6月 

梅雨入り前の短い期間に、金環日食(5月21日)、部分月食(6月4日)、金星の太陽面通過(6月6日)とめずらしい天体現象が続きました。
金環日食の日は、朝カーテンを開けた時、空が曇っていたため見えないものと思ってしまいました。医院に行って職員から「見れた」と聞き、慌てて太陽観察めがねを借りて太陽を眺めましたが、日食の最後の部分が見えただけでした。部分月食は、次の日にニュースで知ったしだいですが、知っていても当日は天候が悪く見えなかった状況でした。
金星の太陽面通過(太陽の手前を金星が横切る天体現象)については、先の2つの天体ショーを見逃しており、かつこの現象が見られるのは今世紀最後で、次回は105年後の2117年12月11日としきりに報道されていましたので、「これは絶対見る」と燃えていました。その日は天気がよく、金星が太陽に重なり始めた朝7時過ぎから昼の2時前まで何度か観察しました。金星は小さかったものの、思っていたよりはっきり見え、移動していく姿を追って行くことができました。「次は105年後。これを見るのは人生最後。」 昼ごろからはそんなことを思いながら眺めていました

次は105年後。何か寂しい感じがしました。それは、この一つの天文現象をもう見られないという寂しさではないように思います。105年後の大洲やこの周辺地域、日本、世界がどうなっているのか考えた時、昨今の状況からは、今より良い時代になっているとはとても思えません。果たして、自分たちの子孫は、次回の金星の太陽面通過を見る時間と心の余裕などあるのだろうか。



 横浜

 平成24年5月 

5月の中頃、横浜に行きました。10年ぶりくらいと思います。となり町の長浜にはちょくちょく行きます。同じようにきれいな海の景色が見える所ですが、ちと違う。今回横浜には、長年入会している学会に出席するために訪れました。学会といえば、以前、診察室であるお母さんに「明日から学会に行くんです」と話すと、その方が「先生も学会員だったんですか」と言われたことがあります。これはもっと違う。うちは臨済宗です。

先月は日本小児科学会の年1回開かれる学術集会に出席するため、博多に行きました。博多も横浜もともに10年ぶりですが、博多は随分変わったという印象を持ったのに対し、横浜、とくに医学会(学術会議)がよく行われる「みなとみらい」地区はほとんど変わっていませんでした。
横浜に着いた日の夜、ホテルの周辺を歩いてみました。浜風が心地よく感じました。みなとみらいにある大きな観覧車はブルーにライトアップされており、まさに「ブルーライト横浜」でした(若い方はほとんどの人がわからないと思います)。その観覧車の中央に表示されている気温は21℃となっていました。

昔、学会に行く前は大変緊張していたものです。大学のばりばりの医局員だった頃は、多くの場合、症例や研究成果を発表しないといけなかったので、発表前日までスライド、原稿のチェックをし、会場での想定質問に対する答えを考えたりしていました。観光などという感じはなく、大げさかもしれませんが戦場に向かう感覚でした。今、この歳になって、医院を休診にして全国学会に行くのは、以前とは気持ちの上で全く異なります。正直な所、短期間でも仕事場を離れられるという悦びもあります。しかし、それ以上に、脂の乗った若手医師・研究者の発表やその分野の権威の先生の講演を聞くことは、最高の楽しみです。「ここまで進んだか」 「日本にもすごい研究があるんだな」と感銘を受けます。明日からの診療にエネルギーを与えてくれます。
これからも年に何回かは全国学会に参加していくつもりです。ただの“カゼをみるおじいさん”になってしまわないためにも。



 昔ながらの桜

 平成24年4月 

桜の咲く時期が1年のうちで最もうきうきします。桜の木は、冬の間幹と枝だけになった地味な茶色のイメージから、春になるとあっという間に華やかな姿に変身します。「1本の木で、これほどたくさんの花をごく短期間のうちに咲かせるのには、どれくらいのエネルギーを使うのだろうか」 「花びらが多い木ほど見栄えはするが、花をめいっぱい咲かせると、かえって木の寿命を短くするのではないか」  疲れやすくなり、検診のたびごとに異常を指摘される身になると、いらぬ心配をしてしまいます。そして、花びらが散っていく様子を見るのが、年々わびしく感じるようになってきました。
日本全国、桜はどこにでもありますが、人それぞれに好きな桜の風景があると思います。私にも、昔から気に入った1本の桜の木があります。田園風景の中の二車線道路が交わる交差点からよく見ていました。運転しながらでも見えましたが、ここの信号に引っかかるのはうれしかったことを思い出します。農家の広い敷地の端に植わっている大きな桜の木で、テレビCM の「日立の樹」(“この木なんの木 気になる気になる・・”の歌が流れる) に似た枝ぶりで、花を付けていない時期でも美しい外観でした。
大洲に来てからは見る機会が少なく、(その桜の木が)元気にしているか、気になっていました。今年、たまたまそこを通りかかり、花をいっぱい咲かせた誇らしげな姿を見ました。「よっ、お見事」と思うと同時に、安心しました。 “昔ながらの桜かな”

   さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
      (『千載和歌集』 よみ人知らず)

「よみ人知らず」の作となっていますが、作者が平忠度(たいらの ただのり)であることはよく知られています。今年のNHK 大河ドラマの主人公 平清盛(たいらの きよもり)の異母弟です。彼の歌人としての師匠は藤原俊成(ふじわらのとしなり  しゅんぜいとも言う)でした。忠度は一の谷の戦いで討ち死にします。勅撰(ちょくせん)和歌集 『千載集』の撰者となった俊成は、平家が朝敵となったため忠度の名を隠してこの歌を歌集に入れました。



 卒業式

 平成24年3月 

“話しかけるように ゆれる柳の下を 通った道さえ 今はもう電車からみるだけ” シンガー・ソングライターのユーミンこと松任谷由実さんが、まだ荒井由実の名で音楽活動をしていた頃の作品の中に『卒業写真』という曲があります。その中の歌詞の一節です。スローな曲の流れと味わいのある歌詞で、今でも世代を越えて知られた名曲となっています。この曲を聴くと自分の母校(高校)を想い出します。校地は西条藩の陣屋跡で、堀の内側にあります。このお堀に沿って柳の木が何本も植えられていて、登下校時はその柳の木のすぐそばを通っていました。

2月最後の木曜日(当院休診日)に宇和島市津島にある南楽園に梅を見に行きました。梅祭りの期間中ということを何かで読んだので行ってみましたが、梅の花はあまり咲いておらず、人もほとんどいませんでした。次の週の木曜日(3月1日)、「今日こそは満開の梅を」と思い、今度は東予の梅の名所 今治市の志島ヶ原(ししまがはら)をめざして、昼前に家を出ました。しかし、東温市を越えて東予に入ってから見える道路端の梅の木にはあまり花が付いていませんでいた。これでは先週と同じになると思い、旧の周桑郡小松あたりで方向転換して、母校のある西条方面に向かいました。その日、家を出る前に、今やめったに聴くことのないユーミンの『卒業写真』を聴いたせいだったのかもしれません。
車を進めていくと、西条市中心部に近づくにつれて道路も周囲の景色も昔とは全く変わってしまっていて、どこを走っているのか分からなくなってしまいました。しばらく車でうろうろしていると、大学の医局にいた頃、非常勤医師として来ていた病院が目に入り、だいたいの位置関係が分かりました。

母校の前にたどり着くと、正門に日の丸が掲げられ、「卒業証書授与式々場」と書かれた大きな立て看板が見えました。ちょうど式が終わったところのようで、高校生や父兄が由緒ある正門付近で写真を撮っていました。もうそんな時期になったのかと思うと同時に、とても懐かしく感じました。市役所の駐車場に車を止めさせてもらって、正門をくぐってしばらく校内を歩きました。随分変わった所もありましたが、35年前と少しも変わらない所もありました。高校生や父兄らが写真を撮っている合間に、自分も正門前に立って家内に写真を撮ってもらいました。
そのあと、人がいないお堀の傍のベンチに座って、近くのパン屋さんで買ったパンを自販機の缶コーヒーといっしょに食べながら、その正門とうしろの校舎を眺めていました。『卒業写真』の歌詞は、“あなたは私の青春そのもの”で終わります。この正門は自分にとって「青春そのもの」だった気がしました。

A:母校の正門とお堀(写真左端に柳の枝が見える)

B:今年、長男が卒業した大学の門(通称“赤門”)

Aは徳川御三家 紀州ゆかりの藩の門であり、Bは加賀百万石 前田家 上屋敷(かみやしき)の門です。葵の御紋なのでAの方が格が上と言いたいところですが、有名度が全く違う。



 節分、立春

 平成24年2月 

記録を取っているわけではありませんが、毎年、節分、立春の前はすごく寒く、よく雪が降っているような気がします。3年前の節分の日の夜も大変寒かったことを覚えています。基礎工事が始まったばかりの真っ暗な当院建設地に、豆まきをするため一人自転車でやってきました。小さな声で「鬼は外、福は内」と言いながら、敷地内に踏み入ったところ、ぬかるみに足を入れてこけてしまい、泥だらけになってしまいました。帰りが大変でした。

ここ1週間、首都東京をはじめ各地で大雪になりました。毎日雪による被害のことが報道されています。今日は午前中大洲でも雪が降っていました。そんな中、ふと玄関の横の紅梅の木を見ると、枝についたつぼみが大きくなり、赤みを増していました。日の入りは、最も早い頃と比べて40分遅くなり、夕方5時半でも随分明るさが残っているようになりました。今の日の入り時刻は、10月の「体育の日」頃と同じです。肱川の土手で、小さい菜の花が咲いているのを見つけました。

袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ  (紀 貫之  きの つらゆき)
(暑い時期に)袖を濡らして手ですくった水が、(冬になって)凍ってしまっていたのを、立春になった今日の風が解かしているだろうか、というような解釈かと思います。四季の移り変わりを水の変化を通して詠んでるのでしょう。作者は古今和歌集の選者のひとりで、『土佐日記』を書いた紀貫之です。この和歌の前には「春たちける日よめる」 (立春の日に詠んだ)という詞書(ことばがき)が付いています。

春はもうそこまで来ています。

下は、先週開いた恒例の新年会の写真です

よつば薬局、総合メディカルさんに加え、JRの駅長さん、某有名小児科医院の院長夫妻、
大手企業の執行役員さんらも参加してくれました


ちょうど10歳ずつ違う当院のご婦人方



「こいつ 春から縁起がいい」 

平成24年正月 

成人の日の連休に東京に行きました。2年前にもこの連休に東京に行きましたが、その時は歌舞伎を見に行くという目的がありましたが、今回は宿泊するホテルだけ決まっていて、それ以外何も決まっていないひとり旅でした。飛行機の中で都内の行く場所を決めようと考えていたのですが、寝たのが午前3時過ぎだったため、飛行中ずっと寝てしまい、羽田に着いてモノレールに乗る前に地図と雑誌を見て行き先を決めました。
山手線の御徒町(おかちまち)という駅で降りて道路に出ると、すぐ前が「アメ横」でした。年末ではないのに人がいっぱいいました。テレビでよく見る魚介類を売っているお店だけでなく、かばんや服、時計、お茶などを売っている店が並んでいました。そのあと、不忍池(しのばずのいけ)沿いを歩いて、旧岩崎邸庭園(三菱創設者 岩崎家本邸)、横山大観記念館、またしばらく歩いて竹久夢二美術館へ行きました。初日は寒い風が吹く中、台東区と文京区の境あたりをぶらぶらしました。夕方、ホテルに着いて部屋に入ると、窓からは西の方角がよく見えました。
次の日、夜が明ける前に目が覚め、カーテンを開けると、空の低い位置に大きな明るい満月が見えました。夕刻に東の空から昇ってくる満月はよく見ますが、夜明け前に西に沈んでいく満月なんかは見た記憶がない。とてもきれいな満月でした。時計を見ると6時過ぎでした。もうひと眠りして明るくなった外を見ると、今度は富士山が見えました。その時間、その方角に雲は全くなく、空は澄みきっていました。新宿に立ち並ぶ高層ビルや近くの赤坂のビルにもじゃまされず、迎賓館の上に見える富士山をしばらくうっとりと眺めていました。

今年はまだ初詣に行ってなかったので、朝食をとった後近くの日枝(ひえ)神社に向かいました。「山王さん」と呼ばれている由緒ある神社です。歩いて10分くらいで鳥居に着きました。参道の石の階段をハーハーいいながら休み休み登って行きました。境内には別のルートから車でも上がれるようで、ある家族が車の横で写真を撮っていました。「今の人の写真に写ってしまった。悪かったかな。」と思って、その人を見ると元総理でした。一時はテレビ番組によく出ていた奥様もご一緒でした。元総理は毛糸のセーターを着て、にこにこしていました。そのあたりに人はけっこういましたが、屋台のおっちゃんだけが気づいていたようでした。
私は縁起を担ぐ方なので、凶に当たるのが怖くておみくじはめったに買いません。しかし、その日はおみくじを引き、吉でした。何よりおみくじに書かれてある内容が良かった。願事:成就近し。待人:相違なく来る。旅行:各方面よし。商売:狂いなし。学業:蛍雪の功成るべし。縁談:成立する。病気:信仰により平癒する。争い事:堂々と勝つべし。 関係ない項目もありますが、ここまで完璧に書かれてあると、うれしくなります。

新年の満月、富士山、元総理、おみくじ。季節は若干異なりますが、歌舞伎の有名な台詞(せりふ) 「こいつあ 春から縁起がいいわい」と思った次第です。しかし、自分の年齢、体型、体力を考えると、「門松は 冥土の道の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と説いた一休和尚の句の方を肝に銘じて、この1年を過ごして行かなければならないとも考えました。

 ホテルから見えた富士山
写真の右方向に新宿の高層ビルが立ち並び、下方には赤坂御用地があります



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